1942年4月24日。
『赤毛のアン』の著者、L. M. モンゴメリは67歳で亡くなりました。
その死因については近年、モンゴメリの次男から連なる近親者から「過剰服薬による自殺」だったと告白されています。
最晩年には視力も衰え、手の痛みから文字が書きにくくなっていたことや、まだ終息の見えない第二次世界大戦の渦中であったこと、夫の精神の病が悪化したこと、そして長男の度重なる不祥事に悩まされていたことなどなど、モンゴメリが死に至った理由はさまざまに憶測されています。
私には、なぜモンゴメリが死を選んだのか、そもそも本当に自殺であったのかもわかりません。
けれども、彼女が残したアン・シリーズや日記を丹念に読み解くにつれて、彼女の心の軌跡が浮かび上がってきました。
その軌跡をこれからお示ししたいと思うのですが、厄介なことにそれは大変込み入っています。
「ドゥリィー 」”dree"(退屈)で「ドゥリィアリィ 」"dreary"(うら寂しい)な試みだと思われるかもしれませんが、読み終えたときに広がる『赤毛のアン』の新たな風景を楽しみに、ケルト世界のドロの沼にハマった気持ちで最後までお付き合いください。
遠い日本まで、そして時代を超えて私たちに届けられたアン・シリーズと、そこに描き出されたキンドレッド・スピリッツ ”Kindred Spirits" という魅惑的なワード。
村岡花子さんによって「同類」と訳出されたこのキンドレッド・スピリッツがどこから来たものであるのか、『赤毛のアン』の創作の源に迫りたいと思います。
2020年10月 nobvko mizuno
モンゴメリはかなりのブロンテ マニアでした。
そのことは、『ブロンテになりたかったモンゴメリ』で示した通り、"Anne of Green Gables"(邦題『赤毛のアン』)とブロンテ姉妹の作品それぞれの登場人物の間に見られる数々の符合から知ることができます。
例えば次のようなものが挙げられます。
【二人のシャーリー】
Shirley Keeldar(シャーリー・キールダー):シャーロット・ブロンテの作品『シャーリー』の主人公。男の子が生まれるとの期待の中で生まれた女の子。
Anne Shirley(アン・シャーリー):モンゴメリの作品『赤毛のアン』の主人公。働き手として男の子を引き取ったはずの初老の兄妹のもとに、手違いで引き取られた女の子。
どちらも男の子の「代わり」の女の子という設定であり、顔色は良くないけれど知的で表情豊かな顔立ちと、夢見心地になりがちでしばしば白昼夢に耽る想像力の持ち主というところも共通しています。
【二人のギルバート】
Gilbert Markham(ギルバート・マーカム):アン・ブロンテの作品『ワイルドフェル・ホールの住人』の語り手であり、主人公の再婚相手。
Gilbert Blythe(ギルバート・ブライス):モンゴメリの作品『赤毛のアン』の主人公がのちに結婚する男性。
二人とも、ヒロインに向けて芽生えた恋心を無残にも蕾 "bud"のうちに摘み取られてしまうという苦悩を抱えています。
【二人のブライス】
David Bryce(デイヴィッド・ブライス):シャーロット・ブロンテに求婚して振られた2人目の男性。23歳のシャーロットにプロポーズして振られ、六か月後に、血管破裂で死去。
Gilbert Blythe(ギルバート・ブライス):モンゴメリの作品『赤毛のアン』の主人公がのちに結婚する男性。22歳のアン・シャーリーに振られた後に、病気になって死の淵をさまよう。
どちらも「活発」「ハンサム」「機知に富む」「才気ある」人物。
(なお、『アンの夢の家』には、ギルバートの大伯父としてデイヴィッド・ブライス ”David Blythe"という人物が登場しますが、詳細は第8章に記載。)
【二人のダイアナ】
Diana Rivers(ダイアナ・リバーズ):シャーロット・ブロンテの出世作『ジェイン・エア』の登場人物。主人公・ジェインが親しみを感じた女性で、じつは「いとこ同士」すなわち「血族関係=kindred」。
Diana Barry(ダイアナ・バーリー):モンゴメリの作品『赤毛のアン』の主人公・アンが、「同類」"Kindred spirits"を感じる腹心の友。
リバーズの「リ」と「バ」をreverse(逆転)させるとバーリーになっているところは、ユーモアの才気あるモンゴメリならではと言えるでしょう。
