人間 石原莞爾
戦後遊佐町西山に石原莞爾将軍を慕って全国各地から多くの人が集まった時期がありました。石原莞爾の魅力として、その先見性に満ちた預言者・軍事的天才としてのカリスマ性を説明するものは活字やネット上にたくさんありますが、人を惹きつけた理由はそれだけではありません。将軍と直に接した人達が見た真の人間石原莞爾の姿は、カリスマ性以前に、誰に対しても偉ぶることがなく、他を気遣い、弱者に優しい、ユーモアあふれる人間味豊かな一面がありました。その人間性に関する証言や文献から引用したものを以下にまとめてみました。
難しいことなど…何でも判り易く優しくお話して下さり、私などが思いもよらない日常の細々した事までもよく御存じで、色々お気付きの事を思いやりを込めて教えて下さいます。私は将軍のお見かけによらない博学と、慈父の様な優しさに心から感嘆して偉大な人格者であることを知りました。
(1950年6月1日、五條珠実)
「石原莞爾将軍と過ごした日々」平成12年刊から
表面きって口だけのお世辞は言わない。然しその人を知ればいつまでも温かく見守る情味あふれた性格であった…
日本人だけでなく、異民族が石原さんにあこがれをもち、慕い続けていたのを見ても、冷酷だという批評の間違いであることが解る。
畑の中で裸になって猿股一つで自分が作る野菜を手にかけておられる姿などが、最も石原さんらしい姿であると思う。
(1950年、和田勁)
「石原莞爾研究第一集」昭和25年刊から
『人に気の毒だと思わせてはいけない。人知れず役に立つのが良いのではないですか。』
と云われ、信仰と生活、思想と生活との調和をかくも簡明に示されたことに、深い感動を受けたことでございました。
『せめて生きている間、僕に出来ることは、訪ねて来た人に会うことだ』とおっしゃって、面会謝絶を云い渡されてからも、一人一人に礼をつくしてお会いなされ、大方の人は解決を与えられておられました。
(病状が苦しい時の夜の看護で) 『頼むから寝てくれ、自分の家内だって無理をさせるのは嫌なのだ』と云われ悲しそうなお顔をなさるのでした。
(1950年、藤岡克枝)
「石原莞爾研究第一集」昭和25年刊から
東京の逓信病院に石原先生を見舞った時、上着に汗を滲ませ、暑苦しいのをがまんしている私を見た先生は、挨拶もまだすまぬのに電光石火、がばっと寝巻の浴衣をぬぎ捨て、褌一つの全裸となり、私に上着をとるようにすすめて下さった。まさに赤裸、一切の虚飾をかなぐりすてて真実そのもので対する以外になすすべもない…
(1981年、草刈善造)
「石原莞爾将軍三十三回忌記念誌」昭和56年刊から
あれほど青年を愛する人はいなかったですね。あの人が京都の師団長をしていた頃、私はしょっ中官舎に出入りしていました。あの人は世間でいう偉い人が帰る時は応接間でそのまま別れの挨拶をしていましたが、青年が帰る時は必ず玄関まで出てくるんです。
(1995年7月21日、曺寧柱)
「石原莞爾将軍と過ごした日々」平成12年刊から
将軍は皆を喜ばせて、笑わせて、しぐさ(仕種)までして、若い青年達に後事を託された。
恐らくこの日(石原将軍を囲む座談会-栃木県那須温泉-昭20年4月)抱腹絶倒した人達は生涯忘れられないものとなった事であろう。
(1998年10月31日、黒沢義人)
「石原莞爾将軍と過ごした日々」平成12年刊から
(若い人達)それこそ我が子のように慈しんで下さって『それはいけない、こうせよ』などと無理強いは決しておっしゃいませんでした。それだけにどんなにか御心を痛められる時もあったのではと、今振り返って涙する事も度々でした。
(2000年4月3日、黒沢秀子)
「石原莞爾将軍と過ごした日々」平成12年刊から
石原莞爾将軍 スライドショー
石原将軍と直に接した方やご親戚の方、関係する方の何人かにお声かけをして整えたものです。石原将軍の生前のものが中心です。やや不鮮明なものもありますが将軍の面影を今に伝える貴重なものばかりです。