若くして亡くなった人の面影、遥か昔にあった王国の遺構、絶えた王家とその臣下の記章。
モンゴメリは、彼女の生きる時代の表舞台から失われたものへ思いを馳せ、それらにちなんだ事柄をアン・シリーズのなかに登場する人や土地に与えるということをよくしていることは、これまで述べてきた通りです。
このことを知った上で、モンゴメリが kindred spirits に新たに付けた名前、”the race that knows Joseph"(ヨセフを知っている一族) の由来を改めて考えると、彼女がkindred spirits をどのようなものと考えていたのかをはっきりと知ることができます。
本稿第8章4節で、ヨセフとは旧約聖書の「創世記」に登場する「主の恵みと共におる者」であり、西欧社会では「貞節を守る」象徴として知られる人物だけれど、その人となりに共通する者が「ヨセフを知っている一族」ということではないであろうとも書きました。
では、このヨセフのどんな側面を知っている人が kindred spirits なのでしょうか。
Wikipediaのヨセフの項にはこう書かれています。
ヨセフ(יוסף:Joseph)の名は、ユダヤ教モーセ五書に記されたヘブライ語の名である。ユダヤ教モーセ五書におけるヨセフの名の由来は、神が初産のラケルの恥を「すすいでくださった(אסף:has taken)」ことにあやかったもの。
モンゴメリがちなんだのがこのヨセフの名の由来であったなら、「ヨセフを知っている一族」とは「 ”has taken” =取り去られたもの」を知る一族ということになります。
つまり、ウィルを始め夭折した人々や、ノーサンブリア王国や古メルローズ、スチュアート朝とジャコバイトはもちろん、シャーロット・ブロンテに振られて彼女の人生の舞台から除かれた3人の男性さえも、そこにいる(ある)かのような時空を超えたヴィジョンとして直感する人たちが kindred spiritsである、そうモンゴメリは考えていたのではないでしょうか。
1942年4月24日。
モンゴメリはこの世を去りました。
1942年はシャーロットの「ブリュッセル体験」の1842年からちょうど100年後。
(拙注:『アンの夢の家』の扉(トビラ)にルパート・ブルックの詩が引用されている。詳細については『もっと「赤毛のアン」を描きたかったモンゴメリ』番外その4を参照。)
そして、24日は1848年9月に亡くなったパトリック・ブランウェル・ブロンテの月命日。
モンゴメリの死が病死や事故であれば、これらの符合は全て偶然のことと言えるでしょう。
でも、そうではなかったとしたら。
もし、彼女がこの日を選んだとしたら。
数字にかなりのこだわりを持って創作活動をしてきたモンゴメリは、一番のお気に入りである『アンの夢の家』は1916年6月16日に執筆を始めた、と日記に書いています。
シャーロット・ブロンテの生まれた1816年から100年後の、1と6が繰り返し現れる年月日に。(*2021年4月3日の追記参照。)
では、4と2が繰り返し現れる「1942年4月24日」は?
大好きなシャーロット・ブロンテとその作品からアン・シリーズを紡ぎだし、そこに想い人ウィルとの思い出を埋め込んだモンゴメリ。
しかしその後、そのことを世間の目から隠そうとしたモンゴメリ。
最晩年は手の痛みで字が書けなくなってしまったことに加え、長男の度重なる不始末や第二次世界大戦という再びの悪夢に、日記を書く意欲さえ失って亡くなったモンゴメリ。
『アンの幸福』以降の彼女には、どことなくパトリック・ブランウェルと重なるものがあります。
幼少からブロンテ三姉妹の創作活動を導き、プロ並みの画力で彼女たちの肖像画を描いて、そこに自らの姿も描いておきながら後に塗りつぶしてしまったパトリック・ブランウェル。
想い人のロビンソン夫人に捨てられたことで創作意欲を失い、最後には酒と薬物に溺れ死んでしまったパトリック・ブランウェル。
親族には自殺と受け止められているモンゴメリの死は、その原因を特定することは永遠に出来ないでしょう。
しかし、彼女のシャーロット・ブロンテ マニアぶりやアン・シリーズの時間軸の秘密など、複雑で混み入った事柄を解きほぐすことで見えてきた時間と空間、現実と空想、こちら側の世界と向こう側の世界の境を超えたモンゴメリの心象世界には、いつもウィルがいたことは間違いないように思います。
ウィルと離れ離れになったことを記したモンゴメリの日記の日付は8月最後の水曜日、1891年8月26日となってます。
そして、アン・シリーズ2作目の『アンの青春』は、頑なに独身を貫くオールド・ミスのMissラヴェンダーが、思いがけず再会した25年前の婚約者と「八月の最後の水曜日」に結婚式を挙げるというエピソードでハッピーエンドを迎えます。
