1913年7月29日。
シャーロット・ブロンテに関する世紀の大スクープが、イギリスの代表的新聞「タイムズ」によって報じられました。
1842〜43年にベルギーのブリュッセルへ留学していた際に出会ったエジェ教授に宛てて、シャーロットがイギリスから書き送った手紙のうち4通が発見され、世界に公開されたのです。
そこに綴られていたのは既婚者である教授への恋心でした。
それまでは、『ヴィレット』で描かれたルーシーとポール・エマニュエル教授の恋愛は、作者であるシャーロットとエジェ教授の関係とは似て非なるものであり、シャーロットのエジェ教授への気持ちは生徒と先生の枠をはみ出るものではなかった、という解釈が一般的に受け入れられていました。
シャーロットが亡くなって2年後に、当時の人気作家でシャーロットとも親交のあったエリザベス・ギャスケルが『シャーロット・ブロンテの生涯』を描いて以来、定説となっていた道徳的なシャーロット像。
それがこのスクープによって一変し、研究者たちは堂々と自説を提示し始めます。
もちろんモンゴメリもすぐにこのニュースを知ったはずですが、なぜか日記には全く触れられていません。
しかしその1ヶ月後の9月1日に、長らく止まっていたアン・シリーズの3冊めとなる ”Anne of the Island” (邦題『アンの愛情』)の執筆がスタートし、それが1915年に出版されると、そのあと立て続けに ”Anne's House of Dreams”(邦題『アンの夢の家』1917年出版)、”Rainbow Valley”(邦題『虹の谷のアン』1919年出版)、”Rilla of Ingleside”(邦題『アンの娘リラ』1921年出版)を世に送り出すことになります。
このビッグニュースからモンゴメリはどんな着想を得たのでしょうか。
それは、自身の分身とも言えるウィリー・プリチャードとの大切な思い出、既婚者となっていたモンゴメリの秘めざるを得ない思いを、アンの結婚の時間軸と重ね合わせることで、アンの物語に埋め込んでしまうことでした。
1891年8月26日、一年間過ごしたプリンス・アルバートからプリンス・エドワード島に戻るその日に告白され、その後の6年間にわたる文通が1897年4月2日のウィリー・プリチャードの死で終わるまでに交わした二人のやり取りは遺されていません。
熱烈なラブレターの往復だったのかもしれませんし、そうではなかったのかもしれません。
もしかすると、ウィル(ウィリー・プリチャード)が他界したことで彼への想いがより深くなったのかもしれません。
何れにせよ、ウィルが他界した後も、モンゴメリは彼の姉のローラ・プリチャードと交流を続け、1930年には40年ぶりにプリンス・アルバートを訪ねた折に再会もしていることからもわかるように、ウィルはモンゴメリにとって終生特別な人であり続けました。
モンゴメリは、叶わなかった道ならぬ恋を最後の小説『ヴィレット』のなかで成就、昇華させていたシャーロットに倣おうと、『アンの愛情』以降の作品ではアンからギルバートへの戸惑うことない恋心を表現し始めます。
最初からウィルをモデルにギルバートを描いていたことは、最後までモンゴメリだけが知っている秘密であった訳ですが、その思いの証拠となる時間軸を物語に埋め込むことで、ウィルを失った実人生を空想世界で再構築しようとした・・・そうとしか思えないほどの一致が見られます。
18歳と半年になったアンが、憧れのレドモンド大学で勉学と猫と崇拝者たちに囲まれた4年間を過ごす『アンの愛情』。
この物語の最後で、22歳のアンは病に倒れたギルバートの報を聞き、自身の本当の思いに気づきます。
このプロットには、モンゴメリ自身が22歳の時にウィルをインフルエンザで亡くした死別体験が重ねられていることは、以前『もっと「赤毛のアン」を描きたかったモンゴメリ』や『ブロンテになりたかったモンゴメリ』で指摘した通りです。
