例会2012

第4回例会:山口尚『クオリアの哲学と知識論証』合評会

  • 日時: 2012年12月8日(土) 14:00-17:30
  • 場所: キャンパスプラザ京都、5階、第1演習室
  • テーマ: 山口尚『クオリアの哲学と知識論証』(春秋社)合評会
  • (著者山口氏による本書の内容紹介は、こちらをご覧下さい。)
  • 講演者:
      • 金杉武司(高千穂大学)
      • 鈴木生郎(慶應義塾大学)
      • 山口尚(大阪工業大学)
  • オーガナイザー:
      • 海田大輔(京都大学)
  • プログラム:
    • 14:00-14:40
    • 金杉武司「タイプB物理主義と説明ギャップ論証は論駁されたのか?」(レジュメはこちら。)
    • 山口氏は著書『クオリアの哲学と知識論証』において、フランク・ジャクソンの知識論証の妥当性について考察することを通して、タイプA物理主義(「存在論的ギャップ」のみならず「認識論的ギャップ」をも否定するラディカルな物理主義)の擁護論を展開した。山口氏は、その議論を展開する中で、タイプA物理主義の対抗馬であり、「認識論的ギャップ」を認めるタイプB物理主義の論駁を試みている。本発表では、第一に、このタイプB物理主義の論駁が成功しているかという点を検討したい。特に山口氏は、科学的知識を完全に積み重ねた場合、白黒部屋の中でも《どのようなことかの知》を獲得することは可能であると論じることによってタイプB物理主義を否定する一方で、科学的知識を多少積み重ねるだけでは《どのようなことかの知》を得ることはできないと認めることによって、その《どのようなことかの知》とは何かという問いが残ると論じ、それをある種の能力として分析する立場を擁護しようとしているが、一見する限り、後者の議論は前者の議論の説得力を損なうものになっているように思われる。本発表ではまず、この見立てが適切であるかどうかという点を、山口氏を初めとする参加者の皆さんに問いたい。またこの考察を通して、知識論証に対する応答に関する従来の分類方法(本書65頁の表を参照)が最適なものであるのかという点についても検討したい。
    • 次に、知識論証と深く関連する説明ギャップ論証を論駁する山口氏の議論を取り上げ、その妥当性を検討したい。山口氏は、説明ギャップの存在を認めつつ、タイプA物理主義者が説明ギャップの存在を恐れる必要はないと論じる。山口氏は、その理由として、説明ギャップが埋められないとしても、科学的説明のプログラムが多くの成功を収めてきたという十分な客観的証拠に基づいて、物理主義が真であることを知ることができるからだと論じる。しかし、そのような証拠によって本当に、説明ギャップの存在を認めつつ、物理主義が真であることを知ることができるのだろうか。本発表では、この問題について考察することを通して、そもそも物理主義はどのような立場として定式化されるべきなのか、そして、説明ギャップの存在は物理主義にとってどのような意味を持つものであるのか、といった点について考えたい。
    • 14:40-15:20
    • 鈴木生郎「ルイス的分析と『物理主義』」(発表スライドはこちら。)
    • 山口尚『クオリアの哲学と知識論証』は、F. ジャクソンが物理主義批判として示した「知識論証」を題材に、心についての還元主義的な唯物論の立場を擁護するものである。本書が備える美点は多いが、特に、知識論証に対する既存の評価や応答をきわめて網羅的に検討している点、そして、展開される議論がつねに明確で面白い点(注を読むのがこれほど楽しい哲学書というのは珍しい)は特筆すべきだろう。こうした点で、本書は心の哲学の研究に資するのみならず、心に関心をもつ幅広い読者に受け入れられることは間違いない。
    • とはいえ、本発表の目的は、本書で展開される心の哲学の評価ではない。むしろ本発表が目指すのは、形而上学研究者として、本書全体を貫く哲学的(形而上学的)プログラムを評価することである。そのプログラムとは、(1) D. ルイスの哲学的(形而上学的)分析の枠組みを全面的に採用し、(2) その枠組みに基づいて様々な形態の「物理主義」を擁護する、というものに他ならない。
