西山の歴史 概略

(文中敬称略)

はじめに

この地に石原将軍が村つくりを決意され「西山農場」が始まったが、当時この辺りは防風林が隔てた海沿いに松が生えた原野で農場以外には人家がなく、西山農場または西山(開拓)と言いならわしていた。現在では遊佐町に西山という地名と西山農場は存在しない。 

西山を語る上で石原将軍と関わる伊地知則彦(いじちのりひこ)、入江辰雄(いりえたつお)、武田邦太郎(たけだくにたろう)の3氏は、西山以前の始動の意味で重要である。西山入植当初は28人の同志で始まり、その後多くが入替わり立替わりした。また共に住むことはなくとも関わりを持った人は数知れない。当然のことながら一人一人のかけがえのない物語がある。「西山」とは石原将軍と関係する多くの人たちの総体であると言える。ここに登場する人はそうした多くの人たちの一人として見ていただきたい。 

西山のことは入江辰雄著「石原莞爾」(たまいらぼ1985年刊)など、入江著作に正確なものが記されており、これらを中心に引用または参考にして「西山」の概略を述べる。著者の入江はすでに他界しているが西山の歴史を生きたご当人であり、引用はご子息の了解を得ている。

1943年(昭18年)頃 石原将軍 場所は不明(歌川)

はじまり

伊地知則彦という鹿児島県出身の人物がいる。伊地知は蒙古語を学んだ後、1937年(昭和12年)に渡満し蒙古人の小学校に職を得た青年教師であり、民族協和についていかに導くか悩みを抱えていた。1938年(昭和13年)3月、新京(中国読み:シンジン、日本読み:しんきょう;現在の長春市)で偶然にも国柱会(日蓮聖人の信者団体)に居た石原と出会う。「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」その時に石原が伊地知に言った言葉である。以後、伊地知は法華経と日蓮聖人への信仰を深めていくが肺を病みはじめていた。その頃協和会で青年指導に当ることになるが、やはり満州で道を求めていた教師、入江と出会う(初対面は1939年10月)。入江は伊地知を通して石原を知り(初対面は1940年11月京都:入江は伊地知の代理で石原を訪ねた)信仰の強いつながりができる。 

一方、武田は学業後、1936年(昭和11年)鐘紡入社、満州の大牧場の建設経営に参加(※1)した。これは石原が「農業方面における国宝的天才である」と評した池本喜三夫(いけもときさお)(武田の従兄)との関係であり、武田は京都師団長時代の石原と初対面(1939年10月)している。後に西山に入植する鈴木(旧姓 近藤)和子(こんどうかずこ)、黒澤(旧姓 駒瀬)秀子(こませひでこ)は1944年(昭和19年)10月に十代で渡満し武田のもとで仕事につき行動を共にする。伊地知は石原の勧めで1944年満州の王府(中国読み:ワンフー、日本読み:おうふ;現在の長春市)(※2)牧場に武田を訪ね初対面するが、武田らが信仰に入るきっかけとなった。 

※1 初めは中国河北省の鐘淵啓明農場事務主任、後に王府牧場(※2)副場長で終戦を迎える。10年間の大陸生活であった。 
※2 正確には「吉林省(中国読み:ジーリン、日本読み:きつりん)王府の鐘淵(かねがふち)王府牧場」。王府という都市はないが政庁という意味で用いられるので首都=当時の新京、現在の長春と考えられる。 

このように神のご意思としか考えられないような不思議なご縁が核となり、旧満州では伊地知を中心に確かな信仰の集まりができたのである。敗戦を機にこれまで伊地知に指導を受けていた者たちが満州各地から長春(中国読み:チャンチュン、日本読み:ちょうしゅん;現在の長春市)(※3)の彼のもとに集まる。当時、男女22名(うち子供6名)が共同生活をしたという。病んでいた伊地知は歩くとよろけるような状態であったが、殉教の気魄で皆を指導した。終戦(1945年)から1946年(昭和21年)7月祖国へ向けて出発するまで、伊地知のもとでの信仰生活は厳しくも清らかなものであった。引揚げは重病の伊地知を含む全員の過酷かつ危険極まりない旅であった。余談だが戦後世界各地から6百万余の日本民族大移動が行われたという。伊地知と家族には入江、武田、駒瀬の3名が付き添い祖国へと向かう。10月12日博多着、伊地知はすぐに国立小倉病院に入院、10月18日夜半、兄上が見守る中32年の生涯を閉じた。伊地知のもとでの長春の生活は西山へと少なからず受け継がれたものに違いない。 

