トークサロン

第17回トークサロン

スピーカー、山田晃平さん(昭和44年法学部卒)不動産鑑定士

テーマ、「不動産の評価と相続」

令和6年(2024年)6月26日(水)正午から「トークサロン」をレンブラントホテル厚木の1階中華レストラン「トルファン」にて開催しました。

今回参加者は、スピーカー含め11名でした。

山田さんは、日本で2番目に古い不動産会社東京建物出身の不動産鑑定士です。

サラリーマン生活47年のうち、30年間を不動産評価業務に従事されたベテラン鑑定士です。

まず、鑑定評価制度成立の背景の説明があり、昭和30年代の高度成長により、地価高騰や公共用地の取得難など問題があり、合理的な土地価格を形成する必要から昭和39年「不動産の鑑定評価に関する法律」ができ、制度の担い手として不動産鑑定士制度も発足したとのこと。

次に、公的評価価格が、4種類(公示価格、基準地価格、相続税路線価、固定資産税評価額)ある事の説明があり、それぞれ目的が違い、価格時点や価格水準も違うと説明があった。

また、不動産鑑定評価では、不動産評価の3手法(取引事例比較法、原価法、収益還元法)の説明があり、従来は取引事例比較法が重視されていたが、近年は賃貸不動産や企業用不動産には収益還元法(DCF法)が重要視されているとのこと。

次に、相続の話に移り、相続財産に占める割合が不動産の比率が高い(40%)との説明の後、相続不動産の評価の話があった。

土地は、市街地では相続税路線価が、路線価がない郊外などでは固定資産税に倍率をかけ

た価格が採用され、面積をかけて評価額を積算し、そこから借地権や借家権、小規模宅地等の特例等により減額計算するとのこと。

建物は、固定資産税評価額によるとのこと。

さらに、相続税を概算で把握するためのチエックシートをいただきました。概算の相続税が簡単に計算できますね。

次に、相続税を把握するために重要な、各種控除額の説明がありました。

内容としては、配偶者には1億6千万円という高額な税額軽減がある事の説明がありました。

また、最近の動きとして、令和元年の民法改正により、残された配偶者が家に引き続き居住可能な配偶者居住権が創設されたとのこと。

続いて、相続対策の概要の説明があり、現金で保有するのは不利で、評価額が減額される不動産に換え運用することが有効との説明があった。また、生前贈与や生命保険の活用などの対策の紹介があった。

最後に、質疑応答に移った。

郊外の広大な土地の相続に困っており物納できるかとの問いには、現在は市場性のない土地についてはほぼ物納は困難との話があった。

また、公示地が近所にあるが、対象地選定に謝礼などあるのかとの問いには、全くそのような配慮はなく、行政で任意に選定したものとのこと。

また、日本には不動産についてアメリカのように体系的に学べる大手の大学がないとの問いには、大学はまだ少ないが明海大学に不動産学部があり、また早稲田大学では不動産鑑定士会稲門会の協力により「不動産鑑定評価」の支援講座を設けており、部分的ではあるが学ぶ機会を確保しているとのこと。

全体を振り返ると、私の印象としては、盛りだくさんのレジュメを基に解説いただき、フルコースの料理を頂いたような感想を持ったと同時に、山田さんの事例を交えたわかりやすい解説が光りました。

また、話の中で鑑定士の数は約1万人とのこと。調べたところなんと弁護士は4万人

いるとのことで、鑑定士さんの資格が大変レアで重要な資格であることがわかりました。

 

(昭和53年法学部卒  榊原和雄)

16回 厚木稲門会『トークサロン』

 

 令和6年(2024年)1月24日(水)正午から「トークサロン」をレンブラントホテル厚木の中華レストラン「トルファン」にて開催しました。

  参加者は16人。 

スピーカー: 鈴木清一さん (S37年 理工)

テーマ  : 『経済不況真っただ中で新市街づくり』

~殆ど技術畑で過ごしてきた私が、退職と同時に全く先の視えない「厚木市林土地区画整理組合」の理事長に、畑違いの就任、設立時の事業計画のおおらかさ(?)に呆れ、開き直り事業完成に努めた。今でも「お蔭様で」と感謝の言葉を頂くと慰めを感じる~


         15回 厚木稲門会『トークサロン』


 3年ぶりの「トークサロン」が、令和年7月6日(木)12:00からレンブラントホテル厚木の1階中華レストラン「トルファン」にて開催された。

 参加者は17人。

 

    スピーカー:吉成征一さん(S35年 文・前会長)

     テーマ :『厚木稲門会小史』

       ~厚木稲門会は昭和51年に発足し、令和5年の今日で47年の歴史を閲したというのが、

        公表されているものである。しかし、古い歴史を見ると、既に昭和33年頃には、

        厚木稲門会「会員名簿」なるものがあり、その間の事情について少し述べてみたい~

 

 厚木稲門会は正式には1976年(昭和51年)に発足。現在に至る迄、47年の歴史を刻んでいる。が、これより以前から厚木高校出身者から成る稲門会がすでにあったということである。

