1913年7月末にシャーロット・ブロンテの禁断の恋文のニュースを知った後、モンゴメリは『アンの愛情』『アンの夢の家』『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』の4作品をほぼ2年おきに世に出します。
アンとギルバートが婚約する『アンの愛情』から始まり、第一次世界大戦が集結して恋人のケネスがリラのもとに帰ってくる『アンの娘リラ』で終わるこの4作品を生み出したのは、シャーロット・ブロンテのエジェ教授への手紙であったことは間違いないでしょう。
モンゴメリは、彼女が22歳の時にインフルエンザで亡くしたウィルへの思慕を、物語の中でアンがギルバートと結ばれることで成就させているのです。
アンとギルバートの結婚が1891年、すなわちウィルから告白された年に設定されたことも当然のことと言えます。(詳細は第8章を参照のこと。)
しかしモンゴメリは、シャーロット・ブロンテが主人公シャーリーとルイ・ムア、もう一人の主人公キャロラインとロバート・ムアの二組の合同結婚式というハッピーエンドをラストに描いた『シャーリー』へのオマージュとして、メレディス牧師とローズマリー、ノーマン=ダグラスとエレンの二組の合同結婚式で締めくくった『虹の谷のアン』を書き終える頃までは、アンの結婚の年を明確化することを避けていました。
それどころか、誤誘導のための仕掛けさえ置いています。
『アンの夢の家』のなかで、アンとギルバートの結婚から1年後に生まれたジョイスはその日の夜に亡くなってしまい、その1年後つまり二人の結婚から2年後にジェムを誕生させているモンゴメリは、ジェムの生まれた年にカナダ自由党の18年ぶりの政権奪還というちょっとした史実を置いています。
このカナダ自由党の大勝は1896年に実際にあった出来事であり、この年にジェムが生まれたと読者が受け取ることで、アンとギルバートの結婚をその2年前の1894年と計算できるように誤誘導したのです。
自分の日記は必ず世に出ると信じていたモンゴメリは、そこに綴られたウィルとの思い出がアンの物語の時間軸と符合することに気づかれないよう、このような工夫を施したと思われます。
しかしその後、ある出来事が彼女の気持ちを変えました。
『虹の谷のアン』を書き終えてほどなくして、世界的に猛威をふるったスペイン風邪(インフルエンザ)のために、親友ともいえる間柄であった9歳年下の従姉妹、フレデリカ・キャンベルが亡くなります。
1919年1月末のことでした。
またしても大切な人をインフルエンザに奪われたモンゴメリは、アンとギルバートの物語に託したものが何であるのかを、もはや隠して置きたくない心境になったのでしょう。
1921年に出版された『アンの娘リラ』を、モンゴメリは1914年6月28日日曜日に発生したサラエボ事件を報じる新聞記事から始めました。
そこにジェムとリラの年齢を明記することで、この世界史の重大事件があった年月日を基準としてアン・シリーズを流れる時間を逆算すれば、『赤毛のアン』から始まり『アンの娘リラ』に至るまでの物語を形作る、様々な出来事がいつのことであったのかを知ることができるようにしたのです。
『アンの娘リラ』で初めて世界史レベルの史実とリンクした時間軸を挿入したことで、『アンの娘リラ』までのタイムラインが明確化し、またそれによって『アンの夢の家』に埋め込まれたウィルとの思い出の年代を確定したモンゴメリ。
彼女にそうさせた従姉妹のフリード(フレデリカ)・キャンベルに、『アンの娘リラ』は献呈されています。
『アンの娘リラ』で一旦アン・シリーズを描き終えたモンゴメリは、1921年8月にエミリー・バード・スターの物語を執筆し始めます。
エミリーについては10年前から構想していたことが、当時の日記に書かれています。
”my heroine is Emily, just as Anne was Anne. She has been 'Emily' for the past ten years during which time I have been carrying her in my mind, waiting for the time when I could put her into a book.”(拙訳:アンがアンであったように、新しいヒロインはエミリーである。彼女はこの十年間、私の心の中で育まれ、本になる時を待っていた。)
1921年の10年前といえば『アンの青春』を描き終えてしばらくたった頃。
『アンの青春』の後1915年に出版される『アンの愛情』までの間、モンゴメリはアンのその後の物語とエミリーの新しい物語を同時に練っていたのかも知れませんし、アンのお話に終止符を打ったつもりだったかも知れません。
1921年の10年前は1911年。
その年の7月に結婚したモンゴメリが日記に綴った新婚旅行の記述からは、それがシャーロット・ブロンテの感性への共感だけでなく、自分とは異なる点を確かめる旅であったことが伺われます。
