例会2016

第14回例会:知覚・行為・自由 - 美濃正教授退職記念ワークショップ

時間が変更になっています.ご注意ください.

日時:8月27日,10:00-17:00 10:30-17:30

場所:キャンパスプラザ京都 2階 第一会議室

http://www.consortium.or.jp/about-cp-kyoto/access

主催:京都大学応用哲学・倫理学教育研究センター(CAPE),京都現代哲学コロキアム

参加費:500円

プログラム(発表者敬称略):

第一部:知覚

10:00-10:30 10:30-11:00 西村正秀「運動知覚の認知的侵入可能性」

10:30-11:00 11:00-11:30 小草泰「知覚経験における感覚的なものの役割」

11:00-11:40 11:30-12:10 美濃正コメント+質疑

11:40-13:00 12:10-13:30 お昼休み

第二部:行為

13:00-13:30 13:30-14:00 柴田正良 「<偶然的真理としての物理主義>とスーパーヴィーニエンス」(仮題)

13:30-14:00 14:00-14:30 美濃正 「デイヴィドソンの心と行為の哲学再考」(仮題)

14:00-14:30 14:30-15:00 柏端達也 「「行為」における意図と理由の役割について」

14:30-14:50 15:00-15:20 質疑

14:50-15:10 15:20-15:40 休憩

第三部:自由

15:10-15:40 15:40-16:10 青山拓央 「アマルガムとしての自由」

15:40-16:10 16:10-16:40 鈴木生郎 「自由についての前理論的理解と理論構築:美濃氏と青山氏の自由論をめぐって」

16:10-16:50 16:40-17:20 美濃正コメント+質疑

要旨

第一部:知覚

西村正秀「運動知覚の認知的侵入可能性」

知覚と認知の関係は、哲学において古くから様々な形で議論されてきた。「知覚経験はその形成において信念や欲求などの認知状態によって影響を受け得るのか」という知覚の認知的侵入可能性(cognitive penetrability)の問題は、その形態の一つである。認知的侵入可能性という概念は1980年代に心の計算理論を展開したZ. W. Pylyshynに起源を持つが、認識的正当化や知覚による高次性質の表象可能性などへの含意が注目され、近年盛んに議論されている。この問題を扱う際には、少なくとも二つの点に留意する必要がある。一つは、「認知的侵入可能性」で何を意味しているのかである。多くの論者が指摘するように、この語は哲学者によって異なる意味で使用されている。もう一つは、知覚には色や大きさや運動など様々な性質に関するものがあり、それらすべてを同じ仕方で扱える保証はないという点である。これらの点を念頭に置きながら、本発表では視覚の中から運動知覚に焦点を合わせて、認知的侵入可能性の是非を論じる。最初に、認知的侵入可能性について、この概念に関する幾つかの混乱を取り除きながら議論の叩き台となる特徴づけを提示する。次に、運動知覚の認知的侵入可能性を示唆する「仮現運動」に関する経験科学上の知見を枚挙した上で、それらが必ずしも認知的侵入可能性を示唆するものとして解釈される必要がないことを論じる。最後に、本発表に対して予想される反論をいくつか取り上げて退ける。

小草泰「知覚経験における感覚的なものの役割」

志向説と素朴実在論(選言説)は、現在の二大知覚理論である。前者は知覚経験を(全面的に)志向的なものとみなすことによって、そして、後者は(真正な)知覚経験を主体と外的世界との関係とみなすことで、知覚経験の現象的性格を捉えようとする。両理論は、このように根本的に異なる知覚観を提示している(そしてまた、どちらの理論にも多くのバージョンが存在する)が、しかし、一般的に、これらの理論(の諸々のバージョン)は、それぞれのやり方で、何らかの主観的な感覚的存在者――「クオリア」とか、「センスデータ」、あるいは「感覚」と呼ばれてきたようなもの――に訴えることなく、知覚経験の現象的性格を捉えようとする点で一致している。そして、それらの主観的な存在者は一般に好ましくないものとされているため、これらの理論は現在の標準的な理論となっている。