 伊地知は亡くなる前、祈りのうちにお示しを受けた。「今後は立派なわとう村(※4)を作れ。これは武田に一切を任せる。場所はきまっている」と。通信方法皆無な時、周りのものにはその場所がどこを指すものか全く分からなかった。そしてこれは後で分かるのであるが、10月12日、石原は鶴岡の自宅を出て、桐谷誠(きりやまこと)が用意した西山開拓地に転居、「村つくり」の第一歩を印していたのである。 


※3 長春は1932年満州国が建国されると首都に定められ新京と改称されたが、1945年に満州国が崩壊すると新京は再び長春と改称された。 
※4 「わとう(村)」:日蓮聖人のご遺文「種々御振舞御書」に出てくる言葉、わとう共(弟子たちよの意)から 。 

撮影時期不明 香川県の木村農場にて(左は武田邦太郎)(武田)

石原は日蓮信仰に基づく戦争研究・歴史観による、満州建国という重大課題に直面する中で、民族協和(平等かつ対等な関係)を極めて大切に考えていた。加えて永久平和を目指す方策としての三原則(都市解体、農工一体、簡素生活)の実践。さらに石原には、伊地知との60通に及ぶ手紙を通した精神的な交流の中で「わとう村」つくりのことが頭の中にあったと考えられる。もともと石原には任地先で最も愛着のあった福島県会津若松に小さな法華経道場を建て信仰生活に生きたいという気持があった。これは中支那派遣隊司令部付の頃(31歳頃)漢口(中国読み:ハンコウ、日本読み:かんこう;現在の武漢市の一部)から新婚の銻子(ていこ)夫人にあてた手紙に明らかである。 


石原の村つくりが現実のものになると全国各地から招聘の声が強く上がったが、遊佐町に相当規模の土地を有していた東亜連盟員の桐谷誠の招聘に応じた。武田によると桐谷の熱意と人柄、財政的な基盤、一定規模の土地などがその根拠となった。当初入植者がどのような経緯で西山に入ることになったのか、全てを述べるのは不明もあり困難であるが比較的明らかな2例を上げる。 

①長春からの引揚げ者は、池本喜三夫が兵庫県神岡村(現在の竜野市)に開設した農業経営実験場(明石市に関連工場があり合わせて池本農場と呼んだ)で農業の初歩から指導を受けた。しかしある者は戦中戦後に損ねた健康上の支障から転出も余儀なくされた。実験場と西山との交流は続き、実験場の閉鎖に伴い、健康も回復した入江は家族と共に1951年(昭和26年)12月念願の西山に参加することになった。 

 ②歌川平次郎(うたがわへいじろう)は東亜連盟員の恩師、北畠登(きたばたけのぼる)の影響で早くから国柱会に入り石原に傾倒した。木挽町(現銀座東)の住居は精華会事務所(※5)として機関誌「王道文化」発行等を行った。歌川は石原の西山行きを聞くと妻子を伴い1946年5月、西山桐組に入植する。しかし石原は木挽町の役割を思われ歌川の西山入に反対のお気持ちがあったという。

※5 精華会:本来、日蓮聖人を信仰する国柱会の中核的組織であったが、組織内に石原傾倒者が多く東亜連盟運動を活発に行うようになった。
1943年(昭和18年)頃 鶴岡市高畑町時代、5人での共同耕作、収穫物は平等に分けた(武田)
撮影時期不明 詳細不明(武田)

西山農場(石原が指導した村つくり)

撮影時期不明 西山のご自宅と日輪講堂(2回目移築)、1955年(昭和30年)以降と思われる(武田)

