EU-SOJO Art Drive “OLYMP”について
EU側のキュレータTomek Wendland氏を筆頭に、Hlynur Hallsson ( Iceland ), Roger Bourke ( England ), Harro D.B. Schmidt ( Germany ), Dominik Lejman ( Poland )と合計5名のアーティストを呼ぶことができた。今回のテーマが”OLYMP”という日本人には馴染みの無い世界観ではあったが、それぞれに志向する聖なる土地(領域)を展示していたように思われる。それはささやかではあったが開催初日に企画した、パネルディスカッション「グローバリゼーションと自治 autonomy」の議題の中でも度々触れられた。特に印象に残ったのは、彼らの討議に出て来た「ユートピアUtopia」という言葉である。この言葉自体は、私にとっては懐かしい響きさえある言葉で、1960〜70年代のカウンターカルチャーを背景に、社会からドロップアウトしてコミューンづくりなどを志向する人々の周りで使われ耳にした。直訳すれば理 想郷、空想的政治[社会]体制ということになるのだろうか。現代の日本に於いてこのユートピアなる概念を真剣に信じて運動や実践をしている人々が居るとす れば、それは宗教団体も含むカルトということになりかねない。このハイパーな(夢や物語、意識までも商品化されるという意味で)インダストリアル社会に於 いては、日々消費しなくてはいけない情報の渦に巻き込まれて個人は群衆の中で孤立させられているからだ。コントロールされた擬似的コミュニケーションの実 践(携帯電話/インターネット/テレヴィジョン…)の日々で、ユートピアなどというものは、一種のノスタルジーになったともいえる。しかし、今回の参加 アーティストも含め、母体となっているPAN ( performance / Perfoming arts net work) の 異文化間、アーティスト同士の交流には、未だにそのヴィジョンは失われていない。それは商品としての、美術品の交歓(交換)を主眼に置くものではなく、真 摯に現代の社会や個人の存在に向き合い、風刺や寓意などを通して各々の処方箋を外在化しているのであり、互いに交流しているからである。
9.11以降、グローバリゼーションやコロニアリスムの問題が再浮上した感がある昨今、現代のユートピアについて、あらためて意識化し語られるべきなのかも知れない。
2005.12月