天塩川の歴史と変革(概要編)

参考資料「天塩川上流灌排事業誌」平成2年3月20日刊行(監修 北海道開発局旭川開発建設部)より

1 天塩川上流域

■流域市町村 士別市(2007年朝日町と合併)、名寄市(2008年風連町と合併)、剣淵町、和寒町

■士別市の位置 東経42°24′23″ 北緯44°10′23″(旧図書館跡)

■主水源 天塩岳(標高1,557.58m)

■流域面積 5,594.3k㎡

■流路長 256.2km

2 開拓前史

(1)アイヌの人々

いまから8千年ほど前から天塩川上流 多寄や士別にアイヌの祖先にあたる人々が住んでいたらしい この地方のアイヌの様子が紹介されたのは 1857(安政4)年 天塩川を遡って探検を行った松浦武四郎の「天塩川日誌」によってであり その15年後の1872(明治5)年 佐藤正克(宗谷支庁中主典)が調査を行い「闢幽(へきゆう)日誌」をあらわした

「天塩川日誌」「闢幽(へきゆう)日誌」のどちらにもシベツの酋長ニシパコロのことが書かれており この地方の有力者であった

先住民(資料では旧土人と表現されている)は 現在の士別橋下流付近に3戸 男7人 女5人が漁猟によって生活していたといわれ 九十九山の裏手 中士別0線付近に酋長ニシパコロをはじめ3戸居住していたことを この地方を知る唯一の先住民生存者北風磯吉によって確認されている

■酋長ニシパコロ

・明治29年まで士別に居住していたといわれている

・天塩川と剣淵川の合流点下流に鱒漁小屋をつくっていた

・1857年(旧暦6月)松浦武四郎調査の時 ニシパコロの家に宿泊している

・1872年(9月14日)佐藤正克の2郡(上川、中川)実情調査時には 名寄に越冬小屋を建て 天塩川の案内をしていた

 

(2)和人の足跡

■1797(寛政9)年 「蝦夷巡覧筆記」(松前東西地利)

高橋荘四郎 下国才蔵 南部郡平 牧田唐九郎

■1797(寛政10)年 北海道周辺に外国船がひんぱんに現われるようになったころ

渡辺久蔵(幕府目付) 大河内善兵衛(使番) 三橋藤右衛門(勘定吟味役)らが蝦夷調査を行う

■1807(文化4)年 近藤重蔵の上川探検「蝦夷地図式」にシベツという地名が記されている 士別という地名が地図に載った始まりか

■1845(弘化2)年 松浦武四郎が初めて蝦夷地を探検

■1857(安政4)年 松浦武四郎が丸木舟で天塩川を遡る

※背景には 1853(寛政6)年 ペリー プチャーマンの来航により 北方防備の必要性があった

 

3 開拓のはじめ

■1869(明治2)年 開拓使設置 天塩国上川郡と命名(郡名はあるが村名はない)蝦夷地から北海道へ

■1886(明治19)年 植民地選定事業 開拓適地調査の実施

■1887(明治20)年 上名寄 名寄 士別 剣淵の4カ村に分かれる

■1891(明治24)年 「シベツ原野」を始めとして開墾し得るべき土地を計上(1.8h)

■1897(明治30)年 新保寅吉(石川県人)剣淵村字ビバガラウスに移住

■1898(明治31)年 大内勇記(宮城県) つくも橋下流砂利採り場付近に越冬小屋をつくる

河南政二郎 天塩川と剣淵川合流付近に小屋をつくる

道庁技手佐々木五郎治 つくも橋付近に居小屋を構え 屯田兵給与地測定 兵屋建設

■1899(明治32)年 上川支庁所属となり剣淵村に戸長役場設置屯田兵が士別村、剣淵村に入植 中隊長名越源五郎

天塩川上流域の開発は急速に促進された

屯田兵の施設 大通り東1丁目に第5中隊本部・官舎・倉庫・雨覆練兵場 小学校 兵屋は大通りを挟んで東側と西側に50戸ずつ計100戸建設された 間もなく1戸が焼失99戸となり 九十九の名称が残る

