1905年1月2日。
モンゴメリは日記にこう綴っています。
"It is a dreadful thing to lose one's mother in childhood! I know that from bitter experience."(拙訳:幼少期に母親を失うことは、恐ろしいことだ。私は苦い経験からそのことを知っている。)
この記述は『赤毛のアン』の主人公の人物設定を伺わせるものですが、そこには1歳9ヶ月で母親を亡くしたモンゴメリ自身の経験はもとより、同様の経験を共有しているブロンテ姉妹の心象世界をも投影しようという着想が滲んで見えます。
『ブロンテになりたかったモンゴメリ』で示した通り、モンゴメリはアン・シャーリーの誕生月3月を、シャーロット・ブロンテの命日である3月31日から持ってきています。
これは、霊魂再生説に心惹かれていたモンゴメリが、家庭を築いていく喜びから一転して、永遠の別れという悲しみの淵へと突き落とされたシャーロットの魂を、アン・シャーリーの物語で再生させようとしたことの現れでしょう。
そうであるならば、アンの生まれた年も同様にシャーロットに因んでいるはずです。
『アンの娘リラ』の物語に描かれている世界史的出来事を手がかりに、アン・シャーリーの人生の時間軸(タイムライン)を辿っていくと、アンは1866年の生まれであることが導き出されます。
この年はまさに、シャーロットの生年である1816年の50年後なのです。
さらにモンゴメリが『赤毛のアン』という物語が生まれた年、すなわち自身が『赤毛のアン』の執筆を始めた年は1905年だったということを、1907年の「8月16日」の日記で書いたのも、シャーロットの生まれ年「1816年」の「8」と「16」に符合する日を選んだからでしょう。
さて、アンは11歳の6月にグリーン・ゲイブルズに貰われて来ますので、
1866年+11歳=1877年から『赤毛のアン』はスタート
ということになります。
また、アンをグリーン・ゲイブルズに連れてきたマシュウ・クスバートの年齢は、「六十歳の今」(『赤毛のアン』2章)とありますから、マシュウの生まれた年は1817年となります。
1877年 − 60歳=1817年:マシュウ・クスバートの生まれ年
実はこの1817年は、シャーロット・ブロンテの弟パトリック・ブランウェル・ブロンテという人物の誕生年なのです。
モンゴメリはアン・シリーズの全体を通して、そこに描かれたエピソードがいつ起きたのかを年月日によって示すことも、現実の出来事とのリンクがはっきりとわかるように描くこともほとんどしていません。
つまり、時間軸(タイムライン)の設定が不明瞭なのです。
しかし、ある特別なエピソードを手がかりにすることで、アン・シリーズのタイムライン設定を読み解くことができます。
それは「サラエボ事件」です。
1921年に出版された『アンの娘リラ』は、
「新報の第一面には大きく黒い見出しでファーディナンド大公とかだれとかがサラジェボという気味の悪い名前の場所で暗殺されたと書いてあった。」 村岡花子訳 1章より
という件(くだり)から始まる、第一次世界大戦の勃発から終戦後までの時代を舞台とする物語です。
ここに書かれたファーディナンド大公暗殺とは、世界史的史実であるサラエボ事件のことですから、1914年6月28日日曜日の出来事を報じている記事だとわかります。
『アンの娘リラ』の1章には、リラが「あとひと月」で「十五」歳になることや、ジェムが「二十一歳」であると記述されており、物語の冒頭に1914年6月28日に発生したサラエボ事件が置かれていることから、リラは1899年生まれであること、ジェムは1893年生まれであることがわかります。
1914年ー15歳=1899年:アンの末娘リラの生まれ年
1914年ー21歳=1893年:アンの長男ジェムの生まれ年
6章はその同じ年の8月ですが、ジェムが出征することになり、その前の晩にアンが
「スーザン、私は今日、あの子がいつか私を求めて泣いた晩のことを考えているのよ。まだ生まれて数ヶ月しか経っていなかったわ。【中略】もしも二十一年前のあの晩、あの子が私を求めて泣いた時、行って抱いてやらなかったなら、私はとても明日の朝を迎えることができなかったでしょうよ。」