さらに「バリー」に注目すると、『ピーターパン』を描いたジェイムズ・マシュー・バリー "James Matthew Barrie"にも因んでいると思われます。
余談ですが、モンゴメリは新婚旅行で英国を巡った際に、この作家の生まれた町、スコットランド・フォーファーシャーのキリミュアを訪ねているほどですから、『アンの夢の家』の中で「わたしの知っている人たちのいちばん立派な二人の紳士の名前」すなわちジム船長やマシュウ・クスバートに因んでいるとアンに語らせている、アンの長男ジェムのジェイムズ・マシュウという名前もジェイムズ・マシュー・バリーと無関係ではないでしょう。
【二人のマシュウ】
Matthewson Helston(マシューソン・ヘルストン):シャーロット・ブロンテの作品『シャーリー』の二人の主人公のひとりキャロラインの叔父であり養父。
Matthew Cuthbert(マシュウ・クスバート):モンゴメリの作品『赤毛のアン』の主人公・アンを引き取り、妹マリラとともに育てる。
二人とも主人公の養父という点で共通している。
【二人のレイチェル】
Rachel(レイチェル):アン・ブロンテの作品『ワイルドフェル・ホールの住人』の中に登場する年配のメイド。
Rachel Lynde(レイチェル・リンド):モンゴメリの作品『赤毛のアン』に登場する婦人。
どちらも世話好きの年配の女性であり、メイドのレイチェルは物語の中でしばしば館のドアを開けて客人を招き入れ、リンド夫人は最初の登場人物として物語の扉を開き、私たちを『赤毛のアン』の世界へと招き入れます。
さて、モンゴメリはアンの最初のキンドレッド・スピリッツ "kindred spirits"であるダイアナ・バーリーを、シャーロット・ブロンテが描いたダイアナ・リバーズから持ってきていたことは前節に書いた通りです。
ともに主人公から「ダイ」と呼ばれているダイアナは、どちらも黒髪の持ち主。
実はもう一組の黒髪のペアがいます。
それは、『赤毛のアン』のマリラ・クスバートとシャーロット・ブロンテの『シャーリー』のオルタンス・ムア。
50代後半のマリラと違って、オルタンスはまだ30代半ばの女性です。
「彼女はムア氏より少し年上に見えた。おそらく三十五ぐらいで、背が高く【中略】髪は真黒で【中略】気難しいが悪気はなさそうな顔付き」5章より
「いつも息を切らして忙しくしているマドモアゼルは、今日も台所から居間へとせわしく動き回って半日をつぶしていた---【中略】こうした課題を完全にはたしても、オルタンスは決して褒めない。【中略】課題に誤りが見つからぬときには、生徒の立ち居振る舞いなり、態度なり、服装なり、様子なりを正さなければならないことになったのである。」6章より
「もっと堅実で、地味なものの方が「ずっと礼儀にかなっている」はずだと思ったのだ。」6章より
「黒い髪も、その下の多少独断的で強情そうには見えるが、実は情深い顔も【中略】オルタンスは温かさよりも威厳のまさった顔で以前の教え子を迎えた。」17章より
こうしたオルタンスの特徴は、
「マリラは背の高い、やせた女で、丸みのない角ばった体つきをしており白髪の見えはじめた黒い髪をいつも後ろで、かたくひっつめにして、二本のかねのピンでぐさっととめていた。」1章より
「マシュウ、だれかがあの子をひきとってものごとを教えてやらなけりゃなりませんよ。まったくあの子は異教徒と紙一重なんですからね。【中略】きっとあの子のしつけがわたしの手いっぱいの仕事になっちまうにきまってますよ。」7章より
「どうしてマリラはいつもアンにあんなにかざりけのない、地味なかっこうをさせておくのだろう?【中略】あんなみじめななりをさせて、それでアンに、へりくだりの気持を持たせようとするつもりらしいが」25章より
「一方マリラの方は猛烈な勢力を出して手当たりしだいに仕事をやり出し、一日じゅうたち働いていたが、ともすれば涙が流れだして、どうにもならないせつない思いがやきつくように胸をかんでいた」34章より
という『赤毛のアン』のマリラを彷彿とさせます。
Hortense(オルタンス)は、ラテン語Hortensiaのフランス語形で、意味はgarden(花園)。
