ア行
相田みつを(東京都、栃木県他)
【人物紹介】
詩人、書家。
栃木県足利市に六人兄弟の三男として誕生。
戦争で慕っていた兄たちを失ったことが、人生観に大きく影響した。
18歳で禅や詩歌を学び、後に書家を志した。シンプルで短い「詩」を、ぬくもりのあるやさしい字体の「書」と融合させ、独特の作風を作り上げた。
生涯、制作活動に一切の妥協がなかった。作品は今でも多くの人々に愛されている。
【相田みつをの言葉】
『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに、人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』
【参考URL】
安藤百福(大阪府、神奈川県他)
【人物紹介】
日清食品創業者、世界初のインスタントラーメン(チキンラーメン)の開発者。
失敗しても諦めないバイタリティーと「何か人の役に立つことはないか」、「世の中を明るくする仕事はないか」という信念の持ち主。
自宅の小屋で一人、インスタントラーメンの開発と研究に没頭。素人からのスタートで、山のような試作品を作っては、廃棄が続く。地道な研究の末、遂に世界初のインスタントラーメンが誕生した。
【安藤百福の言葉】
『発明はひらめきから。ひらめきは執念から。執念なきものに発明はない。』
【参考URL】
石井十次(宮崎県、岡山県他)
【人物紹介】
日本初の孤児院を創設。「児童福祉の父」と呼ばれる人物。
19歳の頃、キリスト教の洗礼を受け、信仰の道か医学の道に進むかを葛藤した。
母親から男児一人を預かったことをきっかけに、孤児救済事業を始める。明治時代には社会福祉制度がなく、資金は個人の善意や寄付に頼るしかなかった。「孤児教育会趣意書」を作成し、キリスト教関係者に協力を仰いだ。
医学への思いを簡単に断ち切れなかったが、生涯、児童福祉・教育に従事した。
【石井十次の言葉】
『天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ 相愛すべきこと』
【参考URL】
伊能忠敬(千葉県他)
【人物紹介】
江戸時代に日本全国を測量し、初めて実測による日本地図を完成させた人物。
50歳で江戸に出て、55歳から71歳まで10回にわたり測量を行った。完成した地図の精度は極めて高く、海外からの評価も高かった。
【伊能忠敬の言葉】
『歩け、歩け。続けることの大切さ。』
『夢追うのに早い遅いはない。追うかどうかだ。』
【参考URL】
植村直己(兵庫県他)
【人物紹介】
時代を超えた不世出の冒険家。
世界最高峰のエベレストに日本人で初めて登頂。
世界初の五大陸最高峰登頂者となる。
犬ぞり単独行として世界で初めて北極点に到達。「世界のウエムラ」となる。
冬期のマッキンリーに世界で初めて単独登頂したが、下山中に消息不明となる。
1984年、国民栄誉賞授与。
【植村直己の言葉】
『始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ』
【参考URL】
上杉鷹山(山形県他)
【人物紹介】
九代目米沢藩主。藩主に就いた頃、米沢藩は貧困に苦しんでいた。生涯を通して米沢藩の立て直しに尽力。
教育推進による人材育成や農政改革、地場産業の発展に取り組んだ。中でも織物業は盛んとなり、養蚕や絹織物業の発達により、藩の財政は大きく回復した。
【上杉鷹山の言葉】
『成せばなる 成さねばならぬ 何事も』
【参考URL】
カ行
北里柴三郎(熊本県他)
【人物紹介】
医師、近代医学の父と呼ばれている。
ドイツに留学。破傷風菌の純粋培養や免疫抗体を発見し、血清療法を確立。
帰国後、私立伝染病研究所を創立。伝染病予防と細菌学の研究に取り組んだ。
私立伝染病研究所の所長を辞任後、新たな医学研究機関「北里研究所」を創立。多くの優秀な門下生を輩出し、教育活動や衛生行政等の分野でも多大な貢献をした。
慶應義塾大学部医学科を創設。初代学長に就任。
2024年度より千円札に肖像が掲載される。
【北里柴三郎の言葉】
『医者の使命は病気を予防することにある』
『研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ』
【参考URL】
北原白秋(福岡県他)
【人物紹介】
近代文学に偉大な足跡を残した詩人。
早稲田大学に入学後、学業の傍ら詩作に励む。
詩集「邪宗門」「思ひ出」を発表後、名実ともに詩檀の第一人者となる。
「思ひ出」や「水の構図」などの詩集では、故郷の風景をつづった詩を多く遺した。
【北原白秋の言葉】
