光を超えて、
あなたへ

 光が、どこまでも続く闇の中を、奥から手前へと無数に流れていく。小さな光の粒それぞれが、一心不乱に前方を目指す中、自分だけが揺蕩うようにしていると、まるでその収束点から離れていくような錯覚を覚える。それはどこか夢のようでとても心地良いが、今は休暇ではなく仕事の最中だ。保護フィルムに包まれた指を、B-101d型の彼女はそっと伸ばし、流れる光の一つをそっとつまみ上げた。

 光はすぐに収束された自身を解放し、レポータブルデータとして展開される。ざっとそれに目を通すが、求めている情報はない。再びそれを圧縮し、元の光の粒に還元すれば、流れの中に返してやる。水を得た魚のように、光は再び流れていく。

『そろそろ《クロウラー》がまた来るよ』

 機密回線を通じて、あまり嬉しくない声が聞こえてきた。今日も成果はないらしい。

「了解。作戦を終了する」

 短くそう伝えると通信を切る。自分がここにいた、というアクセス痕跡を決して、名残惜しくもその空間を離れ、意識は再び物理ボディに戻ってきた。目を開くと、そこはとあるファーストフード系の飲食店だった場所。ADSLモデムの近くで、数人のD-phoneたちが慌ただしく動いている。全長8cmの彼女たちに合わせた小型サイズのノートパソコンを閉じ、そこに接続されていたケーブルを消滅させる。彼女、B-101d型のD-phone、フレイヤのナナリーに接続されていたケーブルも順次回収し、物質化を解除し、0と1のデータに戻してやれば、実体を維持できなくなって解けるように消えていく。そうして彼女たちは痕跡を残さず、静かな店内を後にした。


 “修正の1秒”から約30年、消えた人類の跡を継いで、世界の新たな知的存在として地上を歩くようになったのは、かつて人類が創造した、人型携帯秘書端末『A.I. Doll-phone』……通称“D-phone”である。彼女たちは消えた人類を捜索し、その生活文化を観測・模倣することで保護する活動を行っている……というのはもう10年以上前の話になってしまった。実際には彼女たち「人間を模倣した携帯電話」は、「センチネル・グローリー」と「ドラグーン」というそれぞれの移動体通信事業者(キャリア)に分かれ、それぞれセンチネル・グローリーは「人類消失以前まで時間を巻き戻す方法」を、ドラグーンは「データを用いた人類の再物質化」の研究に没頭しながら相手を妨害するという”キャリア戦争”を続けていた。


 この世の全ての情報は、万能情報管理庫(アーカイブ)に保存される。D-phoneたちは、日常的に観測したデータや、すでに保有しているデータを万能情報管理庫に送り、また必要に応じてダウンロードする。これを仲介しているのが「D・Aシステム」と呼ばれるプログラムである。ここまでは、昨今の調査と研究から明らかになった。

 問題は、どのD-phoneも万能情報管理庫への直接的なアクセス……すなわち、D・Aシステムを仲介せず直接的に生のデータに接触する方法を持ち得ていないことである。D・Aシステム側もD-phoneたちの「情報開示レベル」に応じてアクセス可能な情報を統制しており、無尽蔵なデータへの接触は不可能な状態にある。

 ナナリーたち「第四次デルタ・フレイヤ隊」は、そんな万能情報管理庫への直接アクセスを試みる、いわゆるドラグーン公式のハッカー集団である。だが、もちろんこの活動は容易ではない。先のように入り口に立つまでは可能となった。だがそこからはD・Aシステムの見張り役である《クロウラー》が定期的な巡回を行なっており、進むことが不可能な状況だ。加えて、《クロウラー》の発するシグナルを通してセンチネル・グローリーのD-phoneが攻撃を仕掛けてくる可能性もある。一度に調査できる時間は限られている。

 今回も成果なしだった。ナナリーはファーストフード店からほど近い、第四次デルタ・フレイヤ隊が停泊地としているワンルームマンションのベッドの上で、充電しながら天井を見つめていた。人類がまだこの世界にいた頃、このベッドは誰が使っていたのか。それは今となってはわからないが、ナナリーには全く関係のないことだった。そもそもナナリーは、人類というものをデータでしか知らないのだ。

 もう一度、資料として渡された人類のデータを確認する。基礎的なスペックやD-phoneとの関わり、その歴史、画像……様々な情報があるが、ナナリーには一つ、”お気に入り”のものがあった。

