例会2014

第11回例会:<動物の哲学>の挑戦

    • 日時:2014年12月14日(日)、14:30-17:50
    • 場所:キャンパスプラザ京都
    • 企画趣旨:本ワークショップでは、動物の生を巡る諸価値と人間‐動物の関係を巡る諸規範についての多角的かつ徹底的な議論の場を提供することを目指し、三人の提題者が従来の動物倫理学における議論の射程を踏み越えるような意欲的な提案を行う(予定である)。(企画:呉羽真)
    • 提題者: 呉羽真(日本学術振興会/立教大学)、伊勢俊彦(立命館大学)、吉沢文武(千葉大学)
    • プログラム:
    • 14:30-15:10 提題:呉羽真「アニマルライフの意味について」
    • 15:10-15:30 質疑応答
    • 15:40-16:20 提題:吉沢文武「生まれてくることのない猫の倫理学と形而上学」
    • 16:20-16:40 質疑応答
    • 16:50-17:30 提題:伊勢俊彦「『持続可能性のための狩猟』は倫理的に健全でありうるか」
    • 17:30-17:50 質疑応答
  • 発表要旨:
    • 呉羽真:「アニマルライフの意味について」
      • 本発表では、人間以外の動物(以下、「動物」と表記)の生の意味について考察する。近年の哲学では、‘meaning of life’を巡る議論が活発化しており、われわれの生の価値のこれまで十分に分節化されてこなかった側面について見直しが進んでいる。しかし、この用語が慣例的に「人生の意味」と翻訳されていることからも分かるように、そこでは有意味な生を生きる主体が人間に限られるということが(明示的にであれ暗黙裡にであれ)前提されている。提題者の見るところ、このような議論状況は、動物の生の価値に対して不当に偏狭な視点がとられていることを示している。そこで提題者は、なぜ動物の生の意味が否定ないし無視されてきたかを考えることを通して、人間の生の意味を巡る議論の諸前提を根本的に見直し、また動物の生の意味を評価することによって、従来の議論では十分に注目されてこなかった人間と動物の関係を巡る諸規範に光を当てることを目指す。
    • 吉沢文武:「生まれてくることのない猫の倫理学と形而上学」
      • 野良猫の多くは、劣悪な環境に生まれ、病気や交通事故等によって短い一生を終える。TNR——一時保護(trap)し、不妊去勢手術(neuter)をしたうえで、もとの場所に戻す(return)こと——はそうした不幸な猫の誕生を減らす、倫理的で有効な手立ての一つだと考えられている。TNRによる野良猫の頭数管理を、餌や排泄物の管理と組み合わせて「地域猫対策」として推進する自治体等も増えている。「不幸な猫は生まれない方がよい」という判断は、当の猫が生まれることのその猫にとっての価値(福利)と、その猫が生まれないことの価値との比較を含むものとして理解することができる。だがこのような判断には、誕生の価値をめぐる倫理学的問題だけでなく、非存在者に関する形而上学的に興味深い問題が関わっている。すなわち、比較の一方の項について主張される「非存在の価値」という考えは疑わしいものかもしれない。それは、誕生しない場合には、価値が問題になるような——より一般的には、性質が帰属しうるような——当の猫が存在しないからである。こうした問いは70年代以降、人間の生殖や人口に関する倫理学的議論のなかで論じられてきた。しかし、家畜化された動物について、とりわけ猫や犬といった「伴侶動物」について、そのような議論はまだ十分にはなされていない。そして、人間や他の家畜とは異なるいくつかの特有の問題が伴侶動物に関して生じるように思われる。本提題では、TNRに関する倫理的な諸問題を整理したうえで、そうした問題をどのように扱えばよいのか、とくにその形而上学的前提を明らかにすることで見取り図を示したい。
    • 伊勢俊彦:「『持続可能性のための狩猟』は倫理的に健全でありうるか」
    • 動物倫理の文脈では狩猟を全面的に否定する主張がなされやすいかたわら、生態系の保全や野生動物管理のための狩猟の有効性や必要性も、近年しばしば主張されるようになってきた。そこで想定される狩猟のあり方は、地域住民による伝統的な狩猟にとどまらず、一方では専門家による効率的な駆除であり、他方ではビジネス化されたツーリズム的なスポーツ狩猟である。こうした狩猟モデルとの対比では、地域住民の狩猟は、計画性や持続性を欠いたものとして否定的にとらえられやすい。しかし、持続可能性の名のもとに推進されるビジネス的狩猟において、伝統的狩猟者が見出してきた狩猟本来の喜び、動物との独特の関係は保たれうるのであろうか。オルテガらの、狩猟の主体に寄り添った思索とならんで、安田章人のアフリカでのフィールドワークや、日本における狩猟の現状を参照しながら考察する。
    • (参考:伊勢俊彦「自然と人間の関係における狩猟の意義」『環境思想・教育研究』第7号、2014年)

この会は京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センターとの共催です。

第10回例会:戸田山和久『哲学入門』合評会

  • 日時:2014年10月5日(日)、14:30-17:50
    • 場所:キャンパスプラザ京都、第1演習室
    • 内容:戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書、2014年)の合評会
    • コメンテーター:大西勇喜謙、森岡正博
    • プログラム:
      • 14:30- 戸田山和久:自著紹介
      • 15:00- 大西勇喜謙,戸田山和久:コメントと応答
      • 15:40- 森岡正博,戸田山和久:コメントと応答
      • 16:20- 休憩
      • 16:30- 全体討論

