歴史

弘行寺(天台宗)で行われる古代史講座

(2018/9/30 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、お隣の睦沢町・弘行寺(天台宗)で行われる古代史講座を紹介します。

郷土史研究家の宮本廣美さんが講師で、計3回の講座です。事前申し込みは不要の講座ですので、関心あるテーマだけでも覗いてみませんか。

参加費:1000円/回 (資料・コーヒー付き)

場所: 弘行寺(ぐぎょうじ) 睦沢町下之郷1875

開催

第1回 2018/10/7 13:30~ 日本で戦争が始まった弥生時代

第2回 2018/11/4 13:30~ 鉄と馬の生産地

第3回 2018/11/25 13:30~ 上総国の鉄鍛冶


油殿古墳群(あぶらでんこふんぐん)

(2017/06/25 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から前方後円墳を紹介します。豊原地区に油殿古墳群があるのをご存じでしょうか?

最近、樹木が伐採されて、すっきりとした坊主山となったので、前方後円墳であることがよくわかるようになっています。

油殿古墳群(あぶらでんこふんぐん):千葉県の指定史跡(指定日:昭和52年3月8日)

概要

一宮川の支流、埴生川(はぶがわ)の北側の標高40mほどの独立丘陵上にある古墳群である。同じ長南町の能満寺古墳(のうまんじこふん)とは直線距離で約2kmの地点に築かれており、前方後円墳2基、円墳2基の4基で構成されている。

昭和49年(1974)に早稲田大学が確認調査を実施しており、その成果によれば、1号墳は墳丘主軸の長さ93mの前方後円墳で、後円部の直径50m、高さ8.5m、前方部前端幅24m、高さ3.5mの、全体に細身で、後円部と前方部の高さが極端に異なる墳形であることがわかっている。

1号墳の墳頂部には底部に孔をあけた大型の壺型土師器(埴輪壺)が巡らされていた。前方部前面に幅15mほどのテラス状の低い部分があり、ここが周溝(しゅうこう)であったと考えられる。1号墳の築造時期は墳丘形態と埴輪壺から4世紀末もしくは5世紀初頭と考えられる。

2号墳は墳丘主軸の長さ約40mの前方後円墳、3号墳、4号墳は直径10数mの円墳である。

能満寺古墳同様に、高塚古墳がほとんど見られないこの地域においては、前期の大型の前方後円墳を含む重要な古墳群である。

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誰の古墳なのか歴史的な資料は無く、どのような豪族だったのか知りたいものです。知らない方は一度探してみて下さい。


県道側から見える油殿古墳

(あぶらでんこふんぐん)説明看板

油殿古墳の形状図

西小学校の航空写真(昭和50年頃)

西小学校の航空写真(H28年頃)

明治初期の教育事始め

【長南タウン】から、明治初期の教育事始めをご紹介します。

学制は、明治5年8月2日(1872年9月4日)に発行された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令です。

教育令が明治12年に公布され、全国を学区に分けて、大学校・中学校・小学校を設置することが計画されました。

日本では初めて、身分・性別に区別なく、国民皆学を目指した時期でした。

明治6年に千葉県が発足し、明治22年には、西村、東村、豊栄村、武丘村(長南宿、蔵持村、坂本村)が発足したという時期です。

現在の長南町エリアでは、明治六年に小学校が創設されましたのは、蔵持、長南、坂本、中原、小生田、芝原、佐坪、千手堂、岩川の九校でした。明治七年には、市野々、山内、水沼、千田、明治八年には小沢、棚毛に小学校が続々と開設されました。

当時の政府には、小学校設置や運営の財源がなく、設置・運営の経費はその地域住民による負担で賄われたようです。

実際には授業料が免除されることも多く、長南町に設置された各校も、当初から授業料を一徴収したのは水沼学校のみだったといいます。

もうすぐ、長南町の4つの小学校は統合されますが、明治6年から続いた小学校の歴史は忘れずにしたいものです。

そこで、明治6年に開校した佐坪小学校は現在の西小学校ですので、沿革をご紹介します。

1873 (明治6年) 11月 佐坪小学校を佐坪龍堂寺に開校。

1889 (明治22年) 4月 佐坪・市野々・山内・水沼の各村が合併し西村。

1896 (明治29年) 5月 西村高等小学校を佐坪古御所に新設開校。

1909 (明治42年) 3月 西村尋常高等小学校と改称。

1911 (明治44年) 3月 西村立西村高等小学校に新校舎が完成。

1918 (大正7年) 4月 校地を拡張し、校舎増築。

1924 (大正13年) 5月 佐坪、水沼の分校を廃止、一村一校となる。

1939 (昭和14年) 3月 市野々分校を廃止。

1941 (昭和16年) 4月 西村国民学校と改称。

1947 (昭和22年) 4月 学制改革により西村立西村小学校と改称。

1955 (昭和30年) 2月 町村合併により長南町立西小学校と改称。

2017年(平成29年)3月 閉校

旧長南町立長南小学校、長南町立豊栄小学校、長南町立東小学校、長南町立西小学校は閉校となり、2017年(平成29年)4月から 長南町立長南小学校に統合となる。

笠森観音

(2017/02/16 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、笠森観音のホームページを紹介します。