□全国から指定された港を経て家族を伴い小樽へ そこからは汽車で旭川へ(石炭運搬) 汽車で旭川から和寒へ そこからは徒歩によって士別村に入る

■1902(明治35)年 士別村に独立役場設置

■1913(大正2)年 士別村から上士別村が分村

■1915(大正4)年 剣淵村から和寒村が分村

■1927(昭和2)年 剣淵村から温根別村が分村

■1938(昭和13)年 士別村から多寄村 風連村が分村

■1949(昭和24)年 士別村から朝日村が分村

■1954(昭和29)年 士別市が誕生する 士別町 上士別村 多寄村 温根別村が大同合併

■1959(昭和34)年 yamasemiこの世に生を受ける

屯田兵が北海道の各地に入植して以降 士別は最後の入植地となり 厳しい環境の中で開拓が進められるとともに開墾による農業を命の源とするべく 未開の地を切り開く努力が重ねられてきた

【士別よもやま話】(正・統合本 復刻拡大版 平成20年2月29日発刊)より

中隊の建物は現在の大通り東1丁目に建っていた 現在の寺田病院のあたりに中隊の倉庫 その裏側と南側に中隊幹部の官舎があった

兵屋は神社通り以北に並んでいた 神社通りと大通りの東百五十間(約270m)四方が練兵場で 兵屋は大通り西側に二十四戸 東側の練兵場の地続きに二十戸 神社通りのグリーンベルト以東の北側に十戸(東十戸) 同通りの鉄道線路以西に六戸(西六戸) 大通りに直交する北七丁目通りグリーンベルト以東の両側に二十戸(東二十戸) 同通りの鉄道線路以西の両側に二十戸(西二十戸) 合計百戸であった

兵屋の大通り東側はエンジュの木などが生えた原野のような感じの土地で 西側はヤチダモの繁る湿地であったという

兵屋は道から十五間(約27m)引っ込んだところに建っていたが 背丈以上もあるクマザサや大木にさえぎられて 道路からはかすかに屋根が見えるぐらいであって 自分の家をさがすのにも骨が折れた

・屯田兵屋の構造:木造平屋建て、間口五間(約9m)、奥行三間半(約6.3m)、十七坪五合(約57㎡) この屯田兵屋は士別市立博物館敷地内に復元されています

 

剥いで枯死させていた 笹や下草は木の枝とともに火を放って焼いた 焼き払った笹地の熱いところは鍬でうねを切るのでさえ容易ではなかった 粗食 粗衣 粗末な開拓小屋で開拓一筋に精魂を注いだ先人の苦労は大変なものだったと想像できる

これら開墾された地では 蕎麦(そば) 麦 唐黍(とうきび) 南瓜(かぼちゃ) 馬鈴しょなど季節のものを自家食料として育てていた

屯田兵は給地として一戸当たり5町歩(約50,000㎡・100m×100m×5区画というイメージ)を農具及び家具と共に与えられ 午前は訓練(軍事) 午後は家族と共に農耕に従事していた

急速な開発の要となったのは鉄道の開通が比較的早かったことによるもので 1899(明治32)年に和寒 1900(明治33)年に士別 1903(明治33)年に名寄まで開通し これを契機として入植者が急増し 広大な原野は次々と開拓が進められた

 

【士別よもやま話】より

入植当時 基線にはまがりなりにも道路がついていたが 河川には橋が架かっていない所が多かった 屯田兵が入った当時は 難波田橋や名越橋のところには丸太を並べて土盛りした橋が架かっていたという この他の場所には橋がないので渡船にたよっていた

士別で最初の渡船場は今の士別橋のところにあった大内渡船場である(官設) とのかく一時は中士別四線原渡船場(現在の中央橋付近) 上士別十九線渡船場 二十七線のパンケ渡船場 多寄三十二線の官設渡船場 中士別零線の菅原渡船場(現在の九十九橋)といった具合に沢山の渡船場があった