【初めの頃】 桐谷の誘いがあり十代で西山に参加した仲條立一(なかじょうりゅういち)(1946年3月入植)によると、開墾は終戦前から桐谷兄弟(桐谷誠の弟は武:たけし)のもとで着手され、1946年(昭和21年)6月頃からは石原の住居建築が始まり10月のご入居に備えた。当初の開墾作業は手作業が主であり特に松の根との格闘は困難を極めたという。以下『』囲みは、入江辰雄著「石原莞爾」(たまいらぼ刊)の中、「村つくりの想い出」からの引用構成。『面積13.6haの農地は石原の理想のために桐谷誠が所有地の一部を建物、設備、農具、家畜などと共に提供した。当初のメンバーは桐谷兄弟はじめ開墾当初から参加した青年男女、将軍ご夫妻、部落長(※1)に推された武田など入植後参加者を合せると1947年(昭和22年)末には総計28名であり、地元と他地方(鹿児島から北海道まで)の人が相半ばしていた。ただしご病気の将軍ご夫妻と製塩等の事業に専心する桐谷兄弟とは生活様式が違うので、経済を一つにしたのは22名である。1組は北寄りの建物で松組と称し、1組は開墾開始当初の建物で桐組と称した。1947年(昭和22年)9月には


※1  部落長:この表現は当時の通称である。正式には西山開拓農業協同組合長。

「西山村つくり憲法」(本頁末尾参照)が定められ10月の収穫期からは自給自足の体制で歩きはじめたが、ほとんど何の貯えもない人達の集まりで、それまでは桐谷の経済によって歩いていたのである。清貧の病める将軍からは毎月、三千円、五千円と現金をいただき飢えや病をしのぐことができた。当時は郵便貯金払出の制限が強く無闇にできない頃であった。当初の頃、桐谷は大川純平(おおかわじゅんぺい)博士設計による最新式の電気製塩に着手、利益の一部を村つくりの資金に充てる予定であった。農工一体の理想を実現しようとしたのである。しかし資金関係等で計画通り進まず、1948年(昭和23年)、政府の開拓政策により農地は国家が買収、改めて西山が国家から入植者として認定され支援策を受けるように方針変更した。生活は自給自足であり困窮をきわめた。桐谷の好意により初めの冬は雪中に松を伐採して現金収入を得た。健康の不具合をきたす者も多く、当時将軍の治療に当たっていた蓮見喜一郎(はすみきいちろう)博士が佐藤幸一(さとうこういち)氏経営の鶴岡診療所に東京から毎月出張しておられ、この両氏のご好意が入植者の危機を救ったのである。』 

1948年(昭和23年)冬頃 藪式温熱治療を受ける、後方は右から武田邦太郎、桐谷誠(武田)
1948年(昭和23年)頃 病躯をおして「立正安国」の文字を揮毫する(眞山)

石原はほとんどを病床にいながら西山の人達を指導しつつ、石原を慕って全国から訪ね来る人々に道を説き平和を説いた。将軍のご病気は凄まじいほどの苦痛を伴うもの(日記)であったが、人と会う時は平然としておられたので事情を知らない人には重病であることが全く分からなかった。この態度は死の直前においても変わることがなかった。貧しくはあったが西山の人たちの士気は旺盛であった。吹浦駅頭や酒田で日蓮教の旗を翻して辻説法を行ったという。1947年(昭和22年)の名月の頃、歌、踊り、楽器、演劇等の練習を重ねた農場員は病床の将軍をお慰めした。それを見て将軍は涙を拭い拭いしておられたと看護のためお側にいた小野克枝(おのかつえ)は言った。1946年(昭和21年)5月の頃、日輪講堂(当時の呼称は日輪兵舎)は他所から運ばれた古材を使って組み立てた。この建物は西山の人達の集いや研修などの場となったが、東亜連盟全国同志の研修の場でもあり、娯楽の少なかった当時、近郷青年男女の集会場としても使われたという。


1949年(昭和24年)6月18日 西山農場員と来訪者、後方は石原将軍ご自宅、ご逝去の約2ヶ月前(眞山)

