線虫について
私たちはゲノムの多様性を研究する基礎として線虫を使った研究を進めています。ここでは線虫のあまり知られていない多様性の話を少ししておきたいと思います。
私たちはゲノムの多様性を研究する基礎として線虫を使った研究を進めています。ここでは線虫のあまり知られていない多様性の話を少ししておきたいと思います。
線虫 ~ 隠れた種多様性 ~
線虫と聞いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。生物学を学んだ方ですと、C. elegans(シー・エレガンス)という名前は聞いたことはあるかもしれません。C. elegansというのは正式にはCaenorhabditis elegans(シノラブダイティス・エレガンス)という線虫の一種の略称です。シドニー・ブレナー(1927-2019)という偉大な生物学者が1970年代に発生生物学のモデルとして確立し、その実験的利便性や単純性から、あらゆる生物学のマイルストーンがC. elegansによって達成されてきました(全細胞系譜の同定、全神経回路の同定、真核生物初の全ゲノム配列解読、小分子RNAの発見など)。このC. elegansを使った研究の潮流はいまだに大きな生物学の分野として広がっています。しかしながら、線虫(nematode)というのは本来、非常に多様な動物界の一グループであって、C. elegansというのはその中の一つの特殊例にすぎません。線虫は地球上に100万種いるともいわれ、どんな環境にも適応しているものが存在します。ただ多くが肉眼では観察困難なほど小型で(多くが0.1-1mmほど)、形態的な違いがわかりづらいので、なかなか注目されることが少ないと言えます。実際に現在記載されている種は3万種弱で、私たちはその多様性のほんの一部しかそもそもわかっていないと言えるでしょう。ここでは、いくつかの興味深い線虫の発見例を見てみましょう。
私たちが目にしている生物のほとんどは地表面に暮らすものばかりですが、地下にはまだまだ未知の世界が広がっていると言えるでしょう。例えば地表面から数十センチメートルもほれば、そこには多くの線虫が見つかります。その中には、まだ記載されていないような線虫の新種が簡単に見つかってしまいます。さて、このような線虫がどれくらいまで掘っても出てくるのでしょうか。ベルギーのBorgonie博士らは、南アフリカの金脈にほられた地下1.3キロメートルの穴に線虫 Halicephalobus mephistoを見つけました。この地下領域は火山活動により十分な温度(37度)があり、研究者らは温度さえあれば、より深いところでもバクテリアが存在でき、線虫も存在するだろう、としています。この線虫は単為生殖することができるので、繁殖相手が見つかりづらいところでも餌さえあれば世代をつないでいけると考えられます。我々が知り得ない地下深くには、驚異的な線虫の多様性が広がっているのかもしれません。
詳しくは、Borgonie et al., 2011, Nature [論文サイト]
実験室で線虫の系統は生体のまま凍結して保存されています。線虫は餌がなくなったりなどすると、休眠期のような状態になるのですが、その状態であれば完全に凍らされても生き返ることができるのです。ロシアのShatilovich博士らは2002年に掘り起こされたシベリアの永久凍土のサンプルから線虫が動き出したのを見つけました。彼らはこの永久凍土の放射線同位元素の解析から、その線虫 Panagrolaimus kolymaensis は4万6千年前の氷河期に凍らされて、現代に復活したとしています。実際に、研究によればこの線虫は凍結した後にとてもよい状態で目覚められるようです。彼らの体がもつ秘密を解き明かすことができれば、私たちが冷凍冬眠することができる未来もそう遠くないかもしれませんね。
詳しくは Shatilovich et al., 2023, PLOS Genetics [論文サイト]
ギョッとするかもしれないタイトルですが、ご心配なく、まず、危険な線虫はいないでしょう(他の病原体に比べれば)。寄生性ではなく、自由生活性の線虫はどこにでもいるといっても過言ではないので、当然ながら水道の原水には多くの線虫が含まれています。線虫の小さくて細長い体や塩素などの消毒に対する抵抗力から浄水処理をかいくぐるものも出てきます。東北大の丁らが茨城県で1993年から1994年に行った調査では、7月などの多い季節では10リッターに1匹ほどの頻度で生きた線虫が水道水に出てきたとされています。その線虫の種類はPlectusやRhabditisなどの土壌性か水性のものです。この類の、害はないけれども水道水に混入する生物は「不快生物」として認知され、厚生労働省も将来的には除くことが望ましいとしています。報告では、原水で存在した多くの線虫種はのぞかれていて、種数はかなり減っているのですが個体数はそこまで減ってないことから、浄水されてから蛇口に出るまでのどこかで、これらの線虫が増えやすい原因があるのではないか、と考察しています。