これら入植者は本州からの各種団体であったため 米に対する思い入れが強く 1889(明治32)年に屯田兵による試作を始め一時中断(軍命令)はあったものの 1906(明治39)年に本格的な試作が始まり 1909(明治42)年の水田耕作は50町(500,000㎡・100m×100m×50区画というイメージ)となった(畑3,600町)

注:資料では 現在の和寒 温根別を含むと解説されている

 

□土地地域畑作景気

■1874(明治7)年 日露戦争の勃発により 軍用馬糧 木材搬出馬の馬糧として燕麦(えんばく)の需要が増加した また大豆 小豆 菜豆(サイトウ/インゲンマメ) 亜麻(リネン)などの作付が増大した

■1902(明治35)年 ハッカの栽培が始まり 価格の暴騰もあったことから 作付が急増して北海道屈指の生産地が増大した

■1903(明治36)年 下士別に澱粉工場が操業されてから 周辺各地域でも操業が始まった

■1907(明治40)年 大正初期までハッカが盛んに栽培され ハッカ成金が続出して一時は北海道でも屈指の生産地として注目を浴びたが 次第に地力が減衰し 疫病がまん延して作付は減少していった また 大豆や小豆も自家用と販売作物として広く栽培された

■1916(大正5)年 馬鈴しょは開拓当初から栽培されており 土地・気候に適した作物で 作付面積もしだいに増加し 第1次世界大戦勃発の2年後には 澱粉価格は高騰し 澱粉王国となった しかし 大戦の終結により それまで好況だった畑作作物は価格が暴落し 澱粉工場は軒並み閉鎖を余儀なくされたため これより以降は水田への移行が始まった


□土地耕作の稲作

■1890(明治33)年 稲作の試作が始まる

■1921(大正10)年 水稲面積69ha

■1922(大正11)年 水稲面積413ha

■1926(大正15)年 水稲面積2,088ha その後増加の一途をたどる

■1931(昭和6)年 水稲面積3,572ha

第2次世界大戦が激しくなり 供出割当制度 労力不足 肥料や農機具などの不足に災いされ減反しはじめたが 1954(昭和29)年産米を最後に供出制度が廃止され 新たに産米予約集荷制度が実施となり 安定した米価と品質改良 化学肥料 農薬の進歩 耕作技術向上 機械化などによって水田耕作面積が増加した

■1959(昭和34)年 水田と畑地面積は同程度

■1960(昭和35)年 産米出荷数 全国一市町村最高出荷数を記録31万5,133表 記念式典開催

■1964(昭和39)年 水田6,917ha 畑4,311haとなる

■2012(平成24)年 現況作付面積(士別市ホームページから)

水稲 約3,100ha 小麦 約1,600ha 大豆 約1,300ha 小豆 約680ha

甜菜(ビート)約600ha 馬鈴しょ 約260ha 玉ねぎ 約170ha

南瓜(かぼちゃ)約320ha ブロッコリー 約110ha 大根 約90ha

 

この地域で発展してきた農業 特に稲作において 最も重要であったのは積雪寒冷地での苗の育成技術 河川の氾濫による水害対策 安定した水源の確保であったと思われる その中で 天塩川を水源とする流域では 水田の急速な増加に伴い 冷害 水害 水不足に幾度となく襲われ その度に大変な苦労を強いられてきた その歴史を振り返ってみたい

 

4 天塩川流域の歴史

資料からは1955(昭和30)年ごろの状況であると推測されるが 明治後期から小渓流 小沼などを水源として水田の試作に成功したことにより 次々と小規模に開田されたが 個人や数人の共同では水利が限界となったため これよりわずか25年間に1万数千haにもおよぶ大規模水利施設を建設したが 支流域の流域が狭く 天塩川本流も奥地への開発に伴い下流域は順次水量が低下 造田の増加により水利権許可の無い自己開田も混在し 水源が大きく不足する事態となった