『自分の弱さを心から知り得たとき、人は真から強くなる。真の自分を見出す。』
【参考URL】
小村寿太郎(宮崎県他)
【人物紹介】
江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
明治時代には二度、外務大臣に就任。ポーツマス条約を締結し、日露戦争を終結に導いた。
日本の国際的地位を高めるために、列強諸国を相手に精力的な外交交渉を展開。幕末から続いていた欧米との不平等条約を改正し、関税自主権を回復させた。
【小村寿太郎の言葉】
『ことの善意は、その人の決心一つで決まる』
『日本には、まだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくるのだ。』
【参考URL】
サ行
西郷隆盛(鹿児島県他)
【人物紹介】
薩摩藩の下級武士の家に生まれる。
幼少の頃より儒学を学び、学問の道に進む。
島津斉彬に仕え、側近に取り立てられ活躍。斉彬死後は、国事に邁進。
坂本龍馬らの仲立ちで薩長同盟を結び、倒幕の動きが本格化。江戸幕府が倒れ、明治維新の立役者となる。
帰郷後、明治政府に不満を持つ士族達に頼られ西南戦争を起こし、戦地にて没する。
【西郷隆盛の言葉】
『敬天愛人』 天を敬い、人に対し慈愛の心を持つ
【参考URL】
渋沢栄一(東京都、埼玉県他)
【人物紹介】
日本の資本主義の父と呼ばれる人物。
明治維新後、民部省に務め、銀行制度や貨幣の調査立案を手掛け、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)を開業。
民部省を退官後、約500社の設立に関わる。
若者の教育や学校支援にも尽力。一橋大学や日本女子大学などの設立に関わる。
慈善事業にも尽力し、身寄りのない子ども達を育てる養育院の院長に就任。
2024年度より一万円札に肖像が掲載される。
【渋沢栄一の言葉】
『夢なき者は理想なし 理想なき者は信念なし 信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし 実行なき者は成果なし 成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず』
【参考URL】
杉原千畝(岐阜県他)
【人物紹介】
第二次世界大戦下、ユダヤ人の多くの命を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官。
公費で勉強ができる外交官留学生試験に、猛勉強の末に合格。
リトアニアのカウナスに日本領事館の開設後、日本領事館領事代理に就任。その頃、ヨーロッパではナチスによるユダヤ人の迫害が激しさを増していた。
ユダヤ人の受け入れ先が殆ど無くなる。ナチス・ドイツの強い影響の強い地域から逃げてきたユダヤ人の対処について、当時、国際的な問題となっていた。
多くのユダヤ人が領事館に押しかけ、日本への通過ビザを要求。日本外務省から承諾は得られなかったが、悩み抜いた結果、独断でビザを発行。
外務省を解職となる。後日、命を救われたユダヤ人がボロボロになった当時のビザを手に訪問。涙を流しながら感謝を告げた。
【杉原千畝の言葉】
『人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ』
『大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。』
【参考URL】
タ行
津田梅子(千葉県他)
【人物紹介】
日本女子教育の先駆者。
6歳の時、岩倉使節団の一員として親元を離れ渡米。以後11年間、アメリカの家庭で育つ。
17歳で帰国してから、日本とアメリカの女性の地位の差に驚愕。当時の日本では、女性が高等教育を受けることができなかった。
華族英語学校の英語教師に就任後、再度渡米。
帰国後、女子英学塾を創設。(現津田塾大学)
2024年度より五千円札に肖像が掲載される。
【津田梅子の言葉】
『環境より学ぶ意思があればいい。』
『何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。
成功させることはなお難しい。』
【参考URL】
手塚治虫(大阪府、兵庫県他)
【人物紹介】
漫画家、アニメーション作家。
ペンネームの治虫は、昆虫のオサムシからとるほど昆虫や自然を好んだ。
戦争体験から命の尊さを知り、医学の道を志したが、最終的には漫画家の道に進んだ。
未来社会や自然生物への敬意などを題材にした作品が多く、世界中の子ども達の夢を育んだ。