【農場生活】 将軍がお亡くなりになったのは、私(歌川)が5歳の時でありおぼろな記憶をたどってみる。西山の南端に桐組の建物があり、その数十メートル北側に日輪講堂(現講堂は移築3度目)があった。西山の北端には将軍のお住まいがあり、松組の建物、桐谷家、工場などは両端の間にあった(現在の位置関係では、道の駅鳥海「ふらっと」を中心に、南端は西浜駐在所付近、北端は信号を北進してまもなくの歩道橋付近まで。現7号線に沿った東側数十メートル幅の細長い土地であった)。将軍が亡くなられた後、桐組の一部は松組の方に移り西山農場としてまとまった形になった。家畜は(入れ変わりしたが)牛、馬、ヤギ、鶏、兎などがいた。兎は採毛用のアンゴラ種で福島県出身の門馬駿介(もんましゅんすけ)夫妻を中心に1949年頃から工場跡で相当規模飼育した。鶏も採卵用として相当数飼育された。ヤギは搾乳し将軍に乳をお届けすることもあった。ヤギ、鶏、兎は催事などにつぶされ農場員の蛋白源として消費された。作物は変遷したであろうが主には薩摩芋、馬鈴薯、小麦などが水田のない農場の主食として重要視されたようだ。小麦、菜種は村の農協に持ち込み、製粉製油して自家消費した。他にはスイカ、ウリ、落花生、トウモロコシ、野菜類などが多かったと思う。

いつ頃からか1日1食は自家製のパンを食べるようになったがけっこう美味しかった。これは石原の考えに酵素の活用があり、酵素肥料や酵素を利用した食生活改善の試みが盛んに行われた一つの表れのようである。イモ類はよく食べた。特にサツマイモは大量に定温貯蔵して冬を越し、夕、朝の主食として長期間食した記憶がある。現在のように菓子類のない頃である、スイカ、ウリ、イチゴ、落花生などが子供達の貴重なおやつになった。食事担当は女性陣の受け持ちだったが、中でも武田夫人(澄子:すみこ)はその中心として大変な働き様であったと記憶にある。何しろ20人超の大人数である。イモ類、麦入りの米飯などの主食は重く大きな鋳物製の圧力釜を使った。燃料は薪、木枝、松葉等松材が主で火力調節や煙突掃除が欠かせなかった。唯一の生活用水は10m超の深さの井戸からつるべで汲み上げるのが一仕事であったが美味であった。農作業の家畜の餌やり、草取り、収穫など一部は子供にも課された。特に作業量の大きいイモ掘りや小麦収穫・脱穀では働いた。炎天下の小麦脱穀は動力を使うので息つく暇もなかったほどの思い出がある。農作業は総じて肉体労働であり個々の能力、熱意などに頼ったもので経営としては容易でなかったように思う。

1950年(昭和25年)頃 アンゴラ兎舎外観 (鈴木)
1950年(昭和25年)頃 アンゴラ兎舎担当の門馬駿介氏(鈴木)

大人たちは窮乏と多忙の中にあって、子供の教育には気を使ったようである。酒田市にグリーンハウス(大火焼失)という当時先進的な洋画封切館があったが、いつ頃からか良いものがかかると大人が引率して年に数回見に行った。当時のぜいたくとして嬉しい思い出である。夏にはすぐそこに海があったが、子供だけでの海水浴は禁じられており、農作業が一段落して連れていってもらうのが楽しみの一つであった。恒例となっていたものに誕生会がある。たしか子供に限ったと思うが、誕生日には当人が希望するごちそうが用意された。西山の母たちが

調理の腕をふるったぼたもち、ちらし寿司、カレーライスなどが食卓を飾った。時には家族会議が行われ子供の意見を聞く場がもたれた。年末には皆で餅をついた。正月は大人を含め全員が集う数少ない機会であり、大人子供全員でゲームなどに興じた楽しい思い出がある。小学生の学年が進んだ頃、冬のスキー遊びがこの田舎にも流行るようになったが、男子は(西山経済にとっては)高価なスキーを買ってもらい大いに滑り遊んだ。皆が集まる集会場兼食堂の冬の暖房は松葉ストーブである。秋になると皆が総出で大量の松葉をかき集めて冬に備えた。

