Distorture 3. Japan old map shows Dokdo territory of Korea

Korean natinalist and rasist claims that Hayashi Shihei's Sangoku-Tuu-ran zusetsu map draws "Takeshima竹嶋 is Korean territory". But they have lack of knowledge that Ulleungdo was called "Takeshima" by Japanese Edo-era. Liancourt Rocks was called "Matsu shima "by Japanese Edo era.

林子平の圖には、「竹嶋・朝鮮之持物」と記述がある。これを用いて韓国側は領有権を主張しているが、この地図を検証してみる。

林 四平は、三国通覧図説を製作するに当たり、朝鮮半島のデザインを長崎にいた朝鮮人の朝鮮図をもとにした朝鮮八道之圖から引き写し、日本の全体圖は長赤水圖 から引き写したとされる。朝鮮八道圖には「于山国、弓高島」が記載され、三国通覧図説には、その「于山国弓高島」と「竹嶋」の二つ、つまり鬱陵島を二つ記 載していた事が判明している。ここでは、このうち、林子平の地図の「竹嶋」の形状を検証してみる。

林子平圖の「竹嶋」(鬱陵島の事の形状は、朝鮮王朝製作の輿地図に形状が酷似している。その輿地図には鬱陵島とその北東に長細い付属島、于山島が描写されている。これを検証してみる。

上段、林林平三国通覧図説 ”竹嶋”拡大 下段:朝鮮製作:「輿地図」江原道圖、鬱陵島拡大

Checking the Japanese detailed Ulluengdo-Liancourt rocks-Oki islet map

Matsushima (liacnourt rocks) description is completely diffrerent with Hayashi shihei map which referenced from Korean map.

日 本側の1724年などの、鬱陵島へ渡航していた漁民による報告の地図では、この鬱陵島の北東部にある一島細長い島は、竹嶼であり、いが島やまの島とよばれ ていた。朝鮮側は、この島を于山島と呼んでいた事は朝鮮王朝の現地捜査官の地図によって判明している。 日本の島である現竹島である「松島」は鬱陵島の南 東90km先に、二つの岩礁として記載されている。すなわちこの圖の”竹嶋”は現竹島ではなく、鬱陵島と竹嶼なのである。

また、林子平の地図の”竹嶋”=鬱陵島に記載された、「此の島より隠州を望 又朝鮮をも見る」は、この竹嶋(鬱陵島が日本と朝鮮両方に接していると描いているが、これは、1751年の竹島図説か、もしくは斉藤宝仙の隠州視聴合記の引用である。

1751-63(宝暦年間) 年- 「竹島図説」では、竹嶋=鬱陵島を日本と朝鮮の接する嶋としている。

1751-63(宝暦年間) 年- 「竹島図説」

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/18.html

隠岐国松島ノ西島ヨリ海上道規凡四十里許リ北方ニ一島アリ名テ竹島ト曰 フ 此ノ島日本ニ接シ朝鮮ニ隣シ地形三角ニシテ周囲 凡ソ十五里許リ

(中略) 伯州米子ヨリ竹島マテ海上道規百六十里許アリ 米子ヨリ出雲ヘ出隠岐ノ松 島ヲ歴テ竹島ニ至ルナリ 但隠岐ノ福島ヨリ松島マテ 海上道規六十里許松島ヨリ竹島マテ四十里許ト云也

以上ノ諸説ハ享保九申辰年官府江府ノ叩問ニ依テ米子ノ市人大谷九右衛門村川 市兵衛カ貴答ノ上書ニ原ケリ」

斉藤宝仙の隠州視聴合記

隠州視聴合記 斉藤宝仙

隠 州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、 其在巽地言嶋前也、 知夫郡海部郡屬焉、 其位震地言嶋後也、 周吉郡穩地郡屬焉、 其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、 従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗 言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣。

「此 の州(島)、日本の乾地」が、隠岐をしめすのか、それとも竹嶋(鬱陵島)をさすのか二つの説が有る。これが書かれた時点では、まだ朝鮮王朝との鬱陵島を巡 る争いに発展しておらず、日本人は普通に竹嶋(鬱陵島)を実効支配しているので、かつ隠岐の条に記載されている事から鬱陵島が日本の北西であると言う説 と、 隠岐から日本本土がみえることが鬱陵島から朝鮮が見えることと一緒であるから竹嶋(鬱陵島)が朝鮮領土であると言う説がある。 ただ、これが書かれ た1667年の時点では、まだ朝鮮王朝との鬱陵島を巡る争いに発展しておらず、ただ眺望を書いただけしか言いようがない。

林子平の時代で は、日本国対馬藩と朝鮮との外交交渉によって17世紀末に鬱陵島を朝鮮に引き渡しているので地圖では、「此嶋(竹嶋=鬱陵島)から隠州がみえ、高麗が見え る」と記述が変わっている。よってこの時代には鬱陵島は朝鮮領土の認識があったと思われる。 (*実際には鬱陵島から隠州は見えない)