    • こうした評価の際に中心的に検討するのは、本書の第4章と第8章の議論である。第4章において山口氏は、知識論証に対する「新事実戦略」と呼ばれる応答を批判する。そこでのポイントは、ルイスの「自己的態度(attitude de se)」の分析に基づけば、新事実主義が拒否するタイプの「物理主義」を擁護できるということである。さらに第8章では、ジャクソンが擁護する表象主義を明確化する過程で、ルイスの様相実在論を採用すれば、表象内容の問題に「物理主義的解決」が与えられると論じられる。これらの議論は、どちらも先に指摘したプログラムを明確に打ち出したものである。
    • 評者はまず、これら二つの章で展開されている議論が成功しているのかどうかを批判的に検討する。さらに、こうした検討を通じて、本書で擁護される「物理主義」とは何か、ルイス的な分析枠組みがどこまで「物理主義的」でありうるのかといった疑問を提起したい。そして最後に、こうした疑問を本書のプログラムの評価や明確化に結びつけることができればと考えている。
    • 15:20-15:30 休憩
    • 15:30-16:10
    • 山口尚「Mary, Mary, Quite Contrary to Common Sense ――金杉武司氏・鈴木生郎氏への応答」(発表スライドはこちら。)
    • 私の応答では、金杉さんと鈴木さんのご指摘を受けたうえで、自説のさらなる明確化を目指したい。また《物理主義とはそもそもどのような立場であるのか・あるべきなのか》も考えたい(これは皆で考えたい問題である)。
    • 金杉さんのご指摘は、「説明ギャップ」をめぐる私の態度にちぐはぐなところがある、というものである。実際にその感がある。おそらく私は《「説明ギャップ」ということで私が何を理解しているのか》をもっとしっかりと説明しなければならないだろう(そして説明ギャップといわゆる「認識論的ギャップ」の違いも説明しなければならない)。
    • 金杉さんの疑問へ答えるために私は「説明ギャップ」の三つの理解を区別したい。それは、タイプB物理主義的な理解、ジョゼフ・レヴァイン的な理解、フィリップ・ペティット的な理解、である。そして、三番目の理解(ペティット型)にもとづけば《説明ギャップの存在を認めつつ物理主義が真であることを知りうる》と主張できる点を指摘する。金杉さんと私は最終的に「ギャップの本性」の理解をめぐる点で対立するかもしれない。私はできる限り自分の理解を擁護したい。
    • 鈴木さんのご批判は、おそらく、拙著の思想のいわば「形而上学的な根幹」を標的にしている。この「根幹」の部分は著者本人にとっても明らかでないところがあるので、その明示化は文字どおり「望むところ」である。
    • 私は鈴木さんと「一人称的視点の存在論」をめぐって議論がしたいと考えている(おそらくこの点には鈴木さんも興味があると思われるので)。私は一般的に《三人称的なセッティングが与えられれば、存在論へ新たに一人称的アイテムをつけ加える必要はない》と考えるタイプの人間である。鈴木さんはどうだろうか。いずれにせよ、拙著の議論は今述べた一般的な形而上学的スタンスのもとで展開している(そのため、このスタンスを共有しないひとにとって拙著はナンセンスな本になりうる)。このスタンスの是非は、私が議論の俎上に載せてみたいもののひとつである。
    • 本応答において時間が許せばやってみたいことがある。それは、「ゆで卵は意識をもつか」という伝統的に誰も興味をもたなかった問いへ回答を与える、というものである――というのはジョークだが、これと関連した論点を扱う。私は以下のことを主張したい。第一に、《一人称的視点とは何か》に関して、視点のインフレ主義と視点のデフレ主義が分けられる。第二に視点のインフレ主義は、ルイス流の組み換え原理と一緒になって、ゾンビの可能性を帰結する。それゆえ、組み換え原理を認めるならば、唯物論者は視点のデフレ主義を採る必要がある。とはいえ――これが三番目の点だが――視点のデフレ主義はある種の汎心論を帰結する。かくして唯物論は「汎心論的な」性格をもつ立場になる。こうした点はファイグルなども気づいていたらしいが、私はこの点をできるかぎり明確な議論を通じて指摘したい。