資料として、当時の“会員名簿”の表紙のコピーが紹介された。

裏面には、昭和34年6月6日発行、発行人 厚木稲門会、責任者 浅岡光正とある。この浅岡氏は毎日新聞社の記者で、インド特派員なども経験。(資料としての会員名簿には、斎藤安功、吉成征一・高坂義郎等の名前も)ちなみに、この昭和34年の稲門会設立から数えると、すでに60年もの歳月が経っているとも考えられる。

 さて、昭和51年に正式発足した厚木稲門会、初代会長には作家の和田 傳氏を迎えることとなった。

今回の「トークサロン」開催直前の7月1日に発行された厚木市の広報紙の特集には、奇しくも「作家が見てきた郷土と人」というテーマで、和田氏を取り上げている。今回の「トークサロン」の資料として配布された。

和田氏とその著作については、高校の国語の教師として、豊富な経験をお持ちの吉成さんならではの、詳しい説明を伺うことができた。

和田氏の多くの作品の中で、1937年刊行の「沃土」や、1939年の「大日向村」、1957年の「鰯雲」、1972年の「門と倉」等が作品として良いものであると紹介された。

特に「鰯雲」は成瀬巳喜男監督によって映画化された。監督初のカラー作品であり、

淡島千景、司 葉子、木村 功等の往時の著名な俳優が出演している。私もかって二度ほど見ているが、当時(1958年)の厚木の町の様子や、恩名周辺の田園風景等懐かしい映像と共に、小規模自作農へと徐々に没落していく旧地主の姿が記憶に残っている。 

 

 又、当日話はされなかったが、目次にある「神奈川県支部大会 開催状況・予定」については、つぎのようである。

厚木稲門会が主管となっているのは、1996年(平成8年)瀬戸俊孝会長、2007年(平成19年)大橋賢三郎会長、2019年(令和元年)吉成征一会長と三回を数えている。県支部大会については、いずれの時も、稲門会の総力をあげて準備をし、その都度、無事に遂行できたように思う。

特に、令和元年の大会については、記憶に新しく、吉成会長のお心遣いはさぞや大変であったであろうと、改めて思う。

 

 さて、トークの最後には、新聞の切り抜きと、県教委の資料等が示され、長年にわたり、県立高校の教育に携わってこられた立場からの課題が示された。

久しい間、現在の神奈川県の公立高校の状況等、考えることもなく過ぎていたが、提示された資料を見て、「こんな状況になっているの・・・」と、いささか驚かされた。

公立高校に昔のような学区制がなくなり、県内のどの高校にも入学出来るようになっているので、私立高校を含め大学合格率が高いどの高校に入るかという“高校受験の過熱化”が起きているという。

 

ところで吉成さんが厚木高校在任中、女優の名取裕子が生徒として在籍していたということで、同世代の女性から、当時の彼女についての質問があったが、「頭がよくて、軟式テニス部でテニスを楽しんでいた。」とのご返答でした。    

 

そして、大きなニュースは、この地域で厚木高校と共に、旧制女学校として長い伝統を持つ厚木東高校(1906年創立、創立118年)が厚木商業高校と統合されて、来年4月に新たに厚木王子高校としてスタートを切ることである。

“都心の女子高校生の制服と全く同じ制服なのに、どこか違うんだよな~”と、担任が嘆いていたっけ。あかぬけないけれど、素朴なやさしい生徒がいた、かっての厚木東高校、我が母校である。

 

 コロナ禍を経て、社会のあらゆる場に於ける変容、そして、かって経験したことのないような直截的で余裕のない考え方の出現等々、世の中が驚くべき速さで変わっていきつつある今、多くの先輩達によって育まれてきた厚木稲門会の伝統を大切にしていきたいものである。

                         (S41教育 中川匡子)


    

第14回「トークサロン」 

第14回厚木稲門会「トークサロン」は、令和2年1月20日(月)レンブラントホテル厚木の中華レストラン「トルファン」にて開催されました。参加者19名。

                 テーマ:『江戸時代の宿場町・厚木』

    ~審議委員としてかかわった厚木市の文化財。市内には様々なジャンルに

     及ぶ数多くの文化財があります。今回は、江戸時代の厚木を、宿場町と

    いう一面に焦点をあててとらえてみたいと思います。

  ところで、渡辺崋山はどうして厚木を訪れたのでしょう・・・~

スピーカー:中川匡子さん(S41教育)

 

宿場町・厚木は、三川合流地点(花火大会の行われる)のやや南から川沿いに熊野神社あたりまで約2キロにわたり街が賑わっていたと、宿場町の範囲の説明から始まり、厚木は陸路と相模川が相まって宿場町として発展したと話が進んだ。

(配布資料:「厚木村」の画*天保10年「相中留恩記略巻愛甲郡厚木村)

宿場町であるためには街道が通っていなければならないが、厚木には八つとも言われる街道が通っていた。一番有名な街道は矢倉沢往還(現在の国道246号とほぼ重なる)で酒井あたりから足柄までいって、更に駿河の国に入る街道で、相模の国では東海道に次いで大事な道路だった。また、三川合流の手前から西に向かって荻野、半原に出て津久井を通って甲州につながる甲州道や大山道。そして平塚、八王子道など。