詳しくは、丁ら、1995、日本水処理生物学会誌 [論文サイト]
線虫の私たちへの重要性
C. elegansの研究以前に、線虫を研究する「線虫学(nematology)」は非常に歴史は古く、その端緒はヒポクラテスやアリストテレスなどの寄生性線虫の発見にはじまります。多くの観察と分類は18世紀からはじまり、20世紀には植物寄生性線虫の農業的重要性が示されたことから、農学的に線虫学は重要な研究分野になりました。線虫の被害を受けやすい作物はトマト、ナス、キュウリ、レタス、ニンジン、ダイコン、ジャガイモ、大豆など食卓に普段並ぶほとんどの野菜です。世界で年間数十兆円の被害が生じていると言われています。
一方で、動物寄生性線虫は、歴史的に、寄生性のヒモ状の動物(蠕虫 worm)をまとめてヘルミンス(helminth)と呼んで研究していた経緯があり、「ヘルミントロジー(helminthology)」の中で研究されてきました。アスカリス(Ascaris sp.)のような有害性の高いものはよく知られていますが、腸に巣食う糞線虫などは有害性が高くなく、そのようなものを含めると、全世界の30%の人々は線虫に感染していると言われています。もちろんヒトだけでなく、家畜や多くの野生動物は種特異的な線虫に感染しています。有害性の高くないものでも、免疫が落ちた時などに線虫が悪さをするので、注意が必要です。
寄生するような生き物がそこら中にいるときいてぎょっとするかもしれませんが、線虫の多くは自由生活性の線虫で寄生性ではありませんのでご安心ください。自由生活性の線虫の多くは生態システムの中では「分解者」であり、動物や植物などのバイオマスが生態的に再利用される上で重要な役割を持っています。とくに土壌中でバクテリアなどを運んだり、ミネラルを分散させたりするのに重要だと考えられています。また、線虫はあらゆる環境に生息していますので、他の生物が侵入できないような特殊環境に生息する線虫は、大きな生態的な役割をもつだろうと想像できます。しかしながら、このような小型の動物は生態が十分に調べられていないので、今後の研究が待たれます。
寄生性線虫というと害虫のイメージがありますが、害虫を寄生する線虫は逆に益虫になります。昆虫寄生性線虫は昆虫に対する毒をもった細菌と共生しており、昆虫の中に侵入すると、細菌をばらまいて昆虫を死滅させます。彼らは昆虫の屍体を餌にするので、そのための生存戦略なのですが、その影響で昆虫の生態的な数も制限されていると言えます。この効果を生物農薬として使うことは可能で、例えばSteinernema carpocapsaeは生物農薬として利用されていました。この線虫は、芝を食い尽くすゾウムシやリンゴの果実を食い潰してしまうガなどの幼虫の駆除に効果があります。寄生体の状態ですと、外的ストレスに耐えうる状態なので、生体のまま冷蔵保存できるというのも生物農薬として利用可能な一因だと考えられます。
線虫の研究における重要性
私たちは生物の多様性に魅せられますが、一方で生物はあらゆるレベルで共通した特徴をもっています。その生物の共通した原理を紐解くため、私たちは進化生物学、生態学、分子生物学、あるいは、生物物理学的な仮説をたてて、実験や調査をもとに、どのような仮説が正しいかを判断します。このような生物学の営みは多くが一部のモデル生物を中心におこなわれてきました。地球上の多様な生き物の中のほんの一種類の中にも、多くの生物に共通した一般原理を見ることができます。中には私たちの体や精神やその進化を知る手掛かりさえ得ることもあるのです。動物に関して言えば、線虫の一種、C. elegansはモデル生物のトップランナーとして活躍してきたといったも過言ではないでしょう。単純な形態、細胞一つ一つを観察できる透明な体、短い世代時間、簡便な飼育法、小さな飼育スペース、生体の凍結保存、さらには、多様な遺伝的な操作技術など、多くの実験的な利点をもつC. elegansは、発生生物学や分子生物学の発展に大きく貢献してきました。2024年には、C. elegansでのmicro RNAという種類のRNAの発見がノーベル生理学賞を獲得したのは記憶に新しいと思います。必ずしも全ての線虫がC. elegansのような利点をもっているとは言えませんが、線虫の中でもそのような実験が可能なものを中心に現在研究は、C. elegans以外の線虫にも広がっています。Pristionchus(プリスティオンクス)属線虫は特にその中でも先んじて研究が進められてきた線虫で、マックスプランク生物学研究所のRalf. J. Sommer博士が種記載から確立したPristionchus pacificusというモデル種を中心に多くの研究が進められています。
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