1952年(昭和27年)頃 農場建物前子供と一緒に左から鈴木・武田・入江(鈴木)
1953年(昭和28年)頃 西山の松林にて西山の人達(鈴木)

農場員は将軍が大切にされた民族協和の心、即ち上下隔てのない民主的な共同生活を目指した。将軍が指導された「西山村つくり憲法」の実践である。しかし何といっても個々が異なる過去を持った全国からの寄り集まりである、時々にいさかい反目が生じていたのも事実である。しかし将軍の遺志を継がんとして、その実現に皆が真摯な気持ちで努めたのもまた事実であった。将軍亡き後、西山の冠婚葬祭は全てその墓前において執り行われたが、簡素にして高雅、心豊かに感じられるものであった。西山農場の主建物は1階に集会場兼食堂、調理場、風呂場など、2階に日蓮聖人を奉じた清浄な板敷の聖堂があった。聖堂を毎朝きれいに水拭きするのは年長の子供の務めである。その聖堂において朝は個々にお題目を唱え、夜は一同揃ってお題目やご遺文を唱和した。それは子供心に神に祈る素直で純粋な気持ちになれたひと時であった。大人たちは週毎に信仰の集会を持っていたが、必要に応じて農場運営の打合せが追加されたと思う。なお1949年(昭和24年)頃から各々の家族は主建物とは別に、1間(概ね6畳)のトイレ付部屋に住んだが、それは主に寝室用と家族だんらんに使用された。人数が増えた時には専用住居の他、日輪講堂や農用建物など居住に可能な建物は大方使用されていた。 

1955年(昭和30年)頃を境に大人達は農耕を続ける一方で役割を分担し勤めに出て現金収入を得るようになっていった。考えるに子弟の教育費など金銭の必要性が強まったことも一因ではなかろうか。武田は以前から東亜連盟の講習などで各地をとび回り留守にすることが多かったと思う。 

1955年(昭和30年)頃 後方・農場畑将軍宅左から入江・鈴木親子・武田(歌川)
1959年(昭和34年)頃 宝塔前にて西山の人と訪問者(鈴木)

西山その後

西山の構成員は入れ替わり立ち替わりしながら当初からは大きく減少していった。農耕は果樹を植えるなど試行錯誤しながら、また分担により現金収入を得ながらしばらくは続けられた。しかし次第に農場経営は現実的に困難になり1960年頃(昭和30年代中頃)を境に、農地は試験的な牧草栽培や近隣農家に貸地したりするようになった。最終的に数家族(色々な形があり一概に言えない)になった西山農場の経済や食事を一つにする共同生活は、1965年(昭和40年)頃から別になったようだが明確には不明である。ただし第一世代は入江、武田を中心にして、日蓮聖人信仰・西山農場のあり方等の集まりを後年まで継続した。現在、当地に住まいのある元西山農場関係(6世帯)は第二世代が中心であるが個別の生活を営んでいる。

1977年(昭和52年)8月22日 旧墓所にて(鈴木)

話しを戻す。各人が勤めを持つようになり、武田は1961年(昭和36年)池本喜三夫が主宰する新農政研究所(池田総理の諮問機関)の農政部長として活動することになる。1977年(昭和52年)には池本に代わり所長を務める。1983年(昭和58年)には石原の遺志を受け継ぐ形になる武田平和研究所を設立主宰した。後述するがこれは西山の総意であった。西山を始め関係する多くの人が会員になり心からの協力と応援を行った。続いて1986年(昭和61年)武田新農政研究所を設立、これは武田によれば平和研究所と表裏一体のものである。この間武田は各内閣から嘱望され大臣顧問や種々の政策委員などを相次いで