街道が多く通っていると人の行き交いが多くなるが、何故人が行き交うかと言えば、そこに売り買いされる物(甲州のたばこ、米、絹、材木など)が多くあったからで、その結果、厚木は宿場町として発展していった。

更に、江戸中期以降には大山詣でが盛んになったことで一層発展し、旅籠が30軒ほど、馬が常時25頭位いたという。


では、この厚木が何処の藩のものであったかというと、下野の国・烏山藩の大久保家の領土であって、「厚木陣屋」(烏山藩の役所)が置かれていた。(厚木神社の北隣に「碑」がある。)

 

更に,相模川が物流の大動脈になり厚木を宿場町として一層発展させた。

高瀬船(浅い川に向いている底が浅い荷物を運ぶ船)が薪や炭などを積んで平塚の須賀や茅ヶ崎の柳島まで運び、そこで廻船問屋の船に積み替えて江戸へ運ばれていた。

高瀬船は南風の時は帆を上げて上流へ航行していたという。須賀からは風が強ければ6時間程で相模原の小倉(城山町)へ着いた。

また、“厚木の渡し”には船が5隻程あって、その“渡し”の権利を持っていた呉服商の溝呂木家や、屋敷の裏に公園のような庭園をもっていたという近江商人の竹村家など多くの豪商がいた。厚木の近江商人は1700年代に厚木に住み始めたようである。(三川合流地点に「厚木の渡し」の碑が建っている。) 

天保2年(1831年)に厚木を訪れた渡辺崋山は、「商家がいっぱい隙間なく建っている」、「一晩で2,000両(約1億5千万円)を用意できるのは厚木の商人位しかいないのではないか」、「厚木の盛んなること都に異ならず」、「家のつくり方が江戸と違うが、男や女の風俗は江戸にそっくり」、「厚木で手に入らないものは多分ない」と宿場町・厚木の繁栄の様子を評している。


ところで、渡辺崋山はどうして厚木を訪れたのだろうか。

崋山は三河の国、田原藩の江戸屋敷で生まれ、厚木を訪れた翌年頃に江戸詰めの家老職に就いた。藩主の後継問題が起こり、藩首脳は苦しい藩財政を打開するため姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとしたが、崋山は藩主の異母弟の擁立を支持した。

そして、その異母弟を生んだ側室が綾瀬の人で当時綾瀬に住んでいた関係で綾瀬を訪れ20年ぶりの再会を果たし、その折に“小江戸”と言われていた厚木に足をのばし旅籠「万年屋」(*厚木神社の前に「渡辺崋山滞留の地」の碑が建っている)に宿泊したということである。

滞在した2泊3日の間に、商人達が集まって三味線や長唄など芸を披露しているのを見て芸達者振りに感心したり、厚木の景色を描いてほしいと頼まれて画を描いたりした。その時描いた画が“厚木六勝”という作品群にまとめられている。(三川合流地点のグラウンドの一角に「厚木六勝」のレプリカがある。近年、原画がハーバード大学美術館に所蔵されていることが明らかになった。)


以上がトークの概要であるが、地元厚木のことでありスピーカーの話を受けて話を膨らませたり、そこからまた新たな話題に広がったり、その間にいろいろと質問が出たりと、文字通りの“トークサロン”となった。

そして、厚木生まれ・厚木育ちの私にとって厚木再発見の多い“トークサロン”でもあった。                               

                                                                                                                                                               (39 政経  二見正春)

第13回 厚木稲門会『トークサロン』

 

令和元年8月5日(月)12:00~14:00

レンブラントホテル厚木 中華レストラン「トルファン」にて開催 参加者15名

 

スピーカー: 内藤誠一さん(S35 理工)

テーマ: 『横浜ベイブリッジの基礎』

~美しい橋「横浜ベイブリッジ」を支えている塔の下には何が?

今は海中に隠れ、その姿形が見えない巨大な基礎構造物と

その構築方法についてトークします~

 

S35年理工学部(土木工学科)を卒業。首都高速道路公団に入団。

S54年~S61年まで8年間“横浜ベイブリッジ”建設に携わる。

前半の4年間は設計課で①ベイブリッジの形の決定 ②基礎の形式の決定 ③基礎の形式を実施するための“新しい掘削機の開発”に、後半の4年間は①現場工事事務所の現場監督(工事全体の遂行責任者) ②地域関係者との渉外全般 を担当されました。

 

橋の形式に関しては、100m以上の長い橋となると三つの形式に限られてくる。1800年代後半からある骨組みだけを組み合わせる「トラス橋」方式はポピュラーだが、ごつくなり恰好が悪い。1900年代初頭より普及した「吊橋」は吊ってある太いケーブルを固定するために大きな重量物(アンカレッジ)が必要となり、大黒埠頭・本牧埠頭が近くにあるので採用はできない。1950年頃にドイツで開発された「斜張橋」は非常にスマートで恰好がいい。反面、他の二つの形式よりコストはかかるが、「斜張橋」形式を採用することに決定した。それまで、橋は税金で建てるので、なるべく安く橋をつくれという風潮があったが、S45年頃より、多少金はかかってもきれいな橋をつくった方がいい、という気運が後押ししてくれた。

