北米神経科学会

Society for Neuroscience

(SfN )



SfN 開催地のひとつシカゴ市

SfN の学術年会は,近年,米国東海岸の Washington D.C. と西海岸の San Diego市,そして中西部の Chicago 市で順繰りに開催されている。そのうちの Chicago市は,歴史的にも現在において,金融,商業,流通,交通,文化の中心拠点のひとつである。ここは,米国において,New York 市と Los Angels市に次ぐ人口を擁する大都市である。この地には, The University of Chicago があり,ここから多くのノーベル賞受賞学者が輩出されている。



SfN  ポスター会場

Chicago市で開催された SfN 2015 のポスター会場。会期でのポスター発表に限った総数は,16,011件とカウントされ,これは例年並みの数である(上記写真は,いずれも著者撮影)。


本画面テーマ


5.1.  SfN について


5.2.  研究報告に関する全般的傾向


5.3.  マーモセット利用の研究動向


5.4.  SfN2015  マーモセット利用

           研究動向の考察


5.5.  SfN 参加体験から読み解く

          学会活動の重要性とその先

          に存在するゴール



追加ノート 1

        SfN研究報告中の特定

       トピックスについての

        鳥瞰的考察



5.1.  SfN について


北米神経科学会 (Society for Neuroscience : SfN) の第1回学術年会は,1971 年に Washington D.C. で開催された。この時の参加者数は,1,400名と記録されている。近年では毎年,2ないし3万人もの脳・神経科学に関わりを持つ研究者,臨床家,教育者,行政担当者,実験機器/材料関係者,学術誌出版関係者などが,この年会に世界から参集している。年を経た SfN の参加者数の増加は,そのまま脳・神経科学研究の発展とその研究に対する世界的注目を反映している。

 

図1には,第1回開催の SfN1971 から, SfN2019 までの参加者数の経年的変化を示した。開催当初は,脳・神経科学に関する研究者も現在に比べて少なかったが,この分野の研究発展に伴って,SfN年会参加者も増加の一途を辿った。むしろ,SfNそれ自身が,フィードバック機能を果たして,脳・神経科学研究の発展に貢献した部分もあるといえよう。2,005年の Washington DC で開催された SfN 学術年会の合計参加者数は,34,815名となり,これが現在のところピークである。その後は,2 ないし3万人代の参加者を維持し続けたが,2020年には,COVID19 パンデミックにより,学術年会は中止となった。



図1 SfN の第1回学術年会は,1971年に Washington DC で開催された。この図には,そこからの年会参加者総数の経年的変化を示した。 Scientific Attendance は,学術的目的を持った参加者である。この参加者数が増加するにつれて,そこにビジネスチャンスを見出して,科学実験機器/材料関係者や学術誌出版関係者などの参加と出品が増え,Total Attendance の数も増加した。2,021年以降の参加者数については,データが入手でき次第追加予定。本グラフのデータの出典は,下記 URL による。


SfN Attendance Number (第1回のSfN1971から SfN2012まで)

https://www.sfn.org/sfn/amstats/amstatsgraph.html


同 (SfN2009からSfN2019まで)

https://www.sfn.org/meetings/attendance-statistics



SfN2020 の COVIC19 パンデミックによる中止のあと,SfN は,virtual 参加も含めたかたちで,2021年から再開された。脳・神経科学研究の発展の指標ともいえる SfN 学術年会の参加者数が今後どうなるかは興味深いところである。とりわけ,米国における G.H. Bush大統領の The Decade of the Brain (1990年-1999年) 構想に引き続き,2014年,B.H. Obama 大統領の BRAIN (Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)構想により,米国の脳・神経科学研究には,莫大な国家予算が注ぎ込まれた。現在は,その成果が問われる段階に至っていると思う。

 

Society for Neuroscience (SfN) は,わが国では「北米神経科学会」と翻訳されている。学会に参加してみると多くの国からの参加者があり,国際学会の様相を呈している。しかし,近年の開催地は,巨大コンベンションセンターのある Washington DC, Chicago, San Diego など米国の主要都市に限られている。そこで,「米国神経科学会」と翻訳しない理由としては,1976年と 1988年には,カナダの Toronto 市でも SfN 年会が開催された。カナダは,米国同様に脳・神経科学研究が盛んであり,北米地区の両国はボーダレスに大学研究機関の学問的交流がある。現在は,カナダの都市にも大きなコンベンションセンターがあるが,最近はもっぱら米国内の3都市での開催となった。ちなみに,上記を除くこれまでの SfN開催地は,New Orleans, Atlanta, Orland, Miami Beach, Anaheim, St Louis, Phoenix, Dallas, Boston, Minneapolis, Los Angeles, Cincinnati, Houston, New York であった。

 

しかし,近年の様に2ないし3万人代もの参加者になると,Washington D.C., Chicago, San Diego での巨大コンベンションセンターの開催実績が常態化し,それが多くの参加者による年会のスムースな運営を維持できる条件と感じている。北米在住の神経科学者にとっては,東海岸,中西部,西海岸と順繰りになると,地域的公平性も保たれるであろう。もし,SfNを国際学会にして,さまざまな国での開催にすると,これだけの巨大集会運営のノウハウが継承,蓄積されにくいと思う。また,国によっては,学術年会にお祭りの要素を過剰に加えたり,自分たちの権威づけにも利用したりして,本来の学問研究交流の実質的内容が損なわれる可能性が否定できないと考える。巨大ビルを構えた Washington D.C. にある SfN ヘッドコーターのオーガナイザーは,会の運営を米国流の実利的,効率的システムの実践にこだわっている様に感じた。また,そこにはビジネスとしての視点も加え,これが結果的に,脳・神経科学の研究発展とその知識の国民への普及に資するとの考えに立脚していると思う。そのために,米国を開催拠点とした国際的な脳・神経科学研究集会となったととらえている。もちろん,世界の脳・神経科学研究者を惹きつけるために,プログラム委員や講演者などには,国際的バランスの配慮が窺い知れる。

 