歴任した。1992年(平成4年)日本新党旗揚げに参加し副代表になる。参議院議員を6年勤める間、外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する委員会委員、国会等の移転に関する特別委員会委員長などを歴任した。清潔無私な人柄は信望厚く、皇太子殿下ご成婚の宮中饗宴の儀にてご祝辞を述べたのもこの頃(1993年6月)である。武田の議員活動・国会発言・提言等(※1)はいずれも石原の提言、考え方がその基礎にある。武田は今年(2010年)98歳を迎えるが、ご健在で静かな祈りの日々を過ごしておられる。(武田邦太郎氏は2012年(平成24年)99歳で逝去されました。)

※1 主な国会発言・提言等は、入江著書「石原莞爾と民族問題」・「日蓮聖人の大霊と石原莞爾の生涯」に掲載されている。 
1980年(昭和55年)4月 第一回わとうの集い(鈴木)
1981年(昭和56年)頃 第二回わとうの集い(鈴木)

入江は勤めを退いた後、日蓮聖人の信仰を中心に置いた石原莞爾と伊地知則彦に関する執筆に専念する。1980年代から90年代にかけて5冊の著書を著し世に問うた。これらは市販されるとともに国会図書館はじめ多くの図書館に収められ心ある人に読まれることになった。入江はこの尊い役割を終えてまもなく1998年(平成10年)に89年の生涯を閉じた。 

1981年(昭和56年)に農場用地を横切るように国道バイパス計画が決定した。西山は用地を提供しこれに伴い残りの一部も町当局の求めに応じ宅地造成事業に協力し売却した。入江は「石原莞爾」(たまいらぼ刊)の中「西山のその後」の項に次のように記している。『大部分の農地を公共のために提供するという新事態の発生、それに最終戦争時代の今・・・略・・・すべて大聖霊(※2)のお力お導きと拝し、一同は次のように決意した。「これまでの小地域を理想的な農村部落にするという「村つくり」も大切であるが、この際「村つくり憲法」を生かし発展させて、大聖霊に対し、世界に対し、改めて日中戦争、大東亜戦争で犯した非道義を深く懺悔し、この国を世界平和に捧げる心をもって、日本を真の世界平和の先がけとし、永久平和世界建設のための国内的、国際的の多くの準備に全力を傾注すべきである」』と。 

※2 大聖霊:宇宙は一大生命体でありその中心生命のこと。この呼称は伊地知が同志を指導する中で初めてこうお呼びした。 
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・将軍の書(菅原)

上記「」囲み最後の……永久平和世界建設のための国内的、国際的の多くの準備に全力を……が示すように武田が国会活動や研究所主宰において第一線に立ったこと、繰り返すがこれは西山の総意であった。入江著作は西山の意義を語り後世に伝えることになった。父母たちが石原のもとで理想を追い求めた西山農場は形こそ終わりを告げたが、西山が遺した有形無形のものは確かに存在し生き続けていると信じる。

2010年(平成22年)11月

文責  歌川 博男

出典並びに参考文献等

入江 辰雄 「石原莞爾と伊地知則彦」 暁書房刊 1982年(昭和57年)入江 辰雄 「石原莞爾」 たまいらぼ刊 1985年(昭和60年)入江 辰雄 「石原莞爾と民族問題」 近代文芸社刊 1994年(平成6年)入江 辰雄 「日蓮聖人の大霊と石原莞爾の生涯」 近代文芸社刊 1996年(平成8年)武田 邦太郎・菅原 一彪 編 「永久平和の使徒 石原莞爾」 冬青社刊 1996年(平成8年)眞山 文子 編 「石原莞爾将軍と過ごした日々」 精華会刊 2000年(平成12年)野村 乙二朗 編 「東亜連盟期の石原莞爾資料」 同成社刊 2007年(平成19年)伊地知 清孝・久松 慶暉 編 「涌山先生の憶ひ出」 1949年(昭和24年)武田 邦太郎 「平和者・石原先生のこと」 寄稿文「石原将軍の思い出など」 石原将軍墓所ノート仲條 立一 「自給自足の西山農業生活-故仲條立一氏手記」 石原莞爾平和思想研究会HP
歌川 平次郎 「歌川平次郎一行日記」このほか当事者である武田邦太郎先生、黒澤秀子様、眞山文子様などに貴重なお話をいただくことができました。
写真出典:武田 邦太郎氏所蔵アルバム および ネガフィルム眞山 文子氏所蔵アルバム歌川 博男氏所蔵アルバム鈴木 法行氏所蔵アルバム菅原 克夫氏所蔵アルバム
注記 写真並べ順:撮影時期不明分もありますが、それらについては推測で年代順に配置。お気づきの点がありましたら、墓所事務局へ、または、ご意見・ご感想の入力フォームを利用して、ご連絡いただけると大変助かります。

