とはいえ、本発表の目的は、本書で展開される心の哲学の評価ではない。むしろ本発表が目指すのは、形而上学研究者として、本書全体を貫く哲学的(形而上学的)プログラムを評価することである。そのプログラムとは、(1) D. ルイスの哲学的(形而上学的)分析の枠組みを全面的に採用し、(2) その枠組みに基づいて様々な形態の「物理主義」を擁護する、というものに他ならない。
こうした評価の際に中心的に検討するのは、本書の第4章と第8章の議論である。第4章において山口氏は、知識論証に対する「新事実戦略」と呼ばれる応答を批判する。そこでのポイントは、ルイスの「自己的態度(attitude de se)」の分析に基づけば、新事実主義が拒否するタイプの「物理主義」を擁護できるということである。さらに第8章では、ジャクソンが擁護する表象主義を明確化する過程で、ルイスの様相実在論を採用すれば、表象内容の問題に「物理主義的解決」が与えられると論じられる。これらの議論は、どちらも先に指摘したプログラムを明確に打ち出したものである。
これも著者が進化心理学の方法論を適切に理解していないことに由来する。著者が引用するCaporaelの言葉はまさに同様の問題を抱えており、不適切な批判のよい例である。進化心理学における適応課題からの推論は発見法的なものであり、有用な予測を導き出せればそれで十分なのである。時間が許す限り、そうした具体例をBuss以外にもいくつかあげる(e.g., Barrett 2005; Bettinger and Eerkens 1999; Cosmides and Tooby 1989; Csibra and Gergely 2006; Machery and Barrett 2007; Sterelny 2012)。
このような一見無関係な分野の諸思想が結びつくのは、それらが皆、二〇世紀に様々な分野や地域で起きた「近代化とその反転」に深く関わるからである。そのため連関はさらなる広がりを持つ。例えば、米国の哲学者M.Friedman の著書 A Parting of the Ways の歴史観を基にすれば、これらと、同時代の西欧思想史(新カント派後の英米哲学と大陸哲学への分裂)、京都学派の哲学、米国のプラグマティズム、ホワイトヘッド後期哲学などの関連が明瞭となる。