いろいろが行事が行われていると同時に、四季の風景が楽しめますよ。

まだ、ご覧になったことが無い方は是非ご覧下さい。

山号 :大悲山

宗派 :天台宗

本尊 :十一面観世音菩薩

創建年:延暦3年(784年)

開基 :最澄

正式名:大悲山 楠光院 笠森寺

別称 :笠森観音

霊場等:坂東三十三観音霊場 第三十一番札所

文化財 :観音堂、釣燈籠(国の重要文化財)


長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん

(カナダ在住)

(2017/02/05 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん(カナダ在住)のレポートを紹介します。

長南町の中央部に位置する太鼓森にあった長南城について知っておいて下さい。

(房総長南城と唐鎌家の先祖探し パート3)

https://hideokarakama.files.wordpress.com/2012/10/chounanjou-hideo_karakama_part3v2_loweres_final.pdf

長南城と唐鎌家 パート4

(2017/02/05 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん(カナダ在住)のレポートを紹介します。

長南町の中央部に位置する太鼓森にあった長南城について知っておいて下さい。

長南城と唐鎌家 パート3

(2017/02/05 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん(カナダ在住)のレポートを紹介します。

長南町の中央部に位置する太鼓森にあった長南城について知っておいて下さい。

長南城と唐鎌家 パート2

(2017/02/05 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん(カナダ在住)のレポートを紹介します。

長南町の中央部に位置する太鼓森にあった長南城について知っておいて下さい。


長南城と唐鎌家 パート1

(2017/02/05 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南城について詳しく調査された唐鎌英夫さん(カナダ在住)のレポートを紹介します。

長南町の中央部に位置する太鼓森にあった長南城について知っておいて下さい。

長南氏について

(2016/3/29 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南氏について紹介します。

924年に上総介(上総国の次官)に任命された菅原淑茂(すがわらよししげ)は、上総国へ向かうときに道真の子の善智麿(ぜんちまろ)という青年をつれていきました。

善智麿はやがて淑茂の役所に勤めて仕事をてつだっていましたが、この土地が好きになり地元の人と結婚して、927年に淑茂が都に帰るときにはついてゆかずに残って、名前も地名をとり長南次郎と改めました。この長南次郎(菅原善智麿)が長南氏のご先祖になります。

長南次郎(菅原善智麿)が住みついたのは上総国長柄郡で、この郡は南北に細長く、少し曲がったきゅうりのような形だったらしく、人は鍬の柄のようだと思ったのでしょう。そして北半分を、長柄郡の北だから長北(ちょうほく)、南半分を長南(ちょうなん)と呼んで区別したのです。長柄郡はその後、埴生郡と統合され、両方から1字をとり長生郡となりました。

長南氏は10世紀から15世紀までの約500年間に渡って、この地で生活してきたのですが、室町時代に古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)が関東地方に勢力をひろげた当時、その家来の武田信長(たけだのぶなが)が長南を占領したので1456年から1612年までの間に長南氏一族は長南の地を離れ、あちこちにちらばったそうです。長南氏一族が移った土地が図で示されていますのでご紹介します。


歴史書 戦国の房総と北条氏

(2015/8/31 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、歴史書の紹介をします。

戦国の房総と北条氏(岩田選書 地域の中世④)/黒田基樹 著

(駿河台大学准教授/1965年生まれ)2008年9月刊、A5判・232頁・ISBN978-4-87294-529-4 C3321 3000円 (税別) という書籍です。

下総・上総における中心的な政治勢力であった、下総千葉氏・上総武田氏についての叙述が中心になっているようです。

[両氏については、これまで戦国期に関して本格的研究は充分にすすめられていたわけではなかったから、本書によって、その概要を多くの方々に知っていただくことができるものと思う。]とあとがきに書かれています。