様々な新しい表現方法でストーリー漫画を確立。当時の文学や映画にも多大な影響を与えた。TVアニメーションでも同様、革新的な功績を残した。
【手塚治虫の言葉】
『最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。』
『好奇心というのは道草でもあるわけです。確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。』
【参考URL】
豊田佐吉(愛知県他)
【人物紹介】
トヨタ自動車の前身である豊田自動織機製作所の創業者。
全く知識のない状態から独学で学び、改良を重ねて世界最高水準の織機を作り上げた。
飛び抜けた発想力と情熱を持ち、自動織機の発明から自動車まで日本の産業発展に大きく貢献。
佐吉の精神は、現在でもトヨタグループの礎となっている。
【豊田佐吉の言葉】
『人間がやったことは、人間がまだやれることの100分の1にすぎない』
【参考URL】
ナ行
永井隆(長崎県他)
【人物紹介】
医師、随筆家。
長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学。放射線物理療法の研究に取り組む。
満州事変に幹部候補生として出征。この際、カトリックに感銘を受け、帰国後に洗礼を受ける。
太平洋戦争が激化する頃、ラジウムの放射線を浴びすぎた影響で白血病を患う。余命3年と診断された年、長崎に原爆が投下された。
妻と研究資料を失い、絶望を味わうも、目の前の現実に立ち向かうべく救護活動に立ち上がる。そこには、まだ誰も研究したことのない病気「原爆症」の研究が待っていた。おびただしい原爆症患者。助けたいという一心で患者の診察を続けたが、遂に自身も危篤となる。
病床から原爆症の研究と執筆活動を行った。後に、カトリック信者達が厚意で、博士のための新しい住まいを建設。博士は、その建物を「如己堂」と名付けた。
博士の二人の子どもや孤児となった子どものために、子ども達が自由に学べる私設図書室を設けた。博士の思いは世界中に感銘を与え、多くの寄付が集まった。
如己堂から発表される作品や言葉を通して、人々を励まし続けた。
【永井隆の言葉】
『己の如く人を愛せよ』
【参考URL】
新美南吉(愛知県他)
【人物紹介】
児童文学者。「ごんぎつね」や「手袋を買いに」など多数の名作を遺す。
幼くして母を亡くし養子となり、寂しく孤独な幼少期を過ごす。
中学校から童謡や童話を作り始め、雑誌に投稿。たくさんの作品が掲載された。
代用教員として勤務時、「ごんぎつね」などを発表。
東京外国語学校英語部文科に入学。英文学と児童文学の造詣を深めた。
病が原因で帰郷。女学校の教師として、自身や生徒作品を新聞に投稿。命を削るように作品を描き、多くの物語を残した。
没後、名声が高まり、次々と作品が出版され、教科書にも取り上げられるようになった。
【新美南吉の言葉】
『空想は尊い。空想にめぐまれた私は幸である。』
【参考URL】
二宮尊徳(神奈川県他)
【人物紹介】
江戸時代、報徳思想を唱え農村復興に尽力。
裕福な農家に生まれ、教育にも恵まれて育つ。しかし、異常天候による河川の氾濫で家の田畑が荒廃。復旧のため借金を抱え、一家は貧困に陥る。若くして働くことになったが、勉強することを欠かさなかった。
地道な努力を重ねて家政を再建。後に財政や農村再生の専門家として知られ、多くの地域を救済。
【二宮尊徳の言葉】
『道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である』
【参考URL】
ハ行
長谷川町子(東京都、福岡県他)
【人物紹介】
佐賀県小城郡東多久村に生まれ、幼少期を福岡で過ごす。
13歳の頃、父が死去。その後、一家で上京し、漫画家の田上水泡に弟子入り。
戦争の激化により、福岡に一家で疎開。
終戦後、再び一家で上京。夕刊フクニチで「サザエさん」の連載をスタート。
1969年、フジテレビでアニメ「サザエさん」の放送が始まる。
1985年、長谷川美術館会館
72歳で死去。その後、国民栄誉賞を授与。
2019年、アニメ「サザエさん」放送50周年を迎えた。
【長谷川町子の言葉】
『常に温かく誠実な一人の女性が、あるとしたら、社会的にどんなに見映えのしない、存在であろうとも、その人こそ、世の中を善くする、大きな原動力であると思います。』
【参考URL】
廣瀬淡窓(大分県他)
【人物紹介】
江戸時代の儒学者、教育者、漢詩人。
日田市豆田町の商家の長男として誕生。
幼少期より聡明で16歳の頃、福岡の亀井塾に入門。しかし、大病を患い3年で帰郷。
