――会誌『日本学研究』より――
(1)創刊号―藤原暹先生古稀記念特集(平成15年11月15日)
はしがき
ことし十月十一日、藤原暹先生にはめでたく古稀の齢を迎えることになりました。
教え子・知人有志の会「藤之会」ではこれを心より寿ぎ、学恩への謝意をこめて、早春より記念事業の企画に着手しました。ひとつは「記念文集」の制作であり、ついで六月六日には大阪・和泉市の桃山学院大学で講演会、九月四日には青森・八戸市で「南部を語る懇話会」と、関西および北東北で先生を囲む集いが開催されました。
こうした一連の過程で、日本学関係の研究会や研究誌の誕生を望む声が高まってまいりました。
そこで、ここに「記念文集」を『日本学研究 創刊号』として刊行し、これに伴い、「藤之会」は近々「日本学研究会」に組織替えする運びとなりました。
今回、各位より寄せられました数々のご協力・ご厚情に感謝致しますとともに、引き続き「日本学研究会」へのご参加・ご協力をお願い申し上げまして、はしがきと致します。
平成十五年九月二十七日
発起人(五十音順)
青澤弘明 大友展也 柿田頼秀 加藤純子 川本栄三郎 小山直樹 佐藤一伯
杉本章子 高村美香子 古川明子 本田敏雄 村上雅孝 八重樫直比古 結城厚子
あとがき
ここに『日本学研究 創刊号』を発刊することになりました。
その経緯は「はしがき」に詳記されております通りであります。この間にお寄せ戴いた御好意に心から感謝申し上げます。
この号の構成は「論考」二編、「創刊号に寄せて」という友人・知人・教え子諸兄姉の文五十編、更に「記録」一編等を掲載致しました。
次号は論考を五編程度、「記録・伝聞」を二編程度掲載する予定です。すべて御投稿の原稿をと考えております。次号からは現在の藤之会を研究会組織に改編致したく、数十名の方々からは同人としての御意見を戴いております。
故郷の大先輩、平櫛田中先生に「六十、七十、はな垂れ小僧、今やらないで誰がやる」という言葉があります。その精神を肝に銘じ、「日本学研究」に今後も邁進致す所存であります。
なお、印刷には岩手ワークショップの方々にお世話になりました。
平成十五年十月十一日 藤原 暹
(2)第2号―水戸研究会特集(平成16年11月15日)
はしがき
ここに『日本学研究 第二号』を刊行します。
前号にて、予告させて戴いたように今回は投稿論文五編を中心に、「論考」欄、「記録」欄、「近況報告」欄を掲載致しました。
投稿論文は、日本学研究会を水戸・茨城大学・鈴木暎一教授のお世話で平成十六年五月二十二日に開催いたしました折の発表が母体になっております。
「記録」欄は平成十六年五月七日に広島・宮島において開かれたささゆり会(旧広島西校等女学校八期生の会)の「藤原力先生を偲ぶ会」における昭和二十年八月六日の原子爆弾の被爆、学校の焼失・廃校の顛末記録です。記録を残す重い責務を改めて感じた次第です。
さて、研究会の件ですが、年に春と秋の二回を実施したいと考えております。今回は春として、多くの研究上の原点となった水戸で開かせて戴きました。秋には東京・東洋英和女学院大学で旧知の目黒士門教授のお世話で開催を予定しております。
平成十六年九月 日本学研究会
日本学研究会 同人
青澤弘明 秋田淳子 石川明彦 大友展也 柿田頼秀 加藤純子 川本栄三郎
ガントレット彩子 菊田紀郎 桐原健真 小西宏明 小山直樹 近藤昭子 佐藤一伯
佐藤次男 杉本章子 塩見美枝 鈴木暎一 武田京子 高村美香子 塚本寿美子
長沼友兄 中村一基 新田久子 橋内武 深澤秀男 福見ツネコ 藤原サツキ
古川明子 宮地逸子 目黒士門 森本ちづる 本田敏雄 村上雅孝 八重樫直比古
横澤夏美 結城厚子 藤之会 ささゆり会
あとがき
昨秋、藤原暹先生の古稀を記念して誕生した日本学研究会は、本年、関東圏で春秋二度の研究会を開催し、ここに会誌第二号を発行することができました。
本会は現在、「はしがき」に氏名を掲げた約四十名の同人、藤之会(藤原暹ゼミ)、ささゆり会(故藤原力先生を偲ぶ会)の各位など、不特定多数の同人組織となっています。