西山関係者 スライドショー

写真出典:武田 邦太郎氏所蔵アルバム および ネガフィルム眞山 文子氏所蔵アルバム歌川 博男氏所蔵アルバム鈴木 法行氏所蔵アルバム菅原 克夫氏所蔵アルバム
注記 写真並べ順:撮影時期不明分もありますが、それらについては推測で年代順に配置。お気づきの点がありましたら、墓所事務局へ、または、ご意見・ご感想の入力フォームを利用して、ご連絡いただけると大変助かります。

西山村つくり憲法

【参考】 「西山村つくり憲法」は石原の指導により武田が石原の考えを文章化したものである。武田によればこれは厳格なものではなく指針のようなものだったという。石原の死後、1949年(昭和24年)10月に必要最小限の改訂がなされた(下記は当初のもの)。今回、読みが難しいと思われる漢字に(ふりがな)を付加した。

「西山村つくり憲法」 1947年(昭和22年)9月制定

一、我等は日蓮大聖人の信仰により、日本及び世界復興の先駆となるべき理想農村部落(※1)を建設す。部落建設が物心両面に於(お)いて略々(ほぼ)完成の域に達したる時、部落名を改めてわとう村と呼称す。

二、我等は等しく日蓮大聖人の御子なり。互いの人格を心より合掌し、寸毫(すんごう)も軽侮離反(けいぶりはん)の心なく、必死異体同心の聖訓に副(そ)ひ奉(たてまつ)る覚悟なり。

三、部落の政治は徹底して民主的ならざるべからず。その重要事項は、悉(ことごと)く部落会の決議によって行う。道にかないたる言論には、よし小児の意見なりといえども全部落一人残らずこれに服す。

四、部落の政治運営に意見ある場合は、部落会において公明正大にこれを発表し、全部落民の検討を求む。苟(いやしく)も腹蔵し、若(もしく)は陰口を利き、或(あるい)は私見を他者に強制せず。

五、部落の行政事務は部落会長これを担当す。対外折衝並(ならび)に財務に関し、各一名の補佐を置く。部落会長は毎月最終会の部落会において当月度の行政事務報告を行う。部落会長および補佐の職務は無給の奉仕なり。

六、部落は五つ又は六つの隣組をもって構成し、各隣組は概ね五戸をもって構成する。明日の隣組を今日の家族のごとくならしむるが我等の理想なり。

七、農業は金銭収入の手段にあらず、耕地はすべてを村有とす。戸当り三反歩(たんぶ)(※2)乃至(ないし)五反歩の耕地を隣組単位に共同経営し、食糧の自給を図る。但し特殊の研究や嗜好に応ずるため各戸適当に若干の自家圃場(ほじょう)をもつことを妨げず。炊事また隣組単位に共同す。共同耕地の経営並に炊事の経費は隣組の共同負担なり。

八、現金収入は工業による。工業は村営とし、農工一体の原則に従って常に農業経営と調和して行う。我等は速かに資本家即経営者即労働者の理想を実現す。

九、自然に即したる簡素高雅の農村生活を創造す。

十、教育、衛生、娯楽等に関する公的支出は、各戸の負担能力に応じ部落会において決定せらるべき部落会費をもって支出す。

十一、聖訓に反したる言動ありたるものは、毎週の法華例会に於いて御宝前(ごほうぜん)に懺悔(ざんげ)す。如何に忠告するも心より懺悔し得ざるものは、部落会の決議によって、わとう村建設より離脱せしむ。

以上

※1 この中で使用されている「部落」は農村集落ほどの意味である。または生活共同体的な団結を保ちえる最小単位。
※2 反歩(たんぶ) = 約10アール。