取水施設としては本格的機能を持つ天塩川本流に建設されている取水施設 小規模な固定堰と取水口のみのものもあるが これらの施設は大部分老朽化と機能不足がみられ 将来とも継続使用できる状態のものは少なかった また 大正末期から昭和初期にかけ北海道土木部土地改良課の建設された取水施設が8か所残されており 天塩川本流及び支流と貯水施設によって水源を確保してきた

しかし 天塩川上流域の急速な農地開発に伴い水源林の減少 推理施設の老朽化が著しく渇水時の取水が困難になり くわえて 上流部の水利権を5月中旬から6月中旬まで約1か月間以上必要であったため 下流域では水量不足による遅れが生じて減収となることが多かった

また 異常低温への対策として深水かんがいをおこなわなければならないが 異常低温の多くは7月に襲来するが この時期は北海道全体の乾季に当たり源流の水量が枯渇するため 上流域の水利位置の有利な所は取水を増加させるるため 下流部では用水不足に陥ることとなり低温被害を一層大きく受けていた

現在 士別市は農業を基幹産業として発展をとげてきたが 天塩川が流域に与えた恩恵は大きく 流域の農業開発を支えてきた しかし 急激な開発による様々な問題があったことも事実であり この問題を解決するべく「天塩川上流域の開発と米作問題」の調査に着手することとなった 昭和35年に遡る

 

5 天塩川上流域開発の事業構想から着手

まず当時に天塩川上流域の特殊な悪条件として挙げられているのが

1 水源が枯渇し 農業経営を困難にしている

2 河川の洪水による災害が甚だしい

3 付近に適当な就労がなく 過剰人口を多く抱えている

と記されている

往時 天塩川上流域は鬱蒼たる一大森林地帯をなしていたが 干拓の進捗と 特に戦時戦後の森林開発によって 森林の減少と共に保水力を失ってしまい 大小河川の水量不足によって農業生産に悪影響を及ぼすに至り 河川の氾濫は 強雨や融雪によって1年おきに災害が発生した くわえて 安定した就労場所(企業)を求めることが困難であり 地域の発展を妨げていたと思われる

これら特殊な悪条件を克服し打開するために調査を昭和25年に開始し昭和35年に終了するが 電源開発 補水 洪水対策としてダム建設を中核とする地域総合開発計画の一環として その実現を待つばかりとなっていた

開発計画の重点として 一つは水害防止による民生安定と経済安定とされていて 一例ではあるが昭和28年7月 昭和30年7月には大規模な水害が発生しており 大なり小なり ほとんど毎年のように水害が襲来しているため これを防ぐことが最も重要な問題であり ダム建設により 洪水調整をおこない この地域から水害を駆遂して 民生の安定と経済安定をも達成しようとするものである また もう一つの重点として補水対策を必要としている

当時の渡部以智四朗(北海道立農業研究所長)さんは「この地域の補水問題は極めて重大であり 補水の完成によって水稲生産力は大いに高くなるだろうし 農家経済も今とくらべてかなり良くなるだろう」と言われている

ただし 資料によると この地域での造田化が必要であるとの根拠を示す必要があり それらは要約すると以下の通りとなっている

1 昭和30年以来全国的に6年続きの豊作に恵まれ 米の需給関係はかなりの安定性があると考えられるような状況で 批判の眼を向けられやすい北海道米は 品質が不良 冷害の危険性が大きく 安定した供給地として不安視されてきたようだが 稲作の立地移動から予測すると 西日本は水田が宅地や工場用地となっていく傾向が強く潰廃が行われ 東日本は畑地その他から水田に転換する可能性を多く包蔵していることから 今後10年間に新規開田20万町歩を見込むとすれば 北海道は開田対象地域としての優位性を当然認められてよい

