九州の水辺今昔

2024年4月1日 作成

2024年4月22日 更新

九州の魚類研究は内田恵太郎の九州帝国大學への赴任(1942年)によって本格化し,戦後生活史研究の発信地として数々の研究成果がもたらされた.その土壌となったのは内田やその門下生のもつ知的好奇心や反骨心,そして目の前にある豊かな水環境であった.内田恵太郎,そして内田第一世代と呼ばれた門下生はみなこの世を去り,当時の環境を直接聞き取ることは叶わない.ここでは標本や論文,野帳の記録をたどりながら,彼らが見た水辺が,現在どのような環境になっているのか,少しずつ探り歩いた記録を雑記,公開する.このページは,本体ページ「九州の川魚」にとっての副音声である.

主な登場人物について

内田恵太郎(内田惠太郎)(1896-1982)

東京都千代田区神田生まれ.東京帝国大学農学部水産学科卒,同大学で助手をつとめたのち朝鮮総督府の水産技師となる.1939年に九州帝国大學に水産学科が組織されたことを契機に,1942年に水産学第二講座(のちの水産学第二教室.現水産増殖学研究室)の教授として着任.1960年定年退官,名誉教授に.魚類の生活史全般を得意とし,1939年には朝鮮魚類誌をまとめた.

塚原博(資料収集中)

九州大学理学部附属天草臨海実験所,水産学第一講座,水産学第二講座を歴任.1985年定年退官,名誉教授に.魚類の生活史研究を専門とした.

木下盛枝(資料収集中)

福岡県山門郡柳河町(現柳川市)生まれ.柳河高等女学校(現伝習館高等学校)教員として柳川および筑後川周辺の魚類研究を行った.

道津喜衛(1930-2016)

長崎県五島生まれ.九州大学農学部水産学科卒,のち長崎大学水産学部教授.1989年定年退官,名誉教授に.ハゼ亜目魚類の生活史研究を専門とした.

木村清朗(1932-2009)

佐賀県杵島郡山内町(現武雄市)生まれ.鹿児島大学水産学部卒,九州大学大学院農学研究科水産学専攻に進学.水産学第二講座助手,のち水産増殖環境学講座教授.1995年定年退官,名誉教授に.サケ科魚類の分類,分布,生活史研究を専門とした.

御笠川 下大利・白木原―ヒナモロコ,カワバタモロコがいた場所 

2023年某日訪問

木村清朗がサケ科の研究を始めるまで,何をしていたか,というのは意外に知られていない.というのも,その頃の活動はいっさい論文になっていないし,本心の懐述録も存在しないためだ.木村のサケ科以外の淡水魚類に関する研究というと多々良川でのバラタナゴ類の研究(木村ほか,1986)があるので,これを思い浮かべる方もあるかもしれない.ただしこの研究は木村が職位を得てから研究室の学生と共に行ったもので,木村自身はほとんど採集をしなかったという.

木村は鹿児島大学から九州大学大学院に進学すると,内田恵太郎から「まずは室見川の淡水魚類を調べてみること」を提案され,室見川を中心に淡水魚類を採集して廻っていた.その頃の記憶を今に残しているのが「室見川魚類目録」と,九州大学に残る標本群である.室見川魚類目録は木村が記したフィールドノートの採集記録を河川ごとに並べ直したもので,1957年当時,つまり木村が進学後まもない時期の短期間(4~9月)に行われたものである.九州大学の標本庫は福岡県西方沖地震(2005年)の大きな被害を受けたことなどでいくらかの標本は失われてしまった.それでも木村らが採集に関わったと考えられる淡水魚類の標本としては50瓶以上が現存しており,当時の様子を伺い知ることのできる貴重な資料群であると言える.

