例会2017

第15回例会 「Afree, Be Free! ――青山拓央『時間と自由意志』合評会」青山拓央×千葉雅也×山口尚

発表者:青山拓央(京都大学准教授)、千葉雅也(立命館大学准教授)、山口尚(京都大学非常勤講師)

日時:2017年8月5日(土)13:30-17:00

場所:キャンパスプラザ京都、第二会議室

参加費:200円(収集して会議室のレンタル代にあてます)

★本コロキアムにおいて、青山拓央氏の著書『時間と自由意志』(筑摩書房、2016年)の合評会を行なうことになりました。以下は、登壇者のひとりであり、本コロキアムのオーガナイザーのひとりである山口尚による広報です。

青山拓央氏の『時間と自由意志』は、時間と自由が織り成す哲学的問題の考察を通じて、世界の根本的なあり方の解明を目指す。この本の中心的テーゼは、「自由/不自由 」という馴染みの区別の背後には、「無自由(afree)」と形容できる、より根底的な次元が存在する、というものである。そして――著者によれば――この無自由こそが世界の根本的なあり方なのである。『時間と自由意志』は、この点の解明に向かう途上で、さまざまな問題(例えば世界の分岐に関する問題、脳と自由をめぐる問題、人称性と自由の関係についての問題)に取り組み、そのつど独位の議論を展開する。自由意志について長年探究してきた私の感想は次である。実にエキサイティング! 合評会をせねばならない!

青山氏の哲学的考察は――今回の著書からも見てとられうるが――分析哲学的な議論を背景としながらも、他の思想的伝統ともクロスオーバーしうる指向を具えている。この合評 会では、分析哲学における自由意志論を専門とする山口がコメンテータのひとりを務めさせて頂くが、それだけでなく、現代フランス思想を専門とする千葉雅也氏にもご登壇頂ける機縁に恵まれた。千葉氏もまた伝統の枠に囚われない思索者であり、登壇者の間でどのような化学変化が生じるかについては予測できない。だがいずれにせよ、当日の議論の深まりに関しては、自信をもって「ご期待あれ!」と言いたい。

合評会のタイトルは私の独断で「Afree, Be Free!」とした。「エイフリー、ビーフリー」と読むわけだが、確定した意味をもつ表現ではない。そもそも文なのか、たんなる文字列なのかも判明でない。だが、自由であることと無自由との関係の理解を深めることこそが『時間と自由意志』から私が受け取った贈り物であるので、この事実への指示をこめて上記のタイトルを選ばせて頂いた。

当日の登壇順序などの予定は以下です(時間につきましては、さらに確定しましたら後にお伝えさせて頂きます)。

1.オーガナイザーによる会の説明(13:30-13:40)

2.青山発表

3.山口発表

4.千葉発表

5.登壇者相互の討論(15:20頃-15:50頃)

6.フロアを交えての討論(16:00頃-17:00)

発表タイトルと要旨

青山拓央:「自由」の新たな見取り図

博士論文をもとにした拙著より、中核にあたる部分をお話しします。本のカバーの見返し部分にちょうど良い要約があるので、まずそちらを引用します。

「さまざまな歴史の可能性は、過去から未来に向かって枝が分岐していく樹形図として、しばしば描かれる。人間は決断をすることにより、このたくさんの可能性の枝からただ一つの現実の枝を選択しているように見える。でも、それは本当だろうか。こうした思考を突き詰めたとき、決断によって枝が選ばれる瞬間を樹形図上のどこにも位置づけることができない、という意外な困難に直面する。それが「分岐問題」だ――。本書では、これまで自由意志/決定論の対立として論じられてきた難問を、自由とは何かという議論からいったん離れ、「分岐問題」の枠組みのもとで考察しなおす。」