一方、Marilla(マリラ)はケルト語で「輝く海」というのが今では定説ですが、私はその意味と共に、別のニュアンスを感じています。
私がMarilla(マリラ)に感じる別のニュアンス、それは「私のライラック "Lilac"」。
ライラックは春から初夏にかけて花が見頃となる木で、フランス名はLila(リラ)。
『ライラックの木かげ』をはじめとして、モンゴメリの愛読書だったルイーザ・メイ・オルコットやシャーロット・ブロンテの作品にも描かれており、ハワースのブロンテ一家が住んでいた牧師館の庭には「ライラックの低木」があったことが知られています。
モンゴメリがアン・シリーズの中で描いた「ライラック」を執筆順にまとめてみましょう。
『赤毛のアン』:3回
(4章)グリーン・ゲイブルスの下手のgardenから「紫色の花をつけたライラックのむせるような甘い匂いが」
(5章)アンの想像の中の生家の「前の庭にはライラックが植わって」いる。
(12章)薄紫色の石鹸(サボン)草の「薄紫色」がLilac。
『アンの青春』:1回
(18章)トーリー街道の冒険にてダイアナが渡してくれた包装紙の裏にアンが綴ったスケッチ「(アンのgardenの)ライラックのしげみの中のカナリア」(カッコ内は筆者補足)
『アンの愛情』:2回
(21章)アンの生家での描写「門のそばにはほんとうにライラックの木があるわ。」
(35章)アンがかつてトーリー街道の冒険時に書いた「しおんとスイートピー、ライラックの花々の茂みにとまる野生のカナリヤと、花園を守護する天使とのあいだの短い問答体」のスケッチを読み返す。
『アンの夢の家』:無し
『虹の谷のアン』:1回
(29章)gardenに植えられたライラックについて
『アンの娘リラ』:1回
(最終章35章)「虹の谷は夕日の素晴らしい薄紫色の光を浴びてよこたわっている」の「薄紫色」がLilac。35章のタイトルは”RILLA-MY-RILLA!”
『アンの幸福』:3回
(第一年目13章)「ライラックの茂みの中」
(同14章)「ライラックの茂み」
(第二年目11章)「窓の下から漂ってくるライラックの香」
『炉辺荘のアン』:3回
全て(2章)へスター・グレイの庭の「ライラックの木」、「ライラックの匂い」、「ギルバートはライラックが大好きなの。」
その後の章では、ライラックの花が咲く季節の終わり(7月末)にリラ・ブライスが誕生。
『アンの青春』のなかで、アンがトーリー街道の冒険を記した文章にはライラックが描かれていますが、そのスケッチは原文では”garden idyl”(花園牧歌)と呼ばれており、次の作品『アンの愛情』では、大学の卒業試験の勉強中に”garden idyl”の原稿を見つけたアンが読み耽ります。
アンの想像した生家と実際の生家、そしてへスター・グレイの庭にも、アンの思い出の庭には必ずライラックが描かれていて、garden(オルタンス)と対で用いられていることがわかります。
そして、ライラックの花言葉は「思い出」。
ブロンテ姉妹が生きたヴィクトリア女王の時代には、
「ヴィクトリア朝時代には、花をはじめとする植物に象徴的な意味を持たせる伝統が確立しており、当時の人々は花言葉をよく使った」『ブロンテ姉妹の抽斗』デボラ・ラッツ著 松尾恭子訳 柏書房2017年発行
そうですから、シャーロット・ブロンテを投影して『赤毛のアン』を描き始めたモンゴメリは、アンの育ての母のネーミングを決める際には、きっと花言葉由来の意味を込めたはずです。
2歳になる前に母を亡くしてから母方の祖父母に育てられたモンゴメリにとって、母の思い出は「育ての母」である祖母の思い出であり、祖母をモデルとしてアンの養母を描いたことをマリラという名前で暗示したに違いありません。
モンゴメリは後に、『アンの娘リラ』でアンとギルバートの間に生まれた女の子に、アンの生みの母バーサと育ての母マリラの名前を合わせて与えています。
そして、アンの次男坊ウォルターがその子に付けた愛称は「リラ・マイ・リラ(リラ 私のリラ)」。
つまり「マリラ」はマイ・リラ、まさに「私のライラック=思い出」なのです。
マリラのネーミングについては、さらに沼深い考察を補章その3で行なっていますので、そちらもどうぞご覧ください。
さて、2008年に出版百周年を迎えた『赤毛のアン』は、1905年に執筆が始まっています。
そのことは、モンゴメリが亡くなる三年前まで書き続けた日記から知ることができます。