「室見川魚類目録」中にある採集記録で特筆すべきもののひとつに,御笠川水系下大利(しもおり)・白木原(しらきばる)での採集記録がある.御笠川は福岡市東部を流れる川で,博多駅のすぐ北を通って博多湾へと流れ込む.当時はまだ東大利という地名はなく,現在の下大利2・3丁目付近や白木原の旧福岡精工場(軍需工場)付近の集落を除いて一帯が水田地帯となっていた.木村の記録によれば,1957年8月9日に御笠川白木原の𣘺ノ上にて,ヒナモロコやカワバタモロコ,バラタナゴを含む魚類を採集している.この記録には採集地の概略を示した簡単な地図が書かれていたことから,木村はどうやら白木原の橋の上流側にある,右岸より流れ込むホソから,御笠川に流入する合流点付近で採集を行ったことが分かった.当時,白木原には橋が1本しかなく,現在の場所よりも120mほど下流にあった(現在も基礎が残されている).したがって,この流れ込むホソは容易に特定することができた.

現在のホソは完全に三面をコンクリートで護岸されており,ヒナモロコどころか魚自体見られない.御笠川との間に大きな落差があるため,御笠川からの魚の遡上も期待できないだろう.御笠川ではオイカワとコイの姿が見られた.御笠川の姿が大きく変わったきっかけとなったのは昭和28年の豪雨災害と見て問題ない.

多々良川にあった謎の沼―カワバタモロコがいた場所

2019年某日訪問

津屋崎にある九州大学の附属水産実験所には大量の古い標本瓶が保存されていた.これらは九州大学の学内から2008年頃に避難されていたもので,基本的には塚原博が保管していたものだ.通称塚原標本とされるこれらの小瓶群は元々九州大学の内田恵太郎の名誉教授室に置かれていたものの一部で,現在は箱崎サテライト(旧箱崎キャンパス内の旧工学部本館)で保管されている.塚原の功績はほとんど知られていないが,黎明期には内田のもとで淡水魚類の生活史研究を行っていた.塚原の標本の多くは柳川(柳河)のものだが,福岡市周辺のものも含まれる.当時の生活史研究は野外でさまざまな成長段階の個体を採集して,成長に伴う仔魚期の形態変化や繁殖期を調べるスタイルが多く,色々な標本を収集することは必ずしも分類学的研究のためだけではなかった.

さてその塚原標本の中に,多々良川畔(沼)と書かれた1950年5月7日のものがある.多々良川は福岡市の東部を流れる川で,かつて,すなわち九州大学が伊都キャンパスへと移転するまでは最寄りの川でもあった.現在の多々良川には沼らしいものはいっさい存在せず,このラベルを見ただけではどこのことかは全く分からない.国土地理院が提供する「地図・空中写真閲覧サービス」はそんな我々を大いに助けてくれる.多々良川エリアの宅地開発が進むのは1960年代になってからだが,この頃でも全体としては水田地帯であった.多々良川は感潮域になる下流部では戦後まもない時期にも河川敷がほとんどないが,糟屋町江辻から上流の,支流の猪野川ではない多々良川側にはある程度の広さの河川敷が発達していた.どうやら1947年には現在の粕屋町学校給食センターの北隣にあたる多々良川左岸に,細長い形の"沼"があったということが見て取れる.この沼はおそらくは洪水時には本流と接続するような一時的水域であって,多々良川の高い生産性に寄与していたものと考えられ,他には川とつながらない沼らしいものは確認できない.なおこの沼は1960年代にはすでに見当たらなくなる.航空写真で見る限り,この間に河岸の形状がかなり変化しているので,何かきっかけとなる自然災害があったのかもしれない.思い当たるのはやはり昭和28年(1953年)の豪雨災害(昭和28年西日本水害)で,福岡市では4日間で621.4mmの降水を記録している.

1950年5月7日にはカゼトゲタナゴやアブラボテなどのほか,135個体ものカワバタモロコが採集されている.多々良川でカワバタモロコが確認されていたのは1970年頃までであり,現在はカゼトゲタナゴも見られなくなった.粕谷町給食センターのあたりは湿田であり,かつてはたくさんフナやドジョウが捕れる場所であったそうである.

