地図

郷土の縄文海進~古長生湾があった時代

【長南タウン】(長南町)から、長南町郷土資料館の展示を紹介します。展示テーマは『郷土の縄文海進~古長生湾があった時代』というもので、縄文時代以降に起きた海面が下がっていった変化を海進と呼んでいます。

縄文時代は今より気候が温暖で海面も高く、現在より4~5メートルは海面が高かったと考えられています。

本展示では縄文海進期に形成された海域を『古長生湾』と呼称し、貝塚出土資料などの展示を通じて、当時の環境と縄文人たちの暮らしを紐解きます。

【場 所】長南町郷土資料館 入館無料

【期 間】12月9日(土)~平成30年2月18日(日)

【開館時間】午前9時~午後4時

【休館日】12月29日~1月3日

【展示資料】下太田貝塚出土資料、石神貝塚出土資料(以上、茂原市)、貝殻塚貝塚出土資料(一宮町)、新田野貝塚出土資料(いすみ市)ほか

小学校や中学校の生徒には、ぜひ見ておいてもらいたいですね。

______________________________

長南町HPのこの展示紹介記事では、<ピーク期には長南町域まで海岸線が達していたと考えられます>と書かれていますが、そうなると約8メートルくらい海面が上昇していた頃ということのようです。

そこで、ブロガー<マグノリア> さん が作成された画像が素晴らしいので紹介します。2014/1/15のブログ[縄文海進と貝塚分布]にて掲載されています。

関東平野の現在の標高8m以下を青くし、これに、奈良文化財研究所遺跡データベースにある貝塚の位置をプロットして作成された地図がこれです。 元になる地形図は、国土地理院の標高データを使い「カシミール 3D」で作り、データベース検索した貝塚位置データからKMLファイルを作って「Google Earth」上でプロットした図とのこと。

縄文時代の九十九里浜は海面だった

九十九里浜は海、霞ヶ浦から印旛沼は香取海と呼ばれる内海だったそうです

(2016/2/3 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、縄文時代のように、現在の標高3mエリアまで海面が上昇したらどうなるか推定してみた地形図を紹介します。

霞ヶ浦から印旛沼が繋がって、内海のようになりますので、縄文時代の香取海と呼ばれた地形が、このような地形だったと推定されます。


千葉県の地形図 (標高をカラー諧調で表現)

地形図を10m標高データで諧調表示すると

【長南タウン】(長南町)から、千葉県の地形図を10m標高データから、カラー諧調で表現してみた地図を紹介します。九十九里浜は、縄文時代は海面だっったそうですし、霞ヶ浦から印旛沼は香取海と呼ばれる内海だったとのこと。


南関東エリアの地形図を10m標高で諧調表示

(2016/2/3 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、千葉県を含む南関東エリアの地形図を10m標高データから、カラー諧調で表現してみた地図を紹介します。

これはカシミール3Dというソフトを使うと誰でもつくることが出来ますが、以下の地図は、低地の緑から高地の茶色までの諧調差で地形をわかりやすくしてあります。

千葉県中央部の長南町周辺は安定した台地の上であることがよくわかりますよね。

長南町の野見金公園までの経路

(2015/10/12 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から長南町の野見金公園までの経路をご紹介します。

国道409号線の長南町蔵持交差点から、南へ分岐した町道を道なりに進むと、旧笠森保養センタ-の建物に着きます。さらに100mほど丘に登ると、[野見金公園]があります。

明治19年頃の長南町中央部

(2015/5/4 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、明治19年に作成された関東平野迅速地図の長南町長南地域部分を抜粋してご紹介します。

当時は矢貫村から長南宿に変わっていて、明治初期の活気ある時代の中で、街中が繁栄していたことが想像できますね。



明治19年頃の長南町南部

(2015/5/4 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、明治19年に作成された関東平野迅速地図の長南町南部地域部分を抜粋してご紹介します。

以下の地図は明治19年当時の水沼から給田までのエリアです。

現在の道路地図と見比べると面白いですし、当時からお住まいの家々がわかります

明治19年頃の長南町北部

(2015/5/4 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、明治19年に作成された関東平野迅速地図の長南町南部地域部分を抜粋してご紹介します。

以下の地図は明治19年当時の西部の千手堂から須田までのエリアです。

現在の道路地図と見比べると面白いですし、当時からお住まいの家々がわかります

関東平野の迅速測図

(2015/5/4 Google+掲載記事)

[長南タウン]から、長南町の古地図紹介を続ける前に、明治時代に陸軍が整備した関東平野迅速地図の話を紹介します。

明治13年から明治19年にかけて整備された地図で、測図における絵画風描画技法にはフランスの技法が導入され,我が国の伝統的な諸技術と融和したことによって,華麗かつ繊細な色彩の測図が作られました。

リンク先記事をお読みいただけると迅速地図の理解が深まりますよ。

そして、関東平野迅速地図は、以下のサイトで見ることができます。


天保国絵図にみる長南町北部

(2015/5/4 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、江戸時代の長南町について、古地図を紹介します。

江戸時代の天保6年(1835年)から天保9年(1838年)にかけて、天 保国絵図が製作されました。その絵図を拡大してみると、当時の村々が見てとれます。以下は、現在の長南町北東部エリアを表しており、豊栄地区の村々です。

地図画像をクリックすればオリジナル画像が表示されるはずです。また、当時の文字が読み取りずらいので新たに村名を併記したのでご覧ください。

長南町の歴史を地図から読み取ってみて下さい。

天保国絵図にみる長南町南部

江戸時代の天保6年(1835年)から天保9年(1838年)にかけて、天 保国絵図が製作されました。その絵図を拡大してみると、当時の村々が見てとれます。以下は、現在の長南町南部部エリアを表しており、長南地区、西地区、東地区の村々です。

地図画像をクリックすればオリジナル画像が表示されるはずです。また、当時の文字が読み取りずらいので新たに村名を併記したのでご覧ください。

長南町の歴史を地図から読み取ってみて下さい。

天保国絵図に見る上総の村々

(2015/5/4 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、江戸時代の長南町について、古地図を紹介します。

江戸時代の天保6年(1835年)から天保9年(1838年)にかけて、天保国絵図が製作されました。かの有名な伊能忠敬が、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)までの17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させたことは有名ですが、村々の位置と街道や河川を地図にしたのは天保国絵図が最初ではないでしょうか。以下は上総国の主要部ですが現在の長南町があるのは当時[埴生郡(はぶぐん)]と呼ばれた場所です。

当時は幕府直轄の旗本領地が多かったせいか村々が赤丸で表記されています。当時は交通の要所でもあり、旗本領でもあることから、上総国においては重要な場所だったと思われます。

あなたのご先祖様は、当時からここにいたのでしょうか。