史跡詳細

石原莞爾将軍 新墓所

1993年(平成5年)に建設された新墓所は多くの同志の篤志により広々とした敷地になった。高みにある墓所からは晴天なら眼前に鳥海山を望む気持のよい松林である。国道沿いということもあり全国各地から参拝者が絶えない。石柱の書体は1924年(大正13年)ドイツから銻夫人にあてた葉書の筆跡から写されたもの。

関連: 墓所の由来【新墓所に移設及び旧墓所との関係】

三原則碑

石原将軍は敗戦を機に「新日本建設大綱」「われらの世界観」などを著し、その中で新建設三原則、即ち「都市解体、農工一体、簡素生活」を説いた。石原独自の歴史観に基づく永久平和実現に向けた方策として国民に呼びかけたのである。書体は将軍自筆の講演原稿から写されたもの。 

三原則碑は当地に三体ある。初めの一つは将軍ご自宅前に建てられていたが、後年日輪講堂入口横に移された。次に1981年(昭和56年)33回忌の年に旧墓所横に、一番新しい碑は新墓所建設と共に墓所の西側に建てられた。三体いずれも主に阿部初雄氏など宮城県同志の篤志によるものである。

三原則碑背面の碑銘

前半は将軍の実弟、石原六郎(昭和51年12月16日逝去)の文である。武田邦太郎氏は六郎氏を評して次のように述べている「・・・石原の死後、石原の思想が正しく世に伝わることを熱願し、涙ぐましい努力を傾注した」と。


碑文

「石原莞爾は一九二五年(大正十四年)最終戦争論を発表し 一九四九年(昭和二十四年)に 死ぬまでの彼の一切の思想 行動は この歴史観に基づいていた」 満州事変と日華事変の処置 軍備計画の樹立 日本最初の国家経済計画の立案 東亜連盟運動の指導 太平洋戦争の 阻止運動から 敗戦後の武装完全放棄論まで 彼の思想と行動のすべては最終戦争論から 導きだされたものであった     実弟 石原六郎

 最終戦争論で近い将来戦争は無くなると断定した石原先生は 全人類の熱望する永久平和の 時代が 近代科学文明を駆使したところの「民族協和 共存共栄」の社会であるとし その第一歩 として戦後日本の進路を「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の三目標に要約され この目標 達成こそが最終戦争を回避して 永久平和社会に到達し得る最良で最短の道であると教示された

 われらがこの選択を誤った場合 最終戦争は必然となり 地球上は大惨禍の坩堝より次代文明の 建設という想像を絶する苦難の道を歩まねばならぬとされた

 二者択一は懸って私達の双肩にあるといえる


新墓所 石柱

同志之霊碑

新墓所建設の経緯とともに同志のお骨は将軍のお墓とは別に埋葬した方がよいということになり、新墓所の西隣りに建設された。

お言葉碑

「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」

これは旧満州の新京にて伊地知則彦という青年教師が石原将軍と初対面するのだが、その時に石原が語った言葉である。このことは伊地知則彦著「東亜の日本人」の中の孟家屯日記が原本であるが、入江辰雄著「石原莞爾と伊地知則彦」にくわしい。

記帳所

当墓所は記帳所を備えることでご来訪の皆様にご記帳・ご感想を頂くとともに、石原莞爾の実像をお知らせする資料等を提供(有償)することを可能にしています。また、遠路ご来訪いただ く皆様にひと時、雨風を 避けてくつろげる場にもなっています。

当記帳所は、クラウドファンデイングを通じた募金活動によりいただいたご支援によって2021年5月に新しく建てられたものです。以前の旧記帳所は劣化のため安全の上からも建て替えが余儀なくされていました。新記帳所は耐久性・快適性・機能性において優れたものに生まれ変わりました。末永く石原莞爾の実像を伝え継いでいくものと考えます。

物心両面でご支援ご協力を頂いたすべての皆様にあらためて御礼申し上げます。

写真の椅子は将軍がお使いになって居られた椅子です。
新墓所からの春の鳥海山の眺め

石原莞爾将軍 旧墓所

墓は生前に石原莞爾将軍ご自身がご希望を明確にされ、

など、細部にわたり指示された。当初は木柱で10年毎に立て替えていたが、1980年(昭和55年)7月、同志により石柱に建て替えられた。松林に囲まれたお墓は土盛りも周囲も苔むし、静かなたたずまいを見せている。心静かに将軍とお会いできる環境である。書体は1924年(大正13年)ドイツから銻夫人にあてた葉書の筆跡から写されたもの。右側に見える碑は宮城県同志の篤志による「三原則碑」である。

関連: 墓所の由来【新墓地に移設及び旧墓地との関係】

旧墓所三原則碑

旧墓所石柱

日輪講堂

日輪講堂(当時の呼称は日輪兵舎)は1946年(昭和21年)5月頃、西山の南端、桐組の一角に他所(茨城県の内原訓練所が前身らしい)から運ばれた古材を西山の人達と地元の青年団が一緒に組み立てた。東亜連盟全国同志の研修の場として、また娯楽やコミュニケーションの場が少なかった当時、近郷青年男女の集いの場にもなった。もちろん西山の人達の研修、集いの場でもあった。

将軍が亡くなられた後、桐組が松組の方と一緒になると日輪講堂は使われなくなり荒れるままになった。石原の実弟六郎氏はこれを心配し石原家の近くに移転するのが最良の方法と考え資金集めにかかったが、実際にこれに当たったのが遠藤甚吉氏(櫛引町-現在の鶴岡市)であった。この資金を基に有志が協力して1954年(昭和29年)移築され同志の会合や宿泊等に大いに活用された。しかし1976年(昭和51年)六郎氏が亡くなると管理をする者がいなくなる事態になったが、前記の甚吉氏が80歳の老躯で石原の自宅に泊まり込み周辺の管理に当たった。

石原の残した土地等の整理がついた後、1981年(昭和56年)石原の住居は保存に耐えないとして取り壊し、日輪講堂はご親族から遊佐町が寄付を受けた土地に修復移転され町が保存管理することとなった。右側に見える碑は宮城県同志の篤志による「三原則碑」である。

※出典:「永久平和の使徒 石原莞爾」冬青社(1996年刊)