病は完治せず、将来を案じる日々が続く。学問教授を天命に、24歳で咸宜園の前身の塾を開く。
明治30年に閉塾するまで、多くの門下生を輩出した。
【廣瀬淡窓の言葉】
『咸く宜し』 どんな人間であっても天が造られた人間であるから全て良い存在
【参考URL】
福澤諭吉(大分県他)
【人物紹介】
下級武士の家に生まれる。
2歳の時、父親と死別。母親の地元、中津に帰郷。生活が苦しく、幼少期は下駄を編むなどして生活を援助。
中津の塾に入門、長崎で蘭学も学ぶ。後に適塾に入門。
渡米した経験を「西洋事情」にまとめる。
33歳の時、慶應義塾を設立。後に「学問のすゝめ」を発行
【福澤諭吉の言葉】
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
【参考URL】
藤子・F・不二雄(神奈川県、富山県他)
【人物紹介】
漫画家、脚本家。代表作「ドラえもん」など、多くの名作を残した。
手塚治虫の作品に影響を受け、漫画を描き始める。
デビュー当時から凄まじく盛況で多忙を極め、締切を超えることもあった。そのため1年間、原稿を通してもらえないという苦痛を味わう。
児童作品にこだわった結果、青年向け漫画ブームに取り残され、自ら少年誌の掲載を降板。最終的に大人向け作品の作成に携わる。苦悩や努力の末、「ドラえもん」が誕生。児童漫画の第一線で活躍し、最後まで児童漫画にこだわり続けた。
今では多くの国や地域で翻訳され、世界中の子どもたちに読み続けられている。
【藤子・F・不二雄の言葉】
『何事も諦めずに、ねばり強くやっていくことが必要です。わかってもらえないと嘆くより、わかってもらうための努力をしなければなりません。』
『子どものころ、ぼくは「のび太」でした。』
【参考URL】
本田宗一郎(静岡県他)
【人物紹介】
世界的自動車メーカー、ホンダの創業者。
静岡県浜松市に誕生。好奇心のかたまりのような少年時代を過ごす。
いくつもの発明を重ねて、一代でホンダを世界的企業に築き上げた。
1982年、日本人として初めて「自動車殿堂」に入った。
【本田宗一郎の言葉】
『チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ』
『少しでも興味を持ったこと、やってみたいと思ったことは、結果はともあれ手をつけてみよう。幸福の芽は、そこから芽生え始める。』
【参考URL】
マ行
水木しげる(鳥取県他)
【人物紹介】
鳥取県境港市出身。
太平洋戦争時、戦地にて左腕を失う。
戦地より戻り、紙芝居作家となり、後に漫画家に転向。「ゲゲゲの鬼太郎」などの代表作を遺す。
水木しげるの妻が執筆した自伝エッセイ「ゲゲゲの女房」がTVドラマ化。
【水木しげるの言葉】
『好きなことに情熱を注いで、人生を生きること』
【参考URL】
宮沢賢治(岩手県他)
【人物紹介】
詩人、童話作家、教師など多岐に活躍。
家業を継ぐことを拒み、童話作家になるべく上京。
帰郷後、教師となり農業指導を行う。その後、辞職し農耕生活を送る。
農民の生活向上を目指す活動にも着手したが、無理がたたり37歳の若さで生涯を終える。
生前は無名であったが、死後に評価され、今でも国内外で広く親しまれている。「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「注文の多い料理店」など生涯で多くの作品を遺した。
【宮沢賢治の言葉】
『雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている』
『人間は他人のことを思いやって行動し、良い結果を得た時に心からの喜びを感じるものである。その喜びこそ、人間愛に基づくほんとうの幸せなのである。』
【参考URL】
ヤ行
やなせたかし(高知県他)
【人物紹介】
漫画家、絵本作家、詩人。
漫画家を目指して上京。働きながら漫画を書き、投稿を続けた。漫画家として独立してからも、テレビやラジオなどの漫画以外の仕事もこなした。
代表作である「アンパンマン」を作成。戦時中に自身が体験した「飢え」がテーマ。当初は大人向き作品であったが、後に子ども向けの絵本として出版された。
TVアニメ「アンパンマン」の放送が始まる。テーマソングは、自身が作詞を手掛けている。
一時引退をしたが、東日本大震災をきっかけに復帰。被災地にポスターなどを送り支援を行った。
【やなせたかしの言葉】
『人生は喜ばせごっこ』
『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。』
【参考URL】