その後、30年にわたりアンの物語を書き続けるなかで、葛藤と昇華を繰り返したモンゴメリの心は、大英勲章という栄誉に浴したことで、こちら側の世界と向こう側の世界の狭間に落ち込んでしまったよう。
そんな彼女が、夫ユーアンの心の病の悪化や長男の度重なる不祥事、再びの世界戦争、自身の老化という暗く重い耳鳴りの中に閉じ込められていく中で、”for two” という穏やかなリフレインが誘う向こう側の世界へと旅立ったとしても不思議ではありません。
(*2021年4月3日追記:正確には、1916年6月17日のモンゴメリの日記に、「昨日『アンの夢の家』を描き始めた。」との記述あり。それはモンゴメリの癖で、大切な日付はストレートに書き記さず、常に暗示にとどめている。『アンの幸福』でも、最終章の日付が明記されておらず、その代わりに一つ前の章に記された「六月二十七日」の「あくる日」となっていたことは第10章で述べた通り。レベッカ・デューのラストメッセージをアンが目にしたのは6月28日でしたが、ウィルから愛の告白メッセージをもらった8月26日と対称的に置かれた数字になっている。)
ここまで読んでくださったあなたは、モンゴメリの泥沼話だと思われたでしょうか。
私はこの本の序章のタイトルを〜ようこそドロの世界へ〜としましたが、そのドロは泥のことではありません。
モンゴメリはスコットランド地方の方言である ”doric”(ドーリック)の響きが好きだと文通相手に書き送っています。
”Druid”(ドルイド)や ”Dryad”(ドライアド)、”dream”(ドリーム)と同様、”doric”もDOとRの音を持ちますが、それらは全て ”tree”(木)や ”wood”(森)を意味する ”deru-” を語源に持つ言葉です。
第6章でも触れたトーリー党の "Tory"(トーリー)も ”deru-”から派生したワードであり「木」を意味することは、トーリー党の紋章に一本の木が描かれていることからも分かります。
モンゴメリやブロンテ姉妹が描き出した"kindred"(キンドレッド)という言葉にもDORの音が含まれており、木を神聖視したケルトの人々の感性から生まれたワードではないかと思われます。
本稿の序章にある「ドゥリィー(dree: 退屈)」で「ドゥリィアリィ(dreary: うら寂しい)という言葉にも、DOとRの音があります。
ブロンテ姉妹が彼女たちの小説で繰り返し用いたそれらワードの、「退屈」とか「うら寂しい」という訳は現代語としては正しいのです。
しかし少なくとも”dree”に関しては、スコットランドの古語で「(悲しみなどに)耐える」という意味であったことがわかっています。
歴史的勝者であるイングランドの言葉となった時に、本来の意味が変わってしまったのでしょう。
かつて文通相手のマクミランに、
「わたしは《恋人の小径》を通り抜けました----娘らしい愛らしさをたたえた、六月の《恋人の小径》ではなく、つらい涙を流しては齢を重ね、賞賛という衣をまとうように悲しみで全身をおおった婦人の美しさを持つ《恋人の小径》を。」『モンゴメリ書簡集I G.B.マクミランへの手紙』ボールジャー、エパリー編 宮武 潤三、宮武 順子共訳 篠崎書林 1904年11月9日の手紙より抜粋
と綴っていたモンゴメリにとって、"dree"というDOとRからなる言葉にマイナスイメージはなかったことが推察されます。
シャーロットの『ヴィレット』に描かれた、なんでも上手にこなす理想的な美少女ポリーに自分を重ねていた若き日のモンゴメリ。
そんな彼女が実はやっぱり、世知辛い世の中で孤立感を覚えそこから飛翔しようとした主人公ルーシー・スノウであったことを人生の最後で実感した末の旅立ちであったとしたら。
シャーロットにとってのキンドレッドはエジェ教授であり、彼こそが「失われた王国」だったのですが、その関係性にモンゴメリが憧れていたことに、晩年ようやく気づいたのかもしれません。
そして、モンゴメリの「木を愛したケルト的感性」の詳細を記すという意味で、本稿の序章のタイトルを「ドロ(DOR)の世界」とした次第です。
私たちにアン・シリーズという喜びの風景を残したモンゴメリ。
そのヴィジョンの中に密かに埋め込まれ後に隠蔽されたウィルとの思い出の時間軸や、シャーロットを始めとするブロンテ姉妹への心の絆を知ることで、モンゴメリの魂は自由になる、そう信じて筆を置きたいと思います。
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