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地名のこと
私が現在住んでいる地区の住所は、今の市町村地番制では津市芸濃町林(+地番) 平成の市町村大合併以前は安芸郡芸濃町林 (+地番)と書きます。
しかし昭和の市町村大合併(1953年の市町村合併促進法 1956年の新市町村建設促進法による)以前の時代には河芸郡明村林川原上垣内と呼ばれており、さらに明治22年市町村制施行時は奄芸郡明村林川原上垣内、それ以前幕藩制の時代には久居藩領(1669年に安濃津藩領より分家分領した)に属し安芸郡林村川原上垣内でした。
林村
林川原は字名、上垣外が小字名に当たります。川原の他にも林に属する地域は中ノ川南岸の高台に開けた林町及び殿町があり私の住む林川原と合わせて林区と呼んでいます。
芸濃町史によると、林の地名は遠く鎌倉初期(1192年)より伊勢神宮の御領地として神鳳鈔(じんぽうしょう:神宮の領地一覧表)に記載があるとのことです。
このような古い歴史は、この周辺の村落が安濃川と中ノ川の河岸段丘を利用した稲作地として古くから発展してきたこと、またこの地が大和と伊勢を結ぶ伊勢別街道の要所であったことなどによるものです。
例えば林町にある普門寺など、寺伝によると平安時代初期の大同元年(806年)に開かれたとありますから、林の村落としての歴史はそれより古く平安以前より続いてきたであろうと想像されます。
明村
その後明治に入ると、林村は新たに誕生した明村に組み入れられます。この地名は1989年(明治22年)前年の市町村制の公布を受けて施行された行政区分です。
明治末期に明村の豊濱安太郎氏が作成した明村地図(三重県郷土史データーベースより)
明村は当時の林村を中心にそれまで津藩(福徳、萩原、楠原、忍田、中縄)と久居藩(林、楠平尾)に分かれて帰属していた7村を統合して作られた新しい呼び名で、芸濃町史冒頭の総説によれば、明治の市町村制の施行の際、合併する各村の不公平を抑えるために、時の年号明治から一字とって明にしたものだということです。
当時の明村の役場は現在の林町に置かれました。この役場の建物は、もちろん現在では使われいませんが、後で述べるように今も同所に残されています。
安芸郡(奄芸郡:あんきぐん)
明村の上位には奄芸郡役場があり現在の鈴鹿市白子本町に郡役場が存在しました。奄芸郡もまた平安の頃よりこの地に存在する地名で、古く律令制以来の由緒をもちます。
延長5年(927年)の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)には奄芸郡内の神社13座、安濃郡内の神社10座が記載されているそうです。
当然これより古い時代から 奄芸は地名として存在していた訳で、記録によって確認できる地名の中では、極めて古いものに属しますし、江戸期の安濃津藩、久居藩の時代にも安濃郡と共にこの地で使われ続けた地名です。
大正13年の河芸郡域。西は錫杖ヶ岳麓の福徳から南は津興の結城神社辺りまで、北は四日市境の長太から采女の辺りまでに及んでいた。紫は明村域、桃は奄芸郡域、水色は河芸郡で追加された河曲郡域と津海岸周辺地域(http://www.geocities.jp/il_ferroviere/page/map/map2.htmより)
上の地図で分かるように、当時の奄芸郡域は明村から伊勢別街道周辺の村を中心に現在の白子周辺の村邑を含む範囲で、明村から郡役場の在る白子町本町迄は中ノ川沿いに林-磯山道を伝い磯山で伊勢街道に折れて白子まで出ることができました。
当時明村には軽便安濃鉄道が敷かれ(赤線は鉄道)他地区の郡部に比べても遥かに交通の便の整った土地であったことが分かります。
河芸郡
しかし奄芸郡役場は白子から鈴鹿川以南の河曲郡役場と同居して白子に置かれていたことから、明治29年には河曲郡と合併、郡名も両郡より一字づつを取って河芸郡となり白子の郡役場に引き継がれます。
郡域は南北に拡大し、現在の鈴鹿市から津市及び亀山市に跨ったものでした。奄芸郡当初から白子の郡役場が郡の北部へ極端に偏っており河曲郡を合併してバランスを取ったような感じです。
芸濃町
戦後に入って、新憲法の施行や様々な法整備を受けた形で昭和28年(1953年)市町村合併促進法が交付され、小村が合併して多くの町が誕生しました。
芸濃町は町内の半分近くが安濃川水系の源流部を構成する河内の山林で占められる(Yahoo地図より)
芸濃町もこの時誕生したもので河芸郡明村、河芸郡椋本村、安濃郡河内村、安濃郡雲林院村、安濃郡安西村の五村が合併して芸濃町となったものです。