    • 16:10-17:30 ディスカッション

第3回例会:ワークショップ「討論!生物学の哲学 ――適応主義と進化心理学をめぐって」

    • 日時: 2012年10月6日(土) 14:00-17:50
    • 場所: 京都大学楽友会館
    • 講演者:
      • 松本俊吉(東海大学)
      • 網谷祐一(京都大学)
      • 中尾央(名古屋大学)
    • オーガナイザー:
      • 網谷祐一(京都大学)
    • プログラム:
      • 14:00-15:50 第1部 適応主義をめぐって
    • 松本俊吉「『適応主義』をめぐる問題」
    • 本論考は、春秋社から出版予定の拙著『進化という謎――生物学の哲学の根本問題』(仮題)の、第2章「適応主義」の草稿の一部である。未刊の書であるにもかかわらず、こうして論評していただく場を与えられたことに感謝したい。
    • 適応主義とは、生物の形質の由来を自然選択に訴えて説明するという方法論であるが、こうした適応主義的説明をデフォールトとしてもよいのか、またそうした説明はどこまで検証/反証可能かという問題が、適応主義論争の本質である。適応主義をめぐる論争の火蓋は、1979年に書かれたグールド=ルウィントンの有名かつ物議を醸した共著論文によって、切って落とされた。この論文は生物学者の共同体ではあまり評判が良くないが、それが巻き起こした論争は科学方法論的な観点からは頗る興味深く、論争発端から30年以上立った現在でも色褪せていない。それは、一元論的理論か多元論的理論か、理論の反証可能性、生物学の物理学への還元可能性、決定論と非決定論、可能世界論、対象を観察する視点に関する「粒度問題」、「最善の説明への推論」、「なぜなぜ物語just-so stories」か発見法か、ラカトシュの「リサーチ・プログラム」など、科学哲学的に重要な実に様々な論点がこの論争との関連で登場してくるからである。
    • たとえばデネットは、このグールド=ルウィントンの批判に真っ向から異を唱え、「生物学は工学に他ならず」、リバース・エンジニアリング(彼によれば、これがすなわち適応主義)は、生物学的思考の核心だと主張する。すなわち、その由来がいまだわかっていないが、複雑で一見機能的な形質に生物学者が遭遇したとき、彼らは、その進化的起源を探査する糸口をつかむための「発見法」として、適応主義的推論に訴えるというのである。
    • 今回は特に、適応主義をラカトシュの意味でのリサーチ・プログラムと見なすことによって、その反証不可能性に関するグールド=ルウィントンの批判を回避できるという議論を検討したい。すなわち、生物の形質の適応性に関する個々の仮説が仮に経験的データによって反証されたとしても、それは直ちに、「自然は最適化する」という―適応主義の〈堅い核〉に相当する―「最適性仮説」の反証を意味するわけではなく、このリサーチ・プログラムが全体として〈前進的〉な状態にあると見なされれば、見かけの反証事例に遭遇しても〈防御帯〉に対する何らかのアドホックな修正を施すことにより〈堅い核〉を温存することは正当化される、という議論である。こうした観点から、グールドやルウィントンのような適応主義批判者と、ドーキンスやメイナード・スミスのような適応主義者との間の論争は、個々の適応主義的リサーチ・プログラムが、真に前進的なものであるのか否かに関する見解の相違として理解することができるという見通しを示したい。
    • 網谷祐一「適応主義に賭けるのは本当に賢明な投資か」
    • スティーブン・ジェイ・グールドとリチャード・ルウォンティンが「サンマルコ聖堂のスパンドレルとパングロス的パラダイム:適応主義プログラム批判」(1979)を著して30年以上になる。彼らは進化生物学にはびこる安易な適応主義の適用を批判し、それに代わり「発生的制約」に着目する研究プログラムを提示した。「適応主義」(松本俊吉、『進化論という謎』第二章草稿)は、適応主義に関する進化生物学・生物学の哲学における上記論文出版以来の30年に渡る論争のよいサーヴェイになっている。その末尾で松本は、適応主義をラカトシュ的な「研究プログラム」としてみる見方に賛同する。つまり、研究者が適応主義を採用することは一種の賭であり、その賭が成功か失敗かは後知恵でしかわからないというのである。しかし賭には理にかなった(sensible)賭もあれば無謀な賭もある。適応主義に賭けるのは本当に理にかなった賭なのだろうか。本発表では、ほかの論点と共に、松本が沈黙したこの問について議論する。
