◆位置とその周辺
"一条寺山城A"と"一条寺山城B"からなる
一条寺山城A…・比叡山の中腹、標高440メートルにあるてんこ山山頂付近の尾根一帯にある。 ・一条寺の下り松の北東、曼殊院の裏手に一条寺山城に通じる山道の入口が存在し、 一時間ほど登ると到達。 ・主郭と思われる平坦地には土塁と堀切が残っている。 ・遺構が白鳥越と思われる道らしきものによって南北に分断されている。 ・遺構の保存状態は良好であり、市内稀に見る規模の城である。 ・築城年代は不明。黒川道祐『近畿歴覧記』の中に書かれている。 一条寺山城B…・Aの北東、標高550メートルに位置。 ・遺構確認されていない。 ・確証はないが、『一条寺修学院両村絵図』に「本陣」として書かれている。 ⇒この城は京都から近江・東国に抜ける主な交通路である白鳥越を押さえている。 また、近くには雲母坂城や北白河城、如意ヶ岳城などの山城跡が多数存在し、 東山一帯が戦略上重要な拠点であったことを示している。
◆一乗寺山城についての考察
一条寺山城を渡辺氏の城として見る場合 渡辺氏について ・渡辺氏には田中に勢力を持っていた家系と、一条寺に勢力を持っていた家系(北渡辺)が存在する。 ・織田信長と足利義昭の対立が戦に発展したとき、渡辺氏は将軍方に与して戦っている。 ・1573年、義昭が山城国槇嶋城で兵を挙げるが、敗北し京を追われた。その際、渡辺内少輔は信長方に降伏し、その後城は破却された。 『信長公記』の"一乗寺に足懸り拵へ"という記述についての考察 ※「天正元年七月二十一日、公方様御同意として、比叡の麓、一乗寺に足懸り拵へ、渡辺宮内少輔、磯貝新右衛門両人楯籠り候」(信長公記) "一乗寺"について ・『とれんち』:"一乗寺"は比叡中腹の一条寺山城Aと渡辺氏が現在の一条寺堀ノ内町に有していた渡辺館の二つの可能性。また、 山下正男氏は規模から考えて一条寺山城Aであるとしている。 ・『京都市の地名』:「一条寺とは、渡辺館をさすものと思われる。いまも館の周囲には堀跡が残り、堀の内の名称が伝えられる。」 "足懸り拵へ"について ・『とれんち』:「コノ艮ノ山上ニ渡辺代々ノ城跡アリ」(近畿歴覧記)とある。このことから、一乗寺山城は渡辺の城として代々存在し、 戦に備えて改修したとするのが妥当。
◆一乗寺山城に関する福島克彦氏の発見とその見解
福島氏の発見 ・目立つものではないが、城の西側に畝状竪掘群が発見された。 ・新たに発見された畝状竪掘群の特徴は朝倉氏の本拠地の一乗谷城と同様に長さが短いことである。 福島氏の見解 ・京都市内の城郭では畝状竪掘群は発見されていない。 ・城郭の規模が付近の国人のものと比べ、非常に大きい。
以上から氏は一乗谷城で目立つ畝状竪堀が一乗寺城でも使われていることを根拠とし、一乗寺城Aが「志賀御陣」における 浅井・朝倉という外部勢力によって築かれた拠点、または、もともとあった渡辺氏の城を浅井・朝倉が改修したという可能性がある。
◆参考文献
・『京都市の地名』・京都大学考古学研究会『第51 とれんち』2004
・立命館大学城郭研究部『立命館ブルク』3号 2005