と言っているセリフからも、ジェムが1914年8月には21歳であることが確認できます。
一方『虹の谷のアン』の3章には、”thought thirteen-year-old Jem.”とハイフンで繋げた表記で、じきにティーンエイジャーになるのにまだ子供扱いされることを嫌がるジェムの描写があります。
つまり、1893年に生まれたジェムが13歳になる年=1906年が、『虹の谷のアン』の物語が始まる年ということになります。
1893年+13歳=1906年から『虹の谷のアン』はスタート
そして、そこで描かれている草木の生育の様子から、この3章は5月下旬ごろのことと分かるので、彼の誕生日は5月下旬から1〜2ヶ月の間であると推測されます。
さらに『アンの夢の家』19章では、アンとギルバートの最初の子ですぐに亡くなるジョイスが、 "In early June" にマリラが手伝いに来てから程なく生まれたとしたうえで、34章でジェムが生まれたときにアンが、ジョイスが生きていたら満一歳を越えていると言っていることから、ジェムはおそらく6月下旬から7月の間に生まれていると考えられます。
『アンの娘リラ』の1章でも、1914年6月28日のサラエボ事件を報ずる新聞を読みながらのアンや家政婦スーザンとの会話の中で、Missコーネリアが「ジェムは二十一だし」と言っていることからも、6月28日前後には21歳になっていることがわかります。
さてここからは、このジェムの誕生年である1893年を軸として、アン・シリーズの時間軸(タイムライン)を遡ります。
『アンの夢の家』ではジェムの誕生はアンの結婚から2年後と置かれているので、アンとギルバートの結婚は1891年であることがわかります。
ジェムの誕生 1893年ー2年=1891年:アンとギルバートの結婚式が挙げられた年
『アンの夢の家』の2章では、9月に結婚式を挙げるアンは25歳と書かれているので、
アンの結婚 1891年ー25歳=1866年:アン・シャーリーの生まれ年
ということになります。
こうして導き出された主人公の生まれた年をもとに『赤毛のアン』の物語を振り返ると、前述の通り
1866年+11歳=1877年:アンがグリーン・ゲイブルスに来た年
1877年ー60歳=1817年:マシュウ・クスバートの生まれ年
ということがわかるのです。
では、マリラの誕生年はいつなのでしょうか。
マリラは『虹の谷のアン』の2章で85歳と記述されています。
2章はジェムが13歳になる少し前、1906年の5月下旬のことですから、マリラの誕生日がこの時期よりも前なら彼女の生まれた年は
1906年ー85歳=1821年
となりますが、この時期よりも後に誕生日を迎えるとしたら1906年のうちに86歳になるので
1906年ー86歳=1820年
がマリラの生まれた年となります。
マリラの誕生年が1920年だとすれば、現在公表されているアン・ブロンテの誕生年と同じです。
ところが、マリラの生まれた年は1920年で確定かといえば、そうではないのです。
実は、アン・ブロンテの墓碑銘は二つあり、それぞれの書かれ方が異なっています。
ハワースにある壁銘板の碑銘に彫られた享年から考えられる満年齢が28歳であるのに対して、アンが没した地スカーバラに建てられた墓碑に彫られた享年から考えられる満年齢は29歳となっているのです。
これについては補章その2で考察しますが、いずれにせよモンゴメリはギャスケルの著作物に写し取られたハワースの碑銘から推察されるアン・ブロンテの死亡時の満年齢28歳(この場合の誕生年は1921年)と、後年の研究からわかったアン・ブロンテの誕生年1920年のどちらでも良いように、マリラの年齢を置いたのでしょう。
やはりモンゴメリは、マリラの誕生年もブロンテに因んだ年に設定していた様です。
先にマシュウの生まれ年が1817年と記しましたが、その年はブロンテ姉妹の肖像画を世に残したブロンテ家の長男パトリック・ブランウェル・ブロンテの誕生年と一致していることは既にご紹介しました。