      • 15:50-16:00 休憩
      • 16:00-17:50 第2部 進化心理学をめぐって
    • 松本俊吉「『進化的機能分析』を再考する」
    • 進化心理学は、人間本性の進化的説明を提供することによってそれを自然化するという点で、かつての社会生物学と同じ目的を共有している。しかし、社会生物学の推論様式が、単なる「そうなるべくしてなったというまことしやかな物語just-so stories」にすぎないとして、グールド等の批判者によってその科学性に疑念が投げかけられたのに対し、進化心理学者は、「進化的機能分析evolutionary functional analysis」と呼ばれる独自の方法論の科学的な優位性を強調することで、自らを社会生物学者から差異化する。(BJPSに投稿準備中の)本論考では、進化的機能分析の論理構造を詳しく検討することによって、進化心理学者が主張するこの方法論上の優位性が見かけ上のものにすぎない点を論ずる。その際、以下の論点を提起する。
    • 1.社会生物学的推論は検証不可能な思弁であるのに対し、進化的機能分析は仮説演繹法にも似て最終的に経験的なテストにかけられる、という差異を進化心理学者は強調するが、これは必ずしも正しくない。社会生物学的な推論にも十分経験的検証にかかる余地はあり、他方で進化的機能分析にも多分に思弁的な余地は残る。
    • 2.社会生物学的推論も進化的機能分析も――それらが現在から過去に向かう溯行的(backward-looking)推論であるか、過去から現在に向かう前進的(forward-looking)推論であるかの違いこそあれ――、いずれもその究極的な骨格は、「太古の時代の淘汰圧が・・・であったとすれば、・・・といった種類の形質が自然選択において有利となり保存された」という典型的な進化論的思考に帰着する。
    • 3.進化的機能分析の科学性は、ひとえにそれによって予測される「心的モジュール」の検証可能性によって担保されているわけであるが、このモジュールの予測は、実際のところ、ダーウィン的前提から理論的に導出されたというよりもむしろ、現代人の行動や心理の観察によってすでに進化心理学者が見知っている事柄のいわば「プレースホルダー」として措定されたものにすぎない。したがって、現代人の祖先たる更新世の狩猟採集民が直面した適応問題から説き起こし、彼らが自然選択によって獲得した心的モジュールの予測にいたるまでの進化的機能分析の論証構造は、多かれ少なかれ「冗長redundant」である。
    • 中尾央「Rebutting the criticisms and defending the evolutionary psychology」
    • 松本による進化心理学批判論文は以下三点の問題を指摘している。論点自体は非常に興味深いものであるが、著者は進化心理学の方法論を十分に理解できておらず、これら三つの問題もおおむねそこから生じているもののように思われる。したがって、本発表ではまず進化心理学の方法論を概観した後、以下三点について次のように論じる。
    • 1.進化心理学の方法論は社会生物学と同様の問題を抱えている。
    • これは著者が進化心理学の方法論(この概観は発表の最初に行う)を適切に理解していないことに由来する問題で(Davies 1996も同様である)、進化心理学批判としては妥当ではない。進化心理学は現在のわれわれの行動や心理だけから過去を推測するのでは決してない。
    • 2.モジュールがplaceholderに過ぎず、重要な役割を果たしていない。
    • これは著者が認知科学の目標を適切に理解していないことに由来する。もちろん、認知科学ではメカニズムだけでなくたとえば生得的な知識についても探求が行われるが(e.g., Samuels 1998)、それでもやはり進化心理学にとってそれは大きな問題にはならない。
