触れたい命の造形詩
命の尊さをあざ笑うかのようなわれわれの世界。戦争、テロ、殺人、搾取、事故、、、。理想的なたてまえはあっても真逆な現実ばかりに、人間関係は失望と怨嗟で疎ましくなるばかりだ。愛や優しさはどこへいったのか。芸術の歩みはどう応えてきただろう。レンブラントは貧しき民衆に、ゴッホは名もなき農夫に、歌麿や北斎は下賎とされた民衆に命の尊厳を与えた。現代の場合、こうした問題にさまざまな、また思いもよらない方法で応えていることは確かだが。
達和子の1999年52歳で始まるドローイング・タッチ活かす作品群。そこには命の尊さに触れるような造形の歩みが貫かれてきた。もともと44歳で美大入学、47歳で公募展入選という遅咲きは稀であろう。相当な生活体験はあったはずで、そのヌードを描く入選作には並ではない情念がほとばしる。奔放なタッチは数年後の現代のカオスに足掻く心象風景に移っても変わらず、アピール度を強めている。2010年前後、ずばり命がテーマとしてほぼ絞られ、まずは胞子に目をやる。神秘というべき生殖体が奔放なドローイング・タッチと象徴手法で描かれ、詩情もそよぐ。カオスにめげない命に優しく触れようとする。なかでも誕生の一瞬をとらえる部類は忘れがたい。達が幼い頃から身体で覚え知った経験、つまり体で知った命の尊さ、いわゆる身体知が強いモチベーションになっているのは確かだろう。そして最近作のようなダンスする人間をモチーフにするのも動いてエネルギー漲る肉体に惹かれるからだろう。いわゆる具象美術のように顔や肌を描写するのではない、ドローイング・タッチで感触性を呼び覚ますこの造形詩は、奔放さを内に秘めながら命の尊さを一段とアピールしていくようだ。
日夏露彦(国際美術評論家連盟aica会員)