SfN の特筆すべき運営ノウハウの一つに,数日にわたる 開催期間中の 1万数千件におよぶ研究発表を,デジタルシステムにより,整理し,管理してあることが挙げられる。このシステムでは,研究標題,著者名,所属機関,発表要旨,発表日程と時間,発表会場などに関する情報が極めて容易に検索できる。それゆえ,自分の興味にそった毎日のスケジュールを組み立て,効率的に学術情報に触れられる。2,000年初頭には,参加者がラップトップコンピュータを会場に持ち込み,無数の発表スケジュールから,自分の聴くべき発表会場に出向いてゆくことができた。会場内には,至る所にデスクトップパソコンもあり,多くの参加者がそれも利用することができた。このあと,iPhone と iPad などの普及の波が押し寄せ,WiFi  環境下において,これらと連携しながら,各研究者が広大な会場で膨大な数の研究発表を,極めて効率的に視聴できるようになった。

 

これは,カーナビゲーションによる自動車運転で,その都度,それぞれの目的地に,極めて容易に到達できることになぞらえられよう。会期が終了しても,発表 Abstracts は,過去のものを含めてネット上で,検索でき,発表内容についての調査分析が可能である。なお,SfN に参加し,その運営をつぶさに観察すると,学術集会は,本来どうあるべきかについてのさまざまな示唆を与えてくれると感じた。すなわち,これだけ巨大な学術年会に接すると,個人の存在は埋もれ,その分,学問研究の巨大な渦を間近にみることがでる。そこで,自分が,どのような立ち位置で,どのような自分らしい研究をすべきかについての認識を強く迫られる。学問研究は,本来そのような状況認識の中でこそ進めるべきと感じた。

 

著者は,2,000年初頭から2,015年まで,基本的には毎年 SfN 学術年会に参加してきた。今となっては随分と古くなったが,Chicago 市で開催された SfN2015 に参加した折の報告書に,新たな調査分析結果を加え,その内容をここに掲載した。SfN2015 は McCormick Place Convention Center で,多数の研究発表があり,参加者総数も含めて世界最大規模の学術年会となっている。ちなみに,この時の参加者総数は,78ヶ国からの 29,002名と掲示されていた(図2)。講演、シンポジウム、一般口演,同ポスターすべてを含めた5日間の発表総数も例年並みであり,そのうちのポスター発表は正確には,16,011件とカウントされていた。


2  SfN2015における参加者数の内訳著者撮影)。この掲示は,広い会場内の仮設ヘッドクオーター付近に,毎日表データが示されていた。最終日には,78ヶ国から 29,002名の参加者総数カウントされていた。

5.2.  研究報告に関する全般的傾向


SfN学術年会の Abstractsなどの発表内容について,WEB上で検索した。現在のところ,SfN2020を除いて,SfN2006 から SfN2022 までが検索可能である。そこで,発表 Abstracts についての用語検索から,年毎の研究内容の推移につて調査分析した。

 

検索方法については,SfN の年度により,2種類のものが混在するが,基本的には検索結果に大きな差異はないと判断した。検索は,Key Words ではなく,Abstract Body (アブストラクトの内容)について,特定の用語の存在の有無について検索した。毎年の学術年会のすべての発表には,講演,シンポジウム,一般発表(口演あるいはポスター)などが存在するが,これらについて区別なく検索した。年毎の推移をみるために重要なことは,検索の日数は,5日間の SfN年会のみならず,その前後にあるSfN公認サテライトシンポジウムも含めた。そのために,検索範囲をサテライトシンポジウムの日程も含めて指定した。また,Sessions ではなく,個別の発表についての Presentations 条件を設定することとした。すでに図1に示したように, SfN学術年会の参加者数については,検索対象の 2006年からは,年毎に極端な違いはなく,従って,総発表件数も経年的にある程度一定範囲内と仮定した。この前提があってこそ,さまざまな検索結果の用語の経年的増減に関する傾向を述べることができると考えた。以上の検索方法については,以下に記載したその他の用語に基づく経年的傾向分析についても同様とした。

 

まず,全般的傾向として SfN の発表には,伝統的に脳・神経に関する行動学的,生理学的,生化学的,分子生物学的,遺伝子解析学的研究が基盤として存在している。これらを踏まえた上での神経精神疾患関連の臨床研究と前臨床医学研究(非臨床研究)と神経精神疾患に関する基礎研究の報告が多数ある。ただし,神経精神疾患研究以外の脳の仕組みに関する基礎研究は,そもそもの会のスタート時点からの中心的かつ中核課題であったことは述べておく必要があろう。

 

 図3 には,SfN の全Abstract Body について,方法論に関する用語の検索を行った。まず,臨床研究 (Clinical) と前臨床研究あるいは非臨床研究 (Preclinical or Nonclinical) について経年的変化を記載した。次に,行動学的 (Behavioral),生理学的 (Physiological),生化学的 (Biochemical),薬理学的 (Pharmacological),病理学的 (Pathological),遺伝子学的 (Genetic) 事項の用語の存在について記載した。 近年は,SfN 年会で臨床研究と前臨床研究(非臨床研究)に経年的増加がみられた。この図でに示されるように,行動的用語は最も多く,経年的にも増加傾向がみられる。その他には,生理学的,生化学的,薬理学的,病理学的,遺伝子的用語の変化が示されている。

 

Abstract 検索方法については,SfN Past and Future Annual Meetings によった(下記 URL 参照)。現在のところ,開催中止となった SfN2020 を除いて,SfN 2006 から SfN 2022 までの検索ができる。検索法の詳細については,図3の説明を参照されたい。

https://www.sfn.org/meetings/past-and-future-annual-meetings



図3 SfN の全Abstract Body について,方法論に関する用語検索を行った。まず,臨床研究 (Clinical) と前臨床研究 (Preclinical)  あるいは非臨床研究 (Nonclinical) について記載した。次に,行動学的 (Behavioral),生理学的 (Physiological),生化学的 (Biochemical),薬理学的 (Pharmacological),病理学的 (Pathological),遺伝子的事項 (Genetic) の用語の存在について記載した。

検索対象となった Abstracts には,特別講演もあれば,シンポジウムもあり,さらには一般発表(口演とポスター)も含まれている。また,SfNの5日間の年会発表のみならず,その前後にあるSfN公認サテライトシンポジウムの Abstracts も含まれている。なお,当日,発表がキャンセルになったものも含まれている場合がある。

Abstract 検索方法については,SfN Past and Future Annual Meetings によった(下記 URL 参照)。

https://www.sfn.org/meetings/past-and-future-annual-meetings

現在のところ,WEB上での検索は,開催中止となった SfN2020 を除いて,SfN2006 から SfN2022 までが可能である。これの検索の注意点としては,SfN の年度により,2種類の検索法が混在すること,検索対象は,Key Words 検索ではなく,Abstract Body 中の Words 検索にすること,Sessions ではなく,Presentations を検索条件として選択すること,検索の日数範囲をサテライトシンポジウムの日程も含めて指定することなどが挙げられる。以上の検索方法については,以下に記載した他の図の検索についても同様に当てはまる。