引用文の最後に、「自由とは何かという議論からいったん離れ」とありますが、今回の発表では、一人称 /二人称/三人称(脱人称)の三極から成る「自由」の新たな見取り図を提示します(同著第四章に対応)。そこでの議論が正しければ、脳が人間の行為を「決める」――人間は脳に操作された「不自由」な存在である――といった図式が正確でないことや、両立論的自由/自由意志(非両立論的自由)/不自由の三者択一が必須でないことが分かるでしょう(発表時間が許せば、この三者の真の対立項である「無自由(afree)」についてもお話しします)。

山口尚:芸術家と道徳家――『時間と自由意志』考

自由意志は〈ひと〉の次元に本来的な場をもつ何かだ、というのが青山拓央さんの『時間と自由意志』(筑摩書房、2016年)の重要な指摘のひとつである。私はこの考えに共感しており、これを掘り下げることに強い関心を有している。本発表では、青山さんが同書で提示する図表、すなわち自由と不自由に関する「人称三角形」(と私が呼びたい図表)の事象的な妥当性や意義を考察し、ひとと自由意志の関係の理解を深めることを目指す。

とりわけ論じたい一点に触れることで発表要旨に代える。

青山さんの考えによれば、「両立論的」自由は一人称性と、「リバタリアニズム的な」自由は二人称性と、そして不自由は三人称性と密接に関連している。いや、より厳密に言えば、これらはそれぞれ静的に対応しているわけでなく、むしろ(上記の原初的対応のもとで)両立論的自由‐リバタリアニズム的自由‐不自由といういわば〈自由様相の三幅対〉が具える動性が、一人称‐二人称‐三人称という〈ひと〉に関わる鼎的な関係のダイナミズムで解明されうる、というのが青山さんの考えである。例えば――青山さんが実際に行っている説明だが――本来的には二人称的なリバタリアニズム的自由がいわば一人称化されるときに、自己を「不可視的な〈起点〉生を伴う自由意志の主体」(同書201頁)と捉 える見方が生じたりする。このように、青山さんによれば、私たちが自由や不自由について考えること(そしてときに悩むこと)は、人称三角形の内部を運動することなのである。

これは独特の議論であり、得るところも決して少なくない。仮に『時間と自由意志』におけるこうした議論に対して不満があるとすれば、そこでの議論が高い抽象度でもって展開されており、《そうした自由や不自由が生の具体的な場面でどう実現されているか》があまり語られていない点である。いや、率直に言えば、私がこの点を気にしているのである。それゆえ本発表では青山さんの指摘をより具体的な視点から肉づけすることを試みる。すなわち、一人称‐二人称‐三人称という〈ひと〉の次元の抽象的な相に加えて、「芸術家」や「道徳家」といった〈ひと〉の次元のより具体的な相を考慮しつつ、自由の理解を深めたい、ということである。そこでは、創造的自由や道徳的自由などが語られ 、それらの内実に光があてられることになるだろう。

千葉雅也:他者、イメージ、偶然性――青山拓央『時間と自由意志』について

青山拓央『時間と自由意志』では、いわゆる非両立的自由としての自由意志を、他者の存在と偶然性とが織りなす構造体として捉えている。そこでは、「他者の内面は不可視である」ということが議論の中核である。他者の内面には、行為の見えない理由が想定される。そのように、理由を隠している存在としての他者が「私に移入される」ことが、私の自由意志(というイリュージョン)を生むのである。これは、私なりに言い換えれば、「理由の隠れのアウトソーシング」というような論法である。今回のコメンタリーでは、この論法が、フロイト-ラカンの精神分析における無意識の生成機序の説明に近いことを指摘した上で、精神分析のその文脈において重要な「イメージ」の概念を青山の議論にも導 入し(青山はこの概念を用いていない)、理由(および因果)とイメージの関係についてひとつの構図を提示する(ラカンに影響を受けたピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」というプロジェクトにも触れることになるだろう)。そして、その構図において偶然性概念の意味を改めて問うことになる——偶然性とイメージはいかに関わるのか。