【収録内容】

第1章 下総千葉氏の領国支配

第2章 千葉氏とその国衆

第3章 上総武田氏の基礎的検討

長南・真里谷両武田氏の分立

真里谷武田氏の系譜関係

長南武田氏の系譜関係

第4章 上総武田氏の成立と展開

第5章 勝浦正木氏の成立と展開

勝浦正木氏の成立/

勝浦正木氏と北条氏

第6章 天文後期における北条氏の房総侵攻

真里谷武田氏の内訌とその後の展開/

北条氏の佐貫城攻撃/

真里谷武田氏領の接収/

北条氏の金谷城攻略

第7章 北条氏と両総国衆

北条氏・里見氏の抗争/

北条氏と国衆

第8章 小田原合戦と房総

中世の長南城と武田氏

(2015/8/31 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、中世の長南城と武田氏についてのサイトを紹介します。長南城主であった武田氏は甲斐の国(現山梨県)武田氏の一族で、武田信長の時に上総に入国したそうです。

戦国時代の康正2年(1456年)より天正18年(1590年)、長南城落城までの約140年間上総に根を下ろしていました。

庁南と真里谷の城を構え、勢力を蓄えていき、ここを拠点に久留里.大多喜.椎津.佐是などの城砦を築いています。里見氏、北条氏らと戦さを繰り返しましたが、北条氏に屈した後、武田氏は北条氏に従ったため、天正18年(1590)に豊臣秀吉に北条氏が負けた際、庁南城も廃城にされたと考えられます。

武田氏の菩提寺として知られている大林寺は、長南町長南字武田にあり、大永5年、鉤海全金大和尚續を開祖として、武田氏により創建され、天正年間に五代武田豊信再興と伝えられています。

寺は、元禄年中と明治年中両度の火災に罹り、古記録類は一部を残して焼失してしまったため、その全貌は明らかではありません。

家臣団の墓は一部を除いて、当大林寺・市野々の玉泉寺・長南の長久寺にあるそうです。

長南とんび(袖凧)

(2015/8/31 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、大きな袖凧の紹介です。

江戸の角凧をもとに、享和年間(1801-04)ころに、長南の凧師(経師屋)が職人の印半纏と漁師の万祝い着を取り入れて考案したもので、「長南とんび」とも呼ばれています。

全国的に類を見ないT字型で、図柄は「日の出と鶴」、「鯉に金太郎」などの目出度いものが多かったようです。かつては、端午の節句に親類縁者の祝宴が終わると、村中から若者が集まり、大凧を揚げて子供の無事な成長を願ったそうです。

写真の大凧は、町文化財の指定を記念して、長南町袖凧保存会が制作したもので、 縦横3mあり、浜松の国際凧揚げ大会や町の凧揚げ大会で揚げられ、現在は町郷土資料館に飾られている。

■所在地:長南町郷土資料館(長生郡長南町長南2127-1)

■問合せ:0475-46-1194(町教育委員会生涯学習課)

■備考:町有形民俗文化財、房総の魅力500選

千葉県内横穴分布図

長南町の古墳と横穴墓

(2015/7/22 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から長南町の古墳と横穴墓についてご紹介します。

まず、能満寺古墳は知っておいて欲しい古墳です。芝原にある墳長73.5mの前方後円墳で4世紀の築造とされています。

昭和22(1947)年の明治大学の発掘調査によって、能満寺裏遺跡の弥生中期の竪穴住居跡からは、舟形木炭槨と呼ばれる埋葬施設と銅鏡、銅鏃、鉄剣、鉄刀、玉類、鉄製道具類などの副葬品9点の鉄器が出土しています。

房総の大型前方後円墳としては最古のグループに属しており、房総古代史を紐解く上で重要な遺跡と言えます。

斧や鑿など鉄は弥生時代にアジア大陸から日本列島に伝わり、それまでの石器に比べ薄く軽量ながら、充分な強度と切れ味が得られるため、特に工具として多く用いられました。この時期は石器から鉄器への過渡期で両者が併用されていたと思われますが、腐食しやすい性質のためなのか、遺跡から出土することはほとんどありません。もちろん、一つの遺跡から9点も出土したのは千葉県で初めてのことです。

米満横穴墓群

米満横穴墓群は6支群133基を数える県内最大級の横穴墓群です。

築造年代は6世紀後半~7世紀と思われ、周辺地域の開発拠点となった集落群に関わる大規模墓域であったと考えられます。平成9年に一部の発掘調査が行われ、トンボ玉・勾玉などの石製・ガラス製装身具、銅製耳環・鉄鏃などの金属製品、土師器、須恵器などが出土しています。長南町郷土資料館にて見ることができます。墓制から、渡来人が多く住んでいた地域と思われます。