 

重たい重量を支える基礎をつくることは、考え方としては非常にシンプル。地中深い所には固い地盤がでてくる。その固い地盤のところに、なるべく広い面積で接するような基礎にしてやれば重たいものは支えられるはず、ということで単純明快。

そして、これを実施するための一般的な工法「ニューマチックケーソン工法」がある。 

しかし、最大の難問は、海中50mまでならその工法でできるが、ベイブリッジの2本ある主塔を支える基礎は、一番深いところで75mの深さに設置する必要がある。そうなると、一般的なニューマチックケーソン工法ではできない。

 

-1-

そこで、直径10m、厚さ1.5mのコンクリートの「筒」を9本(3本x3本(奥行))をつくり、9本の「筒」がバラバラにならず一緒に働くように、厚い版でつなげることにした。これが、べイ・ブリッジの基礎。しかし、巨大な「版」を水の中でどうやってつくるのかということが問題であった。検討の結果、厚い「版」をつつめるようなコンクリートの「函(はこ)」(54mx54mの正方形)を作り、その「函」の中に直径10mの「筒」(9本)を入れて、後で固めて「版」にすることにした。

 

しかし、54mx54mと巨大な「函」を海上ではつくれない。 

では、これをどこでつくるかが大きな問題に。陸上でつくって陸送するわけにはいかない。海岸近くに必要なスペースがあるか。名古屋の方まで八方探していたところ、横浜市港湾局がドッグヤード(函を造る為の施設)の適地を探してきてくれた。余りの嬉しさで、帰宅の電車のなかで、まったく知らない人に「オイ、ドッグが見つかったよ!」と声をかけたくなるくらい嬉しかった、とのこと。いかに重圧になっていたかが窺われた。

 

市が探してくれたドッグヤード内で巨大な函を造り、函が完成したところで、ドッグ内に海水をいれ、函を浮かせる。その後ドッグ海側護岸の一部を撤去して、ドッグ開口部として開口部から函を海へ引き出した。そして函を5隻のタッグボート曳いて現場へ運んだ。

 

同時に、別の場所でつくっておいた9本の「筒」(直径10m、長さ27m、重量3,000トン)をクレーン船で「函」の径(穴)に挿入。その後、海中へ埋め込むことになるが、問題は土の上の方は非常にやわらかいヘドロのようなものなので、そこへ27m、3,000トンの物を入れ、釣り金具を外したら、下にズブズブと沈んでしまうのではないかという心配があった。

そこで、対策として「過沈下防止蓋」を作成。原理は、コップを逆さまにして水中へ入れれば、ズブズブと沈まず、止まってくれるに“違いない”(確率90%)と蓋(コップの底にあたるもの)を筒の上部に付けて、ワイヤーを外したところ、見事に止まってくれた。翌朝、見に行ったらそのまま無事だったので、「実にほっとした。」とのこと。

 

次の難題は、「筒」は75mの長さが必要だったが、クレーン船で吊り上げられるのは3,000トンが限度だったため、陸上でつくるのは27m(3.000トン)として、残りの48mは海上で継ぎ足す作業が必要であった。

過沈下防止蓋にあけておいた1.5mの穴から、土を掘る機械で土を取りだし、コンクリートの「筒」の上に5mずつコンクリートを打ち足して沈めていく作業を繰り返し、一番固い地盤まで沈めることができた。 -2-

ところが、次なる難題は、「筒」を固い地盤にしっかり固定させるために、固い地盤を直径10m掘っていくことであった。真ん中の7m部分は「筒」の中から掘れるが、筒の厚み(1.5m)の下の部分は「筒」の中からは掘れない。しかし、掘って沈めないと「筒」はしっかり固定しない。

ここで、設計課にいたときに、この状態を想定し開発しておいた深い水の中で岩を掘る機械「アーム式水中掘削機」の出番となり、必要な深さ(12m)を掘り進み、固い地盤にしっかり固定することができた。

 

内藤さんは、話の終わりに、改めて振り返ってみると「私はずいぶんラッキーだったと思う。」と感慨深げに言われた。

①  27mの「筒」を陸上で製造中、地震があったら倒れて大変なことになっていたが、地震は起こらなかった。

②  水中掘削機の開発に一緒に携わってくれた若い技術者に恵まれた。

③  横浜市港湾局から、ここを使っていいよとドッグ用地を紹介してもらえたこと。

④  90%の確率で“うまくいくに違いない”と作った過沈下防止蓋が、そのとおりの結果を出してくれたこと。

 

構築過程で考えられる技術的な問題点・課題は事前に全て対策を考え対応していても、

それでも幸運に恵まれたと感謝する気持ちに強い感銘を受けた。本当に苦労した技術屋さんならではの言葉の重みがあった。

 

