河内谷とは、津市中央部を流れる安濃川の源流部一帯の渓谷のことです。旧雲林院村西部から、その上流の河内村周辺の安濃川本流がつくる谷筋で河内村名の由来もこの谷名によるものと思われます。
数十年前の安濃ダム建設により河内谷の大半はダムの湖底に沈んでしまいその渓谷をみることはもはや不可能になってしまいました。ここではもっぱらその下流部の忍田橋一帯を指す言葉として使っています。
忍田橋の周囲には紅葉を楽しめるスポットがあり、近年では秋の行楽シーズンになると観光に訪れる人々でなかなかの賑わいを見せます。
ダムと言うのは野蛮なもので、河川がその誕生から何十~何百万年の長い歳月をかけて営々とその源流部の山地を浸食し開析してきた渓谷を一瞬で濁った水溜へと変えてしまいます。
櫛田川源流部に造られた蓮ダムなど、たぶん県内河川中でも稀な渓谷美を誇っていた香肌峡・奥香肌峡の多くを湖底に沈めてしまいました。
私は何百年か後、これらのダムが取り払われて山地に嘗ての渓流がよみがえる日が来ることを信じて疑いませんが、その日をこの目で見ることがないのは悲しいことです。
芸濃町史・地名編によると河内の名は古くからの歴史の記録にも登場し、古来より安濃川の上流部一帯にまで人々が生活していたことを記しています。
雲林院の地名も歴史が古く、鎌倉初期に平氏討伐で伊勢に入った工藤祐長が長野(現津市美里村長野)の地頭となって奄芸、安濃二郡を賜り、その子祐政が長野に入り長野工藤氏を起こしますが、雲林院にはその子孫が起こした雲林院家が信長の伊勢支配まで存在しました。
この雲林院の西部には秋の紅葉が美しい門前が淵があります。以前は訪れる人も限られていましたが、近年その上流に専用の駐車場も作られ、観光シーズンには、最も紅葉が美しい忍田橋周辺はライトアップされて多くの人出で賑わいます。
忍田橋と門前ヶ渕
忍田橋からその下流の門前ヶ渕の左岸にかけて、狭い場所に多数の楓が植わっており11月末の紅葉時期には美しく色づきます。年によって気候の変化が違うため、紅葉の見ごろや見どころは微妙にズレますが、平均して盛期は11月20~25日頃かと思います。
忍田橋より竜王伝説で知られる門前ヶ淵を望む。嘗ては竜が潜むと言われた門前渕も上流にダムが出来て川の流量が減ったため淵が沼の様になってしまった。それでも淵の手前には花崗岩の白い露頭が水流に一際映える。
ことに忍田橋周辺の楓は見応えがあります。川沿いの木々は他の場所に比べて紅葉の訪れが早く、道路側に移るにしたがって木々の紅葉が遅れる傾向にあるため、適時に訪れると深紅から淡綠色へと移り変わる梢の美しいグラテーションを楽しむことが叶います。
紅葉見物の中心は忍田橋とその下流の門前ヶ渕周辺で、下を流れる安濃川の渓谷美との対照が紅葉の色彩を一層引き立てます。
コンクリート製だが古風な趣を感じさせるアーチ橋 忍田橋。昭和11年 1936年の架橋。
見頃は例年11月23日前後ですが、その年の天候の加減で一週間ほどのズレが生じることもあります。紅葉は狭い範囲に植わっているため、品種による多少のズレはあるものの、盛期を過ぎると一気に見栄えを失います。
見頃が近づくと橋の周辺には提灯が飾り付けられて紅葉に一層の華やぎを与えます。夕刻にはライトアップも始まりますが私には昼間の光の下で見る風景の方が味わいがあります。
携帯が普及した昨今では写真や動画によって訪れる人が大幅に増加たため、盛期の休日には長徳寺前にある30台程の無料駐車場は常に満車状態になりますが、散策できる範囲が狭く限られているので駐車場の回転は思いのほか早いものです。
また駐車場前の長徳寺墓地周囲にも多数の楓が植えられており、盛期には10m以上の楓の高木の艶やかな紅葉が楽しめます。
紅葉七彩
長徳寺
駐車場前の長徳寺は竜王桜と呼ばれる桜の古木で知られていますが、境内の周囲には道路に面して紅白の梅が植えられおり早春には梅花を楽しむことができます。
梅の本数も種類も僅かだが、2色の枝垂れ梅が華やかに咲く姿には足を止める価値があります。
また梅に関しては、河内の入り口(ダム堰堤の手前)に梅ヶ畑と呼ぶ字があります。梅ケ畑からその奥の宝並にかけて嘗ては梅の実を収穫するため梅の木が多く植えられていた様ですが、現在ではその名から想像されるほどの風景は存在しておらず残念に思います。
竜王桜
竜王桜はヤマサクラやオオシマザクラの様に花と葉が同時に出る種類で、開花時期はソメイヨシノより一週間ほど遅れるため周りの桜があらかた花を散らしかけた頃に境内でひつそり花を開きます。
竜王桜。矮性の桜で天然記念物の肩書きから想像される様な威容はない。
芸濃町史寺社編長徳寺に竜王桜の記述があり、すでに明治の初め頃よりこの桜が桜が「普賢粧」「不現蔵」として知られていたことが載っています。これによると竜王桜の名が与えられたのは昭和16年の県の天然記念物指定の際に龍王伝説にちなんで竜王桜の名が与えられたのではと推察しいます。下写真の「長徳寺の竜王桜」の文面もこれより転載したもののようです。
木の前に立っている案内では、品種がフゲンザクラ(普賢象)の変種となっているのですが、八重咲きのフゲンザクラ(Wikipedia : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BE%E3%82%A6)に対して此方は一重咲きの品種で普賢象の特徴とされる二対の雌しべも見られず、どうも説明が違うような気もします。Wikipediaの記述によると室町時代以降には普賢象が現在の八重咲品種を指すものに変わったのではないかとの記載がありますから、この桜は室町後期以前の伝統を継承している桜なのでしょうか。
花は一重で花弁外周の切れ込みは浅い。
三重県指定天然記念物と名のつくものには、鈴鹿峠の鏡岩や野登山のブナ林などおよそ現状に合わないものも結構存在しており、県の天然記念物指定がどのような経緯でどういった人達の働きかけで制定を見たのか甚だ興味をそそられます。
此の竜王桜も、日中戦争が泥沼に嵌り込み昆明、重慶空爆の果てに対米開戦へと突き進む昭和16年の天然記念物指定ですから、国を挙げて暗黒の戦争に突き進んだこの時代に一体誰がどんな目的で天然記念物の指定を働きかけたのでしょうか。