松浦川のウグイ産卵地―幻となったイダ

2020年某日訪問

多部田修は1934年生まれで,木村よりも2年若く内田先生に師事し始めたのは多部田が1年遅れであった.多部田修については北部九州における打ち上げ生物を研究した一連の論文や,その後のウナギやフグに関する研究のイメージが強い.しかし彼の卒業研究はタカハヤ(アブラハヤ)の生活史であり,修士論文は松浦川水系に遡上するウグイの産卵生態に関するものであった.多部田が研究を行った1959年当時には,まだ松浦川のウグイ漁業は当地の内水面漁業として高いウェートを占めていた.漁業者,特に内水面漁業者は正確な漁獲量を公言するのを嫌がるものだが,多部田の丹念なフィールドワークによって1959年当時は産卵遡上期のウグイ漁獲量が全体で約3000尾・約1.1トンとなったと推定されている.1930年(昭和5年)には775円(当時)の漁獲高があり,この値はアユを上回るものであった.価格がそれほど変わらなかったと仮定するとこの頃にも1トンをゆうに超える漁獲があったという推測ができる.

松浦川のウグイは回遊性で,春季に海から産卵のために遡上してくる.この遡上は降雨による増水を受けて生じるもので,この時期の春一番の大荒れ(イダアラシ)の後,まとまった数が上がってくる.多部田・塚原(1964)によれば当時は博多湾にもこのような回遊型のウグイが存在したようだ.松浦川では佐里から長野(大黒井堰)にかけての約9 kmの区間が漁場となっており,ふたつの漁業協同組合が漁業権を行使していた.ウグイ漁は瀬つき(産卵床を人為的に作り,集まってくるウグイを捕らえる方法)によって行われ,資源保護のため一部については漁獲せずに産卵を放置する増殖策が実施されていたらしい.多部田・塚原(1964)はこの区間の環境を詳細に調査しており,「この区域の松浦川は幅30~60mで大きな蛇行がみられ,河床傾斜は非常に小さい・・・河床は砂礫底の長い瀬が発達し・・・ところどころに礫底の瀬がみられる」とある.まさにウグイが好む絶好の環境だったと言えるだろう.

暴れ川として知られた松浦川では洪水抑制のための治水工事が次第に進められてきた.昭和50年には支流の厳木川に厳木ダムが完成し,平成16年には駒鳴捷水路が完成した.遊水地「アザメの瀬」が整備され,環境配慮型河川工事の先進例としても紹介されるようなこの川だが,ウグイはほとんど獲れなくなり,現在までにすべての漁業協同組合が解散に至った.かつてのウグイ産卵地には上述のような砂礫底の長い瀬はほとんどなくなり,多くの場所で限界まで礫底がすり減って岩盤が露岩している.あるいは細かなシルトの詰まった,硬い砂泥が広がっている.上流からの流下,あるいは漁業上の理由から投入されてきた礫の供給が止まったうえ,ウグイが好むような目の詰まっていないふわふわの小礫底が出現しなくなったのである.残されたわずかな礫は常に泥を被っていて,とてもウグイが卵を産めるような川には思えない.対馬と松浦川のウグイは日本国内全体の中で独特な遺伝的集団であることが分かっているが,今のところ本種に対する保全策は行われていない.

2020年2~3月にはすべての出水時に松浦川に通ったが,見つけられたのは死骸1個体だけであった.そもそも,どれだけ投網を打ってもウグイはおろか他の魚もほとんど捕れないということが,いっそうの不気味さを演出していた.河川工事によるひどい濁りが川全体に広がっていた.

香椎のドンコ生息地

2024年某日訪問

道津喜衛が九州大学でハゼの研究を始めたのは1947年のことで,以降長崎大学着任に伴って福岡を離れるまでのおよそ10年間にわたってさまざまな生活史研究を行い,1954年に魚類学雑誌に発表された「ビリンゴの生活史」を皮切りに,多数の研究論文にまとめられた.道津の論文には生息環境の写真が添えられることが間々あり,このような写真はその種の生活史の理解を助けたことはもちろん,後世の人間にとっては採集当時の環境を知る貴重な手がかりとしても存在している.