ベイブリッジに心血を注がれ「このプロジェクトに携われて本当に良かった。」と言われた内藤さんの卒論のテーマが『橋』だったということに、めぐり合わせの妙を感じました。

(S39政経 二見正春)


                                                                      第12回「トークサロン」 

 

                                                                  『公共事業用地買収に携わって』

                                             ~17年間用地買収に携わりましたが、それが、その後の

                                                 私の人生を大きく変えることになりました。

                                                 用地買収の知られざる一面や苦労話などをお話しします~

                                                                スピーカー:榊原和雄さん(S53 法)

  第12回厚木稲門会「トークサロン」は、11月21日(水)レンブラントホテル厚木の

 中華レストラン「トルファン」にて開催されました。参加者14名。

 

 学生のころ、横浜市内の借地に建っていた自宅が地主の都合で立ち退きを要求された両親が対応に苦労していたことをみて、“借地とは何か?”と借地について強い関心をもち勉強をしたとのこと。

 S53年に法学部を卒業し、横浜市役所に入り総務、経理、財政課を経てS59年に管財部に異動。しばらくすると日本経済がバブル期に入り地価が高騰。市が必要としている用地が買えなくなってしまうがどうするか、とういうことが議会の大きな関心事になり議会で質問が急増。仕事の中心があたかも用地対策本部のようになり、その対応に追われる日々が続いた。 

 その後、横浜新道の車線拡幅と保土ヶ谷料金所の設置、長津田他数か所の道路用地や河川拡幅のための用地の買収、スポーツセンター建設用地の買収など大きな案件を担当することになった。当時、“用地買収で御殿が建つ”と言われていて、地主の要求・期待は国の定める基準を大きく上回ることが少なくなく、納得いただき契約にこぎつけるのに常に全力投球。なかなか納得してくれないからと言って、その地主だけ特別有利な対応をすれば、他の地主の知ることにもなるのでそうは出来ない。住み慣れた土地を離れることへの地主の複雑な気持ちもわかるが出来ないことは、「ノー」と言わなければならない辛さ。中には、面会のアポイントをとるだけでも、色々な条件をだされたため1時間以上かかってしまった地主宅へ午前10時に訪問しずっと交渉をつづけ、やっと契約にたどり着いた時は夜の8時になっていた等々、その苦労は並々ならぬものであったことがよくわかった。

 その後の異動で税金の滞納処分(預金、不動産、生命保険等の差し押さえ)の担当となるが、用地買収とは異なる難しいことが多かった。文書で何回も差し押さえになる旨を通知しても先方から何の返事もないのでやむなく預金の差し押さえをしたら、「何で、いきなり差し押さえをするのか!」と大変な剣幕で言ってくるケースもあったとのこと。数千円の少額の滞納でも厳しく差し押さえる税務の仕事と、大きなものでは数億円の買収になる用地買収の仕事の大きな落差などを実感しました。

 そういう様々な案件について最終的に相手に“納得”してもらうために一番大事なことは何かという質問に対し、迷わず、「それは“人間力”だと思っています。」との答えに、色々な体験に裏打ちされた深さと重さを強く感じた。

  榊原さんが長く携わった仕事は、心労で胃の痛くなるような(実際、十二指腸潰瘍に悩まされた時期も)大変なものでしたが、定年退職後の現在も不動産投資に関する仕事をされており、それがライフワークになっているとのこと。学生時代にご自宅の立ち退きの話で“借地”について関心をもってから、市役所で不動産に長く携わり今でも不動産に関わる仕事をされていることに、不動産に縁の深い方だと思った。

 予定のトークが終わった後も出席者から色々と質問が途切れず、皆さんの用地買収に対する関心の強さが窺われた。

                                                                                           (S39政経   二見正春)

                                                              第11回 厚木稲門会「トークサロン」

                       平成30年6月25日(月)12:00~14:00

                            レンブラントホテル厚木の中華レストラン「トルファン」にて開催。参加者15名

                                                       『当世 話しことば事情 風聞録』

                               ~ことばは世につれ変わるもの。ことばは生き物などと言われます。

                          日頃、耳にする話しことばのあれこれを取り上げての雑談的なとりとめのない話?~

                     スピーカー:小林 昭彦さん (S32年 教育 元NHKアナウンサー)

 

私たちの周りをいつも取り囲んでいることば。テレビやラジオから聞こえてくることば。レストランのウエイトレスやコンビニの店員が発することば。駅や電車の中で聞く会話のことば。日常にあふれている沢山のことばについて“ことばの世界に絶対はない”と前置きされてから、特に「違和感を持ったことば」を中心に、事例を豊富に上げながら最近の傾向について話してくださいました。

 ◇違和感を持ったことばの中から

国会中継などを見ていると「記憶してゴザイマス」「深く反省しているトコロでゴザイマス」「お答えサセテイタダキマス」なかには「質問サセテイタダキマス」などなど。

一見、丁寧には聞こえるが、断定や直接的でない間接的な曖昧さや及び腰、或いは責任逃れの印象を受ける言葉遣いには、みな同調して意見を述べたりして話が弾みました。特に「サセテイタダク」は一般市民の間でも流行中で、「読まサセテイタダク」や「見サセテイタダク」。なかには、この春聞いた「素晴らしい桜吹雪に思わずシャッターを押サセテイタダキマシタ」には、そこまで来たかと感嘆しきりでした。