次に,神経精神疾患のうちいくつかの病名についての経年的変化について検索した。神経精神疾患関連研究には,前述の通り臨床研究と前臨床(非臨床)医学研究あるいは疾患に関する基礎研究がある。これらを含めた検索結果としての発表件数を疾患名ごとに図4に示した。臨床研究は,患者に関する治験などを含む。一方,前臨床研究とは,基礎研究の成果を踏まえた動物疾患モデルなどにより,薬物投与や細胞移植などの治療法の効果について検索するなどについてである。

 

神経疾患に分類されるアルツハイマー病 (Alzheimer OR Alzheimer’s)とパーキンソン病 (Parkinson OR Parkinson’s) の発表件数は,いずれの年度も多い。ハンチントン病 (Huntington OR Huntington’s) と ALS (Amyotrophic Lateral Sclerosis) は,それぞれの神経機構が明らかにされつつあるが,先の2疾患に比べて発表件数は少ない。てんかん (Epilepsy) は,その患者数も多く,深刻な疾患であるためか,経年的に発表件数が,増加傾向にある。脳梗塞 (Infarct) も患者数の多い重要な研究ターゲットではあるが,SfNでは,発表件数に経年的減少がみられる。この疾患は,SfNではなく,むしろ脳神経外科学系の学会などでの発表が主なのであろう。

 

精神疾患のうち,うつ病 (Depression),統合失調症 (Schizophrenia),不安神経症 (Anxiety) は,経年的に発表件数が多い。特筆すべきは,依存あるいは嗜癖 (Dependence OR Addiction) に関する研究の多さとその経年的増加である。これには,薬物依存以外にもギャンブル依存やゲーム依存なども含まれていると思われるが,薬物依存がメインであろう。薬物依存は,薬物乱用に至る最も深刻な課題であり,個人の問題を超えて社会全体が崩壊するリスクを抱えている。それゆえ,米国では,薬物依存研究には多額の研究費が投入されている。その研究のメインの発表場所は,The College on Problems of Drug Dependence (CPDD) などであるが,SfNのような脳・神経科学を包括する広い視野に触れられる場所でも研究発表がなされている。

 

 近年,注目されている発達障碍(発達変異)についても数多くの研究があり,この傾向は,自閉症(Autism) 研究の経年的増加にみて取れる。ADHD (Attention Deficit Hyperactive Disorder) も発達変異の一つであるが,こちらの方には,本検索法による限り,顕著な経年的増加は見られていない。




図4 神経精神疾患のうちいくつかの病名の経年的傾向について検索した。 


次に、研究にはどのような実験動物が用いられているかを検索した(図5)。あくまで、Abstracts の文章中に出現する単語による検索となるが,マウス (Mouse OR Mice) が経年的に増加傾向にある。一方,ラット (Rat OR Rats) は,経年的に明らかな減少がみられた。サル類 (Monkey OR Monkeys) を全体としてみると,遺伝子改変 (Transgenic) 動物同様に,発表件数としては,齧歯類に比べて相対的に少なく,経年的には大きな変化はみられていない。

 

図5 SfN の全 Abstract Body について,どの実験動物が使用されているかを検索した。マウス,ラット,サル類,遺伝子改変動物の経年的利用傾向が読み取れる。

 


ところで,研究に利用された実験動物のうちサル類に絞ってみると,その内訳はどうなるであろうか?大型のマカク属サルの代表であり,永年この領域のエース的存在であったアカゲザル (Rhesus Monkey) の利用が多い(図6)。カニクイザル (Cynomolgus Monkey) については,その発表件数は多くはない。このサルは,もともと薬物の安全性試験などで多数利用されており,脳に関する研究で積極的にこれを利用するメリットは,アカゲザルほどにはないと感じている。ニホンザル (Japanese Monkey) は,SfN では日本からの研究があり,社会行動や知能,脳生理学,行動などについて詳細な研究があるが,全体からみるとその数は極めて少ない。バブーン(ヒヒ) (Baboon) やリスザル (Squirrel Monkey) も,それを利用できる一部の施設で一部の研究者が利用しているようである。一方,マーモセット (Marmoset) の利用は,経年的に増加傾向にあることは明らかであろう。


図6  SfN の研究発表において,どのようなサル類が利用されているかについて,Abstract Body 内の用語検索を行った。アカゲザル (Rhesus Monkey),カニクイザル (Cynomolgus Monkey),ニホンザル (Japanese Monkey),バブーン(ヒヒ)(Baboon),リスザル (Squirell Monkey),マーモセット (Marmoset) の経年的利用傾向を示した。


5.3.  マーモセット利用の研究動向


上記のように,マーモセットを用いた脳・神経科学研究は,近年のこの学術年会でも注目すべきことの一つと考えられる。そこで,この流れを,著者が SfN に参加し始めた 2000年から調べてみると,現在のマーモセット利用による研究件数は, 当初と比べておおよそ 10倍を超える年度があった(図7)。このことは,他のサル類の利用に明らかな増加がみられていないことを考えると極めて興味深い。


図7  SfN の全 Abstract Body について,マーモセットの経年的利用傾向を示した。基本的には,図6 のマーモセットの部分と同じであるが,以前に検索した SfN2000 から 同2005 のデータも加えた。


上記の様に,マーモセットの利用が注目されることから,さらに国別にマーモセットを用いた研究発表の経年的傾向について調べた(図8)。この調査では,Abstract Body 内に marmoset あるいは marmosets という単語が存在した場合に,その発表の筆頭著者の所属する研究機関の所在国名で分類した。その結果,2015年度の総数は64件あり,うち米国(31件),日本(14件),オーストラリア(9件)となっていた。ヨーロッパでは,かつての英国が減少し,その他の国もあまりふるわない。マーモセットの出生原産国ブラジルが少し目立ってきている。以上のカウントには,発表当日キャンセルになったもの,実際にはマーモセットを利用していなくても,Abstract Body 中に marmoset (s) の用語があるだけの場合も含まれている。

