〈胎〉としての絵画
画面の中空にぽっかりと浮かぶ、丸みをおびた不思議なかたち。子供の頃に理科の授業で覗いた顕微鏡のなか、植物の葉の裏に見られた気孔のようなもの。あるいは、図鑑で見た、原生動物の体腔のようなもの。しかもそれらは、種子や卵をいっぱいに孕んで、いまにもあたりに飛散させようと、いや、折あらばどこかに産み付け孵化させようと、じっと時を窺っているかのようだ。
達和子の描くイメージは、生命というものがまだ植物相と動物相とに分化する以前の、原初の光景を思わせる。しかも、それらのイメージは、一般女性のライフコースからすればかなり遅くに本格的スタートをきった絵画制作をつうじて、それまでため込んだ思いのたけをぶつけて生まれたものだった。向き合う画面から現れでてくるイメージを、彼女はやがて、身籠る子宮や、人体の輪郭や、家(いえ)のメタファーとして意味づけていくようになる。自身のプライベートな経験を重ねて、女性としての産む性、母娘の葛藤、家(いえ)の重たさ、あるいは生命を未来につないでいく歓びをも託しているのだ。
絵をひと目見たときの鮮烈な印象も、その後に知った作家の個人的な思いも、どちらも包みこむぴったりの言葉がある。〈胎〉という語がそれだ。この漢字ひと文字のなかには、「みごもること」「母胎の子のやどる所」という意味のほかに、「人身の宿る体気の根源」とか、「何かがはじまること、きざすこと」という象徴的な意味までもが含まれている。だから「懐胎」や「母胎」や「胎盤」などの用例と並んで、意味論的にははるかに抽象度のたかい「胚胎」という言い方もなされる。達和子の絵画は、というか正確には、彼女がアトリエの壁に立てかけて対峙するパネル板の画面は、この〈胎〉がまさに胎動しはじめる基体(マトリクス)なのである。
それはまた、達の描くイメージの、増殖する多産さという特質とも通じるものがある。彼女の描くかたちが、現実を模した具象でも、自然界から隔絶した抽象でもない、そんな二元論をたちまち不毛のものにしてしまう豊穣な曖昧さをもっているからだ。かつて美術史家のアンリ・フォシヨンは、「フォルムは厳密な空間規定でありつつ、しかし他の複数のフォルムの暗示である。フォルムは想像的な世界へ受け渡され、そこで増殖する」と書いた。これは、絵の意味が、イメージを観る側のわたしたちの知覚と、そこにわたしたちが投射する想像力とによって醸成されるものであることを言っている。母胎のなにか特定な器官を一義的に示すことのない達の作品は、だから、受け手の関与によって無限に増殖していく潜勢力を秘めた、多産な〈胎〉の絵画なのである。
さらに、何かがはじまる場所、という意味で達の作品を「胎の絵画」として見なすなら、それは彼女が辿った技法上の変化という点からも傍証できるかもしれない。作家として制作を開始した当初は、平面にさまざまの素材を貼りつけて上から塗り込めるコラージュ絵画をもっぱらとしていた。言い換えれば、絵画の外からやってくるものを要素として取り込む方法をとっていたのだ。それがやがて版画へと移行し、さらにはベニア板のパネルにアクリル絵の具で砂などを混ぜながらフリーハンドで描く現在の技法に辿りつく。このとき、画面の主調をなすのはオートマティスム的な線描と、板の素地の色が透かし見えるような透明で輝くような色彩である。真珠色に輝く、乳白色の〈地〉から現れでる不定形なフォルムの数々。イメージはもはや外からではなく、このタブローの支持体という胎盤から、むくむくと産まれるのだ。
板を何枚もつなぎ合わせて構成された大きなパネルを前にして、わたしたちは、まるで大きな顕微鏡を覗きこんだような、奇妙な感覚に襲われる。その印象をいっそうつよめているのが、独特のフレーミング(枠取り)である。いくつものモチーフが画面の縁によって切り取られ、視界の外にはみ出した外部を暗示している、そんな配置はちょうど顕微鏡写真によくある構図だからである。そのときわたしたちは、この大画面に、拡大されたミクロなレベルの生の営み、種子や卵子を妊(みごも)った胞たちの演じる、生命のドラマを目撃しているのだと感じるのである。
このような身体性の内的ヴィジョンを表現した20世紀の美術を振り返ると、ふたりの女性作家の名が思い浮かぶ。ひとりはアメリカの70年代フェミニスト・アートを牽引したジュディ・シカゴ。彼女は自伝『花もつ女』(PARCO出版、1979年)のなかで、まだ美大生だった頃から、生物、とくに人間の男女の生殖器などからひき出したフォルムをパネルに描くことを始めたと書いている。それをシカゴは、「私の最も深い情動から生じるイメージ」と呼んだのだった(同書50頁)。けれども、彼女はやがてフェミニズムの運動と密に関わっていくなかで、それらのモチーフを、あまりにはっきりと特定の身体部位に結びつけて「女性性」の本質としてしまった。対して、もうひとりの女性作家、フランス生まれの彫刻家ルイーズ・ブルジョワの場合、ときに挑発的に、あからさまな身体の性的部位をモチーフとすることがあったものの、基本的には、生命の芽吹きを思わせる有機的な抽象のフォルムを追求した。フォシヨンが言う意味で、「他の複数のフォルム」を暗示しつつ「想像的な世界へ受け渡され、そこで増殖する」ような開放性をもっているのだ。達和子の描く独特なフォルムも、このブルジョワによって代表される生殖的なもの――すなわち〈胎〉なるもの――の表現の系譜に連なるといえるだろう。
それにしても、達の作品の画面は、なんと動感に満ちているのだろう。胞子や卵巣たちはもぞもぞと動いているし、種や卵たちは弾け飛んでいる。舞踊のような身体の運動につよい関心をもち、ダンサーの動きをクロッキーで描くこともしている彼女のドローイングの線が、大きなパネルのなかにも見え隠れしている。卵を抱いているからといってけっして籠るのではなく、外界に向かってあっけらかんと開け放たれた、そんな胎内の世界なのだ。
香川 檀(かがわ まゆみ) 表象文化論