ドンコの生活史に関する研究は内田恵太郎によって柳川の水路地帯で始められたが,その結果は論文化には至らなかった.道津は1950年代に改めてドンコの生活史を追い,1964年に塚原と共に産卵様式や仔魚形態をまとめている.道津がこの研究を手掛けた理由は分からないが,当時内田が本種の減少を懸念していたことも研究の遠因となったのかもしれない.

さてこの論文のフィールドとなったのは柳川と,九州大学からほど近い,香椎の細流であった.道津は1957年5月13日にここでドンコの成熟した雌雄を採集し,採卵を試みている.当時,国鉄より東側の香椎一帯はほとんどが田と畑からなる低い丘陵地であり,人家はまばらであった.論文中の写真は丘陵地の道路と細流,そして人家を写し出している.写真の向かって奥側が標高がわずかに高く,道の左側には人家がないこと,また道路がおおむねまっすぐになっていることなどからこの場所は現在の香椎原病院のやや東側のあたり(香椎1号線)を指しているものと推測された.香椎では1960年代から旺盛な宅地開発が進められ,2000年代にはほとんどの田畑が宅地化された.現在では丘陵の東端にある数枚の棚田だけが農地として現存しており,当時と変わらぬ風景が見られるのはおそらく香椎宮の敷地内だけだろう.道津がドンコを採集したと考えられる細流はほぼ全体が暗渠化されており,当然ドンコの姿は見当たらない.下流側には生息できる環境がないから,水路を順に上流へと辿っていく.ここの水源は山ノ神池というため池だが,その排出口に至るまですべてが三面をコンクリートで固められていて魚は一切発見することができなかった.ドンコは福岡県でもレッドリストに位置づけられるような魚ではない.しかしそれは県全体としての絶滅リスクの話であり,地域的にはドンコすら見られない場所が次第に増えていることに気付いておく必要がある.

福岡学芸大前のホソ

2023年某日訪問

福岡学芸大学は旧来の師範学校を分校として1949年に発足し,福岡第一師範学校を福岡分校とした.この福岡分校はもともと中央区荒戸にあったが,設置後まもなくの1951年には南区塩原へと移転することとなった.この塩原の敷地は元々,旧制福岡県筑紫中学校(戦後の筑紫高等学校.移転後の筑紫丘高等学校)の校舎として使われていたもので,筑紫中学校が設置されるまでは一面の水田地帯であった.

福岡学芸大学は福岡教育大学と改められ,現在では宗像市へと移転しているが,塩原の学校用地自体は九州大学大橋キャンパスへと引き継がれている.キャンパスの敷地サイズは昔も今もほとんど変わりはない.ただし,1960年代から宅地化が進行し,結果的に周辺にあった農地は消え,水路はほとんど暗渠化していった.かつて,このあたりには数本のホソ,すなわち大きめの水路というべきか小川というべきか,そのようなものが数本あり,那珂川へと流れ込んでいた.これらのホソは野多目付近のため池群の排水を集めて流れていて,このうちの1本がキャンパスの東側(部分的にはキャンパス内を貫流していたと思われる)を,もう1本が西側を流れており,これらはやがて合流して那珂川へと落ち出ていた.現在ではキャンパス西側に残るわずかな石垣が,そのホソの痕跡を今に伝えている.

大橋駅にほど近いこの場所は,恰好の採集の場だったにちがいない.木村清朗は1957年8月28日に,ここのホソでヤリタナゴ,バラタナゴ(ニッポンバラタナゴ),オイカワ,カマツカ(いずれも幼魚)を採集している.那珂川水系においてヤリタナゴとニッポンバラタナゴはすでに絶滅状態にあるが,那珂川のかつての豊かさは本流だけでなく,ため池と,ホソや溝と表現された水路群という多様な環境のネットワークによって実現されていたのだろう.

チクゼンハゼ産卵場

2024年某日訪問

室見川は江戸時代から続くシロウオ漁の風物が市民にも広く知られているが,過日道津喜衛がウキゴリ属魚類の産卵行動を追い,”シャベル法”を確立した場所という意味でも,まさしく「ハゼの川」である.道津喜衛は1949年から1950年にかけて,室見川の河口付近でチクゼンハゼの採集と,産卵観察を行っている.こののち,1957年には東京水産大学(現東京海洋大学)の高木和徳によって,新種Gymnogobius uchidai(内田恵太郎への献名)として記載された.もちろん採集者は道津喜衛である.

