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「正直、誠実」などから「深い学び」について考えてみる

1 「深い学び」と「道徳的諸価値の理解」 

 平成28年の「学習指導要領等の改善及び必要な方策等」に関する答申(中央教育審議会)によれば、道徳教育においても「主体的・対話的で深い学び」の実現(224頁)が求められています。一般に、道徳科の授業でも「気づく」⇒「考える」⇒「広げる」「深める」などの学習活動がイメージされますが、それらは「深い学び」とどのように結び付いていくのでしょうか。

 実は、学びの「深まり」の鍵となるのが「見方・考え方」だと言われています。今回の改訂では、道徳科における「見方・考え方」は、その目標を踏まえ次のように示されています。

「様々な事象を、道徳的諸価値の理解を基に自己との関わりで(広い視野から)多面的・多角的に捉え自己の(人間としての)生き方について考えること」   

 こうしてみると、道徳的諸価値の理解がその基点の一つに置かれそうです。筆者が関わっている兵庫県教育委員会の指導資料(2020)においては、「道徳的価値の理解が深まるにつれて、自己を見つめる力も深まり、対話の内容も深まります」(2頁)と記されています。それらは相互に関連しながら「生き方について考える力の深まり」にも繋がっていくことでしょう。言い換えれば、私たちが道徳的諸価値についての理解を踏まえ、どこまで教材を読み込めるか、どこまで子どもの発言を受け止められるかが問われているのです。

 では、道徳的諸価値について理解するとはどういうことでしょうか。中学校の『解説』によれば、「道徳的価値の意味を捉えること、またその意味を明確にしていくこと」(14-15頁)とあります。私たちは日ごろ例えば「正直」や「思いやり」について自明のこと(わかりきったこと)のように捉えていますが、果たして十分にその意味を捉えていると言えるでしょうか。次節以降では、内容項目に係る道徳的諸価値を例示的に取り上げ、その意味世界に分け入って理解を深めながら、それらを具体的な教材に照らしてみると、あらためてどのような点が浮き彫りになるのか、一緒に考えてみることにしましょう。

2 「正直、誠実」などの意味

 言うまでもなく内容項目は、児童生徒が「人間として他者と共によりよく生きていく上で学ぶことが必要と考えられる道徳的価値を含む内容を、短い文章で平易に表現したもの」(『解説』)です。けれども、紙幅の都合から文章全体を取り上げることも難しいので、ここでは内容項目「正直、誠実」の中から、筆者の関心にしたがい、敢えて〔第1学年及び第2学年〕から登場する「素直」、〔第3学年及び第4学年〕で登場する「正直」、〔第5学年及び第6学年〕で登場する「誠実」というキーワードだけに着目してみます。

 まず、『広辞苑第六版』(2008)を開いてみると、次のように記されています。

「素直」…… ①飾り気なくありのままなこと。曲がったり癖があったりしないさま。
②心の正しいこと。正直。
③おだやかで人にさからわないこと。従順。柔和。(一部省略)(1512頁)

「正直」…… ①(ア)心が正しくすなおなこと。いつわりのないこと。かげひなたのないこと。
  (イ)率直なこと。ありのまま。(一部省略)(1379頁)

「誠実」…… 他人や仕事に対して、まじめで真心がこもっていること。(以下、省略)(1542頁)

 これらの意味の重なりも理解できるでしょうし、またニュアンスの違いも感じ取られることでしょう。

3 教材を手掛かりに考える

 では、具体的な教材に基づいて考えてみましょう。けれども、ここではキーワードだけに焦点化して教材を眺めるという限定がかかっていることを忘れないでくださいね。

(1)「金のおの」(『新訂 新しいどうとく❷』108~110頁)の場合

  イソップ童話から作成された教材「金のおの」では、きこりとともだちのきこりが登場します。斧が手からすべって池に落ちてしまったきこりは一心に自分の斧を探していたことでしょう。一方、ともだちのきこりはわざと池に斧を投げ込み、かみさまが金の斧をもって出てきてもうそをついてしまいます。

 「素直さ」の項(『現代倫理学事典』486-487頁)を執筆した池上哲司によれば、「素直さの本質はあくまでも心のあり方」にあるので、「なにをもって、ありのままとし、真っすぐとするか」そこに「素直さを確定する難しさ」があるとしています。その判断基準についても「ひたすら外に求めれば、素直さは外の権威に対する無批判な従順」となり、「かたくなに内に求めれば、独りよがりの自己満足となりかねない」としています。ではどこにフォーカスすればよいのでしょう。池上は素直さの座標軸として2点挙げています。

◆「自らの利害関心に一切とらわれないこと」

◆「事柄そのものに即してあること」

 きっと初めに登場したきこりの素直さはこうした点にあるのではないでしょうか。ともだちのきこりはこの2点を大きく逸脱してしまったのでしょうか。この場合、金や銀の斧をもらえるということは結果としてのご褒美にしか過ぎません。指導の際には、人間がつねにこの二面性を持ち合わせているがゆえに、対照的な二人を比べて「うそをついたりごまかしたりしない」正直さを問うことにはなるのでしょうけれども、それ以前の「伸び伸びと明るい心で」生活する「素直さ」の原点についても私たちは心得ておきたいものです。

(2)「ひびが入った水そう」(『新訂 新しいどうとく❹』24~27頁)の場合

  生き物係をしている「ぼく」はあやまってきれいにしていた水槽を蛇口にぶつけてしまい、水槽にひびを入れてしまいます。「ぼく」は水槽のひびと飼っているイシガメのカシオペアが気掛かりで何も手につきません。次の日、「ぼく」はカシオペアの元気な様子や水槽のひびをじっと見つめて、先生に一連の事情を正直に話します。