ただし、合併の過程で福徳・萩原の二地区は、その立地から従来より明地区よりも加太、関地区との結びつきが強かったため合併を受け入れず、大いに紛糾した末に行政の線引が変更され二地区は関町に帰属する事となりました。
同様の理由で、古くより奄芸郡に属し林の隣村であった楠平尾も亀山市に帰属しました。
町名は合併前の二つの郡名安濃と河芸よりそれぞれ一字を取って芸濃としたものです。また町の上位に当たる新郡名には、古来よりの歴史を持つ安芸(アゲイ、アゲ)の地名を復活させました。
しかしこの歴史的な地名も、現在では芸濃の中に一字として残るのみです。更に平成になってからは、暴力的とも思える平成の大合併が強行され芸濃町も津市に吸収合併されます。
これら度重なる行政区分の変遷を経て、古代よりの歴史風土を反映した地名の多くは住所表記からも失われ、現在でも古くからの名を保持しているのは津と林だけとなっています。
津
港を現す津はもちろん安濃津藤堂藩に由来するもので、伊勢平野の安濃川と岩田川(曾ては河口域における安濃川の分流)一帯を安濃津と呼び習わしたのは古く平安の頃からだと云われます。
安濃川河口(現在の岩田川)には古くから港が開かれて平安京における東側海路の重要拠点として栄え、室町の頃の海運書廻船式目には、安濃津が三津七湊として博多津、堺津と並ぶ三大港として記載されています。
安濃川に沿って発達した村邑は、その下流塔世村(現在の栄町)に古くから四天王寺が存在し平安時代中期にはその寺領が上流域の雲林院や忍田に迄も及んだことから、四天王寺に残された記録には当時の安濃川流域に存在した村落の名が多く記載されています。
芸濃町史地名編によると、町内に於いて最も古くから記録に残る地名は当時四天王寺領であった忍田で、平安時代初期にまで遡る事ができるようです。他の地名も、寺社の記録文章や皇族貴族の伊勢参宮の記録文章等の内に古くから登場するものがあり、忍田と同程度の歴史を持つのではないかと推測します。
先史時代
大陸に遅れること数千年(中国長江下流の河姆渡遺跡では稲作を中心にした6000年前の大規模集落の遺跡が見つかっている)日本でも弥生時代には水稲栽培が伝わり一般化していたようです。
このため当時の安濃川や中ノ川の流域に広がった低湿地や段丘地では米作りを中心とした村落が形成され多くの人々が住んでいたと考えられています。
現に芸濃町でも安濃川と中ノ川流域の河岸段丘上からは多数の先史時代から中世にかけてのの遺跡(芸濃町史に詳しい)が見つかっています。
現在私が住んでいる家の周囲も上垣内遺跡と呼ばれた場所で、曾ては鏃や土器片など縄文から鎌倉の頃までの遺物が多数出土した場所です。
遺物の多くは土地の表層に散乱した状態で見つかっていますが、下水配管布設のため自宅の庭の表土を50cm以上掘削していた際には、鮮やかな彩色土器片が現れたこともありました。
北山・上垣外・上新田遺跡は縄文から弥生時代、他は平安後期から中世 の出土品が見つかっている。
これら遺跡の様々な出土品が、この地域における先祖たちの生活を裏付けており、少なくとも今より2000年前には中ノ川水系の周囲には稲作を営む小規模な村落が幾つも存在したと思われます。
当時の村落の生活がどのようなものであったのか、僅かな出土品から想像するのは困難ですが、隣の中国大陸では、既に当時より更に三千年以上も前に都邑の周囲に城壁を有する都市国家が建設されていたことを考えると、この辺りにもある程度は大陸文化の流入があったはずですから、あるいは今も国内に現存する農村村落と大差のない家を建ててのどかな生活を営んでいたのかもしれません。
悲しいことに目で見て当時を偲べるものは、もはや細やかな出土品の他ありませんが、唯一現在でも当時の様子を何らかの形で伝え得るものが存在します。
それは今に伝わっている各地の地名です。当時ほぼ100%自然に依存して暮らしていた先人達にとって、自分たちが生活する土地は現代人よりも遙かに大切であったはずであり、その地名も現代よりは遙かに詳しく名づけ区別していたと思われます。
地番制以前の地図には過去より呼び習わしてきた地名が記載されている。
地図など無かった時代に、土地を巡るいざこざを防ぐためには、自らの関係する土地に細かく名前をつけその名によって場所を管理してゆく以外にありません。
記録に残された古文書類はなかったとしても、一本一本の小さな谷筋にまで名前をつけ、私達の先祖が古くから呼び習わしてきた土地の字名や小名(小字)は、多分人間がこの地に住み始めた先史時代も遙かな昔に名付けられ、今に引き継がれてきたものも多いのではないかと思います。
