山口尚「拙著の内容紹介」

拙著『クオリアの哲学と知識論証』は、フランク・ジャクソンの思考実験の考察を通じて、ラディカルな唯物論(いわゆる「タイプA物理主義」)が正しいことを主張する。

ジャクソンはある論文で次の思考実験を考案した(これはときに「マリーの部屋」とも呼ばれる)。ある女性――メアリーという――が生まれたときからずっと白黒の部屋に閉じ込められ、白黒しか見えない環境で生活している。メアリーは白黒の書物と白黒のテレビを通じて世界について学び、人間の視覚の神経生理学の専門家となる。ここで、メアリーが世界についてのすべての物理的情報を(したがって人間の色視覚について得られうるすべての物理的情報を)有していると仮定しよう。以上の設定のもとでジャクソンは次のように問う。「メアリーが白黒の部屋から解放された場合あるいはカラーテレビが与えられた場合に何が生じるであろうか」(Jackson

1982: 130)。

この問いへジャクソン自身は以下のように答える。メアリーは世界と私たちの視覚経験について何か新しいことを学ぶ、と。例えばメアリーは、はじめて赤いバラを見るとき、《赤色を見るとはどのようなことか》を学ぶ。

ここから何が言えるか。ジャクソンによれば、唯物論あるいは物理主義が偽であることが帰結する。その理屈は以下である。メアリーは解放後に、色について新たなことを学んだ。それゆえ白黒部屋においてメアリーは、一切の物理的情報を有していたにもかかわらず、色についてあることを知らなかった。したがって、世界には、物理的情報以外にも知られるべきものが存在する。かくして物理主義は偽である。

以上の議論へはさまざまな反論および賛意が提示された。拙著の帯には「デネット、チャルマーズ、チャーチランドなど世界中の哲学者を巻き込んで、「知」をめぐるエキサイティングな論戦の幕が開く。これぞ《心の哲学》の醍醐味!」とワクワクさせるような宣伝が書かれてあるが、実際にメアリーの事例をめぐっては喧々諤々の論争が展開した。ストルジャーとナガサワはジャクソンの論証を「現代哲学および意識をめぐる論争において最も議論され、最も重要で、最もポレミカルな論証のひとつ」と呼んでいるが(Stoljar and Nagasawa 2004: 1)、これは決して誇張ではない。

拙著の第1部は論戦の歴史をサーヴェイし、第2部は私の主張――ラディカルな唯物論が正しい――を展開する。私の考えでは、物理的情報が、世界について知るべき(そして知りうる)すべてである。それゆえ、もしメアリーがすべての物理的情報を得ているのであれば、彼女は白黒部屋にいるときすでに《赤色を見るとはどのようなことか》を知っていた。これはおそらく多くのひとにとって直感に反する主張であろう。とはいえ、拙著で提示したいくつかの理由――《二元論は退けるべきであること》や《ラディカルな唯物論の代替案に見込みがないこと》など――に従うと、受け容れられる余地は十分にある。もし二元論が受け容れ可能なオプションでないとすれば、ラディカルな唯物論こそが「物理主義の中の物理主義」として最良のオプションになるのではないか――と私は考えている。

とはいえ――ここで正直に述べておくと――私は拙著の議論が明晰判明で十全妥当だとは考えていない。不十分な点は多々ある。こうした点はおそらく今回批評して下さる金杉さんと鈴木さんが指摘されるであろうから、受け容れるべき点は受け容れつつ、できるかぎり踏ん張って応答したい。

加えて――時間が許せば――拙著との関連でいわゆる「意識のハード・プロブレム」にも触れたい。私はハード・プロブレムなど存在しないと考えている。少なくとも、ラディカルな唯物論を採用すれば、ハード・プロブレムは封殺という仕方で「解決」できる。ただし、この場合、ラディカルな唯物論はいわゆる「汎心論」に近い立場になる――この点も指摘したい。

【参考文献】

Jackson, Frank, 1982. “Epiphenomenal Qualia,” Philosophical Quarterly, 32: 127-136.

Stoljar, Daniel and Yujin Nagasawa, 2004. “Introduction to There’s Something about Mary” in P. Ludlow., Y. Nagasawa and D. Stoljar (eds.), 2004. There’s Something about Mary, Cambridge: MIT Press: 1-36.