     流行といえば、いま話題の「半端ナイ」も話題になり、例えば「何気ニ、外を見たら半端ナイ美しい夕焼け!」というような中途半端な言い方もあるようです。『何気なく外を見たら半端では(じゃ)ない美しい夕焼け!』と言って欲しいなという小林さんの言葉に一同同感でした。

◇気になることばの数々 (新ホウ言、カラことば、~ニナリマス手品ことば)

「メニューのホウはお決まりですか」「こちらホットミルクにナリマス」「1万円カラお預かりします」などのいわゆるマニュアルことばも気になる言葉の一つですね。

 ◇更には、「断定しない、曖昧なボカシ表現の横行」  (トカ弁・ミタイナ・カンジ弁)

例えば、夜中の地震に驚いて「私ナンカさあ、あっ地震だトカ思って、がばってミタイナカンジで飛び起きタリしちゃったよ」。 或いは「当選すると良いカナと思って申し込んだのに、抽選で外れてしまってチョット残念カナ?というカンジです」という幼子を抱えた若い母親の談話には、そこまで普及?しているかと半ば感心してしまいました。

その他、次々と出てくる例示に参加者一同みな「ある。ある。ホントに”ソダネェー”」と同感しきりでした。

 

話のあとの食事の時に、当日の晴天が話題になり「きょうは旧暦の五月十二日だからこれが本当の五月晴れ(梅雨の晴れ間のサツキバレ)。 鯉のぼりが泳ぐ5月の青空は5月晴れ(ゴガツバレ)。 いやいや「紺碧の空」は一年中(ワセダバレ)だよ!とすっかり「ことば」で盛り上がった楽しいこの日のトークサロンでした。

                                                                                                                                                                  (S52 理工 大貫 玉美) 


 

                                                H29年度下期 「トークサロン」 第2回

                                        『医師より“一年後いないかも” 肺がんから九年』

                   ~肺がん宣告をきっかけに猛勉強。栄養学のこと、

                                                   遺伝子のこと、ひいては老化防止の最新情報まで~

                                         スピーカー:大貫玉美さん(S52 理工)

 

平成29年度下期第2回のトークサロンは、平成30年2月21日(水)、レンブラントホテル厚木内の中華レストラン「トルファン」にて開催されました。参加者17名。

 2008年秋、咳がとまらないので受診したことから、肺癌が見つかり、「一年後いないかも…」と言われる。そこから始まった普通では考えられない闘病記。がん克服をした大貫さんの現在に至るまでの、副題にあるような幅広いお話しでした。

 2008年頃、大貫さんの生活環境は、両親の介護・学研教室の60名ほどの生徒の指導、これらのストレスと更年期障害とで、体調不良に悩まされる日々でした。咳が止まらないことから、近所のかかりつけ医を受信。その結果、東海大学循環器科を紹介され精密検査をしました。結果は、『肺がんで一年後いないかも』とのこと。

それまで更年期症状の改善に役立った健康食品を紹介してくれた方に相談。その方の勧めで、仙台市にお住いの東洋医学研究所の所長さんに会いに行きました。その先生により、一般的な治療方法ではない、特別な方法へと導かれて行きました。

 ①   呼吸法(朝日を浴ながら20分)、②食事療法(玄米菜食・禁肉食・無農薬野菜食・サプリント)③毎日1万歩以上歩くこと ④超微力電流によるケア

 以上を、4か月間続けた(家族全員の協力あり)ところ、ピンポン玉位の大きさの病巣がなくなり、以後手術することなく現在に至っているそうです。大学病院の医師は「あれは何だったのでしょうね」と首をかしげていました。簡単そうに見える上記の療法は、出会った医者との信頼関係がなければ出来ないことですし、その決意を貫くご本人の意思の強さとご主人のサポートの強さに心打たれました。

 大貫さんのこの大きな試練、体験から、元来の探求心が芽生えます。

先ずは、食事療法。それには、栄養学の研究。昔の三大栄養素は時代と共に発展し、今は7大栄養素→活性酸素の無毒化、更には遺伝子理論へと拡大していきます。 

遺伝子理論の発展は、“ヒトゲノム”・“DNA”など聞いたことはあってもなかなか理解できないのですが、世界の研究者の成果など時間を追いながら、図表などを使って詳しくも易しく説明し、現代の研究の中心が「病気の原因・老化の原因を知るにはDNAに向かって追及すること」すなわち、遺伝子の一つ一つを調べ、その働き方を調べることであるとしました。

誰もが持っている病気の遺伝子を、発症する働き方レベルもすでに測定可能になり、発症させない、あるいは治療に有効な方法が明らかになっています。となると、不老長寿も夢でなくなり、150才まで生きていくのも可能かとまで言われているそうです。

