日時:2017年3月26日(日)13:30-17:40
会場:国立音楽大学AI(アイ)スタジオ
〇土屋憲靖(国立音楽大学3年)
「ドビュッシー『前奏曲集第二巻』より「霧」の楽曲分析 ~正体をぼかす霧―複調―の手法を読み解く~」
本研究は、ドビュッシー『前奏曲集第二巻』より第一曲「霧」を総合的かつ詳細に分析し、その芸術性を論ずることを目的とする。それに伴い、用いられている近代和声の書法や語彙について、既存の理論にあてはめながら論理的に考察する。
発表題目のとおり、「ドビュッシーは複調を霧に例えている」と私は考えている。すなわちこの曲の要は、まさにこの複調であり、実際に興味深い複調の書法を数多く確認することができる。例えば、半ずれ関係の3つのハ調(C,Ces,cis)が同時に奏でられる複調の書法は、従来の和声法から乖離した驚くべき書法であり、それだけに着目しても研究価値は高い。
しかし本研究では、単なる複調書法の分析に留まらず、楽曲を総合的に分析し、芸術性までも論ずることを目的としている。なぜならこの楽曲からは、書法という理論的視点からの技巧性のみならず、表現手法や楽曲構成というより芸術的視点からの技巧性も多分に見出しうるからである。その芸術的手法とは具体的には、”正体”と調的に対照させることで”霧”を表現するという構想、古典和声から踏襲された緊張と弛緩の律動、そしてその律動の中で、異なる複数の複調書法を対比的に組み立てることで完成された、変容する霧の様相の見事な描写である。
「霧」に関する評論・分析例はいくつか見つかったが、どれもこの楽曲の驚くべき複調性に真に迫り読み解くものではなかった。したがって本研究は、「霧」に見られる繊細で複雑な複調という近代和声語法に対して、初めて細密かつ論理的に考察し論ずるものであり、和声学やドビュッシーに関する研究などに広く資するものである。
〇伊藤 彰
「ヘルムート・ラッヘンマンの声楽作品《テムアー》(1968)に関する考察――ジェルジ・リゲティ《アヴァンチュール》(1962)との比較を通じて――」
本発表はヘルムート・ラッヘンマン(Helmut Lachenmann 1935~) の《テムアー》(1968 )を分析し、声楽作品における創作の一特徴を明らかにする。この作品は、ラッヘンマン自身のプログラムノートによれば「リゲティ(György Ligeti 1923~2006)の《アヴァンチュール》( 1962 )があるにも関わらず、 呼吸が音響的に伝えられるエネルギーのプロセスとしての役割を果たす最初の作品群の一つ 」であると述べている。つまり呼吸が音響的な役割を果たす重要な役割を担っており、呼吸が作品のテーマのひとつとなっている。本発表では、 呼吸が音響的にどのような役割を果たすのかを考察し、《テムアー》と《アヴァンチュール》を比較、検討することによって、ふたりが別の方法で同じ目的を実現していたことを示す。
ラッヘンマンは 70 年代より音楽の素材理論を発展させた。特に自ら「楽器による具体音楽(ミュージック・コンクレート)」と呼ぶ音の生成の機械的状態を、作曲の中に組み込んだ 方法論に基づきながら、現在に至るまで伝統的な楽器の音を異化することを、創作の核としている。ラッヘンマンの創作においては「楽器による具体音楽」の実践によって音を異化して用いるが、「歌声」もどのように異化して用いるかが創作上の問題になっている。《テムアー》は、「楽器による具体音楽」による最初期の実践であり、声楽作品または声が用いられる作品の中でもとりわけ重要な作品として位置付けることができる。
ラッヘンマンが《アヴァンチュール》について指摘した「呼吸が音響的にどのような役割を果たすのか」ということに加え、それぞれの作品で「声」と「器楽」にどのような音色的連関が見られるのかということについても、本稿の重要な分析の視点として考察を行った。その分析結果として 《テムアー》、《アヴァンチュール》共に 息音や叫び声などを「音色」、或いは「音響」の素材として用いた点では共通する。《テムアー》は「声」と「器楽」の音色的な連関が構造の要であるのに対し、《アヴァンチュール》はその関係性はごく一部にしか見られない。《テムアー》は「声」と「器楽」の音色的な連関、「同質の音色のブレンド」による音色的な連関をより発展的に探求した作品と言える。また《テムアー》の構造の中には、 聴取-期待の逸脱が組み込まれる。 同時代に創作された二つの作品は共に、 呼吸が音響的な役割を果たすが、その「構造」は互いに異なる手法で取り組んでいたと考えられる。
〇長井 進之介(国立音楽大学大学院博士課程研究生)
「F.リストの歌曲におけるテクストと調のかかわり」