当時の室見川の河口は現在の愛宕大橋付近にあり,その先は海で浅く広い干潟が広がっていた.写真が撮影されたのは室見川水系の支流金屑川(鉋屑川)で,当時はまだ姪浜炭鉱(早良炭鉱)が稼働していたので道津の写真には巨大なボタ山が写り込んでいる.遠景にかすんで見えるのが志賀島である.当時のチクゼンハゼの産卵観察地には多数のアナジャコの棲息孔があったようで,岸際には大小の礫が散らばっている.澪筋を見ると複雑な起伏があり,おそらくは人間活動とアナジャコ類(アナジャコやニホンスナモグリ)などの底生生物の働きによって,この場所が賑やかであったことを感じさせる.おそらく川底は柔らかかったのではないか.1960年代以降大規模な浚渫と埋め立てによる河道の延長が進んだ室見川本線とは異なり,車窓に眺める金屑川の環境は一見するとあまり変わっていないように見える.ところが,実際に川に降りてみるとそこは硬く単調なやや砂地となっていて,チクゼンハゼの棲む環境としては砂の大きさが若干粗い気がする.アナジャコ類の棲息孔はいくら探しても見つかりそうになく,そもそも生き物の気配が希薄であった.河口の位置の変化や金屑川上流の環境の変化によって,この場所はもはやチクゼンハゼの棲む場所ではなくなっていた.川の中を歩いても魚はほとんど見つからない.内田の名を冠したこの魚は,室見川水系はおろか博多湾から絶滅してしまった.

ところで,道津は論文中において1956年と1957年にこの場所で産卵場の荒廃が起き,チクゼンハゼの産卵が見られなかったことを報告している.道津はこの理由について,釣り餌としての漁獲圧によってアナジャコが急減し,それに伴ってハゼ類も減少したと推測している.折しも博多湾(福岡湾)では戦後急速な復興が始まり,1950年代に入ると荒津から湾内の埋め立て事業が始まった.採砂や姪浜炭鉱付近のボタ土による埋め立て,あるいは汚水による水質汚濁が次第に進む中で,釣り餌の確保も徐々に難しくなっていく.そうした背景において,一部の餌採場に過剰な漁獲が集中していたのかもしれない.

写真(上段)は道津(1957)による.

宇美川のバラタナゴ生息跡地

2017年某日訪問

福岡市内にはかつて,多数のニッポンバラタナゴが生息していた.福岡市では歴史的に見て東側が低勾配が小さく,多々良川,御笠川水系といった水系では緩やかな流れを好む本種の棲息適地が多かったものと推測される.多々良川水系については九州大学の近傍にあるにもかかわらず,都市開発が激しくなる以前のことを知るための資料がほとんど残されていない.特に九州大学の真横にあたる宇美川についての資料が出現するのは1980年代以降のことで,それよりも前のことについては近隣に暮らす古老の証言と,土地利用の変遷を見て想像するしかない.というのも,現在の宇美川を見ても,当時の環境のことは全く理解できないからだ.