2 農業政策の中では 農業生産の成長率を3% 農業就業人口減少率2%として 農業就業者1人当たりの所得の成長率を5%と定めて この目標達成のために成長財の選択的拡大 自立経営の育成と協業化の推進を主内容とする経営構造改善対策を樹立するべきことをうたっていることから 上川管内では その当時の各市町村がこう述べている 和寒町は「耕地が狭い 造田の余地も乏しいが 各地区の原野未利用地をできるだけ開発し農地拡大に役立たせる また 既存水田の大半は溜池かんがいに依存して水不足となっている この補水と経営改善のため岩尾内ダムの建設を早急に建設されることが望まれる」 剣淵村は「耕地面積が狭い 水不足による畑還換元 傾斜地の荒廃による耕作放棄 土地配分の不適正が考えられ 原野未利用の地の開発 中央平坦部の造田のため既存水田の補水とともに新規開田を促進するため 岩尾内ダムの建設推進が必要とされている」 士別市は「全般的に耕地の零細化傾向にあり 岩尾内ダムの建設と関連して 既存水田の補水と畑作地帯の自家食料確保に重点を置いた造田を推進し また 開畑を促進して飼料自給度を高める必要がある」として農業政策の重点地域であり 農業開発計画の推進を要望している

ここまでで ようやく資料の三分の一を過ぎたところまで進み 岩尾内ダムが国の農業政策に大きく係り 将来の農業を託されて計画が策定された一部に 天塩川上流域の補水 水害 農業経営 寒冷地の稲作などを総合的に判断され 天塩川上流域を活用するとした岩尾内ダム建設に至ったものと考えられます。

 

それでは これら事業の構想から事業着手までを簡単にご紹介します

■昭和27年7月 特に農業用水の確保を図るための水利開発に併せ 昭和26年 道電源開発本部が電力開発(天塩川上流ポンテシオ地点に堤高60mのダム建設)のため本格的に天塩川に取り組んだことから この計画は一層具体化し 国営士別地区土地改良事業の申請を行う

※計画では 岩尾内ダムを調整池としての役目をも有するとし これと合わせて用水の確保を計画していた

■昭和28年 士別地区国営土地改良事業申請予備審査合格

■昭和29年 直轄調査 本局農水部計画課

■昭和30年 直轄調査 旭川開発建設部

※水源の統合 これまで2か所のダムで水源を確保するとしていたが 岩尾内ダム単独で行った方が良策であるとした

■昭和35年 ダム概略設計着手(岩尾内ダムを特定多目的ダムに移行)

※国の治水10か年計画前期5か年に組み入れられる(建設省管轄となる)

■昭和36年 第一次計画案の完成

■昭和37年 直轄調査終了

※全体設計費の予算化はされず第二次計画完成

■昭和38年 本事業の全体設計認められなかった

※開田1,000ha削減計画案概要書作成

■昭和39年 第三次計画書作成着手・完成

※岩尾内ダム建設に関する基本計画案完成(多目的:洪水調整、農業、上水道用水確保、電力開発)

■昭和40年 全体設計調査を完了、第四次基本計画策定

■昭和42年7月31日 天塩川土地改良事業計画確定

※同年8月1日 士別川頭首工工事用道路、下士別頭首工右岸、士別川・天塩川第一・下士別の各幹線用水路および取水塔に着手

昭和46年 岩尾内ダム完成

■昭和47年 開田削減を機に計画変更作業着手

※変更概要:受益面積の減、代掻き期及び期間の変更、深水配水期間の延長、落水期の増量、苗代用水の導入

※釣り人豆知識

苗代用水 5月1日から5月16日

代掻き期及び期間 5月17日~5月31日 15日間

深水配水期間 7月1日~7月15日 15日間

落水期の増量 8月29日まで普通期の水量を均等送配

昭和27年の構想から着手までに15年を要し 天塩川上流域の農業を中心とした水源確保と水害を断つために さまざまな歴史を重ねながら上流域の姿が完成されたことを思うと 今、この時代に ここに生きている自分たちは ここから多くの恩恵を受け取っていることを忘れてはならないと思う