いつにも増して長い文章が綴られている1907年8月16日の日記から抜粋してみましょう。
"I have always kept a notebook in which I jotted down, as they occured to me, ideas for plots, incidents, characters and descriptions. Two years ago in the spring of 1905 I was looking over this notebook in search of some suitable idea for a short serial I wanted to write for a certain Sunday School paper and I found a faded entry written ten years before. "
"I began the actual writing of it one evening in May and wrote most of it in the evenings after my regular work was done, through that summer and autumn, finishing it, I think, sometime in January 1906."
ここには、
プロットのアイディア、出来事、キャラクター像について、思いついた時にすぐに書き付けられるノートを常に携帯している
1905年の春にそのノートを見返していたとき、10年前に書き込んでもう消えかかっている書き込みを見つけた
『赤毛のアン』を実際に執筆し始めたのは1905年の5月の夕べ、書き終わったのは1906年の1月
ということが記されています。
なおモンゴメリは、1917年の雑誌連載で執筆した自伝的エッセイの中では、1904年春に書き始めて1905年10月に脱稿としています。
日記の記録よりも1年前倒しとなっているのです。
この謎については後ほど改めて第9章2節で触れますが、まずは日記の日付を正しいものとして、モンゴメリの年譜を整理していきましょう。
モンゴメリの日記から、「1905年の10年前=1895年の書き込み」が『赤毛のアン』の原点となったことがわかります。
そして1905年の5月から『赤毛のアン』を執筆し始め、1906年の1月に原稿を書き上げると、様々な出版社に送付してみたものの、ことごとく拒絶され、とうとうその原稿を古い帽子箱にしまいこんでしまいます。
しかし、1906年の冬に読み返したら面白かったので、今度はページ社という出版社に送付してみたところ、
「(1907年の)4月15日に出版受諾の手紙が届いた」(カッコ内は筆者補足)
ことが、やはり1907年8月16日の日記に書かれています。
シャーロット・ブロンテの出世作『ジェイン・エア』が出版された1847年からちょうど60年目には間に合わなかったとはいえ、その区切りの年にブロンテへのオマージュを散りばめた処女作出版の目処がついたというシンクロニシティは、彼女を大いに喜ばせたことでしょう。
そしてまた、ブロンテ マニアであるモンゴメリが、『赤毛のアン』の構想の元となった書き込みを携帯ノートに記したという年についても、シャーロット・ブロンテが妹のエミリーとアンを説得してペンネームを決め、これまで書き溜めていた3人の詩集の出版に動き出した1845年の50年後であった、というシンクロニシティが起きていたというストーリーを創作したとしても不思議ではありません。
もちろん、『赤毛のアン』の原点となるアイディア・ノートの書き込みが書かれたのは、本当に「1905年の10年前=1895年」だったかも知れませんし、単に切りの良い期間として10年としたのかも知れません。
しかし、シャーロット・ブロンテが亡くなった1855年から50年後の「1905年」に『赤毛のアン』の執筆を始めた、ということにはモンゴメリの明確な意思が込められていたはずであり、この事を記した日記の日付「8月16日」からも彼女の意思が読み取れるのです。
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