    • 3.Bussの研究に対する批判:過去の適応課題からの推測は不要である。
    • これも著者が進化心理学の方法論を適切に理解していないことに由来する。著者が引用するCaporaelの言葉はまさに同様の問題を抱えており、不適切な批判のよい例である。進化心理学における適応課題からの推論は発見法的なものであり、有用な予測を導き出せればそれで十分なのである。時間が許す限り、そうした具体例をBuss以外にもいくつかあげる(e.g., Barrett 2005; Bettinger and Eerkens 1999; Cosmides and Tooby 1989; Csibra and Gergely 2006; Machery and Barrett 2007; Sterelny 2012)。

第2回例会:ワークショップ「社会媒介(メディア)という視点」

    • 日時:2012年8月25日(土) 14:00-18:00
    • 場所:京都大学楽友会館
    • テーマ:社会媒介(メディア)という視点
    • 講演者:
    • オーガナイザー:
      • 久木田水生(京都大学)
    • プログラム:
      • 14:00-15:50 溝口佑爾
        • タイトル「被災した 『思い出』を救う―メディアの視点から―」(パワーポイントの資料はこちら(pptx)。写真が多く含まれているので暗号化しています。ご覧になりたい方はメールでお問い合わせください。
        • 要旨: 3.11東日本大震災により発生した津波が流出させたものの中には、家族の思い出の詰まった写真やアルバムが存在した。報告者の取り組む「思い出サルベージ」は、宮城県亘理郡山元町において津波に飲まれ持ち主不明となった写真約70万枚をITを用いて救済するプロジェクトである。
        • 自衛隊らに回収された写真を洗浄・デジタル化・データベース化し、持ち主に返す。その過程には様々なコツや予想外の社会現象が存在する。それらを題材として紹介しつつ、「メディア」の視座から話題を提供する。
      • 15:50-16:00 休憩
      • 16:00-18:00 林晋
        • タイトル「 私の近代化研究と社会メディアという視点」(パワーポイント資料はこちら(ppt))
        • 要旨:元数理論理学者でソフトウェア工学者だった林が歴史学、社会学の研究を始めたのは、数学基礎論史の執筆とソフトウェア仕様の validation の問題が契機であった。前者の研究中に出合った K.Godelの歴史観が契機となり、これら二つが結びつき、「前者を社会的活動としての数学における、後者をソフトウェア開発における、形式合理性と実質合理性の問題」として理解する理論がほぼ完成に近づきつつある。
        • 数学における形式主義、ソフトウェア工学における形式技法、Weber社会学における合理化・近代化理論の間に本質的な連関をみるこの理論は社会学的主張とみなせる。しかし、この関連性は社会学理論に止まらず、ドイツ語圏の近代化の時代の新カント派とそれを取り巻く諸思想からの双方への影響を史料ベースの思想史により検証すれば、思想史・歴史学的手法で実証できる可能性が高く、その研究も構想している。
        • これらの研究は現代の情報社会の来歴を探求する試みの一環であるが、これら二思想だけでは、ソフトウェア開発やWEBで大きな問題になっている「感情」の問題が説明できない。この問題に取り組むために、溝口氏との議論にヒントを得て「社会媒介としてのメディア」という概念と、その思想史について考えつつある。その導きの糸となるのは合理性のみに基づくWeber社会学を批判したM.Schelerの哲学・社会学だろう。
        • このような一見無関係な分野の諸思想が結びつくのは、それらが皆、二〇世紀に様々な分野や地域で起きた「近代化とその反転」に深く関わるからである。そのため連関はさらなる広がりを持つ。例えば、米国の哲学者M.Friedman の著書 A Parting of the Ways の歴史観を基にすれば、これらと、同時代の西欧思想史(新カント派後の英米哲学と大陸哲学への分裂)、京都学派の哲学、米国のプラグマティズム、ホワイトヘッド後期哲学などの関連が明瞭となる。