フランツ・リスト(1811-1886)の歌曲はこれまで、不適切な抑揚やピアノ・パートによる過度の演出といった問題が指摘されてきたが、発表者はリストの主要な歌曲の分析を行っていく中で、上記のような批判を受けるリストの付曲は、テクストの内容をより明瞭に聴取できるために為されたものと考えてきた。今回はリストのテクスト解釈を検討するためのひとつの要素として、リストの調選択について着目する。
音楽における調性は非常に重要なものだが、科学的には調に独自の気分があるというのは作曲家の「思い込み」であるという主張もあり、それは実験で示されてもいる。しかしながら、「思い込み」であるからこそ、作曲家の意図や想いがそれだけ強く反映されているということにもつながる。とりわけテクストの内容に合わせて頻繁に転調するリストの歌曲では、リストのテクスト解釈と調との関係とは非常に密接だといえよう。
リストの歌曲全集に収録された82曲の歌曲の調を確認したところ、最も多く使用された調であるホ長調と変イ長調(各18曲)については、「祈り」や「安らぎ」を示唆した歌曲や直接的に「恋愛」を描いた歌曲に多く見受けられる調であった。調性格については、あらゆる時代で、様々な研究者によって述べられてきた。リストがどの時代の調性格論を把握、意識していたのかは定かではないが、少なくとも彼のヴァイマルの自宅では『一般音楽百科全書』(1838)の蔵書が確認でき、グスタフ・シリングの調性格論については知っていたことが明らかであった。なお、シリングの調性格論では、ホ長調を「燃えるような黄色、聖なる愛、率直さ」と説明している。また、リストのホ長調に対する、宗教性を中心とした調性格の捉え方は、ヴィルヘルム・ハインゼを除いた研究者やベートーヴェンを除くバロックから古典派時代の作曲家とは大きく異なっているものの、同時代のロマン派の作曲家(ベルリオーズ、シューマン、ヴァーグナー等)には同様の傾向が見られた。
リストの歌曲で調性がどのように使用されているのか、テクストの内容と共に検討すると、言葉と使用された調との間には一定の関係性が浮かび上がってくる。リストは歌曲全体の性格を一つの調で定めている場合もあるが、多くの場合、曲中で頻繁に転調を行い、テクスト一行の内容を表現するためだけに一時的な転調を行っている。以上のことから、リストが言葉に強いこだわりをもち、それを表現するための手段の一つとして調の選択を用いていたことがわかる。今回の発表では調選択とテクストの関係に絞ったが、今後は和声、音型といった要素を含めた分析、また他ジャンルの作品の音型との相関性を検討することで、よりテクストと音楽の結びつきの強さが明らかにしていく。
〇井上 征剛(山梨英和大学 准教授)
「大学における教養教育と音楽学――音楽を専門としない学生向けの授業で音楽理論をどのように活用するか――」
音楽の専門家養成を目的としない大学において、音楽学の知見を生かしつつ「音楽についての講義」を行うことは可能だろうか?
本発表は、その実践例を通して、大学教育において音楽学の知見がどのような位置を占め得るかについての考え方を検討するものである。
多くの大学では、「音楽についての講義」は一般教養の色が濃い選択科目として設定されている。つまり、音楽に専門家的な興味を抱く学生と、予備知識のほとんどない学生がともに受ける授業であることを考慮して、授業を準備する必要がある。ここでは、発表者が勤務校の山梨英和大学で実践している試みを例に、音楽学の知見を生かした「音楽についての講義」の方法について論じる。
初年次教育の一環として行われるオムニバス講義中の1回を使って行う、音楽学への導入となる講義では、長調と短調について実例を交えて概説を行う。この講義では、長調・短調が感情表現と直結する分かりやすい例を紹介し、音楽作品において調性が果たす役割について理解してもらうところから出発し、音楽作品全体の構造における調性の意味や、短調の中に長調が一瞬まざるというような、作曲家の「技」について理解するところを目標とする。
半年にわたって行われる「音楽史・音楽学」の講義においては、各回のテーマに沿って作曲家が盛り込んでいる工夫について解説する。たとえば、物語を描くオーケストラ作品において、楽器編成が果たす役割は何かといったことや、オペラにおいて歌われる旋律が登場人物の性格をどのように規定するかといったことについて、楽譜と音源をもとに具体的に解説することで、受講者は「音楽をなんとなくではなく、具体的に思考しながら楽しむ」手がかりを得ることができる。本発表では受講者の反応も適宜紹介する予定である。
今後は音楽学を専門とする者の、大学における役割を考えるためだけでなく、ラシック音楽の受容者の幅を広げるためにも、「非芸術系大学における音楽の講義」について、さまざまな可能性が検討されるべきであり、本発表がそのために一定の役割を果たすことができれば幸いである。