例えばウォルター・スコット邸への道中の景色に魅了された一方で、シャーロットがとても喜んでいたエディンバラの都市にはその陰鬱さにうんざりしたことや、アーガイル地方の美しさやキリミュアの田舎の光景に感動や親しみを覚えるものの、プリンス・エドワード島の風景の方がずっと好みであったことが、文章の合間から伺われます。
そしてエミリー・シリーズの構想が前述したように1911年に始まっているのは、新婚旅行を境にして、シャーロットを模したアン・シャーリーの造形をこれ以上描くよりも、田舎を好むなど多くの面で自分と似ているエミリー・ブロンテをモデルにした物語を描きたいと思い始めたからかもしれません。
いずれにせよ、1913年にシャーロット・ブロンテの手紙のニュースを知った後でモンゴメリが綴り始めたのは、エミリーではなくアンの物語でした。
『アンの愛情』『アンの夢の家』『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』の4作をほぼ2年おきに描いた彼女は、『アンの娘リラ』でアン・シリーズにひと区切りを付けた後で、エミリー・シリーズ3作や『銀の森のパット』シリーズ2作など、シャーロット以外のブロンテからネーミングされたシリーズ物を描きます。
ところが『アンの娘リラ』から15年後、なぜか再びモンゴメリはアン・シリーズに戻っているのです。
それも、時間を巻き戻す形で。
モンゴメリがアン・シリーズを再開した作品『アンの幸福』には、アン・シャーリーがギルバートと婚約してから結婚するまでの3年間の文通が描かれています。
書簡形式で進むその物語の書き出しは「九月十二日月曜日」。
アン・シリーズの中で日付と曜日の記述があるのはこの箇所だけです。
実はこの日付と曜日から、アンの物語の中に埋め込んだモンゴメリの「もうひとつの秘密」を知ることができるのです。
これまでの説明でお分かりの通り、アンの結婚は1891年の出来事です。
ところがその3年前の1888年のカレンダーを調べてみると、その年の「9月12日」は「水曜日」。
『アンの幸福』の書き出しにある「月曜日」ではありません。
それではと、その前後の年のカレンダーをみると1887年の9月12日が月曜日だったのです。
この一年のズレはなぜ生じたのでしょうか。
モンゴメリが適当に設定した「九月十二日月曜日」が、たまたま一年前に実際に存在していたのでしょうか?
そうだとしたらなぜモンゴメリは、この日だけにわざわざ曜日を付したのでしょうか?
私の推理はこうです。
モンゴメリは、アンを53歳まで歳を重ねさせて一旦書き終えたアン・シリーズを、ある意図を持って再開した。
再開する物語の始まりを、現実に存在した1887年9月12日月曜日とし、それがアンとギルバートの結婚の3年前であると設定することで、既に世に出ているアン・シリーズの時間軸を修正しようとした。
そうすることで19年前に執筆した『アンの夢の家』に埋め込んだ、ウィルとの恋の思い出を隠蔽しようとした。
つまり、アンの結婚の年を1891年ではなく1年前倒しの1890年となるように、誤誘導の操作をしたと考えられるのです。
例えば、『アンの幸福』の次に書かれた『炉辺荘のアン』のラストでは、「結婚15周年」を迎えたアンとギルバートが翌年の2月にロンドンで開かれる大医学会議に合わせて、ヨーロッパへ第二の新婚旅行に出かける計画を立てるというエピソードが描かれています。
これは、モンゴメリが20年前に書き終えている『虹の谷のアン』の物語の冒頭の、5月に夫妻が3ヶ月に及ぶヨーロッパ旅行から戻ってきたところへと途切れることなく繋げるためのもの。
しかし『アンの娘リラ』までのタイムラインを丁寧に辿れば、『虹の谷のアン』でアンとギルバート夫妻がヨーロッパ旅行から帰還するのは1906年の5月、(第2章2節参照。)
アンが結婚した年月は1891年9月なので、「結婚15周年」を迎えるのは1906年の9月、つまりアン夫妻がヨーロッパから戻ってきた後であるはずなのに、『炉辺荘のアン』のラストの1905年の秋に置かれてしまいました。(第11章1節のエピソード表を参照のこと。)
そもそも『虹の谷のアン』のどこにも「結婚15周年」を伺わせるエピソードは描かれていませんが、そのことを利用して、アン・シリーズの年代操作を行ったのでしょう。
アン・シリーズのタイムラインを1年前倒しさせるための辻褄合わせとその綻びは、ジェムの年齢を通して見ることができます。
『アンの娘リラ』までのタイムラインでは1893年生まれであるはずのジェムの年齢が、『炉辺荘のアン』では1892年生まれとなるように置かれています。
具体的には、リラが生まれた年にジェムは7歳になったと記述しているのです。
本稿第2章2節にある通り、『アンの娘リラ』にはサラエボ事件があった1914年6月末にジェムが21歳になっていることと、その一月後にリラが15歳になることが描かれています。
つまり、ジェムとリラは6歳違い(ジェムの誕生日からリラの誕生日の間だけ7歳違い)の兄妹なのですが、『炉辺荘のアン』では7歳違い(上記の間だけ8歳違い)となっているのです。
これは、『アンの幸福』の冒頭の日付と曜日の記述から導き出されるアン・シャーリーの結婚年が1891年ではなく1890年と1年前倒しになるために、ジェムの生まれた年も1年早まってしまった結果です。