しかし、志向説と素朴実在論は、かなり根本的な点で、深刻な問題、あるいは課題を抱えている(ことが、論争を通じて明らかになってきた)と私は考えている。志向説に関しては、「知覚経験を全面的に志向的なものとみなす立場は、はたして、知覚経験に特有の――他の志向的状態には見いだされない――現象的ないし質的特徴を捉えることができるのか」という点が問題となるし、また、素朴実在論に関しては、幻覚の現象的性格をどのように説明するのかということが依然として問題であり続けているようにみえる。

そこで、この発表では、以上の点を簡単に確認したうえで、主観的な感覚的存在者(「感覚」)を認める立場を改めて追及してみることにしたい。しかし、そうする際に、志向説や素朴実在論をめぐる議論において強調されてきた論点には注意を払うべきだ、と私は考えている。それは、「経験の現象的性格は、世界のありようを表象(ないし提示)するという経験の特性と不可分である」とまとめることができる論点である。そして、このような観点から、私は、「感覚は、知覚対象の可感的性質の「現れ方」を形成する」というアイデアを提示するつもりである(このアイデアは、A.D. Smith、Brad Thompson、Murat Aydedeなど、いろいろな人からヒントを得たものである)。この立場は感覚を、心的な知覚対象や、あるいは、知覚的信念を引き起こす単なるトリガーとみなすのではなく、「知覚経験が外的事物に直接に向けられている」ということに対して不可欠な寄与をするものと考える点を特徴とする。

発表では、この基本アイデアの骨子を示すとともに、それを具体化する一つの試みとして、触覚経験を取り上げる(予定である)。例えば、机に触れてその冷たさや固さを感じるというような経験において、主観的(感じられる限りでのもの)であると同時に身体的位置を持つ身体感覚が果たす不可欠な役割を確認し、「感覚が、可感的性質の現れ方として、知覚経験の志向性に寄与する」という考え方に実質を与えることを試みる(つもりである)。

第二部:行為

柴田正良「<偶然的真理としての物理主義>とスーパーヴィーニエンス(仮題)」

TBA

美濃正「デイヴィドソンの心と行為の哲学再考(仮題)」

柴田氏、柏端氏とともにおこなった約20年前のワークショップでは、デイヴィドソンの心の哲学上の立場である「非法則的一元論」に対して、私はいわゆる心的因果の観点から批判をした(と記憶している)。それは、キムやスタウトランドによる議論を援用した批判であったが、現在でも基本的に的を射た批判だったと考えている。

今回は、20年前とは少し異なる角度から、やはり非法則的一元論に対する批判を展開してみたい。まず、デイヴィドソンによる心的なものの「非法則性」の主張に反対する一つの議論を示したい。デイヴィドソンの心の非法則性の主張とは、要するに、心的なものはある種の規範的原則(たとえば「人が相矛盾する内容(pと~p)の2つの信念をもつことはありえない」といった原則)に司られており、この意味での規範性が心的なものを構成する性質である(この意味での規範性に反するものは心的なものではない)が、それゆえに、心的なものに関しては厳密な法則は成立しえないという主張である(デイヴィドソンは、最後の?理性主義者である)。しかし、この主張は、心的なものの概念に照らして、正しい主張とは考えがたいと論じる予定である。

次に、デイヴィドソンによる一元論の主張に対しても批判を加えたい。非法則的一元論は、通常の分類に従うならば、性質二元論もしくは二重側面説dual aspect theoryの一種であり、正真正銘の(物理)一元論ではない。