宇美川は多々良川の河口から見て第一に分枝する支流(ただしこの合流後の部分はかつて名島川と呼ばれた)で,須恵川・綿打川というさらに小さな支流が流入している.本流の多々良川,あるいはその支流である猪野川に比べると川の流れは緩やかだ.このあたりは古代海沿いの低湿地,おそらくは葦原のような環境だったと思われるが,砂が堆積して次第に陸地化した.その流域はというとほとんどが水田地帯で,宇美川の中腹には亀山炭鉱(昭和35年閉山),須恵川には志免鉱業所(昭和39年閉山)があった.宇美川は本当にタナゴ類の多い川であったようで,昔(1950年頃)には篠栗線の鉄橋のあたりで,水の上からでもタナゴの赤色が見えるほどであったという.それは室見川の例とは異なり,後述する木村清朗の調査からもほとんどニッポンバラタナゴであったのだろうと考えている.宇美川の水田地帯は1960年代から急速な宅地開発が進み,昭和の終わりには下流部一帯のほぼすべてが宅地帯へと変貌した.木村清朗が多々良川水系でタナゴ類を中心とした分布調査を始めたのは1982年のことで,3年間にわたって行われた調査結果は論文化されている.木村らは多々良川中下流域全体に調査地点を設けて,同じ水系内であっても宇美川・須恵川と,多々良川・猪野川・久原川では魚類相に違いがあることを認めている.すでに宅地開発の飽和期に入っていたこの頃,宇美川・須恵川の水質はあまり良いものではなかったが,これらの川ではニッポンバラタナゴの個体数が多々良川本流を含む他の支流に比べて高い一方で,その他のタナゴ類はきわめて少ない傾向にあった.このことは,水質だけでなくハビタットの性質(好む二枚貝や流速,底質)の差によってもたらされていたと考えて問題ないだろう.宇美川・須恵川では5回の投網での合計個体数が200個体を超える地点があったことも報告しており,当時はまだこれらの川に良好な生息環境が残されていたことが伺える.1975年の航空写真を見てみると,宇美川の筥松小学校付近にはいくつかの中洲があり,そのすぐ上流から淡水域に変わっていたことが分かる.急速な宅地化の後もこの緩やかな小河川にはまだ多くの淡水魚類が息づいていた.

現在の宇美川,そして支流の須恵川に,タナゴ類の姿を見ることは叶わない.宅地化が進んだことで流域に降った雨水は側溝を通じてただちに川の中へと流れ込むようになり,いわゆる都市型水害のリスクは増す一方であった.福岡市では1999年と2003年に多々良川流域,中でも特に土地が低く宅地が密集する宇美川周辺で堤防の決壊,氾濫を含む深刻な豪雨災害を受けた.これを踏まえ宇美川では綿打川都市基盤河川改修事業を含む抜本的な治水事業が行われ,河道の大幅な浚渫や流れ込む支流への排水機の設置,堰堤の撤去・更新等が行われることとなった.かつての宇美川の感潮域上端はより上流へと拡大し,河川内には一切の植物が見られない.あるいのは砂と泥だけで,河道は深く掘り下げられている.宇美川からタナゴがいなくなったのは都市化が進んだからではなく,都市化が進んだ結果,都市型水害が起こりやすくなり,それを踏まえた治水事業が行われることになったためである.ここでもまた,水害を契機として人々の暮らしと引き換えに生物を切り捨てるしかなかったことを覚えておく.平成30年7月豪雨では越流まで残り20cmのところまで迫ったが,最終的に被害を出さずに済んだのは間違いなく過去の河川改修のおかげだった.

室見川のシロウオ簗

2019年某日訪問

室見川のシロウオは言わずと知れた福岡の風物で,多くの書物にも登場する.貝原益軒の「続筑前国風土記」(江戸中期成立)中にも鱠残魚の産地として糟屋川(=多々良川),早良川(=室見川),那珂川が挙げられ、簗による漁獲があったことが書かれている.室見川は背振山地から急峻な流れが続くのが特徴で,博多湾に流れ込む河川としてはもっとも石がちであった.この環境はシロウオの恰好の産卵場を作り出し,そこに簗漁が成立してきた.かつては料亭とり市のすぐ前と,筑肥線の鉄橋(筑肥橋)の直下に計2統の簗列があって,2トン近くもの漁獲があったことが記録されている.獲れたシロウオは料亭料理となり,また博多の街で振り売りされてもいた.今から60年ほど前のこと,シロウオの簗では同時期に川へと遡行してくるニホンイトヨや,回遊性のカジカが混獲されていたことが分かっている.これらの魚類は堰堰の改修や河川内の浚渫が進む中で完全に姿を消した.

