例会2015

第12回例会:藤川直也『名前に何の意味があるのか』合評会

    • 日時:2015年1月31日(土)、14:30-17:50
    • 場所:キャンパスプラザ京都、第一演習室
    • コメンテーターと要旨
      • 和泉悠
      • この発表では,藤川 (2014)『名前に何の意味があるのか』にて述べられたこと,述べられなかったこと双方について,固有名の述語説の視点から議論する.藤川は全体を通じて,固有名の意味内容はその担い手に尽くされるとする「固有名のミル説」を改訂しつつ擁護するため,まず第一に,藤川ミル説への対抗理論として,固有名の述語説Predicativism (e.g. Elbourne, 2005; Izumi, 2012; Fara, 2015)を簡単に説明し,全体の議論状況を提示する.第二に,「第3章 固有名と言語的規約」の検討を行う.そこで藤川は,Recanati (1993)が主張した「固有名規約は自然言語の構成的一部ではない」という見解を批判する.この藤川の批判の問題点を指摘し,それが Recanatiに当てはまるとしても,固有名の述語説には当てはまらないと主張する.第三に,「第5章 単文のパズル」で展開された,Saulの「単文のパズル」への解決策を検討する.藤川は,特定の文脈において,固有名の意味内容がその指示対象の「アスペクト」へと語用論的にシフトすると考え,また,Papafragou(1996a, 1996b) による関連性理論に基づくメトニミーの分析が,「アスペクト」への語用論的シフトの説明を与える,と主張する.この解決策の主な問題点は,(i)Braun and Saul (2002) が Moore に与える批判を克服していない,というところと,(ii) Papafragouが与える推論のステップと,藤川の与える推論のステップに論理形式上の差異が存在することであると主張する.Papafragouが提出する枠組みは「単文のパズル」に少なくともそのままの形では適用不可能である.第四に,藤川の固有名の多義性説から生じる問題点を議論する.多義性説は,日本語の削除現象にまつわるデータをうまく説明できないと主張する.第五に,藤川の改訂ミル説・多義性説は,束縛的用法など固有名の多様な使用をうまく説明できない,と主張する.
    • 高田敦史
    • 『名前に何の意味があるのか』の後半で検討された二つの立場、文化的人工物説とマイノング主義は、どちらもフィクショナルキャラクターが指示・量化・述定の対象であることを認める立場である。両者の違いは一般に思われているほど自明なものではない。本稿の見立てでは、もっとも重要な対立は、単なる志向的対象が人工的な対象であることを認めるかどうかである。文化的人工物説は、単なる志向的対象が人工的な対象であると認めることで、マイノング主義の抱える問題を解決している。また、文化的人工物説を単なる志向的対象一般には拡張できないとする藤川の議論は、文化的人工物説の支持者がほとんど認めていない前提に依拠しており、文化的人工物説による空名の問題の解決への反論には成功していない。本稿は、文化的人工物説を単なる志向的対象一般に拡張した立場を提案する。本稿が提案するのは、概念ネットワークが形成され、ある名前に関連した間接的な情報が流れることによって、単なる志向的対象が創造されるというシナリオである。また、後半では単なる志向的対象を全面的に認めることを許すような二つの存在論的枠組を提示する。ひとつはトマソンが近年擁護している簡単存在論(存在に関するデフレ主義)であり、存在が形而上学的に基礎的であることを否定し、日常言語における指示や量化を存在の十分条件と見なす立場である。もうひとつは形而上学的に深いレベルの存在と日常的な浅いレベルの存在を分け、日常言語において浅いレベルの存在者が指示の対象となることを認める立場である。
    • プログラム
    • 14:30-14:50 著者による内容紹介(藤川)
    • 14:50-15:30 評者のコメント(和泉)
    • 15:30-16:10 評者のコメント(高田)
    • 16:10-16:20 休憩
    • 16:20-17:50 ディスカッション

藤川直也『名前に何の意味があるのか:固有名の哲学』(勁草書房、2014年)

「本書では、直接指示論のうち「固有名の意味論的内容はその指示対象に尽きる」という立場に立ちつつ、真理条件的語用論の成果を踏まえてより洗練された現代的な再定式化を試みる。この立場をもとに、従来難問とされてきた代入パズルに関して回答を与え、またフィクションに現れる固有名の指示と意味の問題について考察を提示する。」(Amazon.co.jpのページより)