この会は京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センターとの共催です。

※森岡先生は急な事情で参加できなくなりました。

第9回例会:「環境保全研究プロジェクトでの二年間: 地域との協働における研究者倫理と設計科学の哲学」

  • 講演者:神崎宣次
  • 特定質問者:本田康二郎
  • 要旨:報告者はこの二年間、総合地球環境学研究所の「地域環境知プロジェクト」(http://ilekcrp.org)に、設計科学の倫理タスクフォースというかたちで関わってきている。このプロジェクトは、世界各地の地域社会がそれぞれの課題に取り組む中で、科学者と地域の多様なステークホルダーの協働を通じて生産、活用されている知識を地域環境知と呼び、その生産および流通のメカニズムを明らかにすることを目的としている。このプロジェクトの特徴の一つは、地域環境知として定義される知識についての一つの見方に求められるだろう。この知識は「これまでの科学知・在来知などの区分に当てはまらない新しい領域融合的な知識」とされ、その特徴を説明するために、プロジェクト内では「レジデント型研究者」、「知識ユーザー」といった概念が用いられている。本報告では、これらの概念の分析を通じて、このプロジェクトで想定されている知識のあり方について検討したい。また、研究者と地域との協働を含む研究プロジェクトにおける研究倫理の問題についても報告する。その際、倫理問題や研究者たちが抱いている倫理的懸念だけでなく、プロジェクトの内部において倫理学者がそのような問題にどうアプローチすることができるのかという調査方法論上の課題も提示する。今回の報告の内容は現在取り組み中の課題であり、まとまった結論が出ているものではない。 参加者からコメントや示唆がいただければ幸いである。

第8回例会:「知覚論の現在:知覚の内容と知覚的知識」

  • 日時:2014年1月11日(土)14:30-17:50
  • 場所:キャンパスプラザ京都、第1演習室
  • プログラム
    • 14:30-15:30 笠木雅史「認識論的選言主義と懐疑論」
    • 15:30-16:00 質疑応答
    • 16:00-16:10 休憩
    • 16:10-17:10 西村正秀「視覚的記憶と非概念主義」
    • 17:10-17:40 質疑応答
  • 司会:久木田水生
  • 要旨:
    • 笠木雅史「認識論的選言主義と懐疑論」
    • 認識論的選言主義(epistemological disjunctivism)と呼ばれる立場は、知覚の哲学におけるいわゆる形而上学的選言主義(metaphysical disjunctivism)と区別される。後者が知覚経験の内容あるいは対象に関する立場であるのに対し、前者は知覚的知識、より正確には、知覚が与える認知的な保証(support)に関する立場である。本発表では、Duncan Pritchardが近年展開している認識論的選言主義を擁護する議論を検討する。
    • Pritchardの定義では、認識論的選言主義は、「典型的な知覚的知識のケースにおいて、認識主体Sがpという知覚的知識を持つのは、事実的(factive)でありかつSが反省的にアクセス可能である、pという信念に対する合理的な保証rを持ちうるからである」という立場である。Pritchardの議論は主に、(1)認識論的選言主義が直面すると思われる3つの問題を回避できることを示し、この立場が維持可能であることを示す部分と、(2)認識論的選言主義が懐疑論へのムーア型の応答の1種を与えることができ、かつ他のムーア型の応答よりも優れているということを示す部分から構成される。
    • 本発表では、これら2つの部分を検討する。最初に、(1’)3つの問題のうち、少なくとも2つの問題に対するPritchardの応答は大きな問題を含み、満足のゆくものではないと論じる。次に、(2’)認識論的選言主義による懐疑論への応答と同程度か、あるいはそれ以上に優れたムーア型の応答が可能であることを示しつつ、懐疑論への応答が何を行う必要があるのかについて幾つかの条件を提示する。結論として、Pritchardの認識論的外在主義の擁護は失敗しているということが示される。
    • 西村正秀「視覚的記憶と非概念主義」
    • 非概念主義とは、知覚経験の表象内容(以下、知覚内容)が完全に概念的であることを否定する立場である。本研究会第6回例会において、私は視覚的注意を用いて非概念主義を擁護する議論を批判した。今回の発表では、視覚的注意と密接に関わる視覚的記憶に蓄えられた内容が非概念的であることを直接示そうとする議論を検討する。具体的には、Athanassios RaftopoulosとJesse J. Prinzの議論を取り上げる。Raftopoulosは、アイコニック・メモリ(あるいは、それに類する視覚的記憶)に蓄えられている知覚情報は前注意的であり、概念的にアクセス可能な状態ではないという理由から、非概念主義を擁護している(Raftopoulos, A. (2010) Can Nonconceptual Content Be Stored in Visual Memory?, Philosophical Psychology 23: 639-668)。アイコニック・メモリとは知覚プロセスの最初期段階にある記憶であり、そこでは大容量の絵的な知覚情報がごく短時間保持される。Raftopoulosによれば、その情報が概念的内容となるためには、それが視覚的注意を介して最終的に視覚的短期記憶(あるいは、ワーキング・メモリ)に送られるのを俟たなければならない。それゆえ、アイコニック・メモリに保存された情報は非概念的内容である。一方、Prinzによれば、視覚的注意は向けられているが、まだワーキング・メモリにコード化されていない情報は概念的とは言えない(Prinz, J. J. (2012)The Conscious Brain: How Attention Engenders Experience, Oxford U. P.)。このような情報は精々「前概念的」, Harvard U. P., 112)であり、やはりワーキング・メモリより前段階のアイコニック・メモリに蓄えられていると考えられる。本発表では、アイコニック・メモリを用いて非概念主義を擁護する彼らの議論には十分な説得力がないことが示される。