運営は、藤原暹先生の寄付行為に基づきます。なおこれまでに、鈴木暎一様、橋内武様、三輪田芳子様、目黒安子様、藤之会、ささゆり会の方々より、ご寄付を頂戴したことを申し添えます。
会誌御希望の皆様には会誌頒布代(実費)として年に千二百円を負担(切手可)いただければ幸いです。
来春は岡山で研究会を開催する予定です。
平成十六年九月 日本学研究会事務局
(3)第3号―特集:戦後60年、被爆60年(平成17年11月15日)
あとがき
ここに『日本学研究 第三号』を発刊します。
特集「戦後六十年、被爆六十年」という形をとりました関係で、「対談」と「論考、研究ノート」それに北から南へ十人の方に回想を兼ねた「随想」をお願いしました。
さらに「第一号」以来、心に懸かっておりました広島・原爆で罹災し焼失・廃校になった亡父の広島高等女学校の最後を、一応締めくくるべく考えてきました。
「被爆六十年回忌」の集まりがあり、その記事や手記を掲載出来ました。
こころよくお引き受け戴き執筆下さった方々、及び「六十回忌」開催に御尽力戴いた関係各位に、この場をかりて感謝の気持ちをお伝えするとともに厚く御礼申し上げます。
この一年、日本列島にはさまざまな事件、事故、災害が続き、まさに「末世・終末の感」を強めています。
そうした中にも多くの方々から近況のお励ましを戴きました。当初は全部を「近況報告」欄で掲載する予定でしたが、かなり長文になり、この部分は別に印刷する事に致しました。あしからず御了承戴きたく思います。
平成十七年十一月 日本学研究会 藤原 暹
(4)第4号―特集:人間環境としての「生活・生命」思想(平成19年11月15日)
はじめに
前号「特集 戦後六十年・被爆六十年」を出版した後、次号は「環境」を特集しようと考えた。
その理由は岩手大学の総合科学的学部に在職中に「環境」を軸に改革を進めてきた事があり、退官後もその思いは継続していた。その為に小研究会を各地で行った。
一、平成十八年四月には岩手大学人文社会科学部で「正造、尚江と足尾問題」(藤原暹)、「目黒順蔵に見る鉱毒問題と人道」(目黒士門氏)、「足尾、別子問題をめぐって」(本田敏雄氏)の発表を行う。
二、平成十八年十一月には岡山国際交流センターで「城下町と水利」というテーマで「武蔵野・玉川上水・分流と江戸」(藤原暹)、「後楽園と旭川」(神原邦男氏)の発表を行う。
三、平成十九年に入って、「武蔵野と人間環境」の問題に絞りだした。そうした中で小河内ダム建設に水没する村を描いた石川達三「日蔭の村」や青梅鉄道の拡張に疑問を抱いた中里介山と奥多摩の世界に入り込んだ。調べが進む内に意外な多摩の人的環境、例えば最初に西砂川にカトリック教会を開いたのは旧仙台藩士竹内貞寿であった事や同じフランス人神父マランから洗礼を受けた目黒順蔵達がいた事が判明した。更に、玉川上水堰・羽村の中里介山の恩師佐々黙柳は千葉感化院にも関係していた事が判明した。
四、平成十九年六月に神田学士会館内東北大学連絡所で研究会を開き、「初期感化院時代の人達」というテーマでこの方面の研究者である長沼友兄氏の発表が行われた。
以上のような経過を経て本号の論考の骨子は形成された。
(中略)
さて、この会誌の創刊以来の多くの寄贈書を戴いてきた。そうした御好意に応えるべく「書評」欄を考えていたが今号で掲載出来る事になった。
一つは、東北大学の日本思想史学の創設者であった村岡典嗣先生に関するものである。
二つは、同専攻の原田隆吉先生(東北大学五十年史編纂者でもある)に関するものである。
本年は図らずも東北帝国大学・新制東北大学創設百年に当たる。片平丁校舎(現本部)の旧制帝大の雰囲気の残るキャンパスで学んだ一学生としての感慨を込めたものでもある。
なお、一言付記しておきたい。最初に赴任した岡山清心女子大学で会ったあるシスターが、「価値志向には真、善、美などとあるが、貴方はライフね」と言われた。終生のテーマになろうとは、本号に自らの研究を増補出来た事にも感謝しておきたい。