老化防止メカニズム(抗酸化保護・解毒作用・etc.)と呼ばれる6項目は、細胞内で相乗的に働き、加齢と共に機能が低下することが明らかになっています。 私たちも日々の暮らしの中でそれらを心に留めながら、健康寿命を延ばしていきましょう! と。

 

ご自身の実体験から、これからの人生を明るいものにする道を語ってくださいました。

科学誌「Newton」の愛読者でもある“リケジョ”ならではの探求心の深さに感銘を受けました。

                                                                                                                                            堀 美知子 (S41 文)

◇H29年度下期第1回(11月16日)の「トークサロン」は講師の都合により

     中止となりました。

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                                                      H29度上期「トークサロン」第2回

                               『日産ゴーン改革と関連会社での事業構造改革に携わって』

~ゴーン改革の流れと、事業構造改革(事業の統廃合、新規市場の開拓)に取り組んで、事業のM&・人事の合理化、中国への新事業展開等、組織を動かす人・遭遇した素晴らしい社員たちとの体験談~

                                                    スピーカー:杉崎文男さん(S43 商)

平成29年度上期第2回厚木稲門会「トークサロン」が、8月2日(水)レンブラントホテル厚木の中華レストラン「トルファン」にて開催されました。

今回のスピーカーは、杉崎文男さん(S43 商)。「日産ゴーン改革と関連会社での事業構造改革に携わって」というテーマで資料を用意され詳しくお話されました。

 

カルロス・ゴーン氏は両親はレバノン人で、ブラジルで誕生。6歳の時、レバノンに移り、17歳までレバノンで教育を受けた後、フランスの大学入学試験(バカロレア)に合格、フランスのエリート中のエリートを養成するエコール・ポリテクニークを首席で卒業し、さらに理科系のグランゼコールパリ国立高等鉱業学校)に入学、多国籍の人材と交流し多言語をマスター。

卒業後、1978年にフランスの大手タイヤメーカーのミシュランに入社し、北米ミシュランでの経営の立て直しの実績が認められ、1996年ルノーのナンバー2(上席副社長)としてルノーへスカウトされる。

 

ゴーン氏は、部門の壁を破るためにクロス・ファンクショナル・チームを立ち上げるとともに、部品の共通化、集中購買、ベルギー工場閉鎖や、当時、欧州で最も生産性の高い日産のサンダーランド工場を目標にしてコスト削減を行う等、手腕を発揮しました。(ここでの経験が日産で生かされる)

一方、日産との提携を見越して、幹部は日本語・日本文化を勉強すべしと提案すると共にパリ日本文化会館の館長(元NHKの欧州総局長であった磯村尚徳氏)から日本文化を学びました。

1999年3月、7年間赤字が続き資金繰りが難しい状況にあった日産はルノーと資本提携を結びました。

ゴーン氏は3月に来日して6月に最高経営責任者(CEO)に就任しましたが、それまでに日産の各層(役員、管理職、一般従業員)と精力的に対話をして、就任挨拶で、日産の強みは、①国際的な知名度に加え、②優れた製造システムがあること ③高い技術力があること ④努力を惜しまず、会社の方針を理解してくれる人々がいる、と語りかけた。そして、日産が前年5月に発表したグローバル事業革新はその方向性は正しいが、1年経過した今、もう一度見直し「日産復活計画」に発展させますと述べ、10月に「日産リバイバルプラン」を発表。その骨子は、①連結営業利益目標4.5%(2002年) ②2000年度までに黒字転換。購買コスト削減目標20% ③有利子負債の半減(7千億円の削減)。

杉崎さんは、ゴーン氏は系列の廃止や金融株を全て売却する等日本人にはできないこともして、短期間で日産の経営再建を果たしたと振り返っていました。

尚、ゴーン氏はコストカッターとしてのイメージが強いのですが、彼の本質(真髄)は、企業の永続的な発展に向けて、グローバルに通用する人材を育てることが最も重要であると人材の育成に力を入れた点にあります。日産をグローバル競争に勝てる会社にするために、ゴーン氏が行ったリバイバルプラン達成に向けてのゴーン流の経営手法と組織・人事システムの紹介がありました。以下その一部:

(1)ベーシックな経営手法:コミットメント(必達目標として約束)とターゲット

(目指すべき目標)を設定、コミットメント未達の場合、責任を問われる。

(2)問題解決手法:クロス・ファンクショナル・チーム(部門の壁を破れ!)