芸濃町史地名編より
芸濃町林には、現在小字地名として 堀切、大三谷、黒谷、苅畑、善貝、北山、野瀬、池ノ谷、滝ヶ谷、切畑、上垣外、丁字川原、北浦、下新田、開発、大多田、牛谷、向城、宮ヶ谷、奥山田、城屋敷、滝ノ上、上新田、中畑、墓ノ谷、向山、平松、曽武、平林、三ツ谷、鯉ヶ谷などが残されています。
これらの地名には城屋敷や墓ノ谷など今でも命名当時のその地の状況を偲べるものがあります。また実際にはこの下に更に細かい地名が多数あったはずです。
例えば芸濃町史には安濃川源流部の河内村における99の小字名の下に付けられた夥しい地名が収録されていますが、同様の例はどの地区でもあったと思われます。
これらの地名は、多年の間に様々な変遷を経たと言えども、当然その地の由来や命名当時の状態をその中に残しており考古学的遺物の殆ど無い田舎の村落では、過去を知る手がかりの一つになります。
しかし字や小字が使われ無くなって久しく、地番しか記載がない現在の地図からは、それらの地名に対応した土地を見出すことは最早不可能です。悲しいことですが、これら古くからの歴史を背負った固有名詞もそのうちに人々の記憶から消え去ってしまうのでしょう。
明村の村名は戦後の市町村合併により行政地名より消失してしまいましたが、河芸郡当時の明村役場は大正5年、同時期に誕生した明小学校に併設して小学校の南に建てられ、今でも当時の姿をよく残しています。
旧明村役場に架かる明村のシンボルマーク。日本の伝統的な家紋の意匠で明をデザインしたもの。
また、役場裏に建てられた明小学校は、鉄筋校舎に建て替わっているものの今でも健在で、旧明村のうち楠原、林地区(津市内学区)の小学生たちが今日も元気に通学しています。
ただし、昨今では地域の歴史的伝統や文化の価値を無視し、役所の経費節減を旨とした学区統合の話が出ており、大正以来の伝統を持つ小学校も早晩廃校の憂き目にあうのではないかと心配しています。
今も当時のガラス窓を残した河芸郡時代の旧明村役場。大正浪漫を忍ばせる歴史的な建築も、ずっと放置されたままでなんとも寂しい。
戦後の高度成長以前の日本経済は、農業村落を基盤としており、明治以前の行政区分も主に稲作中心の村邑とその相互の結びつきによって地域の線引が行われました。
稲作農業の基盤は水の確保であり、このため過去の稲作農家は河川の下流からその上流部へと、河川が生んだ沖積平野と河岸段丘を水田とする形で発達してきたものです。
明村は、明治の市町村制施行当初、当然この様な形で形成されてきた江戸時代の農村集落主体の藩政区域を引き継いだ形であり、久居藩領として切り離されていた林、楠平尾両村を明村に組み入れ、中ノ川の流域に発達した村邑を中心に志登茂川流域までを奄芸郡として再編成したものです。
現在、中ノ川河口は嘗て郡役場が存在した白子中心部より3km以上南の磯山地区にあり、白子には堀切川が流入しています。
しかし地図を見れば堀切川は以前の中ノ川河口部を形成する中ノ川の一分流もしくは本流として存在していたであろうことは容易に想像されます。
嘗ては白子から中ノ川沿いに発達した村落を辿ってゆけば自然と楠平尾、林、楠原、萩原と続く明村西部まで遡ることが出来たわけで、当時の奄芸郡の行政区分も、この川沿いの道にそって合理的に仕切られていたと言えます。
ただし、中ノ川流域に有っても、藩政時代に亀山藩に帰属していた中流域の槇尾村と昼生村は、亀山と関を中心とした鈴鹿郡に組み入れられましたので、その殆どが奄芸郡に属した中ノ川の水系に、その中流から上流にかけて一部鈴鹿郡の郡域が入り込む形となりました。
この地区は今でも亀山市に属し、現在旧林村の中では楠原、忍田、林、中縄の4地区が旧芸濃町(津市)の仲間として残る形となりました。
嘗て、農業を主体とした村落共同体が健在な頃は、この地には河川の水利を共通にした雲林院五ケ村(旧雲林院・忍田・椋本・萩野・小野平:安濃川水系) 楠原三郷(楠原、林、楠平尾:中ノ川水系)とよばれた水利を共にする共同体が存在したのですが、度重なる行政区域の変更や農業制度そのものの変化に伴って、これらの地区の結びつきも薄れ、現在では過去の歴史に名を残すのみとなっています。
以上が地名より見た大まかな林地区の変遷ですが、記録に残るだけでも1000年近い歴史があり、考古学的出土品では縄文時代から人々が暮らしていたことがわかります。
ここでは、少なからず歴史を持つ私の地区とその周囲の町のことについて、幾つか書いてみました。
芸濃町史の巻頭言は、芸濃町の特質とその地名の変遷を鮮やかに表現しているのでここにその本文を載せておく。