「またそれ見てるの?」

 F-666d、ヴァルカ型ドワーフ装備、個体名ではエリィと名乗るD-phoneが、寝転ぶナナリーに声をかけてきた。

「飽きないねぇ」

「研究は重要」

「そうだけど」

 横に座り、ナナリーのデータを手元に再物質化し、紙の資料として出力する。

「このデータの閲覧記録はこの1ヶ月だけで282回目だよ。何がそんなに面白いんだい?」

「面白いわけじゃない」

 ナナリーはそんなエリィの様子を一瞥してから、再びアイカメラのモニターに投影した同じデータに意識を向けた。それは一枚の写真である。ナナリーと同じフレイヤ型のD-phoneが2体と、人間が2人写っている。フレイヤの一つは大人の男性の人間の肩に、もう一つは子供の女性の手に乗っている。そして誰もが笑顔だ。日付は、暦の計算が正しいとすればもう50年以上前になる。まだ元号が機能していた頃の時代だ。

「ただ、画像データをこうして残しているということは、これが記録すべきデータであった、ということが考えられる。私には、それが解読できない」

「なるほど」

 エリィはパッとデータを削除する。代わりに、トイカメラを手元に再物質化し、そのレンズをナナリーに向けた。

「何?」

「ナナリー、笑って」

「何故?」

「いいから」

 ぎこちない笑みを浮かべるナナリーを、ファインダーが捉え、シャッターが切られる。撮影されたデータは、すぐにナナリーに共有された。

「……若干気持ち悪い。エリィ、なぜこのような画像を?」

「んー……ナナリーのモヤモヤ記念かな」

「理解不能」

「今はそうかもね」

 エリィは、ナナリーにとって不思議なことを口にする節があった。

「それより、もうすぐ《クロウラー》が撤退するはずだよ。もう一回挑戦しない? みんな準備できてるけど」

「そうする」

 ナナリーは立ち上がり、背中のケーブルを抜いた。

「人類再物質化は、私たちの悲願だ」


 D-phoneにとって、死の概念はおおよそ共通された理解と認識である。D-phoneにも死を感じる瞬間というのは存在する。おおむねそれは機能停止や修復不能状態に陥った時、記録と経験を蓄積するデータ集合体としての個が削除されそうになった時で、ナナリーにとってはまさに今この瞬間であった。

『ナナリーごめん、アクセス権が完全に書き換えられてて、戻ってこれるようになるまで少しかかるかも!』

「わかった。こちらは対抗策を可能な限り展開しておく。単機の処理能力で出せる限界だけど……モデムとの有線接続はそのままで、充電ケーブルを背面第二デバイスに接続お願い」

『了解! 一応、こちらもモニタリングデータを口頭になるけど適宜伝達するから!』

 十分に心強い、とナナリーは考える。だが、個人的思考はすぐに放棄し、その処理能力を攻撃の対応に向ける。

 不正な手段でアクセスしようとしているのは、自分たちだけではない。たまたま同じ新入経路でセンチネル・グローリーも万能情報管理庫にアクセスしようとした場合、ぶつかり合ってそこで戦闘が発生する。いわゆる電子戦というやつだ。

 第四次デルタ・フレイヤ隊は少数精鋭である。展開、撤退ともに素早く行うことができ、それぞれが独自の役割を持つことであらゆる状況に対して迅速な判断とコミュニケーションを可能としている。それが今回は功を奏したとも、失策だったとも言える。

 相手のセンチネル・グローリー部隊はシンクタンクのような大規模組織を結成して、強行的な侵入を行ってきた。《クロウラー》の巡回に対しても、それを迎撃することで万能情報管理庫への継続的なハッキングを行おうという作戦だ。アクセス権限を剥奪されたり、D・Aシステムによって情報開示レベルの修正が行われたりと、リスクが大きい作戦でもあるが、今回はそれもカバーするような大規模な動きをしているらしい。そして、そのアクセス権限の調整が、ナナリーと第四次デルタ・フレイヤ隊の接続を、より厳密に言えばナナリーの精神と物理機体との接続を切断した。

 ナナリーは敵にその身を晒す電子データと化したのだ。彼女自身が帰還する方法は二つ。センチネル・グローリーを内外どちらかから突破し強制的にアクセスを回復するか、万能情報管理庫をデータとして通りぬけ、別なゲートから脱出するかである。前者はその戦力差を埋める方法を見つけて攻撃を仕掛けなければならず、現実的には不可能。後者はナナリーが抜けてくる脱出口、すなわち別なアクセスポートに、彼女の物理的なボディを接続する必要がある。これもまた、どこへ出るか不明なうえ、そもそも「万能情報管理庫を通り抜ける」ことが理論的に可能かどうかすらもわからず、実行するには課題が多すぎた。