釣り人として 天塩川をフィールドとして 天塩川の歴史を受け継いできたものとして ここで遊ぶ釣り人は 先人の果たしてきた役割に尊敬を念を抱き 天塩川を大切に生かし続けてほしい

 

今は穏やかな様相の天塩川も過去には大きな水害の歴史があった

参考資料「天塩川治水史」平成元年3月発刊(監修 旭川開発建設部 留萌開発建設部)

「士別市史」昭和44年4月1日発刊(士別市)より

■明治31年 記録なし

■明治37年7月9日~11日まで 降雨量130mm

※被害状況推測資料

小樽新聞 明治37年7月29日付記事 水害土木復旧費 上川110,080円(道内2番目)

士別市史 犬牛別川の鉄橋上1.2m余の水位まで達したと伝えられている

※現在の温根別町が当時の地形と同じであれば、ほぼ全ての地域が冠水してしまったと考えられる また 士別、多寄、上士別、朝日なども同様に大きな被害であったと想像できる

■明治44年8月16日~17日まで 降雨量 130mm

※被害状況推測資料 不明

■大正11年8月24日~25日 降雨量不明118.2mm(明治31年に匹敵する大惨害と記述されている)

小樽新聞 大正11年8月26日付記事 名寄町方面の記事によると 暴風 旋風 雷鳴 建物倒壊と記述されていることから 相当大型の台風であったことが想像できる

士別市史 天塩川に架かっている鉄道橋が落ちて 5日間列車が不通となり徒歩連絡により列車は折り返し運転をした

■昭和7年8月4日~5日 14日~15日 24日 31日 9月4日~5日 8月降雨量300~400mm

降雨量 174mm(8月上旬上士別) 143mm(8月下旬下士別)

※被害状況推測資料

士別市史 河川増水表 天塩川(士別町中士別観測点)既往最高増水位高2.32m 8月16日洪水増水高1.65m

  耕地被害面積 2,252.8ha

鉄道の被害 不通時間50.35時間(9月1日~3日)天塩川士別鉄橋築堤決潰

浸水面積 士別町 821.5ha 上士別村 482.8ha 多寄村 1,422.5ha 温根別村 558.3ha

浸水家屋 士別町 84戸 上士別村 30戸 多寄村 232戸 温根別村 150戸

記述されている内容から この年の8月は連続して大雨に見舞われることとなり 復旧が終了しないまま次の大雨がくるため 築堤 田畑 鉄道に徐々にダメージが蓄積されたことが想像でき 多寄村では浸水面積と家屋の浸水が飛び抜けて多く 避難の対応は混乱しただろう

■昭和14年7月28日~30日 降雨量 平地173mm 山地帯 200mm

※被害状況推測資料 不明

■昭和28年7月7日~9日 19日~22日 7月31日~8月1日 降雨量 149mm(上士別)

※被害状況推測資料

士別市史 上士別村では内大部に所存する士別土地改良区の貯水池が 8月1日午前11時20分ころから堰堤(えんてい)を溢流し出したがその時 上流地点から高さ2メートル余の山津波が貯水池になだれ込んだため 堰堤が一挙に決潰し 瞬時にいて貯水池より天塩川沿岸に及ぶ一帯390ヘクタールの田畑を流失または埋没し 流失 倒壊した建物51棟に及び死者1名 負傷者5名を数え さらに道路 橋梁を決壊流失した軌道を押し流した 下流では九十九付近の築堤決潰・浸水 多寄地区では堤防決潰するなど 災害救助法を適用した

■昭和30年7月2日~4日 降雨量 173mm(上士別) 195mm(中士別) 8月末まで662mmの降雨

※被害状況推測資料

士別市史 住宅の被害 流失・床上浸水・床下浸水 合計2,342戸(12,802人)