そして「22歳の死別」を免れて相思相愛を確認したアンとギルバートが、前述したへスター・グレイの庭を共に訪れているのも興味深い符合でしょう。
二人はその後すぐには結婚せず、ギルバートは医科の道へ、アンはサマーサイド高校の校長の職に就き、3年間の文通の末に結ばれます。
この文通期間の物語は、21年後の1936年に出版された『アンの幸福』で描かれますが、「3年間の文通」という筋立ては、シャーロット・ブロンテの『ヴィレット』のラストシーンから取られたもの。
アンの結婚の前にその3年の月日を挿入することで、モンゴメリはウィルとの思い出をアン・シリーズの時間軸に埋め込むことに成功するのです。
これについては第8章 「1891年の夏の夢」でお話しすることにして、まずは『アンの愛情』に見られるシャーロット・ブロンテ作品のオマージュやモチーフを幾つかご紹介しましょう。
本来ならアンが16歳で入っていたはずのレドモンド大学に、遅れること2年。
アンとギルバート(とチャーリー・スローン)は、プリンス・エドワード島のお隣ノヴァ・スコシャに渡り、英領植民地時代にさかのぼる古雅な街キングスポートにある大学の門をくぐります。
アンはそこでクイーン学院の旧友プリシラと再会したり、フィリパ・ゴードンという天真爛漫で綺麗な女学生と出会いますが、フィリパはアンの生家のある「ボーリングブローク」の出身でした。
この地名は前述の通り、歴史上の人物ヘンリー・St.ジョンの別名と同じであり、またセント・ジョンと言えばシャーロットの『ジェイン・エア』の主要登場人物になります。
アンはプリシラと「オールド・セント・ジョン」という木陰の多い史跡墓地を歩き、墓銘を読んでは空想に浸りますが、そこで親友となるフィリパと出会います。
そして、アンの最初の下宿先の住所も「セント・ジョン街三十七番地」。
どうやらモンゴメリは、「ノヴァスコシアの架空の場所にヘンリー・St.ジョンにちなんだ名前をつける」こと好んだようです。
さて、アンの親友フィリパの造形は、シャーロット・ブロンテの『ヴィレット』に登場するジネブラ・ファンショーからと思われます。
ファンショーは、『ヴィレット』の主人公ルーシー・スノウと同じ船に乗って英国からベルギーに渡る最中に、ヴィレットという町にある寄宿学校をルーシーに教え、自身もそこに住むことになる英国人女学生。
『アンの愛情』のフィリパも大学の2年目以降はアンとプリシラ、そして2年から編入することになったステラ(ステラもクィーン学院でアンと同窓)の4人で「パティの家」という下宿に入りますから、同じ屋根の下に住むという設定が似ています。
ファンショーが相当の美人であるところもフィリパと共通した特徴ですし、派手でフワフワしたところやお金に本当の意味で困ったことのないお嬢様なところも、大金持ちの家の娘フィリパと似ています。
しかし、貴族との結婚を実現するために勉学そっちのけで実行に出るファンショーの積極的な性格を真面目なルーシーが煙たがるところは、お茶目なフィリパを愛しているアン・シャーリーと異なるところ。
また、念願通りに貴族と結婚したにも関わらず身を落としていくファンショーとは対照的に、アン・シャーリーの影響を色濃く受けたフィリパは、最後には金持ちのボンボンではなく愛する貧しい牧師と結婚し、自身の人生をたくましく歩いていく女性になります。
愚かだけれど憎みきれない『ヴィレット』のジネブラ・ファンショーを、モンゴメリはより肯定的に、アンに触発されて成長したフィリパ・ゴードンとして描いたのでしょう。
『ヴィレット』のラスト近くで、ファンショーがルーシーに宛てた手紙が読まれるのですが、『アンの愛情』のラストでは、フィリパが機転を利かしたお陰で死の淵にいたギルバートがアンの気持ちを知り、生還するというストーリーの仕掛けとしてフィリパの手紙が置かれています。
