世界には多くの宗教があります。 日本には、仏教、キリスト教、そして神道があります。人類にとって、宗教間の違いを乗り越えることは不可欠です。仏教天空起源説は一神教と仏教の垣根を無くします。
宗教
宗教は私たちに心の安らぎを与える超越的な存在への信仰です。しかし、各宗教の指導者や信者が「私の宗教は他の宗教よりも優れている」とか「他の宗教の教えは人類を救うことはできないが、私の宗教の教えは人類を救うことができる」と言い出すと、人類を幸福に導くはずの宗教は人類を分断してしまいます。真実は1つであるはずなのに、なぜ地球上には数多くの宗教があるのか?世界の全ての宗教を統一することは可能なのか?宗教を一歩退いて考えてみるとこのような疑問が起こります。
仏教とキリスト教
ここで仏教とキリスト教について考えてみます。善行をした者が死後行く世界として、仏教では極楽浄土があり、キリスト教では天国があります。人類の救世主は仏教の場合は弥勒菩薩であり、キリスト教の場合はメシアです。死後の世界には阿弥陀如来や神の導きがあります。キリスト教には人と宇宙を創造した唯一の神がいて、仏教にも大日如来や阿弥陀如来などの絶対の仏陀がいます。しかし、これらの共通する教えでは仏教とキリスト教を結びつけることはできません。むしろ、救い主は神だ!いや仏だ!と更なる対立を招きます。
本地垂迹説
仏と一神教の神が垣根を乗り越えるために、日本における仏教と神道の習合の例が参考になります。仏教が大陸から伝来したとき、神道と仏教の間で議論があり、本地垂迹説によって解決されました。そして、今の日本では、お寺と神社が共存していて、寺院の中に神社が存在する例や、神道の神々にお経を唱える例があります。本地垂迹説というのは、日本の神々は仏の化身であるとする説です。インドの仏が姿を変えて日本では神道の神として現れたのだと解釈します。したがって、神と仏は同じです。私はこれを参考にして、かつ、仏とは覚醒した人の事だという点と、聖書に記述の神の姿が人と同じであるという点に着目して、仏とキリスト教の神が習合する新・本地垂迹説を提案します。
創世記
まず、キリスト教の神は地球上に生き物を創造し、そして人を創造しました。ここで聖書の創世記の次の記述に着目します。
創世記第1章26節:
神は言われた、「我々の形に、我々にかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地の全ての獣と、地の全ての這うものとを治めさせよう」。
創世記第1章27節:
神は自分の形に人を創造された。すなわち、神の形に創造し、男と女とに創造された。
「我々にかたどって」という中の”我々”という記述から、神は一人ではありません。そして、神の形に男と女を創造したという記述から、神は人間と同じ姿をしていて男性と女性がいることを意味します。つまり、人間を創造した天(=宇宙)の神々は、私たち人間と同じ姿をした人々です。生命創造が行える知性を有した人々です。
仏
次に、仏教の仏について再確認します。仏教では、宇宙は時間も空間も無限に続き、そこには無数の仏国土が存在すると説きます。ここで、仏とは真理に目覚めた人を意味するので、宇宙には高度な文明をもった人々の住む惑星が数多く存在することを仏教は教えている他ありません。仏教がこのように宇宙とそこに住む無数の知的生命体の存在を説いているということは、とりもなおさず仏教が天空(宇宙)からもたらされた教えである事を意味します。
新・本地垂迹説
以上より、地球上に人を創造したキリスト教の神は私たちと同じ姿をした人々で、一方、仏は悟りを開いた人々で、どちらも天空(=宇宙)に存在する高度な知性を持った人々です。これら天空の人々は、私たち人類に愛や慈悲を説きます。このように仏教天空起源説によって、一神教と仏教が習合します。これは21世紀の神仏習合です。