柏端達也「「行為」における意図と理由の役割について」

「行為」と題されたこの第二部は、もともと、二十数年前北海道大学にてまったく同じ顔ぶれで行なわれたデイヴィドソンの行為の哲学に関するワークショップの「続編」として(もっと小規模なレベルで)企図されていたものである。ともあれ、その古いワークショップでは、行為の原因と理由のあり方をめぐっていくつかの議論が交わされた。結果としてそれらの議論は、その直後に「心的因果性(mental causation)」の名のもとに盛んに論じられるようになる問題群に包摂されるものであった。ただしわれわれは当時、J・キムらをフォローしていたわけではなく、むしろ1980年前後にF・スタウトランドがデイヴィドソンの哲学に対して指摘していた「斜め因果性(oblique causation)」の問題を発掘しているつもりであった。またそのワークショップを一つのきっかけにして、われわれは、行為(または身体運動)の結果についても議論を続けた。それは、「殺害の時間の問題」として比較的古くから知られる問題を中心とした議論であり、身体を動かしたらそれで終わりとするようなデイヴィドソンの行為観に対する異論に基づく議論でもあった。柴田正良はその議論に多大な貢献をしたが、その果実はいまのところ古いメールデータの海に沈んでいるように見える。代わりに──というわけでもないだろうが──野矢茂樹が参戦し、美濃正と論争を繰り広げた。いまでこそあたりまえのことなのかもしれないが、日本語でたがいに相手を激しく(哲学的に)批判しあう光景が私にはとても新鮮に感じられた。そのときの議論は、結局のところ、行為とは何かという存在論的な議論であったのだが、すくなくとも二つの点で特徴的だったと思う。一つには、身体運動終了後に生起する一連の出来事に対する行為者の「意図」の役割が(美濃においてであれ野矢においてであれ)重視されていたように見えるという点である。それはあたかも、意図の影響が一定の期間実際に世界を覆うかのような語られ方であった。もう一つは、自然言語におけるいわゆる「進行形」表現のあり方が議論の決め手の一つと見なされていた点である。後者に関連する議論には私も関与した。さてその後、意図や計画、配慮、欲求の充足、未来の価値といった事柄に関わる解明や問題提起が、哲学的行為論にとどまらない諸領域においていろいろとなされた、という事情がある。本発表では、そうしたその後の展開をふまえて、行為者の諸態度が身体運動終了後の出来事に対してどのような仕方で関係するのかについて、すこしだけ系統的な素描を与えてみたいと考えている。

第三部:自由

青山拓央「アマルガムとしての自由」

論文「自由の問題」(1991年)において美濃教授は、自然科学的な世界像に自由を位置づけるという課題を前に、種々の自由を有意味なものとする「行為」の成立可能性を論じた。その際、注目に値するのは、決定論と非決定論のいずれかを独断的に採用することなく、その双方の余地を残したうえで「自由」「行為」を論じる姿勢であり、その結果として提示された自由は一種のアマルガム(合金)となっている。自由へのこうした検討姿勢は、論文「決定論と自由」(2008年)においても引き継がれているが、両論文の微妙な差異については発表の前半にて紹介したい。つづく発表の後半では、上述した意味でのアマルガムとして自由を位置づけるという課題に賛同しつつ、しかし、決定論/非決定論という二極のもとではなく、一人称/二人称/三人称(脱人称)という三極のもとで、それを試みる。その議論がもし妥当であれば、両立的自由と非両立的自由(狭義の自由意志)のいずれか一方のみをもって「自由」の意味を尽くすことはできず、また、そうする必要もない。

鈴木生郎「自由についての前理論的理解と理論構築:美濃氏と青山氏の自由論をめぐって」

哲学者は通常、自由に関する理論を構築するにあたって、私たちが自由についてもつ前理論的な理解(ないし直観)を利用してきた。こうした理解は、自由についての理論構築の基礎となると同時にその正しさの根拠とも見なされている。本発表で私は、美濃氏および青山氏の自由論を、こうした自由についての理論構築のあり方の観点から検討する。そのことを通じて両氏の議論について問題提起をすること、加えて、そこから自由についての理論構築に関する一定の知見を導くことが本発表の目的である。

「「自由意思」、ミニマムの自由、責任」(2009)において、美濃氏は両立論的な「ミニマムの自由」を擁護している。美濃氏によれば、私たちが実践において現に用いている自由/不自由の区別は、少なくともその中核的な部分については決定論とも非決定論とも両立するものとして理解できる。そして、この中核的な部分は「ミニマムの自由」として理論的に定式化することが可能である。このように、美濃氏の試みは、自由についての前理論的理解の中核的部分が両立論的なものと理解できることに基づいて、自由についての理論構築を試みるものである。しかしながら、この美濃氏の試みが成功しているかは疑いうる。というのも、美濃氏が、自由の前理論的理解の中核的部分が両立論的であることを示すために指摘している事実は、自由の前理論的理解が非両立論的なものであることとも両立するように思われるからである。したがって、自由の前理論的理解の中核的部分が両立論的なものだという主張はさらなる裏付けを必要とする。しかし、私の考えでは、そうした裏付けはそれほど容易ではない。