つまり、マリラとマシュウのクスバート兄妹が、アン・ブロンテとブランウェルの兄妹に生誕年で重ねられていたことが推察されます。
アン・シャーリーの生まれ年がシャーロット・ブロンテの誕生年である1816年から50年後の1866年に設定されていることと考え合わせても、これは単なる偶然の一致ではないでしょう。
こうなると、そもそも『赤毛のアン』の物語の始まりが、ブロンテ姉妹の父パトリック・ブロンテが生まれた1777年からちょうど100年後の「1877年」とされていることにも、モンゴメリの意図が込められているように思えてきます。
『ブロンテになりたかったモンゴメリ』でご紹介したように、アン・シャーリーの誕生月である3月はシャーロット・ブロンテの命日3月31日から、エミリー・バード・スターの誕生日である5月19日はアン・ブロンテの命日5月28日とエミリ・ブロンテの命日12月19日を組み合わせたものからである可能性を考え合わせてみても、モンゴメリはシャーロットとその家族の誕生年や没年月日を、アン・シャーリーの物語に色濃く反映させていたことがわかります。
このように、モンゴメリは「実在した人物の年譜を物語に埋め込む」という仕掛けを、アン・シリーズを通して行なっています。
それはブロンテに纏わる人々に限ったことではありません。
それらを読み解いていくとモンゴメリの「秘密」が浮かび上がってくるのです。
さて『アンの幸福』には、「小さなエリザベス」と呼ばれる女の子が登場します。
アンの下宿する柳風荘のお隣の”Evergreens”(常磐木荘)に「囚われの身」で住んでいるその女の子は、ミルクを届けるアンと塀の扉越しに出会うことで仲良くなりますが、彼女とアン・シャーリーは同じ誕生日であることが「一年目の11章」に記されています。
そもそもアンの3月生まれという設定は、シャーロット・ブロンテの命日が3月31日であったからと推察されるのですが、だからと言ってアン・シャーリーの誕生日が3月31日という訳ではないでしょう。
エミリー・バード・スターの誕生日が二人のブロンテの命日の組み合わせであったように、アンの誕生日も二人の命日の組み合わせではないかと推察されるからです。
そしてブロンテ姉妹には有名な3人の他にも早くに亡くなった二人の姉がいて、それぞれ次のような命日になっています。
マリア(あるいはマライア)・ブロンテの命日 5月6日
エリザベス・ブロンテの命日 6月15日
マリア(あるいはマライア)の「5月」は、アン・ブロンテの命日の「5月」と同じ。
残ったエリザベスの命日「15日」から取られている可能性が大なのは、『アンの幸福』でアン・シャーリーと誕生日が同じと置かれているのが「小さなエリザベス」だからです。
こうして素直に考えれば、
アン・シャーリーの誕生日は3月15日
ということになります。
これについては、アン・シリーズ3冊目にあたる『アンの愛情』の27章ですでに、それらしい記述があります。
「三月の半ばごろ」パティの家の持ち主から手紙が届き、4月の試験に備えて勉強しているアンたちがその手紙について話すシーンの後、フィリパと二人で散歩に出かけたアンは彼女が婚約したことを聞き、ロイ・ガードナーから届いた誕生日プレゼントに思いを馳せています。
「あたしの誕生日には、すみれの箱に添えて、なんと美しい短詩をおくってくれたことだろう!アンはそれを1行のこさず暗記してしまった。」村岡花子訳
また、最後に執筆された『炉辺荘のアン』でも、アンの長男ジェムが母親の誕生日のお祝いにネックレスを贈るエピソードが置かれていますが、その辺りの描写からもアンの誕生日が3月の半ばであることが明示されています。
おそらくモンゴメリがエミリー・シリーズを構想し始めた1911年ごろに、エミリーの誕生日がブロンテ姉妹の二人から取られた際、アン・シャーリーの誕生日もただの「3月」ではなく何月何日であるかの詳細設定がなされたのではないでしょうか。
2021年4月追記:『もう一人の「小さなエリザベス」』はこちらからどうぞ。
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