中村英樹 (美術評論家)

生動感と安らぎの交錯 ─ 達 和子の針路 ─

達 和子の絵画作品では、単純には感情移入しがたい違和感が両義的な表現の核として主役を務める。例えば、勢いのある鋭い描線の繰り返しと、丸みのある形をした半透明な絵具の層の重なりは、騒がしく競い合っていて見る人の目の動きを駆り立てるけれども、放射状に、また上方に広がろうとする力強さも感じさせる。画面下部の形象が上部よりも小さいことは、不安定で落着かないように見えるが、軽やかで自由な気分にもさせる。

粒状の同じ形の反復は、見る目を一箇所に留まらせない気ぜわしさの一方で、何かが増殖しつつあるようなリズム感を生み出す。画面全体を左右する大づかみな形象についても、似た形が幾つか並ぶ「複数性」の異化効果に気づかされる。通常は似つかわしくない形同士の出合いや、植物と人間のダブルイメージも奇妙さの反面、好奇心をそそる。これらの両義性は、何を意味するのか。少し人間の本性に分け入って考えてみよう。

生き物の一種に他ならない私たちは、人類へと進化する前からの本能を保ち、祖先によって積み重ねられた体験の記憶を無意識的に受け継ぎながら、男は男としての、女は女としての欲求をもって生きている。そのように祖先の記憶から成る私たちの身体は、生き延びるため外部世界や他者への適切な対応の仕方を迫られ、その都度の新たな外部との関係性の記憶を体内に蓄積して、一人ひとりわずかに異なる個体を形成する。

ただ、私たちが向き合う外部世界や他者はいつも好意的とは限らず、抑圧的あるいは敵対的であることが多く、どちらにもなりうる場合がほとんどである。脅威となる外部世界や他者への対応が困難なときと、破たんしたときの記憶は、しばしば重い精神的負担として残ると同時に、そこから解き放たれて自由になりたいという潜在意識を強める。

そこで、原初的な人類は、視覚的表現の仮設的な次元を巧みに駆使して、苦難に立ち向かう自分たちの心を活性化してきた。絵画などの視覚的表現には、精神的負担を物質的な痕跡として対象化して見つめさせ、自己解放に導く可能性がある。達 和子の作品の色々な側面に表われる両義性は、その視覚的表現の原点と密接な関係にあると言える。単純には感情移入しがたい違和感は、いわば重い精神的負担の反映かもしれないが、描かれた画面には、生動感に加えて心に安らぎを与える自己救済の仕組みが認められる。

2014年の最新作は、これまでよりもすっきりしていて、生動感と安らぎに至るための仕組みが純化されつつあるように見受けられる。ダイナミックで複雑な筆致を繰り返す描線と描線の〈間〉や、違う質感の絵具が重なり合う層と層の〈間〉、密集する描線と絵具の層の〈間〉、塗られた面の異なる色同士の〈間〉、奇妙な形をした色面と色面の〈間〉というように、多くの場合力強い動きを感じさせる何かと何かの対比が生動感を生み、そのどちらでもない〈間〉が安らぎのもととなる。この点が明快になってきた。

《孵化(ふか)》という作品は、前作からの粒状の形が並ぶ斑紋を残すものの、赤みを帯びた二か所の色面と、上下に素早く走る白や黄緑の細長い層の重なりの対比が人の目を惹きつけ、静と動の〈間〉自体を見つめさせる。《花になるⅡ》は、下から右上へ勢いよく吹き上げるような無数の描線の上に軽妙に塗り重ねられた色彩と、上からの力をそっと受けとめて左上へ、また左下へと伸びる描線に呼応する色彩がどちらも薄い半透明な膜面をなし、双方の対比が開花しようとする植物のような外への広がりをもたらす。右上の黒色は、外に広がる勢いを強め、画面上端で断ち切られてその先を予感させる。

《花になるⅠ》では、画面全体の構成に関わる大きな形象として、下から上へと開いた描線の二つの密集がまず目に入る。よく見ると画布の裏側から塗られた黒い絵具が表面に染み出し、しかも下に垂れた染みが逆向きになって上方に伸びている。密集する描線の二つの大きな集合の〈間〉や、上に向かう描線の集合と、裏側で垂れた黒い染みを上下反転した膜面の〈間〉に、自然にはない現象を超えた安らぎの源泉が求められる。

《記憶の痕跡》は、画面中央に黒い縦軸を配しながら、描線も色面もあちこちに飛散してまとまりがないかに見えるが、飛散する動きのリズム感と、飛散する描線や色面同士の〈間〉が巧妙に仕組まれている。絵具が塗り込められた《一言の始まり》の中核は、奇妙な形をした色面と色面の出合いだが、その〈間〉にはユーモラスな趣さえ漂う。引っ掻いた硬質な描線と軟らかな色面の〈間〉も重要な役割を果たす。

達 和子の最新作の根底には、見えない何かを胚胎し育むような粒状の形によって培われた、生体の営みと向き合う感覚が今なお息づく。しかし、それが固定観念化することはない。何にもとらわれない〈間〉が自己解放の密かな後ろ盾になっている。

中村英樹 美術評論家