他方、青山氏が展開する自由論によれば、私たちの自由の理解は、内的に緊張を含むようなーー非両立論的な側面と両立論的な側面を併せもつーーアマルガム(合金)として捉えられる。こうした側面は、それぞれ一人称、二人称、三人称的の三極のうちに位置づけられ、互いに緊張関係にありながら自由についての理解の不可欠な一部だとされる。しかし、私は、こうした青山氏の主張は示唆的であるにせよ、それが根拠づけられるはずの前理論的理解との関係においても、理論構築の観点から見ても、はっきりしない点や問題含みの点があることを指摘する。

続いて私は、美濃氏や青山氏の試みとの対比を目的に、近年Manuel Vargasが擁護している「改訂主義」と呼ばれる立場を(やや限定された仕方でだが)検討する。この試みは、美濃氏や青山氏の理論構築の背後にある動機(とりわけ、非両立論的自由の存在に関する不信と、強硬な非両立論に対する疑念)を共有しながら、異なる仕方で自由についての理論構築を行う試みとみなすことができる。したがってそれとの対比は、両氏の自由論の評価や、自由についての理論構築一般に関していくつかの重要な示唆を与えると考えられる。

第13回例会:性犯罪への眼差し――コントロール・非難・治療をめぐる理論と実践

日時:2016年3月26日,15:20-17:50

場所:キャンパスプラザ京都,第4演習室

発表者:山口尚(京都大学非常勤講師,自由意志研究者),塩飽耕規(NPO法人 性犯罪加害者の処遇制度を考える会)

このワークショップは、人間存在に備わる自己コントロールと責任に関する問題をジェネラルなテーマとしながら、とりわけ性犯罪に対する社会の眼差しのあり方を考察する。

「性犯罪」とは何か、という問いへ確定的な答えを与えることは難しいが、日本の刑法においては強姦・強制わいせつ・公然わいせつなどがその具体的形態として規定されている。さて――この点が本ワークショップを催す動機のひとつなのだが――性犯罪および性犯罪者に対する私たちの向き合い方は現在激しく揺れている。一方で、深夜に繰り返しアパートに忍び込んで女性をレイプした連続強姦犯のニュースを聞くと、少なからぬ者が《そんなやつには最大級の刑罰を与えるべきだ》と感じる。他方で、性依存症などに関する近年の研究を耳にすれば、《性犯罪者はある種の病気を患っていると見なされるべきであり、彼ら/彼女らに必要なのは治療だ》という考えが抱かれる。また近年の司法・行政へ目を向ければ、法務省はその有識者会議において強姦罪の厳罰化を検討する一方、同時に、性犯罪者の再犯防止を目的とした「性犯罪者処遇プログラム」(そこではグループワークなどを通じてかつて性犯罪を行なった者が自らの「認知の歪み」の矯正などに努める)を実施しており、ここにも性犯罪に対する私たちの眼差しの「揺れ」が現れていると言える。罰か、それとも治療か。性犯罪加害者に対する適切な処遇の如何に関して私たちの社会は安定したコンセンサスを有さない。文脈に応じて私たちの見方や感じ方はシフトする。

本ワークショップでは、こうした揺れを「どっちつかずだ」と言って外部から批判するのではなく、むしろそれを理解し、そしてそうした揺れの内部でこれから性犯罪に対してどのような向き合い方を築き上げうるのかを模索したい。私たちが現にその中にいるところの揺れ――この揺れの内部から性犯罪および性犯罪者への新たな眼差しを立ち上げていきたい、というのが本ワークショップの大きな目標である。

はじめに山口が哲学的な観点から〈性犯罪者は厳しく罰せられるべきと判断する際に見落とされがちな事柄〉を明確化し、次に塩飽が性障害医療の現場経験を踏まえ〈性犯罪への向き合う際に重要なこと〉を指摘する。最後にフロアを加えてディスカッションを行なう。

発表要旨:

山口尚「道徳的責任と自己コントロールの帰属をめぐるジレンマ――性犯罪のケースに即して」

性犯罪への私たちの向き合い方は、最善の努力を払った場合には、いわば「ジレンマ含み」のものにならざるをえない――この点を強調することが本発表の目標のひとつである。かくして私が本発表において目指すことは、性犯罪をめぐる何らかの問題に解決を与えることではなく、むしろ《性犯罪に関して、私たちの生のうちには解きほぐしえない不条理が存在する》という事実を指摘することである。換言すれば、生における紛糾を解消することでなく、そうした紛糾を直視する、ということである。性犯罪はきわめて難しい事象であり、それに対して首尾一貫した態度をとろうとするときには却って欺瞞や無思慮の悪徳へ落ち込む。例えば性犯罪者一般について「厳罰に処すべし!」と主張するひとは、もしこうした主張からわずかでも距離をとった視点に立つことができないならば、重要な意味で「見るべき事柄を見ていない」と評されるべきだろう――と私は指摘したい。

性犯罪に対する私たちの向き合い方が不可避的に直面するジレンマとは何か。それは性犯罪者に対して私たちが責任や自己コントロールを帰属することに関するジレンマである。具体的には、私たちは、性犯罪者について語るとき、彼ら/彼女らを〈問題の犯罪行為に対して責任を有する主体〉と見なす視点に立つと同時に〈それに対して責任を有さない存在〉と見なす視点に立ちうる――そして、考慮すべきことをできる限り考慮する場合には、そのふたつの視点に同時に立たざるをえないのである。私はこうしたジレンマを、性犯罪のケースに特有のパラメータを指摘しつつも、私たちの責任帰属実践一般が携える「矛盾」の特殊例として説明したい。結局のところ――Peter Strawsonに対するThomas NagelやGary Watsonのリアクションの考察を通じて強調したいことだが――私たちがひとへ責任や自己コントロールを帰属するという実践は、一般的なレベルで、根本的に首尾一貫しない側面を備えている。そしていわばこの「一般定理」の「系」として性犯罪への私たちの向き合い方におけるジレンマが生じるわけである。

以上のような指摘を通じて、例えば「性犯罪者は厳罰に処されるべき」というある意味で自然な見方は、実のところ、「片肺飛行的な」見方に留まりがちなものである、などの諸点が明らかになるだろう。また――専門家向きの話だが――道徳的責任に関するいわゆる‘Strawsonian View’をめぐる近年の議論にも若干触れたい。

塩飽耕規「性犯罪者への眼差し」

提題者の発表をうけ、本発表では、性犯罪加害者の治療を行っている臨床心理士としての雑感を示し、性犯罪の治療を取り巻く様々な事象について参加者と議論を交わしたい。

発表者は、性犯罪加害者の治療中に彼らの言葉を聞くとき、時に次のような連想をもつことがある。連日テレビやインターネットニュースで「普通じゃない」性犯罪者やストーカーが取り上げられるなか、眉をひそめながらそのニュースに釘付けになる一般視聴者は、嫌悪感を抱くと同時にその画面の中の何かに魅了されているのではないだろうか。もしかすると、かつてはサーカス団の奇形身体者が担っていたような人間の姿を、現代では性犯罪者が担っているのではないだろうか。

一般視聴者が、自分たちの日常を壊しかねないそのような奇形の欲望に恐怖を感じ、自分の家族が標的になるかもしれないという不安を抱くことは当然である。しかし視聴者の眼差しは、なぜその奇形の欲望に怒りを覚えるのだろうか。その怒りはどこから来るのだろうか。一般視聴者が被害者やその家族に同情することは理解できる。しかし、奇形の欲望の標的になった被害者への同情は、「普通の」欲望の標的になって生活が立ち行かなくなった被害者たちに向けられるものと同じだろうか。おそらくそうではないだろう。ではなぜなのか。

奇形の欲望に引き寄せられる匿名の眼差しは、加害者の心のなかでも常に喚起されているようである。その眼差しは、時として彼らの憎悪を膨らませ、時として彼らを再犯に駆り立てかねない重荷となり、時として彼らのさらなる自己理解を促す不安になり、時として彼ら自身の眼差しと重なる。こう言ってよければ、性犯罪加害者に向けられる匿名の眼差しは、彼らの治療プロセスと表裏をなしているのかもしれない。

性犯罪者の治療を行っているSOMECの理念は、被害者をなくすために加害者をなくすことである。そのための治療活動は、上記の眼差しの具体的な現れである社会現象、例えばSNS上の法外な倫理観などにすでに問いを開いているのかもしれない。