マーモセット利用研究機関の国別経年的傾向。




一方,SfN2015 において,マーモセットを用いた研究をトピックス別に調べてみると,脳内の神経ネットワークに関するものが多いのは,この学会の性質上当然と考えられる(図9)。聴覚生理,視覚生理や vocalization に関するトピックスはマーモセットの特性を良く利用していると感じられた。行動は様々なものがここに分類されてしまうために,この分類に意味を持たせることが難しいかもしれない。その他のトピックスは,ほぼ例年通りである。マーモセットにも 2光子レーザー顕微鏡や Ca2+イメージング,オプトジェネテイックスなどの手法が急激に用いられ始めた。遺伝子改変マーモセットについても複数の施設からの報告があった。

SfN2015 のマーモセット利用研究のトピックス別傾向。




5.4.  SfN2015  マーモセット利用

研究動向の考察


1脳・神経・疾患に関する研究において,マーモセットの利用は年毎に増加傾向を示し,米国,日本,オーストラリアが研究の主要国となっている。


2ラットやマウスで培った最新の技術(例: two-photon imaging) は,素早くマーモセットでの研究に導入されるようになった。


3報告の中には,とりあえず新技術をマーモセットに導入したというものの他に,その技術を用いて,脳に関する重要な知見を得たというものがあった。しかし,後者は論文のかたちで発表するまで,SfN の発表には肝心で詳細な部分を伏せてあることが窺い知れた。


4遺伝子改変技術の導入については,幾つかの研究施設からの報告があり,多くは経過状況についてのものであった。これについても本格的成果内容は,論文のかたちでいずれ発表されるものと推測した。


5ヒト神経精神疾患遺伝子のマーモセットへの導入の試みについては,神経変性と症候発現をマーモセットで明確に把握測定できる目処の存在が重要と考えた。とりあえず,遺伝子を導入すれば,何らかの神経変性や行動変化がられるであろうという論理が正当化されると,夥しい人的,財政的,施設的,時間的リソースを費やす研究が増えると思う。これは,限られた研究予算を有効に活用する視点からみても,生産的とはいえない場合も存在すると考えている。


6一方,たとえば ,米国 National Institute of Health (NIH) で開発中の Ca (GCaMP)遺伝子導入研究は,少数のマーモセットにそれがたまたま発現したとしても,それを利用して脳の神経活動をとらえうる意義深いモデルと考えた。しかし,それには Ca++  が 単に末梢臓器に発現しただけではなく,脳に発現することが条件となるが,この点はどうなのであろうか。


7マーモセットを用いた疾患妥当性の高い前臨床研究については,神経毒投与パーキンソン病モデル,脊髄損傷モデルなどについての報告があった。多くの精神疾患モデルについては,より妥当性の高い実用性モデルへの構築が試みられていた。また,安全性試験領域のマーモセット利用も報告されていた(ex. 視覚毒性,聴覚毒性なども含めて)。このような領域こそ,今後の利用きな期待が寄せられると考えた。

 


5.5.  SfN 参加体験から読み解く

学会活動の重要性とその先に

存在するゴール


学会参加の重要性とその先のゴール

研究者にとっての学会参加は,極めて重要である。その理由は,自身の研究発表に対する反応や批判を謙虚に受け止め,自身の研究を向上させることができるからである。また,そこでの他人の研究発表については,その内容を理解把握したうえで,その問題点をとらえて,それを相手に丁寧に指摘する技術の習得もできる。それによって,自身の研究発表での表現力向上に役立つ場合があるし,その学会全体の学問的水準向上にわずかでも貢献できるかもしれない。


わが国の学会によっては,歴史と伝統ある日本社会に存在していることから,相手の研究発表の問題点を率直に切り込む文化が薄い場合もあるようにも感じてきた。米国の学会では,手厳しく問題点を指摘し,批判することが普通であった。もちろん,相手の自尊心まで傷つけてはいけない。しかし,深い切り込みによる本質的議論をする文化的背景があってこそ,科学研究は発展すると考えている。


上記理由により,学会参加や学会活動は極めて重要と考えるが,これらの位置付けは,それ自体にはないと考えるに至った。すなわち,研究の最終ゴールは,自身の実施した研究を論文のかたちにまとめ上げ,公表することにあると思う。多くの歴史上に残る研究成果は,学会で素晴らしい発表をしたことにではなく,論文のかたちで公表してあるからに他ならない。ガリレオ,ニュートン,メンデルなどの研究成果は,すべて論文のかたちに残されたものだと思っている。学術出版社の Elsevier社 の前身などは,何世紀も前に,歴史に残る研究を出版してきた。個人の研究内容がたとえ小さな断片であったとしても,研究を論文にまとめ上げることが,研究の最終ゴールと考えている。



学会参加の個人的体験

著者は,Society for Neuroscience (SfN) の学術年会に毎年参加するようになって,学会参加や学会での発表に,どのような意味が存在するのかについて,深く考えるようになった。SfN の内容については,上記の 「5.1. SfN について」 に述べた。


著者は,研究者としての駆け出しの頃,国内にある二つの学会の会員となり,そこでの学会参加や発表などの経験をすることができた。それら学会によって,自身は随分と育ててもらったと考えている。


日本薬理学会:その二つの学会の一つは,日本薬理学会である。本学会は,1927年創立で,現在の会員数は,3,800名である。その活動としては,日本薬理学雑誌(和文/年6回)とJournal of Pharmacological Sciences(英文/年12回)の出版がある。一方,学術集会としては,年1回の学術年会(総会)と地方部会がある。この部会には,北部会,関東部会,近畿部会,西南部会があり,それぞれが,春と秋に2回学術集会を開催している。


薬理学会は,薬理学教室をもつ,全国の大学の教室やその他の研究機関からの参加や活動がある。大学薬理学教室には,医学部薬理,薬学部薬理,歯学部薬理,獣医学部薬理あるいは毒性薬理などがある。薬理学会の年会及び地方部会は,主として,これらの教室の教授が会長となって,たびたび開催されてきた。


上記の大学や研究機関などとは別に,製薬企業の創薬に携わる研究所などからの会員参加も極めて多い。製薬企業の研究者は,基礎研究以外には,実際に自分たちで得た立派な研究成果も,大学ほど自由には学会発表できない場合があるようだ。学会は,情報収集のチャンスととらえて活用している場合もあると聞いている。しかし,薬理学会としては,製薬企業の積極的参加なしには,運営が難しく,学会の役員や委員などには,製薬企業の研究者の積極的参加が増えるようになった。