耕地被害 393.5ha

道路・河川被害 道路決潰 38か所 橋梁流失・破損142か所 河川66か所

昭和28年から わずか2年後に再び大きな被害をもたらすこととなった河川の氾濫 この年も災害救助法の適用により応急措置を講じている

■昭和48年8月18日~19日 降雨量 165.6mm(岩尾内) 被害記録不明

■昭和50年8月22日~24日 降雨量 211mm(士別) 被害記録不明

■昭和56年8月3日~6日 降雨量280mm(朝日町) 被害記録不明

※昭和46年に岩尾内ダム完成後 降雨による被害の記録が士別市史には記述されていないことから 築堤 切替による直線化 護岸改修等 順調に洪水対策が講じられてきた効果によるところが大きいと想像される

ここからは 天塩川上流域に生息する(生息していた)動植物 昆虫などの姿とともに 天塩川の表情がどのように変化したかを見てみます

 

【士別よもやま話】より

多寄?三線の淵でマスやイトウが群がっていて稀には犬牛別五線で正味十尺(約3.3m)もあるイトウを 十一線の後藤さんがとらえたこともあった

 昔は 天塩川や支流でも 季節ともなれば面白いようにアキアジがとれたという話をよく聞く 大正中期からは 澱粉工場の廃液などで河川が汚染されたり あちこちに土功組合の堰堤などができて ひと頃からみると天塩川を遡るアキアジの数も ずっと少なくなったといわれるが 大正十五年に秋のアキアジが記録的にとれたことがある この年の五月二十四日 十勝岳が大爆発を起こして 溶岩や泥流が石狩川に流れ込んだため 石狩川を遡るアキアジが大挙して天塩川に押し寄せてきた 多寄の日向農場の人などは舟を持っているし 漁業権もあったので 農場の近くの天塩川で 増毛あたりから網を取り寄せたり 漁師の応援を頼んだりして 盛んにとったものだ 一度網をかけると三十尾も四十尾もかかったという

 原始時代から開拓期まで 天塩川の漁業はさしたる変化もない形で行われてきた 天塩川の漁業といっても食生活の一部としてのそれであって その方法も「テシ(やな)」や「ヤ(小さい網)」あるいは「マレブ(かぎヤス)」で一本ずつ取るというのみであった

屯田区画の北公有地に杭が打たれる頃 ここへ移って合流点(剣淵川と天塩川の合流点?)の中島にトメを設けて魚の捕獲にとりかかったのが河南一族の漁業のスタートであった

当初はチョウザメやチライの大物が入るとこわれてしまうので トメには「簗(やな)」はつけず「棚」という部分に来るのを「脈糸」で聞いてタモですくいあげる方法を用い アキアジを一日一万本ずつもとったという もちろん一日の処理能力が一万本だったわけで とればいくらでもとれるということだった

さて鮭鱒に混じってとれるのがチライやアメマスの大物や サケ マスにしてもスケという名で呼ばれる仮性陰陽の年経た化け物のようなものから いまでは釧路川あたりで多少とれるだけになった「ベニザケ」や「王鮭」も混獲され 釧路川?ではチョウザメも良くとれたというし いまでは美深の下流でなければいない「いしかじか」の尺五寸(約45cm)のものだとか「きたうぐい」の二尺(約60cm)のものが無数にとれ サケやマスにあきた漁場人夫の舌を楽しませた

この頃になると移入魚の「どじょう」「鮒」「鯉」あるいは「ダボハゼ」や「なまず」などもとれるようになって ホームシックにかかった年寄りを喜ばせた

大正十二年春には 当時の線路西で操業中のアルコール会社の廃液のため あらゆる魚が川を埋めて流れるなどといった出来事も起こった

満州事変の頃になると 大発生の「イネドロオイムシ」退治に生石灰を使ったり 化学肥料が使われ出して それまで川の石毎に居たザリガニが姿を消して「ザリガニも戦争に行ったんだ」などと悪童達に本気で思いこまれたりした 続いて明治製糖の排水で その下流一帯にそれこそ砂利の数ほどいた「かわしんじゅ貝」や ひとタモで一升もとれるほどいた「かわえび」が全滅の運命に逢った それでも魚は豊富で 風連堰堤が出来るまで面白いこともあった