墓所の由来

「石原莞爾将軍のお墓について」 

石原莞爾顕彰会会長 菅原 良 

石原莞爾将軍墓所ホームページを閲覧いただき厚く御礼を申し上げます。僭越ではありますがこれまでお墓に協力させていただいた地元のものとして、お墓の由来に関して、私の解るところを述べさせていただきます。 

荼毘式

「石原将軍が地上を去ったのは1949年(昭和24年)8月15日、敗戦記念日の午前5時、成仏の時刻といわれる時であった。翌16日午後3時、出棺法要。同4時30分出棺。同5時、石原の住まいから約100メートル砂丘の松林を登りきった辺りに設けられた荼毘所において荼毘式。悌子夫人の手によって点火。門下の人々が次々に火を移した。お世辞も虚飾もなく実に簡素にして高雅な生活を求めてやまなかった閣下に相応しい直実の荘厳な荼毘式であった。3、4人づつ交替で徹宵して御唱題行を捧げるということに定めてあったのであるが、決められた時間が終わってもその場を去らない人々が多いので、夜もすがら20人程の御唱題が絶えない。奥様は今夜も徹夜である。 (渕上千津記 王道文化による)

荼毘の時、ご唱題を捧げ続ける(武田)

告別式

撮影時期不明 てい夫人と将軍の看護を担当した小野克枝、ご自宅前にて (武田)

1949年(昭和24年)8月25日、石原の住まいから約300メートル登った松林の砂丘の東に鳥海の霊峰を仰ぎ西に日本海を望む景勝の地に昨年来定められた将来の墓所に墨痕も鮮やかにお題目の記された大きな標柱の建てられたところを中心に適宜に木を払った空地が式場である。

「紺碧の空のもと午後2時には各地より参集の会員同志。付近の人々も加えて約2千人が場内を埋めた。」 (歌川平次郎記 王道文化による)

生前、石原の依頼によって五条珠実氏が苦心して振り付けした「吹く風枝を鳴らさず」の舞踊が五条とその門下生によって供えられ、石原の知己を得たハーモニカの国際的大家、佐藤秀郎氏並びに新井克輔氏が石原の好んだ「荒城の月」演奏して参会者の感動と涙を誘った。

告別式委員長:和田勁氏、式長:曽寧柱氏。

三周忌

1952年(昭和27年)8月25日、三周忌が行われたが、その時に東亜連盟追放解除があり当時の「我等の世界観」による国民党と旧東亜連盟が合体をして協和党が結成された。中央委員:木村武雄氏、千津正信氏、和田勁氏、武田邦太郎氏、宇野武志氏に決定され、武田邦太郎氏が中央代表委員(3年)になった。 

十三回忌

1965年(昭和40年)8月25日、約100名が参列しました。墓標は10年一廻りで建て替えておりました。

十七回忌

1972年(昭和47年)8月25日、十三回忌同様、盛大に行われました。直田米蔵氏が委員長でした。

1971年(昭和46年)8月22日 将軍23回忌 (鈴木)

三十三回忌

1981年(昭和56年)8月30日、旧墓地前で厳粛に行われました。折から降り始めた小雨の中、式は午前10時から小松義道氏の司会で行われました。読経。曽寧柱導師のもと精華会員並びに有志唱和。

挨拶:木村武雄氏(衆議院議員)・相馬大作氏(酒田市長)・奥山佳介氏(遊佐町長)・遺族代表。 焼香。

奉納:柴田旭堂師による琵琶「龍ノ口」(白土菊枝作詞奏)・新井克輔氏のハーモニカ「荒城の月」演奏。 

挨拶:武田邦太郎氏。全国各地から参集の有志二百数十名、在りし日の将軍のお姿を偲びながら心からご冥福を祈り、決意を新たにしました。 

1984年(昭和59年)8月15日 三木淳先生をお迎えして (鈴木)

生誕百年祭

1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・会場入口 (菅原)

(1)記念式典 1988年(昭和63年)9月10日、鶴岡市荘内神社参集殿で開催、全国からの参集は300名を超えた。安藤徳次郎委員長挨拶のあと同志の霊に黙祷をささげた。ついで地元出身国会議員、鶴岡市長、酒田市長、遊佐町長等来賓の挨拶があり、ついで武田邦太郎氏紹介による記念講演:明治学院大学教授、仁科悟郎氏・元在日大韓居留民団中央団長、曽寧柱氏等の興味深いお話があった。司会:河野信氏。


1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・式次第 (菅原)
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・加藤衆院議員(菅原)
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・武田邦太郎氏(菅原)
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・曹寧柱氏(菅原)
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・菅原遊佐町長(菅原克)