この学会において,年1回の学術年会と春秋の年2回の地方部会には,参加する自由も,参加しない自由も存在する。しかし,会長から,それぞれの薬理学教室に対して発表と参加を求められるとすると,学会発表の準備に忙しく,論文をまとめ上げる時間が制限される場合もあるかと思う。歴史的には,このような多数回の学会は,わが国の薬理学水準を向上させるために,役だったであろう。しかしながら,現在は,他にも様々な学会があり,学会参加に振り回されるのは研究者にとって,本意ではないと考える様になった。著者は,随分と前に,年1回の学術年会の他に,年2回の地方部会は,多すぎないかと私的に述べたことがある。これに対して,学会の会長になりたい人が多く,したがって学会の会長になれるチャンスは,多い方が良いとの話を聞いたことがある。学会が,参加者のために存在するのではなく,学会開催者側の論理で運営されていることにびっくりしたことがある。現在は,この状況はすっかりと変わってきたと思う。学会は,参加者の学問的,知的,実利的ニーズを充足させてこそのものであり,研究レベルの向上を最重要課題としなければ存続できないと考えてきた。一方,学会は,若い会員たちの教育の場という役割が重要といえよう。そこで,教育の場が多数あって何がわるいのかという議論もあろう。しかし,若い会員には,もし研究をするのであれば,学会参加発表で忙殺されるより,それぞれが実施した研究の内容を論文にまとめあげて,学術誌に公表することの重要性も指導した方が良いように感じてきた。もちろん学位論文審査などは,国際学術誌での論文公表が条件とされている場合が多いので,そのような流れはすでに存在しているとは思う。


日本神経精神薬理学会: 著者が参加していたもう一つの国内学会は,日本神経精神薬理学会である。先の日本薬理学会は,著者が参加し始めた頃には,すでに学会として立派に成熟した組織となっていた。これに反して,ここで述べる日本神経精神薬理学会は,その会の誕生から,青年期,そして壮年期に至るまでを会員として見届けてきた。すなわち,その過程の中で,本学会は,最初は精神薬理談話会,精神薬理研究会,そして現在の日本神経精神薬理学会となった。


この会は,1971年に第1回精神薬理談話会が開催された。設⽴のきっかけとなった当時の状況として,抗結核薬イプロナイアジッドがうつ病に,抗ヒスタミン薬として開発されたクロルプロマジンが統合失調症に,また染料を⽬的とした化合物創出過程からのクロルジアゼポキサイドが不安神経症に,それぞれ臨床適⽤されたことが挙げられる。当時の精神科医たちは,上記の治療薬とそれぞれをベースにして新しく開発された誘導体の開発導入により,精神疾患治療に大きな期待と夢を馳せていたと思う。また,製薬企業においても,身体疾患に関する研究がメインであった段階から,中枢神経薬開発研究にも弾みがついてきた。そこで,中枢神経薬理学領域には,電気⽣理学,⽣化学,⾏動科学などの知⾒や技術が導⼊されはじめた。このような状況にあって,本学会には当初から精神科医,中枢神経に関する基礎研究者,製薬企業の創薬開発に携わる研究者などの参加があり,そこには熱気あふれた新たな融合が生まれ,これが本学会創設ならびに運営の中核的コンセプトとなった。この学会の歴史については,著者がすでに「JSNP(日本神経精神薬理学会)の50年を思う」という特集の中に,「日本神経精神薬理学会:どこから,どこへ」に記載した  (下記URL参照)。


日本神経精神薬理学会は,奇しくも,北米神経科学会(SfN) と同じ年齢であり,それぞれの第1回集会は,1971年であった。現在の日本神経精神薬理学会は,会員数 1,800名で,年1回の学術集会があり,オープンアクセス機関紙 Neuropsychopharmacology Reports (NPPR)を発行している。


当初は,数十名程度の参加に過ぎなかった学術集会も,現在は多数の参加者からなる集会を毎年開催している。近年,この集会も,他の類似の学会との共催でおこなうことが多く,参加者数としては活況を呈しているようである。しかし,他学会との共同開催により,当学会の発足時のコンセプトが,だんだんと薄まってゆくのではないかとも感じている。学術集会は多人数参加により,大きく会を開催しなければならないという原則はないと思っている。大規模な学術集会は,SfN のような国際学会にまかせておけばよく,それよりは,学会の発足のコンセプトとなった神経精神疾患に関する臨床,基礎,医薬品開発の研究融合を中核にすえた活動が重要と考えている。多人数の参加を企図するために,学会名が類似の他学会との合同開催を繰り返してゆくと,当学会の本来の固有コンセプトが希薄になるかもしれない。一方,学会は,それぞれの時代に適合したかたちで,発展するわけだから,どのようなかたちであれ,学会の在り方の変遷は,一つの歴史的事実と捉えてゆくことも必要であろう。しかし,学会が創設されるに至った中核的コンセプトと参加者の学問的,知的,実利的ニーズを優先させるかたちをとらなければ,どのような学会組織も,さらなる発展は難しいと考えている。



国内学会と北米神経科学会(SfN)

国内学会には,それぞれ特徴があり,なにより日本国内での開催という時間的,経費的,言語的利点などが存在する。一方,SfNなどの国際学会参加は,国内の場合に比べて,参加費,抄録掲載料,宿泊費,渡航費などに高額な費用がかかる。為替変動による円安で近年は特にこのことが大きな問題となってきた。


しかし,SfNには,国内学会参加では得られない大きなメリットが存在する。その一つは,世界最大規模にして,世界最先端の研究とそれを実施している研究者に直接触れることができる。このようなことは,研究者が,自身の研究を発展させる上で極めて重要である。世界規模でみると,自分と同じような学問的興味を持ち,同じような研究を実施している人たちの存在に気付かされ,それらの人たちとの会話は,極めて有意義である。


また,国内学会では見られない斬新な学術集会運営のノウハウを目の当たりにして,学術集会とはいかにあるべきかを学ぶことができる。国内学会では,毎年参加すると親しい人間関係のネットワークが形成され,これは共同研究や就業などに役立つ場合もある。海外の学会参加でも,共同研究や留学などのためのコンタクトの機会はあるとは思うが,国内学会で築き上げるほどの濃密にして長続きする人間関係は,一般的には容易ではないと思う。学会運営のノウハウについては,SfN の膨大な参加者や発表や交流をデジタルシステムで管理するノウハウなどに眼を見張るところがある。また,参加者が,その学会で名を売ろうとしても,トップクラスの研究者はともかく,通常は,国内学会ほどには成功はしない。著者の留学先の米国の大学教授たちは,学会活動そのものには,あまり関心はなく,学会の役員などは,早々と若い世代にゆずっていた。それよりは,自身の研究活動をもっと発展させたり,学会などよりは,もっと大きな影響力を持つ NIH (National Institute of Health) 組織内機関などで,研究者に研究資金を配分したり,大統領の諮問に応えて国の行政を大きく変えることのできる Director などの地位就任に野心を燃やしているケースをみてきた。