米満横穴墓群 : 千葉県長生郡長南町

タイトル別名:千葉県長生郡長南町米満横穴墓群

総南文化財センター編(総南文化財センター調査報告, 第38集)

長南町建設課 , 総南文化財センター, 1998.3


長南町の古城

(2015/5/2 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、全国のお城を巡って詳細に調べている方のHPを紹介します。

町内にどんな城があったのを知るうえで参考にないます。

長南町に、どれだけあったのかは以下のページに記載されています。

かつて長南城があった室町時代から戦国時代にかけて、多くの城が長南町にはありました。その規模は小さい出城のようなものだったと推定されますが、元千葉県職員で文化財発掘調査などをされていた小高春雄氏が[長生の城]を自費出版されています。その内容から長南町の城跡マップを作成してみたのでご紹介します。

城跡を探して、古代の武士がいた世界を想像してみましょう。


長南町の地名の由来を

(2015/5/18 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南町の地名の由来をご紹介します。

書き残されたものや伝え聞いたこと、地名研究されていることを頼りに整理してみました。

●市野々(いちのの)

南北朝時代には[一野村、江戸時代は[市野々村]。

地名は「いつ(巌)・の(接続詞)・ぬ(沼)」がなまった地名で、崖・岩場の多い地形にある沼地という意味と言われる。

●岩撫(いわなで)

江戸時代は[岩撫村]。「いわ(石)・な(土地)・て(手)」という言葉がなまった地名で、岩のある場所という意味と言われる。

●今泉(いまいずみ)

江戸時代は[今泉村]。新しく井戸を掘ったことで集落が出来た場所とか古井戸に代わる新しい井戸を掘った場所という意味と言われる。

●岩川(いわかわ)

江戸時代は[岩川村]。

●小沢(おざわ)

江戸時代は[小沢村]と[小澤村]の二つからなっていた場所。言い伝えでは、もとは大沢という地名であったと言われる。

●小生田(おぶた)

南北朝時代は[小蓋村]。江戸時代は[小生田村]。「おぶ(負う)・た(処)」という言葉がなまった地名で、山を背にした場所の意味と言われる。

●笠森(かさもり)

江戸時代は[笠森村]。古刹・天台宗笠森寺にちなむ地名。

●上小野田(かみおのだ)

鎌倉時代は[小野田郷]。江戸時代は[上小野田村]。「お(接頭語)・ぬた(沼処)」という言葉がなまった地名で、湿地という意味と言われる。

●給田(きゅうでん)

江戸時代は[給田村]。中世の荘園名の給田に由来していると言われる。

●蔵持(くらもち)

室町時代は[倉持]という地名であった。江戸時代は[蔵持村]。

大化の改新前の時代に、車持部(くるまもちべ)の居住地で、車持が蔵持になまった言われる。古代、天皇の輿(こし)の製作・管理に従事した部。

●坂本(さかもと)

平安時代は[坂本郷]。江戸時代は[坂本村]。支村に[舎人村](現在は利根里)があった。地名は、坂の入口・麓を意味すると言われる。

●佐坪(さつぼ)

南北朝時代は[佐坪郷]。江戸時代は[佐坪村]。「さ(狭)・くぼ(窪)」という言葉がなまったもので、山間の狭い窪んだ谷を指したものと言われる。

●芝原(しばはら)

江戸時代は[芝原村]。もともとは、荒野を開墾した土地ということから「芝原」と名付けられたと言われる。

●地引(じひき)

もともとは、八坂村であったと言う。八坂が八板に転じ、いつしか地引になり。江戸時代は[地引村]。「八坂」は、坂の多い事を指す地名で。八板は「や(八)・いた(痛)」で崖崩れや洪水が多々あったことを指す地名。「地引」は地すべりが発生したことにちなむ地名かもしれないと言われている。

●下小野田(しもおのだ)

鎌倉時代は[小野田郷]。江戸時代は[下小野田村]。

「お(接頭語)・ぬた(沼処)」という言葉がなまった地名で、湿地という意味になる。

●須田(すだ)

古くは墨田という地名で、鎌倉時代には[墨田保]があった。江戸時代は[須田村]。地名は斉藤遠江守の家臣で当地に居を構え、村を開発した墨田五郎という武士にちなんで付けられたと言われている。

●関原(せきばら)

江戸時代は[関原村]。地名は、狭い土地を開墾したことを指した「せ(狭)・き(処)・はり(墾)」という言葉がなまったものと言われる。

●千手堂(せんじゅどう)