(2)墓前祭 翌9月11日、将軍の墓前にて曽寧柱氏を導師として小雨けむる中しめやかにとり行われた。読経の後、約200名の参列者は一人一人それぞれの思いを込めて焼香した。

(3)生誕之地記念碑 鶴岡市荘内神社境内に「永久平和の先駆石原莞爾生誕之地」という石碑を建立し、9月9日、石原将軍の姪にあたる水野美枝さんの手により除幕された。実施は生誕百年祭庄内委員会、

石碑の題字は斎藤第六鶴岡市長の筆による。

1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭鶴岡市にて(菅原)
1988年(昭和63年)9月 生誕百年祭・生誕の地碑 (菅原)

新墓所に移設及び旧墓地との関係

1993年(平成5年)8月10日、10時より遺骨の精入れ、曽寧柱氏を導師として東北石原莞爾顕彰会会長の阿部初雄氏をはじめ同志の方々によってとり行われた。理由は、生誕百年祭(昭和63年)当時、墓地の整備に加え国道バイパス建設計画をきっかけに保安林の問題が浮上、旧墓所が墓地としての認可が難しいとなり、同志の方々により新墓所移設の準備が進められた。しかしその後保安林に手を加えない限り旧墓所も認められることとなり、将軍の遺志になる旧墓所はお骨を分けて納骨されそのまま残されることとなった。旧墓所は桐谷家で管理がなされている。結果、国道7号線を挟んで新旧墓所が向き合う形で存在することになったが、石原将軍をお慕いする私共にとって新墓所も旧墓所も大切に思う気持に寸毫の違いもない。

1993年(平成5年)10月31日 新墓所竣工式典(菅原)

五十回忌

1998年(平成10年)8月29日10時30分、小雨けむる墓前にて菅原克夫氏の司会でとり行われた。帝立寺小松住職により読経焼香。石原莞爾平和思想研究会会長の追悼文を石巻の真山元輔氏が代読。武田邦太郎氏を導師として南無妙法蓮華経を参列者全員で唱えた。その後西浜公民館に移動し、阿部初雄顕彰会会長の挨拶、昼食に続いて座談会。発言者は前参議院議員の武田邦太郎氏、日中友好協会の五十嵐善造氏、石原莞爾平和思想研究会の鳥取から参加した木下靖夫氏。 出席者は52名であった。

1998年(平成10年)8月29日 将軍50回忌(菅原)

生誕120年祭記念セミナー・没後60年墓前祭

2009年(平成21年)8月14日 生誕120記念セミナ(菅原)
2009年(平成21年)8月14日 生誕120記念セミナ(菅原)

東京の石原莞爾生誕120年祭実行委員会を中心に準備が進められてきたが、2009年(平成21年)8月14日、記念セミナーが西浜公民館にて紺谷和久氏進行で行われた。実行委員会副会長の薩摩和男氏の挨拶、ついで「石原将軍の残されたもの-文函から」と題して武田邦太郎氏のお話しがあり、昼食をはさんで活発な意見交換に発展した。武田氏は96歳の高齢ながら講演に続き質疑応答、会場の熱意に応えられた。参加者は東京からを中心に約40名だった。

翌15日、墓前にて没後60年墓前祭が行われた。実行委員会会長、植田英一氏挨拶のあと石原莞爾撰「日蓮聖人御書要文」から第10、立正安国論の項を全員で拝読、ついでお題目を唱えた。その後旧墓地に移動。全員でお題目を唱えた後武田邦太郎氏のお話しがあり全日程を終了した。参列者は約50名。

石原莞爾生誕120年祭実行委員会は1年を実施期間と定めその間様々な活動を展開したが、特に全国各地で活発な記念フォーラムを開催した。2010年(平成22年)1月に解散したが新組織「はちどりクラブ」を結成し新たな活動につなげている。

2009年(平成21年)8月15日 没後60年墓前祭(菅原)
2009年(平成21年)8月15日 没後60年墓前祭(菅原)

石原莞爾平和思想研究会・東北石原莞爾顕彰会

1988年(昭和63年)9月に行われた生誕百年祭を契機として、東京実行委員会は石原莞爾平和思想の普及活動を行うこととして石原莞爾平和思想研究会に受け継がれることとなった。一方、墓所のある当地では東北石原莞爾顕彰会が設立され、墓所管理を主要業務として現在に至っている。

写真出典:武田 邦太郎氏所蔵アルバム および ネガフィルム眞山 文子氏所蔵アルバム歌川 博男氏所蔵アルバム鈴木 法行氏所蔵アルバム菅原 克夫氏所蔵アルバム
注記 写真並べ順:撮影時期不明分もありますが、それらについては推測で年代順に配置。お気づきの点がありましたら、墓所事務局へ、または、ご意見・ご感想の入力フォームを利用して、ご連絡いただけると大変助かります。