        • 話は多岐にわたるので、今回は林の研究の動機と経緯の話を中心にして研究プロジェクトの全体像を描き出すことを試みる。また、現代数学を芸術のモダニズムと対比する英国の数学史家J.Grayの仕事とこの研究の関係も説明したい。

第1回例会:ワークショップ「可能世界」

    • 日時:2012年6月2日(土) 14:00-18:00
    • 場所:京都大学楽友会館
    • 講演者:
    • 西條玲奈(北海道大学)
    • 八木沢敬(California State University, Northridge)
    • 吉満昭宏(琉球大学)
    • 特定質問者:
      • 小山虎(大阪大学)
      • 佐金武(大阪大学)
      • 山口尚(大阪工業大学)
    • オーガナイザー:
      • 久木田水生(京都大学)
    • プログラム:
    • 14:00-15:00
    • 西條玲奈「法則による性質の個別化と形而上学的可能性」
    • 本発表の目的は、性質の因果説の適用範囲を明確にすることである。ここでいう性質の因果説とは、性質を区別する際、その因果的特徴に言及するという立場である。たとえば、ナイフ状の形をしているという性質は、これを例化する対象に、バターを切ることができるという因果的特徴を与えるし、水であるという性質は、摂氏100度の下であれば蒸発するという因果的特徴をもつ。このように性質がどのような因果的特徴をもつかは、自然法則に依存する。そうだとすれば、性質の因果説は、この世界の自然法則上ありえない性質を区別できないように思われる。たとえば、ペガサスである、卑金属を金に変えられるといった性質は、物理的にはありえないが形而上学的には可能である。しかし、本発表では、こうした性質もまた性質の因果説の扱う範囲に含まれると主張する。性質の因果説の枠組みで物理的にありえないが形而上学的に可能な性質を個別化するためには、現実世界とは異なる自然法則に依拠した因果的特徴に訴えればよい。これにより性質の因果説が物理的に可能な性質以外にも適用できることを明らかにする。
      • 15:00-16:00
    • 八木沢敬「今と現実」
    • 様相形而上学では現実性という概念について大きく分けて、現実主義と可能主義というふたつの立場がある。現実主義によると、現実性という概念は様相形而上学における他の概念の分析に使われるべき重要な概念だが、それ自体は他の概念による分析を許さない基礎的な概念である。いっぽう可能主義によって提案されたもので最もよく知られているのは指標主義という見解で、現実性は指標の概念であるという立場、すなわち、「今」という語がその語が発話された時点を指すのと同様に「現実」という語はそれが発話された可能世界を指す、という立場である。ここでは主に、この指標主義を批判するいくつかの考察を披露する。そして、指標主義の精神を共有するが現実主義にも近い立場を示唆して終わる。「現実にこれこれだ」という概念から、独立にある「これこれだ」という述定の概念を差し引くことによって得られるのが現実性の概念なのだ、という示唆である。
      • 16:00-16:15 休憩
      • 16:15-17:15
    • 吉満昭宏「関連論理の可能世界意味論からの教訓」
    • B・J・コープランドらによる関連論理の意味論に対する厳しい批判を受けて、80年代以降、関連論理の意味論を自然に解釈する作業が、主に哲学者の間で課題となってきた。その試みの一つに、G・プリーストが中心となって進められている可能世界意味論の枠組(「簡素化された意味論」)がある。本発表では、この枠組の概要を見た上で、自然な意味論としては、どこがどうダメなのかを論じ、代替案を示唆する。最後に、その代替案の下で、「可能世界」の概念はどう扱われようになるのかを論じる。
      • 17:15-18:00 ディスカッション