伊達真直御前神社宮司辞職事情

御前神社宮司退職に関する事情 解説:伊達美徳

2008年、母の葬儀の直後に捷春から送ってもらった父のアルバム類や伊達家系図などの整理をするかと、ようやくその気になりました。

段ボール箱ひとつにぎっしりあるので、ぼちぼちやります。時々途中で報告します。やる気を持続するために、ご感想などください。

いろいろな書類が綴ってある中に、「真柴真直」の名の保育証書があります。大正6年3月24日付けで、高梁幼稚園から出されたものです。6歳ですね、これが一番古い代物のようです。卒業証書や講習の修了証書などあります。

まずは、御前神社を辞めるいざこざです。君たちは知っていましたか。

わたしはうすうす聞いていたような気がしますが、これで結構深刻な喧嘩だったのだなあと知りました。

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(カーボン複写 B4版、手書き)

御前神社宮司辞任に関する理由書

一、宮司後継について

わたくしは三人の子供が居りますが、どの子供も神職の後を継ぐ意志がありません。従って私が老衰して、氏子の皆様に御迷惑のかからぬ内に、此際辞職して、子供と将来を立てる決心をしました。

二、現住宅の位置居住拒否について

昭和三十九年五月二十三日臨時氏子総会の席上にて、再三の石垣崩壊の憂き目に遭遇している私としては、如何に頑丈な石垣を作られても、将来あの住宅に永住することは出来ないからと確かに申し上げました。(この時より他の場所へ住宅を持つ覚悟を決めました)

三、宮司不信任について

土砂崩壊復旧工事寄附募集の際、或る有力な氏子(元総代)の御方が「伊達さんが宮司をしている間は、絶対に寄附はしない」と言明されたと、会長さんより報告を受けました。

これは宮司としては不信任を受けたものと思い、御神明に対し氏子の皆様に対しても、誠に申訳なく存じ、たとえ御一方でもご不満がありましては、将来神社経営上暫暫行はれる寄附募集に支障を来すこともあり、私の不徳の致す処と深く感じ、工事完成後直ちにと思い至りました。日夜思い続けて、茲に辞意を決したしだいです。

四、住宅所有問題について

(イ)一昨年四月十三日緊急対策総代会の席上、住宅移築案を提議した処、移築するとも移転するとも総代会の決議によることで、宮司の一存で移築してはこまる、あの住宅は宮司のものか、神社の所有かのお尋ねに対し、神社の境内地に建てられた建造物で、神社の所有であると答弁しました。

但し建築に要した主要用材は旧住宅の古材料と古損木を製材して使用昭和三年五月社務所落成式決算書によりますと、総経費二千五十八円八十七銭九厘の内、寄付金並ニ基本財産支出金を合計しても一千五百二十四円九十銭にして差引不足額五百二十五円九十七銭九厘の不足を見たるも、之が充足されたる様子がなく、先代社掌が自己資金と借入金により支払を済ませています。

因にその時に請負大工も社務所は井上庄吉、住宅は斉藤新一となっています。

(ロ)爾後私の代となって畳・建具・台所・風呂場・西廊下・南側廊下・便所・玄関廊下等の増設・修理等凡て個人負担にて行ってきました。

五、住宅移築・移転問題について

1.五月二十三日第2回復旧対策氏子総代会の際、日新高校より若し第二次土砂崩壊あり住宅等倒壊し来り校舎又は生徒に危害があってはこまる故早急に取り除くようにと要求された。

2.御前町鳥居南側の神社所有地へ移築案を提出したが否決された。

3.境内広場に移築の案を出したが、これ亦否決された。

4.境内広場に引き家する案の申し出があり可決された。

併し家引きの専門家が現地調査の結果、石段、玉垣、注連柱等の障害物があるので、相当の経費を要することで、これまた立ち消えとなってしまった。

5.以上のような理由によって、移築・移転は出来ませんでしたが、第二項の意志は変わって居りません。

(工事着工の八月迄の四ヶ月間柱・桁続きの社務所に仮住いしていた私等は何日何時倒壊の憂き目に遭うことかと気が気でなく、当時を思い起せば恐怖の毎日でありました。幸にしてその後晴天に恵まれ、第二次崩壊の起こらなかったことは、なにより不幸中の幸でありました。)

右の通りの理由により是非辞職いたしたいと存じますのでよろしくお願い申上げます。

昭和四十一年六月二十日

右 伊達真直

御前神社氏子総代会

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その崖崩壊の現場写真です。これは多分、父がわたし宛に送ってくれたのだろうと思います。

おなじ内容で七月二日付で「氏子総代会各位」となってガリ版刷の理由書もあります。

これには昭和四十一年四月から八月までの五ヶ月間の収支会計がついてます。この五ヶ月間の収入は73,219円、支出が69,086円。収入に家賃が5か月分で2,500円とあるから月500円の家賃を払っていたのですね、形式上でしょうが。

神社本庁宛の昭和四十一年八月 日(日付記入なし)付辞職願いがあります。これについている理由書は次の通り。

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(カーボン複写 B4版、手書き)

辞職に関する理由書

一、宮司後継について

私に三人の男の子供が居りますが、いつれも他の方面に就職、或いは志望し神職となるものがありません。

二、住宅遠隔にして通勤不可能なるため

子供の通勤を考慮し、岡山市郊外に住宅を建築せしため老齢に臨み通勤専従すること不可能なるため。

右理由により辞職いたしたいと存じます。

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これに対して神社本庁から昭和四十一年十二月二十一日付で「依願免宮司」が出ています。

庭瀬の家を建てると決めたのは多分昭和四十年初めで、名古屋のわたしの家に父が来て設計せよといったのはその春くらい、家が完成はその暮だったと思うから、ごたごたは2年近く続いたことになります。