会社内に存在するセクショナリズムや部門間の壁、上下階層の壁を越えた仕事の遂行が大事。テーマごとにチームを結成。

(3)将来を担う、次世代のリーダーの育成:ハイポテンシャル選抜

 

杉崎さんはS43年に日産自動車に入社。経理部門、研究開発部門、労働組合の専従役員等を経験、1998年5月に日産の構造改革プランを作成チームの一員としてまとめた後、同年6月に関連会社である(株)ユニシアジェックスの取締役に就任。1998年10月に当時日産と同様苦しい状況にあった(株)ユニシアジェックスの総責任者として「構造改革プロジェクト」を立ち上げました。

 

杉崎さんが陣頭指揮を執り、従業員の雇用を維持しつつコスト削減、将来の発展等、改革プロジェクト実現に大変ご苦労された主な事例は次の通りです。

①クラッチ事業:マニュアルクラッチの市場は、日本は15%、欧米は85%、フランスのヴァレオ社との合弁会社設立合意(2000年4月)により、従業員の雇用の維持と市場の拡大によるコスト削減を実現。

②ステアリング事業の将来性:ボッシュ・ブレーキシステム社と交渉し、大型トラック用を含むステアリング事業を買収(2001年7月)

「ユニシアJKCステアリング会社」を設立、日本のトップメーカーに。

中国市場での大型トラックの需要の急速な拡大に対応できた。

③九州・いわき工場の分社化(2000年4月):雇用を維持しコスト削減を実現。

④中国に新規工場・生産拠点の設立(2002年):中国の高成長に対応できた。

以上のような取り組みにより、日産のゴーン改革への対応と合わせ、関連会社としての事業改革を進めることができた。

 

結びにあたって、「これらの改革の実行にあたって、意気に燃えた素晴らしい社員たちに遭遇できたことは本当に恵まれたことだった。」という言葉に責任者としての杉崎さんの人柄が感じられました。

(S50商 小澤秀通)

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                                                    H29年度上期「トークサロン」第1回

                                    『従事した都営地下鉄建設を振り返って』(主として大江戸線建設に関して)

~地下鉄の建設の為の手続きを始め、トンネル、駅、車庫等施設の計画と施工方法について、 又、運転     に必要な設備、車両、及び安全対策について~

                                                     スピーカー:石川 徹さん(S31理工)

H29年度下期 「トークサロン」 第2回 平成29年度上期第1回厚木稲門会トークサロンが、6月29日(木)にレンブラントホテル厚木の中華レストラン「トルファン」にて開催されました。

今回のスピーカーは、石川 徹さん(S31 理工)。「従事した都営地下鉄建設を振り返って」というテーマで、カラフルでわかりやすい資料を準備の上丁寧にお話くださいました。

石川さんは大学では都市計画を専攻し、東京都に入庁。交通局にて、地下鉄建設に携わりました。地下鉄は現在9都市にありますが、最初にできたのは東京。地下鉄の父と呼ばれる早川徳次氏が、昭和2年に浅草―上野間2.2kmをつくりあげ、この現在の銀座線が、日本はもとよりアジア最初の地下鉄になりました。

 「もはや戦後ではない」という合言葉のもと地下鉄建設が次々と計画されましたが、当時は地下鉄の経験者がいなかったので、石川さんは地下鉄のパイオニアとして大変ご苦労されました。

 ご苦労した事の主なものとしては、 ①用地買収―地下鉄が通るところの地上の全ての地主の了解をもらうこと ②地中にある文化財と思われる埋蔵物の対処 ③換気、排水、防災、水の浸入防止の工夫等々ありました。とりわけ、石川さんが責任者として担当された大江戸線の建設(H5年着工)は、「新しいタイプの地下鉄」を「安く」しかも「早く」という方針で推進することになったため、ご本人は淡々と話されていましたが、そのご苦労は並々ならぬものであったと推察いたしました。

 

地下鉄は土木費が全体の5割を占めるので、トンネルの断面積を半分にできると全体の費用の25%削減が可能となるので、様々な工夫がなされ、建設費の削減に努力されたとのこと。

 具体的には、車両にリニアモーター(車両に取り付けられたモーターとレールの間に敷いた、リアクションプレートとの間の磁力を利用して推進力を得る方式で、車両が浮いて走行する方式とは異なる)を採用。これにより車輪が小さくて済むので車両のコンパクト化が可能となり、更にプラットホームの高さも低くすることができたので、断面積の削減に大変有効だった。

また、ホームを全て“島式”(真ん中にホームがあって、両側に線路)にしたことにより、駅の幅も狭くすることができました。

 一方、断面積を小さくしたことによる利用者の圧迫感を軽減するため、“パブリックアート”の設置等の工夫も。(改札を出たところにレリーフや、ホームの両側にアートの設置等)

また、大江戸線は後発なのでトンネルを深いところに通さざるを得なかったこともあり大変苦労されたとのこと。(六本木駅は地上から42メートルで日本一深い)

 話の最後に、「大江戸線の開業時に事故が起こらなかったが、本当にありがたいことだった」という石川さんの言葉に真の責任者の姿を感じました。

 

このような内容は滅多に聞けない事と、参加者は一様に熱心に聴き、資料話の中身について色々な質問が続きました。

地下鉄に乗っている時に大地震が起きたらどうなってしまうのか、という私達の一番の心配については、地下鉄は地面と一緒に動くためむしろ地震に強いとのことで、一同安心した次第です。

 石川さん、ありがとうございました。

 今後大江戸線に乗ったとき、石川さんのご苦労の数々を見ることができるでしょう。その時が楽しみになってきたお話でした。

                                                                                     (S52理工 大貫玉美)