長年続けられてきた室見川のシロウオ簗は,漁獲量の激減を理由に2年連続で休漁している.室見川では多数の固定堰が上流からの石の供給を阻んでいるうえ,かつてはなだらかな洲がついていた左岸には遊歩道が整備され,シロウオが好むような環境ができにくい.市民が親しむ水辺の整備は川の身動きを封じ,”あそび”のなくなった川では浚渫が繰り返されている.川の水は澄んでいるがあるのは砂ばかりで,驚くほどに魚の姿は少ない.毎年,福岡大学を中心としたボランティアグループがシロウオの産卵のために川に石を投入しているが,劇的な増加は見込めず,絶滅を回避するのが精一杯のように思えてならない.シロウオ簗の姿を見られるのはいつまでだろうか.

参考資料一覧
出版物
道津喜衛.1957.チクゼンハゼの生態・生活史.魚類学雑誌,6 (4–6): 97–104.道津喜衛・塚原博.1964.ドンコの生活史.日本水産学会誌,30  (4 ): 335-342.木村清朗ほか.1986.福岡県多々良川のバラタナゴおよびその生息環境.魚類学雑誌,40 (49): 239-247.九州大学百年史編集委員会.2017.九州大学百年史 第6巻 : 部局史編 III.橋本晴行ほか.2004.2003年7月福岡都市圏における豪雨災害の実態と課題.第3回都市水害に関するシンポジウム.日比野友亮.2024.九州大学で発見された木村清朗氏による室見川魚類目録ならびに博多湾流入河川の淡水魚類標本.九州大学総合研究博物館研究報告,21: 1-16.中島淳・林博徳.2013.佐賀県松浦川におけるウグイ(イダ)漁とその食文化.魚類自然史研究会会報「ボテジャコ」,18 : 63-65.日本魚類学会編集委員会.2016.先達に聞く.魚類学雑誌,魚類学雑誌,63 (1): 56-60.白木原公民館.2007.福岡県大野城市白木原地区のあゆみ.10 pp.鬼倉徳雄ほか.2006.多々良川におけるタナゴ類の分布域の推移とタナゴ類・二枚貝の生息に及ぼす都市化の影響.水環境学会誌,29 (12): 837-842.多部田修・塚原博.1964.北九州における海産ウグイの産卵習性とその漁法.九州大學農學部學藝雜誌,21 (2/3): 215-225.立原一憲.2009.木村清朗先生のご逝去を悼む.魚類学雑誌,56 (2): 189-191.内田恵太郎.1983.流れ藻 内田恵太郎歌文集.西日本新聞社.250 pp.

ウェブメディア
福岡市総合図書館.-「公文書で見る福岡市の水害」展示- .https://toshokan.city.fukuoka.lg.jp/files/Publication/Publication_286_file.pdf木村清朗.大切にしたい故郷の淡水魚.https://www.saganature.jp/tansuigyo/yomimono/009.html(2024年4月1日参照)近代福岡市街地図.https://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/kindai/index.html国土地理院.地図・空中写真閲覧サービス.https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do 九州大学附属図書館.https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/suigai/index.html姪浜の歴史......今昔.http://anthan.cocolog-nifty.com/meinohama/2020/05/post-5c86c6.html古写真で探る 姪浜炭鉱の痕跡.https://y-ta.net/meinohama-tanko-1/福岡の希少野生生物.https://biodiversity.pref.fukuoka.lg.jp/rdb/谷 謙二.今昔マップ on the web.https://ktgis.net/kjmapw/index.html7.19福岡豪雨災害被害状況及び総合防災対策について.https://k-keikaku.or.jp/7-19%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%B1%AA%E9%9B%A8%E7%81%BD%E5%AE%B3%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E7%8A%B6%E6%B3%81%E5%8F%8A%E3%81%B3%E7%B7%8F%E5%90%88%E9%98%B2%E7%81%BD%E5%AF%BE%E7%AD%96/平成15年7月豪雨災害を繰り返さないために 宇美川災害復旧事業の紹介.https://k-keikaku.or.jp/%E5%B9%B3%E6%88%9015%E5%B9%B47%E6%9C%88%E8%B1%AA%E9%9B%A8%E7%81%BD%E5%AE%B3_%E5%AE%87%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%81%BD%E5%AE%B3%E5%BE%A9%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%A5%AD/
その他
内田先生年表.非公表.