父が作った系図は、どうやって調べたのか、よくできていますね。この調査好きの血は、鹿太郎から受けて、わたしにも続いているらしい。

増田と伊達の関係がどこでつながるのか、昔から気になっていたけど、鹿太郎が増田家から伊達家に養子に入ったのだと分かりました。

鹿太郎の父は増田平太という人で、男の子3人を全部養子にやっているのですね。この人が武者修行に出て、子供を育てなかったのでした。明治4年(1871)に死んでいます。何歳かわからないけど、そんな幕末に武者修行なんてやったかしら。

ここまでは中間でのどたばたでしたが、「昭和三十九年四月十一日 災害記録 社務所」と「御前神社境内地災害復旧工事決算書」を見ると、起きた時のことと、その結果とが分かります。

(注:・・・・)は私の注です。

思い出しましたが、私も子供のころ、何回か裏の竹やぶのがけが崩れて怖い思いをしたことがあります。夢にまで見たような記憶があります。

忘れていたけど、これ読んで思いだして、結構、トラウマになっていましたね。あるとき、母が何かの拍子で裏の縁側から落ちて竹やぶまで転げたことがあります。父が裸足で駆け出して、横抱きに抱えあげたことがあります。その前後は覚えていないのですが、このシーンは鮮明です。

多分、母がもうここに住むのはいやだと言い張ったのだろうと思います。

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表紙「昭和三十九年四月十一日 災害記録 社務所

災害記録

昭和三九年四月十一日午後より住宅西側地盤沈下し始め(幅一米長十米)、応急に土十荷ばかりを入れ一段落と思いしに、夜九時すぎ亦一〇糎ばかり沈下したるを発見、直ちに洗濯機等雑品取り込み戸棚等の取りはずしをする暇なく一〇時すぎ一大音響と共に石垣くずれ、直径七〇糎ほどの赤松の大木倒れ日新高校新校舎にあたり、屋根数ヶ所にあたり枝折れ小破したる後、一階家事室北隅に一間半程突き込み戸棚・座板・壁・スジカヒを破損したり

直ちによく十二日(日曜)午前六時を待ち、金岡校長に電話しおことわりに参上した。

荒木会長、原田副会長、仲田副会長に連絡したる処、荒木・原田両会長は早速来社、前後対策を談合したり、直ちに惣代会を開く様にとのことなるも、石田・仲田・両氏当日悪しく翌十三日午後三時より総代会を開くこととなり、早速印刷平松さん(二〇〇)をたのみ配布してもらう

十三日午後四時に至り漸く全句総代揃い開催さる

会長より状況報告あり如何にすべきかを相談したるもなかなかまとまらず、砂防を完全にして現状のままにて住む様にとのことなるも、再三の土砂くずれに得住まず危険につき、早急に私は取り壊したいとの意見を出した処、取りこわすとて神社の所有なれば私の考えで取りこわしてはこまるとの様な意見にてまとまらず、結局砂防工事住宅建築の見積書を取って再度開会のことを約して散会する。

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注:これに添付しているメモや領収書を見ると、市にも災害復旧補助を相談したが成らず、大良建設と契約して、砂防工事費は55万円、社殿・社務所・住宅修繕費は5000円でて、昭和39年末に工事完了

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表紙「昭和四〇年六月二十六日 御前神社前期氏子総代会協議事項

1.災害復旧事業の決算報告

2.神輿破損修理について

3.昭和三十九年度決算の承認について

4.昭和四十年度予算の承認について

5.総代任期延期の理由の説明及改選について

御前神社境内地災害復旧工事決算書

収入の部

摘要 金額(円) 備考

1 氏子各区一般寄附金額 168,650

2 篤志者寄附金 216,000

3 基本財産支出金 140,000

4 倒木(松)売却代金 13,252

5 上記枝等パルプ売却金 1,560

6 松樅等危険木売却代金 78,000 参道5本・境内12本

7 貯金利子 857

合計 621,319

支出の部

1 復旧石垣工事費 550,000 大良組へ支払

2 住宅・社務所・神饌所 5,000

幣殿のジッキ起し人夫

賃及材料費参道直し及

溝修理費

3 倒木取除き人夫賃及日 35,000

新高校校舎復旧工事費

4 下水用ビニール管及び 22,000 土師鉄工所へ支払

工事費

5 趣意書寄附帳印刷費 1,500 三谷へ支払

6 工事2か月分水道使用 1,500

用水代金

7 会議費 1,200

8 通信費 1,000

合計 617,200

差引残金 4,119

一般氏子各区寄附一覧表(注:略(

篤志寄附者芳名簿

金額 氏名

15,000 荒木定次郎

藤森伯治

12,000 仲 勝二

10,000 今形三郎

伊達真直

戸田信義

西 教純

東 周平

5,000 赤木金助

荒木宗義

石田兼太郎

小野顕一

加藤学明

菊楽文一郎

西 隆志

原田七太

平見幸太

藤野猪名男

(注:以下略)

昭和39年度収入支出決算書(注:抜粋)

収入の部

Ⅰ 社入金 69,935 (注:祈祷料と賽銭)

Ⅱ 基本財産収益金 7,600 (注:竹売却金、家賃、利息)

Ⅲ 氏子共進金 95,170 (注:会費みたいなもの)

Ⅳ 繰越金 0

合計 172,705

支出の部

Ⅰ 会議費 13,251

Ⅱ 諸祭日費 38,281

Ⅲ 社務所費 41,782 (注:いわゆる諸経費に相当)

Ⅳ 俸給 60,000 (注:父の月給5,000円!、高校もあったけど)

Ⅴ 営繕費 8,876

Ⅵ 予備費 0

合計 168,590

差引残金 4,115

(注:以下略)

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