 この内容項目の系列に小学校中学年では「正直」の文言が登場します。厳密に言えば、「正しさ」、つまりよいとするものやきまりなどに適っていることや偽りのないことが求められます。では、人はなぜ正直でなければならないのでしょうか。「正直」の項(『現代倫理学事典』434頁)を執筆した清水正之は、その歴史的な経緯にも触れながら最後に江戸期に活躍した石田梅岩の言説を引用して次のように結んでいます。

「無欲の心や我欲の抑制は「生まれながらの正直」に人間性を「かへす」ため」であり、その連関での正直とは、不当な利をむさぼらないという意味だけでなく、自らの職分の誠実な履行と、人間の本然に従うという意味を担ったものであった(『都鄙問答』)。」

 ここに至って、「正直」が「人間の本然」に繋がっていることがわかります。一方、『解説』によれば、この学年段階では、うそを言ったりごまかしをしたりすることが「自分自身をも偽ることにつながる」に気付かせたり、「正直であることの快適さ」を自覚できるようにさせることが求められています(31頁)。それは、いわば子どもたちを生まれながらの人間性(人間の本然)にかへす、いざなう(誘う)ことなのですね。だからこそ、「あんなに暗かったぼくの気持ちは、すっと明るくなった。」のだと思います。

(3)「手品師」(『新訂 新しい道徳❻』102~105頁)の場合

 多くの先生方がよくご存知の「手品師」という教材です。あまり売れない手品師が大劇場のステージに立てるチャンスを断念して、男の子との約束を守るという内容です。この手品師の行動が「誠実さ」なのかどうか、よく議論の的になるところです。 

 さて、ここではまず「誠」について調べてみましょう。 『角川新字源改訂版』(2008、929頁)によれば、「誠」という字のなりたちは、「言と、かたく守る意と音を示す成(セイ)」とからなっており、「自分のことばをかたく守ってたがえない」ことと記されています。源義はこのようなところにあるのですね。まさに“言行一致”とも言えそうです。それゆえに次のような意味として用いられてきたのでしょう。

①まこと。(ア)まごころ。いつわりのない心。(イ)真実。事実。

②まことにする。まことを実現する。〔中庸〕「誠之者、人之道也。」(以下、省略)(929頁)

 また、竹内整一は我が国の古代神話、近世の儒学思想、西田幾多郎の思想を手掛かりに「誠実」の項(『現代倫理学事典』505-506頁)を執筆していますので、次に筆者の気にかかった部分のみ一部抜粋してみます。

◆古くから日本人の倫理観においては、他者に隠しだてをしないうしろ暗くない心を清き明き心(清心・赤心)として尊重し…(中略)…そこでの倫理は、何らかの客観的な規範や理法に基づいて考えられるのではなく、ひたすら心情の純粋さ、無私性の追求として求められる傾向を持っている。

◆(吉田)松陰にとって誠とは、実・一・久という実践性・専一性・持久性をともなった実践的・能動的なモラルとして考えられ…(中略)…。

◆西田幾多郎は、善の何たるかを問い、それを最も厳粛な内面的な要求に生きることとして、そこに人格の実現を見るとともに、それを至誠と捉えている(『善の研究』)。

◆ 誠・誠実の倫理は、これまで日本人の伝統的な倫理観の中核を形成してきたが、他文化・異文化との交流にいきねばならない今日においては、主観的な純粋性のみを先立たせるオプティミズムの問題点が指摘されている。

 ここからは、「誠実」が「素直」や「正直」の内容を重層的に含み込みながらより徹底されていることが見て取れそうです。「自分自身に対する誠実さがより一層求められる」や、その人の「誇り」を失ってしまうことにつながるという『解説』での記述(31頁)はこの辺りのことを踏まえているとも言えそうです。

 たった一人のお客様の前で、手品を演じているときの手品師の思いについて問われたとき、指導書では「すがすがしい気持ち」や「男の子のこの笑顔が見たかったんだ」と児童の反応が予想されています。「最も厳粛な内面的な要求に生き」ようとする手品師の自分自身に対する誠実さを感じ取ることが求められているとも言えそうです。事実、作者の江橋照雄は後年「手品師」に熱き思いを寄せて、「あなたの生き方を自己犠牲ととらえるのは、あなたを冒とくしています。いや、人間を冒とくしています。人間は、だれでも誠実に生きることを望んでいます。」(7頁)と書き記しています。私たちは児童が自我関与してその場面をどのように思い浮かべるにせよ、手品師の清々しさや晴れやかさ、爽やかさの源を辿っておく必要があるようです。

 けれども一方で、「手品師の立場でどう行動するかを考える」問題解決的な学習が否定されるわけではありません。竹内が指摘するように「主観的な純粋性のみを先立たせるオプティミズムの問題点」もあると考えられるからです。こうして「手品師」という作品は教師たちを魅了し続け、語り継がれてきたのです。

 ここまでお話を展開すれば、中学校教科書における「父のひとこと」(『新訂 新しい道徳❶』)や「金語楼さんのこと」(『新訂 新しい道徳❷』)にも相通じることはご理解いただけることでしょう。

〔*引用文中の◆印、下線、「…中略…」、( )内の補足等はすべて筆者〕

【引用・参考文献】

谷田 増幸 Tanida Masuyuki

兵庫教育大学大学院学校教育研究科 教授

[研究分野]
人文・社会 / 教育学 / 道徳教育
人文・社会 / 教科教育学、初等中等教育学 / 公民科教育