平成十九年十一月 藤原 暹
あとがき
今夏の猛暑の中で編集してきた第四号を届ける事が出来る。
前号発刊以来、二年目に当たる。昨年に発刊出来なかった主な理由は恩師の追悼論文を執筆していた事にもよる。
この間にも地球の温暖化問題をはじめとした「環境問題」は確実に深刻さを増している。
自然環境の問題は科学技術上の問題で、その問題を解決するには科学技術の特性からそれを越える科学技術上の発明・発見によって以外は解決出来ないという意見が長年続いている。
我々はそれを強く意識するが故に、「科学と人間」を改めて考えて来て「人間環境問題」に絞って来た。時あたかも「人間モラルの喪失問題」が極限化しつつある。言うまでもなくこの二つは交錯する。総合的な構造的な「人間汚染」である。
改めて、「生活・生命」と「宗教」の問われる所以でもあろう。
そうした中での今号とした点を汲み取ってもらえれば幸甚である。
藤原 暹
(5)第5号―藤原暹先生追悼特集 「先に大槻玄澤、後に石川櫻所あり」をめぐって(平成22年7月14日)
あとがき
藤原暹先生は昨年五月中旬より体調を崩され、六月下旬武蔵村山病院に入院、腹膜偽粘液腫という難病であることが判明し、あらゆる医療が施されましたが、七月十二日より容態が急変、十四日午前九時五十分、享年満七十五歳で逝去されました。葬儀は十六日に身内で営まれた旨奥様の藤原サツキ様より連絡を頂戴し、二十日、武蔵村山市のご自宅に教え子の佐藤一伯および塚本寿美子(旧姓三浦)がお参り致し、先生が着手中であった『日本学研究』第五号の原稿をお預かりするとともに、今後の編集を託されました。
今号には、平成二十年・二十一年の一関市花泉町での研究会に関連するものを中心に、論考・研究ノート五編、随想二編に加えて、知人・教え子より寄せられた追悼文、藤原先生の略歴・業績目録を収録し、追悼特集号と致しました。このうち藤原先生の論考・随想は、単著・共著のいずれも編集途中のものであり、とくに長沼・藤原・佐藤論考につきましては、長沼友兄先生に論考の趣旨や編集について、種々のご高配を戴きました。他の先生方にも、快く校正等にご協力を賜り、誠に有り難うございました。また、追悼文や略歴、写真等の整理・提供について、奥様より特段のお力添えを賜りました。事務局の力量不足により刊行が当初予定より遅れてしまいましたが、ようやく御霊前に奉奠することができますこと、皆様に衷心より御礼申し上げる次第でございます。
藤原暹記念「日本学の集い」(岩手大学人文社会科学部日本思想史研究室、日本学研究会の共催)について、今春より岩手大学人文社会科学部の川本榮三郎先生・中村安宏先生、教え子の塚本寿美子・佐藤一伯の世話人により準備をとりすすめ、来る七月三日(土)午前十一時より、岩手大学中央食堂二階「インシーズン」にて開催の運びとなりました。当日は第一部で中村先生が「藤原暹先生の研究業績」、本田敏雄先生(八戸高専名誉教授)が「盛岡時代の藤原暹先生」と題して講演、第二部の懇談会は黙祷、川本先生の主催者挨拶、乾杯、懇談(参会者スピーチ)、ご遺族挨拶の次第にて執り行います。
この間、五月一日にはご子息の藤原努様がご家族で事務局(御嶽山御嶽神明社)に立ち寄られ、藤原暹日本学記念文庫をご覧戴くとともに、先生の晩年のご様子などを懇談しました。昨年暮に西東京市田無町の総持寺にお墓を設けたこともご教示いただきました。
まもなく一周忌を迎えますが、ご遺族や親しい知人の先生がおっしゃるように、私もいまだに先生の逝去を実感することができません。今後も書物などを通じてご教示を賜り、また心中で懇話をさせて戴きながら、藤原先生が取り組んでこられた諸課題に少しずつでも応答できるように努めて参る所存です。
むすびに、今号の制作にあたり、藤原サツキ様より特別のご寄付を賜りましたことに篤く御礼を申し上げるとともに、制作にご協力いただいた川嶋印刷株式会社の原田哲様に感謝を申し上げて、あとがきと致します。
平成二十二年皐月 日本学研究会事務局 佐藤一伯