こうした強引なタイムラインの操作の結果、シャーロット・ブロンテやその家族の誕生年との符合がアンの物語から失われてしまいました。
シャーロット・ブロンテへのオマージュを彼女の年譜ごと物語に織り込み、アンの「1891年9月の結婚」というパラレルワールドに「1891年8月26日のウィルの告白」を密かに埋め込み現実を塗り替えたモンゴメリが、晩年になってその大切な時間軸を壊したのは何故か。
その理由を知る重要な手掛かりは1935年にあります。
この年、モンゴメリは英国から大英勲章を授与されているのです。
勲章の知らせが同年の5月23日に届き、9月の初めに授与式が執り行われたことが日記に綴られているのですが、『アンの幸福』が描き始められたのは授与式前月の8月12日でした。
(**2021年4月3日追記:1935年3月9日のモンゴメリの日記には ”Today I started in to do spade work on a new Anne book”との記述が見られるが、”spade work”は下準備作業のことであり、新たに書くアンブックスの構想段階。『アンの幸福』の執筆は、1935年8月12日の日記に ”Today I began to write Anne of Windy Willows”とある。本稿第11章2節「Lucyという名の系譜」の当該日記を参照のこと。)
大英勲章という名誉は、モンゴメリにとって何ものにも変えられない喜びであったであろうことは想像に難くありません。
しかしそれ以上に、今やカナダはおろか心の祖国である英国を代表する作家となったモンゴメリは、夫とは違う男性への思いを物語の中に埋め込んだことに気づいた世間から、「不実を働いた」とゴシップネタにされるのではないかという怖れを抱いたのではないでしょうか。
もちろんその証拠は日記の中にしかなく、それを焼いてしまえば永久に気づかれることはありません。
しかし、日記が消滅することは自らが殺されるに等しい、そう日記に綴っていたモンゴメリ。
いづれ日記が公開されることを望んでいた亡き母の意向を汲み、次男スチュアートが1981年にゲルフ大学に寄贈しています。
そんな彼女だからこそ、1913年に公開されたシャーロット・ブロンテのエジェ教授への手紙が、世間からどのように受け止められたのかを思い起こし、アン・シリーズの時間軸の改竄を思いついたと考えられるのです。
実はモンゴメリの改竄は、これが初めてではありません。
『アンの夢の家』の執筆が終わった後の時期である1917年の6月〜11月に、トロントの ”Everywoman's World”という雑誌に自伝的連載エッセイを寄稿しているのですが、そこでは『赤毛のアン』を1904年の春に描き始め、描き終えたのは1905年の10月と書いています。
その一方で日記には、創作ノートに『赤毛のアン』の原点となった書き込みをしたのが1895年、『赤毛のアン』の執筆を始めたのが1905年5月と書かれてあり、モンゴメリが自分の創作活動をシャーロット・ブロンテの創作活動の流れになぞらえて進めていたことは第1章4節に書いた通りです。
日記に書いてある時間の流れを1年前倒しにしてエッセイを綴ったのは、ブロンテを意識していたことを伏せて、『赤毛のアン』のオリジナリティを強調したかったからかも知れません。
ところがそんなエッセイの後に描いた2作品、『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』でもシャーロット・ブロンテへのオマージュは続いています。
1935年の大英勲章の受賞が引き金となったアン・シリーズの時間軸の改竄は、『アンの夢の家』に埋め込んだウィルの思い出の年代的符合を無かったことにする試みであったと推察されますが、それは同時にアン・シリーズの細部に埋め込まれたシャーロット・ブロンテやその家族の誕生年との符合を無くすためでもあったでしょう。
『赤毛のアン』とそのシリーズは何者にも依らず自分自身で創造した産物である、との強烈な自負心から、心の底から湧き上がる創作の動機そのものを抹消してしまったモンゴメリ。
これも、勲章という名誉がもたらした功罪だったのかもしれません。
モンゴメリの連載エッセイは、”The Alpine Path: The Story of My Career(邦題『険しい道』)”という自伝本として彼女の死後、1974年に出版されています。
*なお、英語版ウィキペディアでは実際に『アンの幸福』の誤誘導に基づいた算出が行われてしまっているため、アンが最初に物語に登場してから結婚するまでのタイムラインが1年前倒しになっています。(〜2021年3月現在。)
ブロンテとアン・シリーズの名前やエピソードの符合については近年ようやく注目され始めているようですが(2017年のNetflixのドラマ『アンという名の少女』など)、両者の年代の符合については、まだ英語圏では気づいていないことが推察されます。
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