アンやフィリパが移り住む「パティの家」に、家政の担い手としてやってきたジェムシーナ ”Jamesina"伯母さんも、シャーロット・ブロンテ作品から生まれた人物でしょう。
彼女は可愛らしい白髪のおばあさんで、まだまだ危なっかしいところのある若いアンたちに様々な知恵を伝えます。
そのJamesinaという名前はJamesという名の女性形。
Jamesは、この後のシリーズで登場するジム(Jim)船長やアンの長男ジェム(Jem)と同じ名前です。
旧約聖書ではヤコブ(Jacob)のことであり、新訳聖書ではジェイムズ(James)と書かれていると、こちらのサイト様にありました。
このヤコブ(またはジェイムズ)のラテン語名がJacobusで、これがジャコバイトの語源となっています。
つまり、モンゴメリはJamesに因んだ名前の人物をたびたび登場させることで、マシュウの墓にアンが白バラを植えるエピソードと同様、「スチュアート朝を復興しようとしたジャコバイト」を暗に示しているのです。
ちなみにスコットランド王 James2/7世や James3/8世こそが、イングランド、スコットランド、アイルランドの3王国の正式な国王であるとする運動だった為、James → Jacobus(ラテン名)→ Jacobite(ジャコバイト)と呼ばれることになったとのこと。
しかし、プロテスタントの国である英国は、カトリック信仰を止めようとしなかった Jamesたちを再び国王として迎えることはありませんでした。
「私という人間が旧式」と言いながら、古き良き知恵をさりげなく教えてくれるジェムシーナ "Jamesina"伯母さんには、モンゴメリが抱く祖父母や曾祖父母が生きていたハノーバー朝(1714年〜1901年)時代への思慕が込められています。
この他にも、ギルバートの女友達クリスチン・スチュアート "Christine Stuart"の苗字が、アン女王のスチュアート家と同じであり、色々な意味でアンをヤキモキさせるように置かれていること、アンたちの二番目の下宿先の持ち主の名前「パティ」が、ブロンテ姉妹の父と長男の名である「パトリック」の女性名の省略形であったり、パティの同居人(姪っ子)の名前がブロンテ姉妹の母と夭折した長女と同じ「マリア(またはマライア)」であったりするなどの、ちょっとした符合が散りばめられています。
Missパティの語調を強めた次のようなセリフ、
「それはつまり、あんたがほんとに愛するということですか、それとも、ただ、この家のようすが気に入った程度のことですかね?【中略】娘というものは自分の母や主イエスを愛すると言うのと寸分変わらぬ調子で、蕪を愛するなどとは決して申しませんでしたからね。」『アンの愛情』村岡花子訳 10章より
には、まるでシャーロット・ブロンテの弟パトリック・ブランウェルが、愛していたのに裏切られたロビンソン夫人という既婚女性に対して放ちたかった言葉のようにも受け取れる、ブラックなユーモアが漂っています。
第2章3節「アン・シャーリーの誕生日」で触れたロイ・ガードナーは、ご存知の通り『アンの愛情』でアンと2年間も付き合った末に振られてしまうレドモンド大学の学友ですが、彼の役回りはそのまま、シャーロット・ブロンテの『シャーリー』でシャーリーに振られてしまうサー・フィリップ・ナナリー准男爵に符合しています。
「行状のすべてにおいてイギリス的な紳士であり、もちろん家系と富においては、彼女が要求しうる資格をはるかに越えていた」
ナナリー准男爵は、シャーリーの親族からは最も望ましい結婚相手と思われていた人物であり、その点でアンとお付き合いしていたロイと似ています。
ナナリー准男爵もロイ・ガードナーも、「主人公シャーリー」が結婚相手は地位や富では選ばない、ということを表現するための「咬ませ犬的キャラ」でした。
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