〜 遠く離れた土地で、日本を想う多くの人々に出会った。 〜
日本からの正式な移民団がブラジルに上陸したのは1908年6月18日、[サントス]港にて。“正式な”移民というのは、実は彼らは国策で渡伯していたということである。
そんな彼らには数多くの困難が立ちはだかっていた。ラテン諸語とは異なる日本語の話者にとって言語の壁はより高く、文化が違うので考え方に慣れることも難しい。さらには気候風土、動物の違いや感染症の危険など、数多の障害を乗り越え、彼らの献身のおかげで今となっては日系人は高い地位を獲得している。特に、第二次世界大戦の間には敵意を示される中で力強く生き抜いてきて今の親日社会に繋げてきたということを「ブラジル日本移民史料館」で学んだ。
このように人々が政治の事情で身を削ったという経緯を踏まえ、彼らの尊厳の保障の意味も込めて自治体どうしの交流が盛んになっている。
北海道とブラジルの交流は、農業のノウハウの伝授と次世代に向けた青年交流として始まり、繋がりの絶たれた親戚を探したり、渡航してきた日本人は元気かどうかなどを知ったりするために日伯協会などのコミュニティが設立された。他県では、出身地を同じとする人たちが集まり県人会が設立されてきた。
北海道協会会館は、他の県と同じように建てたいというブラジルからの陳情ののち、堀達也知事(遠軽町出身)のときに全会一致で建てられることが決まり、学生寮やサッカーフィールドなどを備えている。
(自身の移動中のメモより引用)
私たちが訪れた遠軽町の姉妹都市、バストス市は日本の血を引く街だ。一大日系開拓地であり、「ブラジルの中の日本」とも形容される。実際に、卵祭りの売店では「うどん」や「やきそば」などの日本料理が売られており、ステージではバストス市や周辺地域の太鼓チームの演奏を聴いたり、県人会の方々の歌や踊りを見たりすることができるなど、日本らしさを色濃く感じてきた。
また、サンパウロ市・サントス市でも同様に日本らしさを感じることができた。これらの街も日本移民・日系人と深い関わりがあるほか、大都市であるということで大学などに進学するために若者が流入しているのだという。日本と同様の空洞化問題が起こっていることも興味深い。例えばサンパウロ市の北海道協会会館では日系の人たちに加えて北海道出身の人とも多く出会い、ブラジルと日本の融合文化「nikkei」にも触れることができた。居合道の稽古を見て、ブラジルでも日本の武道や太鼓などの伝統が生きているということがわかり、感動した。
日系人の人々は、現在6世まで誕生しているといい、日本に行ったことがないという人も多くなっている。しかし、彼らは自らの血のルーツである日本のことを私たち日本人以上に強く想い、大事にしているということが伝わった。特にわかりやすかったのはバストス市で学生と交流したときだ。彼ら若者は、意欲的に日本語を学んでおり、日本文化に興味津々・敏感であった。
ところで、日本語の古典単語に「恥づかし」という言葉がある。この言葉は現代語と同じ意味に加えて「自分が恥ずかしく感じるほど相手が立派だ」という意味が重要だ。日系人の人々と出会って、彼らは「はづかしき人」だと感じられた。すなわち、私たちが日本についてほとんど何も知らないのではないかと思うほど彼らは日本のことを考えているのだと、実際に行ってみてわかった。