『アンの幸福』から3年後に出版されたアン・シリーズ最後の作品 "Anne of Ingleside"(邦題『炉辺荘のアン』)では、アンの末娘リラが生まれるあたりの顛末や、長男ジェムが母の誕生日に自分で稼いだお金でプレゼントを贈ろうと奮闘する様子など、炉辺荘に移り住んだアン夫妻と家政婦のスーザン、そして6人になった子供達の七年間の物語が描かれています。
七年間の主なエピソードはこちら。
1年目:1899年7月 月末にリラが生まれ、このときジェムは7歳。
2年目:1900年4月 マライアおばさんは55歳の誕生日に激怒して立去る。
3年目:1901年3月 母・アンの誕生日に、ジェムがプレゼントを贈る。6月生まれのジェムはまだ8歳。
4年目:1902年夏 10歳になったジェムは犬のブルーノと出会うが、ブルーノは元の飼い主のところへ。
5年目:1903年春 前年に助けられたコマドリのクックロビン、花嫁を連れて戻る。
6年目:1904年夏 ジェム12歳、入試の話もすでに始まっている。
7年目:1905年7月 月末リラ6歳、1898年に拾われた猫のシュリンプも7歳になっている。
前作で1年前倒しという操作がなされたタイムラインに沿って時間は流れ、7歳、8歳、10歳、12歳の計4回ほど記述されているジェムの年齢の全てが、生まれ年を1892年として数えられています。
物語の結末でアンとギルバートは「結婚15周年」を迎えますが、本来のアン・シリーズの時間軸では二人の結婚は1891年の9月ですから、1905年の秋はまだ14周年であることは前章で書いた通りです。
さて、モンゴメリが最後に描いたアンの物語『炉辺荘のアン』でも、シャーロット・ブロンテへのオマージュが随所に見られます。
この物語にはシャーロット・ブロンテの一番上の姉、Maria Bronte(マライア・ブロンテ)と同じマライアという名の女性が登場しますが、それがアンの家庭を引っ掻き回すギルバートの父のいとこ、Mary Maria Blythe(メアリー・マライア・ブライス)です。
マライヤおばさんは、マライア・ブロンテの誕生月と同じ4月生まれと設定されている一方で、シャーロットが『ジェイン・エア』で描き出したヘレン・バーンズ(マライア・ブロンテがモデルと言われている)とは「真逆」の、本当に嫌な女性として描かれており、ここでもモンゴメリお得意の反転対称がおこなわれています。
また、次男坊のウォルターにはこんなエピソードが。
アンがリラを産むとき、ギルバートが運転する車に乗せられてグレン・セント・メアリから6マイル離れたローブリッジの知り合いの医者の家に預けられたウォルターは、その家の腕白小僧達にアンが病気だと聞かされて、心配のあまり遠い道のりを徒歩で炉辺荘に戻るのです。
ウォルターが預けられた先の地名 "Lowbridge"(ローブリッジ)は、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』に出てくる "Lowood"(ローウッド)女学院の ”Low”と、その女学院のモデルで実在の学校である"Cowan Bridge"(カウアン・ブリッジ)の"Bridge"を合わせたネーミングでしょう。
カウアン・ブリッジは、シャーロットが姉二人に続いて入学し、すぐ後に妹エミリも入った寄宿学校です。
そこは衛生状態が悪く、マライアとエリザベスの二人の姉は栄養失調から結核になり、亡くなります。
その経緯をシャーロットは『ジェイン・エア』で、ローウッド女学院と名を変え克明に描写しました。
ウォルターが預けられたローブリッジと、カウアン・ブリッジがモデルであるローウッドは、どちらもひどい目に遭う場所として重なるのです。
若くして亡くなったウィルへの想いを、アンとギルバートの物語に編み込んだモンゴメリが、今度はそのことを隠蔽するために晩年に追加した『アンの幸福』と『炉辺荘のアン』。
そこには、共にわずか10歳前後で夭折した「エリザベス」と「マライア」というブロンテ姉妹の二人の姉が、本稿第2章3節でも触れた「アン・シャーリーと同じ誕生日の小さなエリザベス」と「マライアおばさん」という物語の重要なモチーフとして登場していることがわかります。
モンゴメリの育ての母である祖母は1836年、12歳の時に英国イングランドの東海岸の村 Dunwichからプリンス・エドワード島に家族と渡ってきました。
モンゴメリは新婚旅行でシャーロット・ブロンテの面影を追って、その頃まだ交通の便が甚だしく不便だったハワースの牧師館も訪れていますが、それだけでなく、この祖母の故郷も旅の最後に訪れています。
そしてその「故郷」で「1812年」に16歳で亡くなったことが彫られている ”Lucy Ann Woolner”という女性の墓参りをしているのです。