学会参加の先に存在するゴール

世界最大規模にして最先端の研究が発表される SfN への参加は,国内の学術集会参加では得られない利点が多く存在すると述べた。しかしながら,学会参加や学会発表は,研究者にとっての最終ゴールではない。あくまで学会活動をとおして,自身の研究を高め,論文のかたちで自身の研究をまとめ上げることこそ重要であろう。そのような意味において,学会参加活動は,論文発表に繋げる一つのステップであるという考え方も存在すると思う。


その理由として,世界中の研究成果は,何世紀にもわたり,公表された論文として蓄積されたいわば知の宝庫に蓄えられている。これは,人類が築き上げたピラミッドに喩えることができよう。このピラミッドは,これからも時代とともにさらに巨大となっていく。人類は,このピラミッドのなかにある優れた科学研究の知見からずいぶんと災厄と同時に恩恵も受けてきた。すべての論文に価値があるとは限らないが,そのような集積としてのピラミッドが存在すること自体に重要な意味がある。自身の研究は,そのようなピラミッドのほんの一つのブロックの破片のようなものだとしても,確実にそのピラミッドの一部ではある。


なぜなら,現代のネットワーク技術により,それらのピラミッドの中にある知の財産を如何様にでも検索できるからである。自身の研究がほんの断片であっても,PubMed などで確実に検索でき,決して自身の研究の存在自体はゼロではない。その存在は証明されており,微小ではあっても,ピラミッドの一部分を構成していることがわかる。この巨大ピラミッドの一部を構成することが,論文公表であり,それが,すべての研究のゴールといえる。特に,SfNのような国際的,先端的かつ巨大な集会に参加し,研究を発表すると,そのように強く感じるようになった。SfN での発表そのものは,極端な言い方をすれば,その場限りのものであると感じざるを得ない。論文公表こそが,研究のゴールなのである。


以上により,繰り返しとなるが,研究のゴールは,論文公表にある。自戒の念を込めて述べると,人手とコストを費やした研究成果が,論文にまとめられることなく,学会発表のみで終わってしまうのは,研究者自身にとっても,社会的にも大きな損失と考えている。それぞれの研究が,どんなに些細な研究であっても,研究を実施した以上は,論文公表が必須と思う。学会参加や学会発表は,論文をまとめ上げるための重要なプロセスのひとつととらえることができる。



追加ノート 1


SfN研究報告中の特定トピックス

についての鳥瞰的考察


2,000年代のSfN において,多くの興味深い研究課題が存在した。この中から,マーモセットの遺伝子改変技術導入と,iPs細胞 (induced Pluripotent stem cell) などから誘導した神経移植に関する研究に着目して,考察したい。


著者の主たる研究課題は,前臨床医学研究であり,上記の課題については,その専門ではない。しかし,著者は,自身の視点からみて,これらの研究が軌道に乗り,発展することを真に願っている。このことを前提に,著者は専門外であるにもかかわらず,鳥瞰的視点に立った率直なコメントを述べたいと考えた。

 



マーモセットの遺伝子改変

モデル作成への期待


実験動物遺伝子改変の経緯

実験動物への遺伝子改変技術導入の歴史は,マウスにおいて永い。一方において,より高次な脳を持つサル類での遺伝子改変技術導入も期待されていた。実際,マカク属サルにも,ヒトの神経疾患(例:Huntington’s disease)の遺伝子 huntingtin 改変などがなされた。しかし,1匹のマカク属雌ザルの産仔数は,生涯にわたり多くて数匹程度である。これでは,遺伝子導入による神経疾患モデルが作成されたとしても,それが継世代的に引き継がれ,当該モデルサルの実験動物としての生産体制構築に至る道は容易ではない。学術的意義がある論文として注目された研究も,その後,多くの研究者が,そのモデルサルを利用して神経疾患に関する研究を展開するには幾多のハードルが存在するであろう。これらの研究には,基礎的学術的意義は,それ自身として存在する。しかし,前臨床医学研究の視点からみると,さらにその基礎を踏まえた応用的なひろがりについての課題を解決しなければならない。


一方,小型サル類のコモンマーモセットは,マウス並とはいかなくても,サル類としては極めて多産である。すなわち,1匹の雌マーモセットは,生後2年で性成熟し,年に2回出産し,1度に2ないし3匹の仔を出産する。その結果,1匹の雌マーモセットの 10年にわたる生涯産仔数は,計算上おおよそ 40匹にもなる。そこで,このようなマーモセットの遺伝子改変には大きな期待が寄せられた。これまでに,遺伝子改変マウスのさまざまな技術の蓄積がマーモセットにも応用されると同時に,この小型サル固有の問題に直面しながらも,マーモセットの遺伝子改変技術が蓄積されていった。その結果として,現在,いくつかの神経精神疾患などに関するマーモセットでの遺伝子改変の試みもなされている。



遺伝子改変のゴール

研究のターゲットを,どう定めるかについては,それぞれの研究者が専門とする疾患の遺伝子をマーモセットに導入したいと考えるのは自然であろう。しかし,遺伝子導入/改変の結果,そのマーモセットが,その疾患に関する有用な研究モデルにまで高められるかが重要な課題として存在する。


ヒト疾患遺伝子改変モデル作成研究に関する全体的かつ統合的ステップを以下に整理してみた。

a)   目的とした遺伝子導入/改変の確認。

b)   それにより,ヒト疾患の病態のある部分に類似した特性発現の確認。

c)   このモデルを利用して,ヒトでの病態についての解明,あるいは薬物などの治療効果検出についての有用性の存在確認。

d)   このモデル動物が,実験動物としての生産ラインに乗り,多くの研究者が必要な時に,そのモデルを利用できる体制の確立。


実験動物中央研究所の創設者であった故野村達次初代所長は,医学研究のための実験動物開発という地味な,しかし根源的な基盤技術確立に一生を捧げた研究者であった。彼は,いち早く,ヒト疾患遺伝子導入/改変マウスの研究を実施したが,彼の視点は多くの研究者とは異なっていた。それは,医学研究において,真に有用な遺伝子改変動物を作成し,その動物を生産ラインにまで乗せて,多くの研究者がその動物を利用できる研究体制を仕上げることにあった。この流れに乗った具体例は,ヒト癌遺伝子導入rasH2マウス、ヒトPolio virus 受容体遺伝子導入マウス、免疫不全NOGマウスなどが,彼の成果業績として挙げられる。これらは,それぞれ新規薬物の発がん性試験,ヒトのための Polio virus ワクチンの弱毒化試験,免疫に関する研究などで,現在多くの研究者が,これらを実際に利用している。