江戸時代は[千手堂村]。

●千田(せんだ)

戦国時代には[千田の地名]があり、江戸時代は[千田村]。「せま(狭)・た(処)」という言葉で狭い所という意味と言われる。

●竹林(たけばやし)

江戸時代は[竹林村]。地名は「たけ(崖)・はやし(豪雨時に道が川となる所)」という言葉からで、崖のある水没しやすい地という意味という。

●棚毛(たなげ)

江戸時代は[棚毛村]。「たな(段丘)・げ(処)」という言葉は、段丘地形を指したもの。

●長南(ちょうなん)

中世時代に築かれた武田氏が築いた庁南城にちなみ、当時は長柄郡の南という意味があるとのこと。江戸時代は、は[矢貫村]、明治初年(1868)に[長南宿]が起立。

●豊原(とよはら)

明治7年(1874)に葛田村・大井村・西湖村・久原村・長井村の5村が合併。地名は豊かな生活になることを願ってつけたものと言われる。

●中原(なかはら)

江戸時代は[中原村]。地租改正時に佐坪村字松ノ関が合併され、地名は埴生川に沿ってあった村々の総称を中原と称していたことから、名付けられたと言われる。

●深沢(ふかさわ)

江戸時代は[深沢村]。地名は「ほき(険しい)・さわ(沢)」で険しい山間の沢という意味と言われる。

●報恩寺(ほうおんじ)

江戸時代は[報恩寺村]。地名は古刹・報恩寺にちなむと言われる。

●又富(またどみ)

江戸時代は[又富村]。地名は「まま(崖)・た(処)・とび(崩壊地形)」がなまったものと思われ、崖が崩落した場所という意味でもある。

●水沼(みずぬま)

江戸時代は[水沼村]。地名は、谷(やつ)が多く、里山からの沢水で沼が多い土地という意味と言われる。

●茗荷沢(みょうがさわ)

古くは名我沢とも名荷沢とも書いたと言われる。江戸時代は[茗荷沢村]。地名は、「みょうが(冥加)・さわ(沢)」という崖崩れがおきやすい危険な土地の沢という意味と言われる。

●本台(もとだい)

江戸時代は[本台村]。地名は、台地の麓の意味かまたは元々は台地という意味で崩落地形を指したものと推定される。

●山内(やまうち)

江戸時代は[山内村]。地名は「やま(山)・ふち(縁)」がなまったもので山沿いという意味と言われる。

●米満(よねみち)

江戸時代は[米満村]。地名は「よな(砂)・みち(いっぱいになる)」がなまったもので、川の土砂が堆積しやすい場所を意味した地名と言われる。


以上、町内の地名の由来を知っておいて、孫にお伝え下さい。

長南町の紅花と山形の紅花、そして長南氏

(2013/12/21 Google+掲載記事)

【長南タウン】(長南町)から、長南町の歴史についてすこしご紹介します。

長南町の紅花と、山形の紅花、東北在住の長南氏の関係は?

成務天皇の時代、伊己侶止直が伊甚国造(夷隅川・一宮川流域)に任命されました。後に夷隅川流域は夷隅郡、一宮川流域は埴生郡と長柄郡に分かれることになります。

この長柄郡の南部に土着した菅原道真の子「善智麿」は、長南氏を名乗ったそうです。(927年ごろ)

その後、長南氏は千葉氏と姻戚関係を持ち、鎌倉幕府に従っていましたが、1456年に古河公方の命で長南に進出した武田信長によって、長南修理介常春は敗れてしまい、安房の里見氏を頼ることになります。

1614年、里見氏改易。1615年、長南和泉守は36名を率いて館山より松島寒風沢(宮城県)に渡ります。定住のための埋め立て工事を行い海運業を手がけました。また、島々に黒松を植樹したことで、瑞岸寺の雲居和尚から法名・感謝状を受け、長南和泉守菅原道本と称したそうです。

この前後、長南氏1族は東北地方を中心に各地に移住して、仕官や新田開発・紅花栽培などで活躍したようです。

紅花は、平安時代の書物延喜式に、上総から朝廷に紅花が献上された記録があり、この紅花の栽培者は上総の豪族長南一族といわれています。

長南一族は東北へ離散しましたが、山形に逃れた人たちがが紅花の種を持っていったと伝えられています。

最上川沿岸の山形県河北町には、長南姓の家が多数あり、「いつの日か、必ず上総へ帰ろう」と言う先祖代々の言葉が今も伝えられているとのことです。2004年時点では、長南姓は全国各地で約1350世帯あったそうです。