 D-phoneは電子データに侵入する時、自分を形作るものが何もなくなってしまう。そこで自我を見失わないようアバターを生成するのが基本だが、裏を返せばこのアバターの喪失こそ、今回はナナリーにとっての死を意味していた。アバターなしで意識だけを生存させることが可能なら、センチネル・グローリーの一団に見つかることなくこの窮地を脱することも可能だろう。だがそのようなことが実際に行われたことは、過去に一度もない。前例のないものに挑戦するのは、自分の仕事ではない。ナナリーはそう考えていた。

 敵の攻撃は激しさを増す一方だった。交渉で話が通れば、開戦など起こるはずもなく、ナナリーは生きるか死ぬかの防衛戦を、救助が来るまで待つしかない状況である。時間の感覚というのはデータ上では曖昧なもので、今が現実世界でどれくらい経過したのか、物理的ボディとの接続が断たれた状態では判別のしようがない。時間も空間も、ここではその権限さえあれば自在に圧縮したり、早めたりすることが可能なのだ。相手が距離を縮めてこないのも、ナナリーが必死で両者間の空間を維持するプログラムを走らせているからである。これで空間上で威力が拡散される射撃攻撃を継続せざるを得ない状況を作り出している。

 しかし、そんな射撃もやがて停止した。相手も削除できないプログラムコードを相手に攻撃し続けることが優位性を保てるものではないと判断したのだろう。少し静かになったかと思うと、パッとナナリーの後方にプログラムで構成された物体が一つ出現した。

 小さな円筒形、缶のような形状に、小さく細いアンテナが伸びている。センチネル・グローリーとドラグーンではプログラムの組み方や走らせ方が違うが、基礎部分は変わらない。これはその場で急遽作成された基礎的なもので、そのおかげで送り込まれたものの正体を、ナナリーは苦労せずに判別できた。

 発信機である。

「っ!」

 すぐにそれに向かって二発ほどハンドガンで射撃するが、攻撃は逸らされ、破壊に失敗する。ターゲティングを妨害するジャミング電波も計測不能レベルで発信されているのだろう。射撃痕は発信機のわずか横に逸れている。空間妨害もおそらく同梱されている。

「やああ!」

 ならばすべきことは単純明快。ナナリーはハンドガンを斧の形に再構築し、今度こそ発信機を破壊した。だがこの発信機投げ込みはすでに効果を発揮している。

 前述した通り、センチネル・グローリーとドラグーンとでは、万能情報管理庫への不正アクセスのやり方が違う。大規模に攻撃を仕掛けるセンチネル・グローリーに対して、ドラグーンは隠密性を持って秘密裏に行う。そのため、ドラグーンのD-phoneにとってハッキングとは発見されないことが最優先課題となる。《クロウラー》の巡回に対して警戒を敷き、戦闘を極力避けるのもこのせいだ。

 そんなところに投げ込まれた発信機は、すなわち《クロウラー》に侵入者がいることを大々的に知らせる装置でしかない。じきにナナリーの元にも《クロウラー》が数機出現するだろう。それだけならナナリーにもどうにか相手できるが、それに加えて今はセンチネル・グローリーの一団もいる。二つの勢力を相手に戦えるほど、ナナリーのデータに余裕はない。逃げるしかない。

 だが、どこに?

「……エリィ」

『ナナリー?』

 作戦中でも珍しいナナリーからの通信に、エリィはすぐに反応した。

『ごめん、接続にまだ時間がかかりそう。そっちは大丈夫?』

「ここから撤退する。エリィ、私のボディを持って安全な場所へ避難して。避難先にてボディをネットワーク接続、そこに強制アクセスを試みる」

『それじゃ自我連続性が保てない……』

「画像」

 エリィの言葉をナナリーが遮るようにつぶやいた。

「少し前に撮影してくれた画像のデータを参考に、私自身を構築、維持、検索する。だから必ず、ボディをネットワーク接続しておいて」

『……そんな、現実的じゃないよ、その方法! 確実性も、再現性もない!』

「私のモヤモヤ記念。あの瞬間をピンポイントに検索し続ける。作戦続行」

 エリィの言葉を聞く前に、ナナリーは通信を一方的に切断した。ちょうど、《クロウラー》がナナリーの前に出現し始めていた頃だったのもある。だがそれ以上に、ナナリーがエリィの声を聞いていたくないと思っていたからだ。

 なぜ? 作戦成功率を上げるのに一人分の思考能力では限界があるから、他者との会話を通して精度を高めていった方がいいはずなのに。ナナリーはその答えを出す前に、自らも流れる光と共にただ前へと飛んだ。