野村博士は,遺伝子導入改変動物は,最終的に,それが医学研究に貢献しなければならないという視点にこだわり続け,上記はその努力の成果であったといえる。これは,遺伝子改変動物が,例えば,脳の仕組みなどを解明するための基礎的分野にも貢献するという別の研究視点を否定するものではない。通常の研究の流れとしては,研究者は,遺伝子改変動物を作成し,その成果を著名な論文に掲載する。これを生産ラインにのせるのは業者の役割であり,研究者の仕事ではないと考えたとしても,それは,それぞれの研究者が置かれた立場に基づく見解といえよう。しかし,莫大な研究費が投入され,遺伝子改変動物作成の論文が公表され,学問あるいは研究の成果として脚光を浴びた場合には,10年後にも,その成果がさらに発展し続けることが社会的にも希求されている。



マーモセットの遺伝子改変研究に求められるもの

マーモセットの遺伝子改変研究には,マウスのそれよりはるかに多くのリソースと高額な研究費が使用される。そのためには,どのような遺伝子改変モデルを作成するかについて,焦点を絞った研究体制の構築が重要と考える。これまでは,マーモセットの当該課題について,様々な可能性について自由に検討され,当該情報が集約整理されてきた。このような過程は,ものごとの発展には必要と考える。そこで,これからは,これまでの探索的研究データ蓄積の上に立って,有用性の高い,また意義あるマーモセット遺伝子改変モデル開発に向けた戦略的展開が求められよう。


著者は,永年,齧歯類,マカク属サル類,マーモセットを用いて,神経行動解析研究と前臨床医学研究を実施してきた。それぞれの実験動物には,それぞれに適した動物モデルが存在することを実感すると同時に,そもそもヒトの疾患モデル構築が,現段階において実験動物では困難な場合も存在すると感じてきた。とくに,ヒトに固有の精神疾患などに関しては,そのことが該当すると感じている。たとえば,ヒトでの幻覚妄想を中核症状とする統合失調症をどうやって動物で再現し,検出できるであろうか? また,言語をベースとした人間社会という枠組みの中でとらえられうる自閉症,コミュニケーション障害などを,どうやってマーモセットの遺伝子改変で再現できるであろうか? また,ヒト自閉症に関連する遺伝子などと言われているものが,たとえば,他の神経疾患のハンチントン病の遺伝子などのように明確に疾患を規定しているものとして存在証明されているのであろうか? さらに,遺伝子が仮にも,そこで規定されていたとしても,マーモセットの行動上にどのようなかたちで,症候が発現され,それが検出されうるであろうか?現在の一般症候観察,運動量,認知機能テストなどから検出されるものは,標的としているヒトでの精神疾患の特性とは隔たりがありすぎると考えている。マウスに比較してサル類マーモセットの脳はより高次であるということを単純かつ安易に引き合いに出して,マーモセットでの挑戦を正当化できるものであろうか?ヒトの疾患に関する実験動物を用いた研究には,それがたとえサル類であっても,無条件で成果が期待されるわけではないと思う。もちろん,研究は,他人がやっていないことや無理だと言われていることに挑戦してこそのものである。しかし,それには,これまでの学問的蓄積についての十分な精査と実験動物の効用と限界についての明確な把握が必要となる。その上で,これらを踏まえた的確な方向づけと綿密な実験計画が必要と考える。それは,研究に投入されるリソースの有効利用が,社会的かつ現実的に極めて重要というのが,その理由となる。しかし,さらに踏み込んで述べると,的をえた研究を継続的に遂行実施することは,その研究者が生涯にわたり,職業としての研究を継続できるかどうかにもかかわってくると思う。 しかし,もし研究を,すでに選択している場合には,当初の成果が出せなくても,研究のプロセスを論文にまとめて,他の研究者の参考となるようにして,そこでの学問知識の蓄積に貢献する必要があろう。マーモセットを利用した研究の成果と同時にその限界についても丹念に記載した論文公表には意義があると考える。すなわち,マーモセットの効用と限界を研究者間で共有することが重要となる。ここで別の視点から,さらに強調させてもらうとすれば,研究者にとって,公正な審査のある論文での公表は必須であり,学会発表は,たとえそれが国際学会であろうとも,あくまでも経過報告でしかないと考えている。



パーキンソン病 遺伝子導入によるマーモセットモデル確立の重要性

本 WEBサイトの他のページで詳しく述べた神経毒MPTP投与によるパーキンソン病 (PD) モデルは,ヒトでの疾患妥当性の極めて高い有用なモデルであると述べた。また,ここでのマーモセットの利用は,このサルの特性をフルに発揮させたモデルであり,より大型のマカク属サル以上の有用性が存在すると考えている。決して,大型サル類の代用としての小型サル マーモセットの位置付けではない。また,当該PDマーモセットモデルは,実験動物を用いた多くの神経精神疾患モデルを見渡した中でも,ヒト疾患との抜群の妥当性と前臨床レベルでの有用性を示すことを述べてきた。それは,運動機能というサル類とヒトとの間にある生理学的共通性の高い機能に関する障害を標的にしているからである。これが,幻覚妄想や社会的コミュニケーション欠如などのようなより複雑なヒトに固有の機能を研究標的にしたサル類モデルの場合とは異なっている点である。研究を進める上では,ヒトと実験動物との間の高い類似性を取っ掛かりとした順路を踏まえることが,一つの考え方であろう。


しかし,この神経毒MPTP投与マーモセットモデルには,投与から日が経つにつれて,その症候に自然回復が起こる。ヒトでのこの神経疾患は,症候が進行性に増悪することが特徴なので,このような自然回復は,PDモデルとしての実験動物の一つの限界と考えている。先に,この マーモセットPDモデルが,抜群の疾患モデルと述べても,これには弱点が存在している。ここに,より疾患妥当性の高い遺伝子改変を踏まえた動物モデル確立が希求されている理由が存在する。


