宮田徹也 (日本近代美術思想史研究)

宮田徹也

後方壁面に180x90cm程のパネルが3枚、180x45cm程のパネルが1枚展開している。共にジェッソの下塗りが施されている。無音の中、足音がスピーカーから響き渡り、宮保が舞台を過ぎると講演が始まる。短形のライトが床を照らす。 宮保は、うねる様なポージングを繰り返す。素早く、強いダンスへ変化する。空間を抜けるというよりも、宮保が透き通って行く様に感じる。ふと立ち止まると宮保は頭上を見上げ、辺りを見渡す。

宮保は床に膝を付き、腰を着き、晒すが如くポージングを繰り広げる。左足の踵で二度床を打ち付けると、達がライブペインティングを始める。宮保は抜ける。先ずは10分間のダンスであった。

達は描いた円を平筆でよごしていく。茶とも金とも見える色を重ね、オイルバーで描くと同時に削っていく。更に色を薄め、平筆で面を生み出す。面という班が美しい。5分の空間を経て宮保が入場し、達の作業を椅子に座って見詰める。

達が生み出す形は円やハート、ピーマン形にみえるのではあるのだが、決して具体的な何かを描いているのではない。そして、下地として描いた形に次々と平筆で面を加えては、オイルバー、アクリル、若しくは色鉛筆を用いて削って壊していく。

宮保は椅子から立ち上がり、床に展開する。達は赤茶の上に群青を平筆で入れていく。宮保は椅子から転げ落ちる行為を繰り返す。達は赤茶の上にグレーを載せ、色に重みを出していく。宮保は立位置で体を鞭のように撓らせる。

達は画面を布で拭き、拡がりを生み出していく。宮保は背を向けて椅子に座り、手足を漕いで空間に残像を描いていく。達は薄めた焦げ茶を平筆で画面に広げる。立ち上がった宮保は波のように体を空間に泳がせる。

達は薄めたホワイトで、画面上部全体を一気に埋めていく。達は自らの制作方法を晒したことになる。工程には過程があり、過程は常に瞬時の決定を更新する力を持つ。その工程を達だけではなく宮保もまた、晒していることになる。

宮保は床に座り、腰と足の裏のみで前進して達に近つく。達は宮保の傍らに腰をかけ、一息つく。そして作業を続ける。太い面と細い線を交互に描く。赤い光が宮保を照らす。達は画面全体を布で拭き、トーンを出していく。

宮保は左拳を握って中央に立つ。床に拳と足の裏をつけ、腰を引きながら素早く床を巡る。達は箔に直接絵の具をつけて、描いた形を壊していく。宮保は沈黙する。達は平筆で赤茶を画面全体に広げる。

強い光が画面全体に当たり、立ち上がった宮保は素早い展開を見せる。達はペインティングナイフを用いて、描いた形にホワイトを乗せていく。宮保は上体を上下させ、足位置を決めて素早く腕を回転させる。

達は肌色を用いて画面の調子を整え、鉛筆で更に描き込んで行く。更に黒や焦げ茶を強く入れて整えた画面を破壊する。宮保は画面の前に移動し、背を向け腕の回転を続ける。

再び足音が聞こえる。宮保は座り、達は焦げ茶を画面に入れる。宮保は中央で旋回し、達はチューブから直接だしたホワイトを平筆で塗る。

四度、足音が響き渡る。達は水性ニス、若しくはボンドと蛍光ピンクを画面に加え、新しい要素を投入する。宮保は退場する。三分後、達が「終わりました」

と発言し、1時間の公演は終了する。

アフタートークは無かったので、この公演の意図は私が批評するしかあるまい。

この公演の最大の特徴は達が宮保の動作を描いたのではなく、宮保も達のペインティングに合わせたのでもなく、二者が独立して全く異なる自己の仕事をしながらも一つになった点にある。

無論、それぞれが勝手に自分のことをしていたのではない。空間は調和し、打ち合わせをしたのではないかと感じる位の空間の構成力と時間の配分があった。

それでも、合わせ過ぎることがないので、違うことをしながらも同じことをしているようにも感じない。

二者は自己の作品の「工程」をみせるために、この公演を行ったのでもない。そうであるならば、必ず「結果」が必要となる。達が完成させた絵画に興味は生まれない。何故なら宮保のダンスと過ごした時間で作品は完結したからである。

ではこの公演は何だったのかというと、やはり「過程」ではなく、アクションペインティングでもなく、舞台公演であったのだと定義する事が出来る。画家は、舞台公演は行わない。描かれた結果のみを提示する。その意味で、達にとっては特別であっただろう。

達にとって特別な公演であるのならば、宮保にとっても思いは同様であろう。描いている現場で単に踊っていた訳では、決してあるまい。それどころか、宮保にとっては結論である公演が、「過程」となり結果が宙に浮く稀な体験となったのではないだろうか。

このような議論は愚問で、本来の、二者の現代性が通低した瞬間に立ち会えたのだ。