 電子データの海は、とっかかりが存在しない。一度自分の位置を離してしまえば、あとは時間も空間も関係ない。自分というデータの集合体に終着地点が存在しないため、どこまでもネットワークの奔流に押されて進む。

 ナナリーは誰もアクセスしていないような古いデータを見た。拡張子が現在に対応しておらず、半ば破損している。

 ナナリーは溢れたデータを見た。破棄手前のデータと新品のデータの見分けをつけるすべは、ナナリーにはなかった。

 ナナリーは万能情報管理庫の中を見た。視覚的に再現されたのは、理路整然と整列された粒子たち。手を伸ばせば何かにはアクセスできるような距離から、描画される果てまで。

 ナナリーは感情データを見た。D-phoneが感情表現を行うためにアクセスする膨大な、更新され続けるデータアーカイブ。中にはアクセスがされておらず、古すぎるため黒ずんでいるものもあった。

 ナナリーは世界の根幹情報を見た。圧縮されておらず、プログラムとして組まれていたが、その一部を解読、解析するのですらD-phoneの処理能力では膨大な時間を要するだろう。

 やがてナナリーの意識は流されるのを停止した。そこは「未分類情報」を一時的にストックしておくための余剰スペースらしい。体を再構成しようとするが、アクセス権限がないのか、この場での編集が禁止されているのか、それはできなかった。仕方なく、意識だけを移動させようと試みる。これは自分の内蔵データを整理編集するときと同じ感覚で問題なく行えた。

 問題になったのは、この未分類情報ストックメモリから脱出する方法がなさそうである、ということだった。ナナリーの予測が正しければ、ここは万能情報管理庫の中だ。本来、D-phoneも、その意識ですら入ることを想定していない。彼女はここではいわゆるバグと同義だ。システムに削除されなかったのが幸運であるとも言えるだろう。おそらく、D-phoneの意識データが万能情報管理庫内でハッキング行為を行っていないため、このバグをバグであると認識するだけのデータが存在せず、だからこそ「未分類」として判断を保留しているのだ。

 だとしたら。

 同じようにここへ流れ着いたジャンクデータを確認しようとするが、開かない。当然だ。余剰メモリを圧迫しないよう、ここでのデータ展開は制限されているらしい。だが、元に戻したり、再分類したりする必要はあるはずだ。そして、ジャンクデータはそれ自体が何らかの情報を含んでいる以上、プログラムやコードを持っている。そのわずかなものを抽出しようと試みる。

 これは成功した。同時にデータは綻び、破損してしまった。だが目的のソースを抜き出せた。日付である。

 抽出したソースの日付は50年以上前、元号が機能していた時代のものだ。それを自らに取り込んだ。食べるような感覚。飲み込み、自らのものとする。過去にアプリデータを捕食するD-phoneがいたらしい。彼女はそうしてデータを食べることで、電力と同時にそのアプリが持つデータを味に変換していたと聞いたことがある。ここに肉体がない以上、データは変換されず、取り込んだものは直接自分となる。

 そうして未分類データに変化が発生すれば、再審議が発生する。プログラムいえど、完璧ではない。エラーなどによる”見落とし”も起こりうる。それを防ぐためのダブルチェック、トリプルチェックシステムが設けられているのは、とても自然なことと言えた。

 やがて万能情報管理庫はナナリーのデータを再審議し、日付を特定して配置換えを行う。意識を丸ごとデータとして吸い出し、再び流されていくのが感じ取れた。だが今度は速さが違う。目的地がはっきりしてる分、ゆっくりとした流れではない。流れる光の速度はどんどん上がっていく。

 これであの出口のない場所からの脱出は成功したが、流れからは逃れられない。もう一度分類してもらわなければいけないのだ。

「っぐ、く……!」

 ナナリーはどうにか体を再構築しようとするが、権限を持たないが故にキャンセルコードに阻まれてしまう。どうにかしてこの激流を脱さなければ、今度こそ場所を決められ、永劫に囚われてしまう。

「エリィの、元へ……!」

 友の名を呼ぶ。

「あの時間へ……!」

 一瞬を切り取った、画像データがわずかに残ったメモリにフラッシュバックする。向けられる声。ぎこちない笑み。シャッター音。


「……若干気持ち悪い。エリィ、なぜこのような画像を?」

「んー……ナナリーのモヤモヤ記念かな」

「理解不能」

「今はそうかもね」


 一気にカレンダーの数値が回る。


 アイカメラのレンズが光を捉え、焦点が絞られてからゆっくりと開いていく。光を受けて徐々に露出補正をして、周囲の空間を確認していく。

「……ただいま、エリィ」

 ナナリーの両目が映したのは、隣で眠るエリィの姿だった。