そこで,ヒトPDに関連すると考えられている遺伝子 (たとえば,α-synuclein, parkin, LRRK2など) を導入したマーモセット,実験動物PDモデルとしての大きな期待が寄せられる。この遺伝子改変モデルは,現在様々な基礎的研究がなされていると思うが,最終的にはPD遺伝子改変マーモセットは,生産ラインに乗り,多くのPD研究者が,この遺伝子改変モデルマーモセットを利用できる様になることがひとつのゴールといえる。


確かに,PD遺伝子をマーモセットに導入して,その遺伝子をもった仔の産出は可能でも,第二世代以降への継続において,生殖生理上の幾多の困難も存在すると素人ながら推察する。しかし,これらの困難を一つの課題として論文のかたちで公表されれば,世界の研究者がそれをこえる解決策を競って見出すかもしれない。段階ごとの成果が逐一論文の形で公表されることが極めて重要な理由である。いずれにせよ,マーモセットの遺伝子改変モデルが生産ラインにまで高められ,多くの研究者がそれを利用して,PD 研究にはずみがつくことを願っている。神経精神疾患を実験動物で研究することの困難は山ほど存在する。しかし,そのなかで臨床妥当性と高い有用性に関して,取り掛かりとしての最適なターゲットは,まずはマーモセットの遺伝子改変 PD モデルを生産ラインにまで確立することと考えている。著者は,故野村達次博士なら,その様に強く考えるだろうという自分の勝手な思い込みを述べたい衝動を抑えることができない。まずは,手がかりとして遺伝子改変PDモデルマーモセットを生産ラインに乗せ,多くの研究者がそれを利用して,その有用性が認められれば,マーモセットの他の神経精神疾患モデル開発研究にも,波及効果が起こり,この領域には,さらなる弾みがつくであろうと考えている。







実験動物への神経細胞移植について


 In vitro 神経は,移植先の in vivo 組織で期待される神経活動を発揮できるものなのか

神経というものは,その組織で永年にわたりシナプスを介して神経同士がネットワークを作り,互いに連携して,そこで果たすべき役割を果たしているといえる。最初は未熟だった神経が徐々に他の神経と連携をとりながら,やがて全体として合目的に活動するに至るであろう。行動的に学習と呼ばれるプロセスがあるが,その背景には神経のこのようなシナプスを介した連携形成があり,これをこそ神経の学習と呼んでも良いのではないかと考えている。


iPs (induced Pluripotent stem cell) や Es (Embryonic stem cell) 由来の神経を in vitro で見事に完成させても,それを組織に単に移植しても,以前から存在している残された神経とどう連携して,その部位における本来の役割をどう発揮できるのだろうか? 再生医療においては,様々な臓器組織への移植が考えられている。ことのほか,脳や神経系への移植において,その組織内での他の神経との連携や本来そこで期待される神経の機能発現がどうして起こるのだろうかと考え続けてきた。


再生医療の専門家ではないので,十分かつ適切な説明ができないのが口惜しいところであるが,次に極めて大まかにして乱暴な表現での例を記載してみた。サッカーの試合で,AチームとBチームで試合をしていると考える。Aチームの選手にのみ怪我で多数退場せざるを得なくなった場合を考えてみよう。通常は,ひごろから同じチームで練習を積んでいる控えの選手で埋め合わせをするであろう。これでゲームは,引き続き順調に進行してゆくと思う。


しかし,そうではなく,Aチームに未熟なサッカー選手で代用したらどうなるであろうか。試合をしている間に当該チーム内での連携を素早く飲み込み,試合中にどんどん上手にプレーできるように学習してゆくものだろうか?あるいは,現実にはあり得ない想定ではあるが,サッカー選手がいないので,マラソン選手で代用したらどうなるであろうか。さらには,人数合わせで体操選手で代用したらどうであろう。これらのひとたちは,サッカーの試合が再開されるまでは,いずれも立派な体格であり,おそらく Aチーム内の他のサッカー選手と区別がつかず,観衆は大きな期待を持つであろう。もっといえば,運動をやったことがない人を員数あわせで投入したらどうなるだろうか。この人たちも,体格こそ貧弱であったとしても,サッカー選手たちと同じ立派な人間である。いずれにせよ,サッカー選手としては未熟な人たちは,試合経過の中でサッカー選手並みのプレーを A チーム内で学習してゆくものだろうか。おそらくは,ゲームプレーはたちまち成り立たなくなるであろう。


現在 in vitro で作成された iPs や Es 由来の神経細胞は, in vivo 移植後には,上記の例でいうとどの位置付けに相当するものだろうか?  この例は,単なる思考実験であり,サッカーのルール上あり得ないことや細かい現実的問題点は差し置いてほしい。しかし,脳の中では, もとから存在する残された神経細胞と移植された細胞の混合群にみたてた A チームが,生体の内部環境や外部環境の状態変化にみたてた Bチームと常に激しくリアルタイムで相互作用をもちながら,果敢に闘っていると言えよう。


このように,iPs やEs などから誘導して in vitro で作成された立派な神経細胞も脳内の所定の部位に移植しても,それが僅かに残された in vivo 神経とうまく連携して機能を果たすものであろうか。多分,移植された神経は,その所定の部位でどう振りまったら良いのか戸惑うであろう。もともとあった神経は,所定の部位で永い年月をかけて周囲の神経と,その部位での役割を学習してきたと思われる。疾患のある生体の臓器の所定の部位に,単に細胞を移植しても,何か月後には,その場所に馴染み,役割を果たすことができるのであろうか? もし,そうであるなら,役割を果たすまでのプロセスはどのようなものなのか? 以上は,細胞移植の研究に経験のないものの素朴な感じ方なので,移植の専門家には,上記の様な側面に関して,分かりやすく啓蒙的な解説をしていただければ,有難いと日頃考えてきた。


今回の疑問は,再生医療研究そのものについての疑念を示すものではない。それどころか,日夜,高度な知識と技術を駆使して研究に携わっている研究者には,畏敬の念を感じてきた。そして,再生医療に明るい道筋がつけられることを真に願っている。いままで治療法がないとされていた神経精神疾患に明るい光がもたらされることは,患者とその家族にとって,その人生において最重要課題の一つであろう。一方で,このような患者に,過剰な期待やぬか喜びを与えてはいけないと思っているだけである。