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芸濃町は南北に長い三重県の中部より稍北に偏している。町域には一二の大字があり、これらは藩政期の奄芸、安濃両郡西部の十二か村に相当する。古来平凡な農山村として、行政的には常に外部の支配を受け、文化的にも地方文化の中心となるべき村邑もなく、近隣文化圏の周辺に位置し、その谷間に介在していた感がある。
すなわち、各村とも政治、文化、交通、商業等の文化事象の優劣に差がなく、いずこも同じ田舎町であった。
このことは明治の市町村制や昭和の町村合併に際して都市周辺の農村では、その都市に併合される形をとり、行政地名においてもその都市名を冠して呼ばれることが多いのに対し、当地方においては併合後どの村名を冠しても不公平不自然の感を免れない。それで幾つかの地名の一字宛を合わせて地名を合成したり、当り障りのない全く新しい地名を創案したものがある。
明治の市町村制における明村は楠原外五か村(楠原・林・中縄・萩原・楠平尾・福徳)に 忍田が加わったもので、当事者は他の騒論に鑑み新村名に苦慮した結果十分協議を遂げ、時の年号明治の一字をとって明村と読ませたものである。
また北神山・多門・小野平・萩野・岡本の五か村は共に安濃郡西部にあるところから安西村と称した。しかし安濃郡の最北部に位置する河内村や雲林院村を含まないのは不自然な呼称と言わざるを得ない。
その後奄芸、河曲の両郡が統合され、その一字ずつをとって河芸郡となり、昭和の町村合併により河芸・安濃両郡西部の五か村が統合されるに当たり、両郡名の一字ずつをとって芸濃町と称し、郡域も両郡統合されてこれもその一字を集めて安芸郡と呼ぶようになった。
このように現行行政地名、安芸郡芸濃町は共に2つの地名から合成されたもので、住民感情の上からは公平妥当な名称であるのかもしれないが、伝統的な地名の雅趣を無視した便宜的無味乾燥な行政地名となり、語呂も良くない。
こうした地名が創設され、公認される背景には、それに相応しい平均的な村落の集合という土地柄があり、そこには地域的な特質は見出しにくく、特徴のない平凡な集落の集合体であるところが、芸濃町の特質であるのかも知れない。
以上 芸濃町史 総説より
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江戸の頃には、明村の各地区がそれぞれ村として安濃津藤堂藩の藩領に組み入れられていた。津藩から久居藩が分家してからは福徳から忍田までは久居藩領となる。
旧明村役場の建物は現在でも明資料館の名で何とか保存されている。
当時の河芸郡は旧鈴鹿市のほぼ全域から津市の白塚から一身田、高野尾、椋本を含む長大な行政区で、郡役場は白子東町に置かれていたから、鈴鹿の辺境に在った村と云うことになる。
江戸時代には安濃津藤堂藩の藩領となっていたが、津藩から久居藩が分家してからは
この成り行きであれば、明治の市制町村制施行のおり、
しかし現在の地番では明の地区名はもはやない。わずかに明小学校の名前によって消失をまぬがれているけれど、小学校が統合されるとその名も失われ何時しか記憶から消え去るだろう。
林、川原、楠原等の地区名称は明治以前にも使われていた様ですが、郡の名称は現在の行政区分とかなり異なっています。河芸郡が白子を中心とした旧鈴鹿市周辺の地域の行政区分でしたが、鈴鹿郡は現在の関、亀山を中心に津から四日市にいたる鈴鹿山脈沿いの山間地区を統合した地域を指します。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行(1町14村)
白子町・稲生村・天名村・合川村・栄村 (鈴鹿市)
上野村・豊津村・黒田村 (河芸町→津市)
椋本村・明村 (芸濃町→津市)
白塚村・栗眞村・一身田村 (津市)
大里村・高野尾村 (豊里村 → 津市)
1896年(明治29年)3月29日 河曲郡と合併して河芸郡となった。
1956年(昭和31年)9月30日 椋本村・明村・安濃郡安西村・安濃郡雲林院村・安濃郡河内村が合併して安芸郡芸濃町となる
河芸郡
96年(明治29年)3月29日 河曲郡(1町6村)と奄芸郡(1町14村)が合併して成立した。(2町20村)
1911年(明治44年)4月1日 一身田村が町制施行して一身田町となった。(3町19村)
1942年(昭和17年)12月1日 白子町・稲生村・神戸町・飯野村・河曲村・一ノ宮村・箕田村・若松村・玉垣村・鈴鹿郡国府村・鈴鹿郡牧田村・鈴鹿郡高津瀬村・鈴鹿郡庄野村・鈴鹿郡石薬師村が合併して鈴鹿市となった。(1町12村)