〜 外国に行って、初めて気づくことがたくさんあった。 〜
日本の夏は蒸し暑く、今年は特に酷暑であった。一言に暑いと言っても、湿度が高く、高温がまとわりつくような感触が印象的だった。日本にずっといるとこのような暑い空間には何の魅力も感じないが、ブラジルにいた頃を思い出すと−−コパカバーナビーチの潮くさい風やバストスの涼しい空気を思い出すと−−、これもまた日本独自の気候なのかと感じることができる。
同じように、日本では当たり前に思っていることにも、海外に行くと特徴を見出すことができるようになる。その秘訣は「文化の対比」にあると私は考えた。日本にいると日本の文化しか身についておらず、普段の文化(=日本文化)を他文化と対比させることはできない。しかし、海外の文化を身につければ、複数文化を対比し、それぞれに特徴を見出すことができるのである。そして、このことを表す言葉が「国際的視点」あるいは「多角的視点」である。この「視点」は、物事を考えるときに立体感を生み出し、素晴らしい力を与えてくれる。実は私は渡航前インタビューにて「初めて海外に行くことで、新たな視点を身につけ、力を得られるようになると思う。そういう意味で強くなりたい。」……という趣旨の回答をした。このことを思い出しながら、実際に達成することができて嬉しい気持ちで執筆している。
ただし、この「国際的視点」、このように考えると①文化を「身につける」ことにより広がる②そしてその文化は多数存在するので、この視点もまた多数の組み合わせにおいて存在するということになる。
さて、ここからは2023/9/7(木)に遠軽高校で行われる発表会のために考案した「海外体験ゲーム」について記そうと思う。少し長いので、折りたたみを開いてご覧いただきたい。
このゲームは上記の「国際的視点」を擬似体験させるものであり、海外渡航や探究活動の素晴らしさを、眠たそうな6限の生徒にも伝わるようにしようという目的がある。ここでは「海外体験」を3ステップ、3つのアクティビティに分け、ロールプレイ/アクティブラーニングの形式になっている。
国に所属する……ここでは、参加者に仮想国の国民となってもらう。2つの相反する気候文化を持つ国、たとえば「温暖で明るいA国」と「寒冷で真面目なB国」を紹介し、参加者にどちらの国に所属したいか決めてもらう。もし体育館で行うならば、左右に領域を分け、移動してもらうという形を取ることができる。実は分けたあとどうすべきか、小一時間悩んだ。
海外へ渡航する……ここでは、参加者に海外渡航をしてもらう。今回はお互いの国に渡航するという仮定で行ってもらう。ただし、たとえば場所を入れ替えてもまわりは同じ国民で固まってしまうので、実際にはランダムに動いてもらい、他国の国民とそれぞれの国の「魅力紹介」をさせて、文化交流だということにする。ここでひとつ注意点がある。それは「自分の国の文化は常識である」ということ。そう、仮想国の文化は日本文化と対比ができるために特別視される可能性があり、これは今回のロールプレイの成功・失敗を分けてしまいかねない。ここでロールプレイであることを明示し、役割に入ってもらいたい。
自国の文化に注目する……伝えたい部分であり実装が難しいパート。ここでは、それぞれ違う国の国民から学んだ文化を同じ国の国民と共有させる。このとき、2つの国の文化の「比較」を意識させる。一定時間が経過したら、先ほど「常識だ」と伝えた自国の文化が違うように見えたか、それはなぜかを問い、ゲームの流れは終了する。
この流れにより、以下の3点を(なんとなくでも)わかりやすく説明することができるだろう。
海外の文化が面白いのは、自分の慣れた文化と比較していたから。
海外の文化を「身につける」ことにより、自分の文化を客観的に見て、特徴を見出すことができる。
自分の文化しか知らなければ、対比が成立せず、客観的に見ることができない。 (これについては、「旅行」前に自国内で話させるという手もあったが。)
突然だが、次の状況を想像してほしい: 「あなたはいま室温30℃の部屋にいる。目の前に、室温20℃の部屋Aと、室温30℃の部屋Bがある」。……これらの部屋に対して、部屋Aは涼しそうないい部屋だ、部屋Bは今いる部屋と変わりのない平凡な部屋だ、という印象を抱くだろう。ここで、「室温21℃の別の部屋に移動する」とどうだろうか。きっと、2つの部屋に対する印象が変わるだろう。居場所の室温によって、2つの部屋はさまざまな印象を抱かれるのである。
これと同様に、外国に行き、他文化と触れ合うことで、いろいろなものの性質が変わって見える。つまり、日本で特徴的だと思っていたもの(←A)がそれほどでもなく、当たり前だと思っていたもの(←B)は実は特別だということを、文化の異なる他の国に行くことで発見することができるというわけだ。
この例えは不的確かもしれないが、私はこのような原理で日本について別の視点から見ることができたと思う。
日本からブラジルに行くと、早い段階で「水道水が飲めない」という事実に直面する。私は普段水道水を飲むわけではないが、案外お風呂や洗面台で毎日使っている水。[ブラジルの文化]でも触れたように歯磨きをするときにペットボトルの水を注がなければならないし、シャワーを浴びるときも飲み込まないよう気をつけているとかなり神経を使ってしまう。
飲めない水での生活を通して、日本で飲める水で手や体を洗い、歯を磨くことができるということの素晴らしさを感じた。
ブラジルの人々は、総じて人懐っこく、大雑把で大胆。日本で「自分は大雑把だ」と思って生きていても、ブラジルの人々はもっと大雑把。
彼らは、国民性として主張を大事にする。主張しなかったことは無かったことになるし、したいことを言わなければ、そのことができなくても構わない、と思われかねない。この考え方は、極端かもしれないがトンネル内での人々の運転からも感じ取ることができる。対して、日本人は、国民性としてさまざまなことを考え、察している。例えば人間関係において、上下関係や距離感を常に気にして過ごしているのではないだろうか?よって、日本で「自分は大雑把だ」と思っていても、実は全然大雑把ではなく、真面目なのである。
日本では薄れて気づかないだけで、私たちは実はいろいろな社会的制約や「察し」によって暮らしているのだとわかる。
ブラジルでは、日本とは全く異なる食文化が広がっている。野菜は前菜に出る程度で、メイン・ディッシュは主に焼肉。デザートには果物と朝食にはチーズ、昼食にはアイスクリームがよく出ていた。お米はタイ米のような細長いものがパラパラに炊かれており、日本のものとは全く異なる。(お腹を壊し病院にかかることになった)私個人の全体的な感想は、美味しく腹持ちも良いものの、胃腸への負担や栄養の偏りが気になってしまうといった感じ。
日本帰国後に食べた和食は非常に美味しく、お腹にも優しそうに感じられた。「一汁三菜」でバランスの整えられた和食は、改めて良い料理だと感じた。塩分の摂りすぎには注意。
ここまで日本について褒めちぎるように書いてきたが、かといってブラジルは良くないと言いたいわけではない。むしろ、日本と違う点をいろいろ満喫することができた。「みんな違ってみんないい」ということを学ぶことができたのかもしれない。