1812年と言えばモンゴメリの新婚旅行からほぼ100年前に当たります。
また、”Lucy Ann Woolner”という名前はモンゴメリの祖母の旧姓と全く同じであり、16才で夭折した彼女は祖母の父の妹であったことから、祖母のLucyという名前(その後、モンゴメリへと受け継がれる)はこの女性から受け継がれたものとモンゴメリが日記で思いを巡らせています。
実はこの「1812年」が、最後に執筆された『アンの幸福』と『炉辺荘のアン』のなかで、3回ほど暗示されています。
1つ目は『アンの幸福』の「第二年目の1章」で「千八百十二年の戦争」という記述。
2つ目は『炉辺荘のアン』の4章に、マライアおばさんの母の誕生年として。
これまでに述べた通り『炉辺荘のアン』は『アンの幸福』と同様に、アン・シリーズの本来の時間軸よりも1年前倒しになっていることに注意して、マライアおばさんの母の誕生年を計算してみましょう。
アンの長男ジェムの本来の誕生年は本稿第2章にあるように1893年ですが、『炉辺荘のアン』ではそれが1年前倒しされた1892年となり、物語の冒頭でジェムは7歳になっているとの描写があることから、
1892年+7歳=1899年から『炉辺荘のアン』はスタート
する物語ということになります。
そして、
「(拙注:メアリー・マライア伯母さんは)二年前にお母さんを亡くしなすったでしょう・・・・八十五でしたって」『炉辺荘のアン』村岡花子訳 4章より
と書かれていることから、
1899年ー2年ー85歳=1812年がメアリー・マライアおばさんの母の生まれ年
となることがわかります。
3つ目はリラ・ブライスの誕生にまつわる記述が、『炉辺荘のアン』8章で
「この海岸地方では八十七年ぶりという寒い七月の夜」
と置かれていることから、その87年前の寒い夜が
1899年ー87年=1812年
であることがわかります。
最後の二冊に隠すように置かれた「1812年」。
それは母方の祖母の旧姓と同じ名を持つ血縁女性が亡くなった年であると同時に、ブロンテ姉妹の父母が結婚した年でもありました。
その後、ブロンテ夫妻がシャーロットを始めとする6人姉弟妹を授かったことと重ねるように、アンとギルバートも長男ジェムから末娘リラまで6人の子供たちを育てます。
やがて成長したブロンテ姉妹が多感な時期を迎えていた頃、そしてモンゴメリの祖母が12歳でプリンスエドワード島に渡ってきた頃、英国はハノーバー朝の黄金時代を迎えますが、「ヴィクトリア朝」(1837年〜1901年)と特別に称されるこの時代が終わる頃、物語の中ではアンの末娘リラが生まれています。
モンゴメリの中に溢れるこの時代への憧憬が、アン・シャーリーの物語のもう一つの源泉であるといえましょう。
モンゴメリは『アンの幸福』の執筆を始めたことを1935年の「8月12日」の日記に書いているのですが、それはブロンテ姉妹の両親が結婚した年である「1812年」の「8」と「12」に符合する日を選んだと思われます。
Monday, Aug.12, 1935
Today I began to write Anne of Windy Willows----wrote fifteen pages and to my relief enjoyed it. As soon as I give my charaters their names they come alive for me and I am interested in their doings and sayings. "The Selected Journals of L. M. Montgomery"より抜粋 (拙訳:1935年8月12日月曜日 今日、『アンの幸福』を書き始めた----15ページを楽しく書き綴ることができてホッとしている。登場人物たちは名前を付けた途端に生き生きと動き始め、私は彼らの話す言葉や振る舞いに引き込まれていた。)
「1812年」と同様に、『アンの幸福』と『炉辺荘のアン』にはもう一つの暗示された年代があります。
それは「1812年」の100年後である「1912年」。
『アンの幸福』の物語は「九月十二日月曜日」という日から始まっていますし、『炉辺荘のアン』の執筆が開始されたことが綴られた日記の日付は1938年の「9月12日」。
「1812年」の100年後である「1912年」の「9」と「12」に符合する日を選んで記されたと思われます。
Friday, Sept. 9, 1938
I did spade work all the forenoon on some short stories but I have decided that on Monday I will begin writing A. of I. "The Selected Journals of L. M. Montgomery"より抜粋(拙訳:1938年9月9日金曜日 午前中いっぱいかけて『炉辺荘のアン』のエピソードをいくつか下書きし、来週の月曜日には執筆を始めようと決めた。)
Monday, Sept. 12, 1938
On this hot dark muggy day I sat me down and began to write Anne of Ingleside. It is a year and nine months since I wrote a single line of creative work. But I can still write. I wrote a chapter. A burden rolled from my spirit. And I was suddenly back in my own world with all my dear Avonlea and Glen folks again. I was like going home. But my eyes bothered me a good deal while writing. And Evan has a bad head again. "The Selected Journals of L. M. Montgomery"より(拙訳:1938年9月12日月曜日 こんなどんよりとして蒸し暑い日に、私は腰を据えて『炉辺荘のアン』を書き始めた。あの1行を綴ってから1年と9ヶ月も過ぎている。でも私はまだ書ける。一章を書いた。鬱いでいた心も晴れた。気がつくと私は、愛するアヴォンリーとグレンの人々のいる私の世界へと舞い戻っていた。まるで我が家に帰ったように。しかし、執筆中ずっと目の衰えに煩わされる。ユーアンも、また頭痛に悩まされている。)
振り返れば、1911年の祖母との死別とそれに続く結婚と新婚旅行という人生の一大イベントについて、その翌年1912年の1月になって初めて日記に綴っていたモンゴメリ。
これらの事実から、「1912年」が「1812年」と同様モンゴメリにとってとても大切な節目であったことが推察されます。
モンゴメリが『赤毛のアン』の執筆を始めた年は1905年だったということを1907年の「8月16日」の日記で書いたのは、シャーロット・ブロンテの生まれ年である「1816年」の「8」と「16」に符合する日を選んだからである、と第2章1節で書きましたが、それと同様のことをアン・シリーズのラスト2作でも行なっていたのです。
さて、これまで見てきたブロンテとの連関を簡単にまとめて見ましょう。
*『赤毛のアン』は、シャーロット・ブロンテとその家族、そしてシャーロット作『ジェイン・エア 』と『シャーリー』からのモチーフ
*『アンの青春』はアン・ブロンテと彼女作『アグネス・グレイ』と『ワイルドフェル・ホールの住人』、そしてシャーロット・ブロンテ作『シャーリー』と『ヴィレット』からのモチーフ
*『アンの愛情』はシャーロット作『ジェイン・エア 』と『シャーリー』、『ヴィレット』からのモチーフ
*『アンの夢の家』はシャーロットが袖にした3人の男性と、シャーロット作『ヴィレット』からのモチーフ
*『虹の谷のアン』はシャーロット作『シャーリー』からのモチーフ
*『アンの娘リラ』はシャーロット作『ヴィレット』からのモチーフ
*『アンの幸福』はブロンテ姉妹の夭折した次女と、エミリー・ブロンテ作『嵐が丘』、シャーロット作『ヴィレット』からのモチーフ
*『炉辺荘のアン』は、ブロンテ姉妹の夭折した長女と、シャーロット作『ジェイン・エア』からのモチーフ
『赤毛のアン』から始まるアン・シャーリーの物語は、ウィルとシャーロット・ブロンテという二人のkindred spritsへの思いを散りばめながら、『アンの娘リラ』でのアンの次男ウォルターの戦死という「悲しみ」と末娘リラの結婚という「希望」で幕を閉じます。
一方、ウィルとシャーロット・ブロンテという二人のkindred spritsとの関係性を示す時間軸上の手がかりを無くすために付け加えた『アンの幸福』や、それにつづく『炉辺荘のアン』でも、モンゴメリは二人のkindred spritsへのメッセージを込めながらアンとギルバートの「結婚15周年(本当は14周年)」という区切りでアン・シリーズを締め括りました。
時間を巻き戻す形で後から追加された『アンの幸福』と『炉辺荘のアン』。
そこに、若くして亡くなったウィルと二人で叶えたかったこと、結婚して一年も経たぬうちにお腹の中の赤ちゃんと共に他界したシャーロット・ブロンテが叶えたかったであろうことを、アン・シャーリーが幸せな婚約時代を送り、やがて穏やかな家庭を築いていくかけがえのない日常を綴ることで、創作の始めに確かにあった鮮やかなイメージを今一度嚙みしめていたように思われます。
最終章 へ