関ドライブインより県道津関線を津方面に僅かに下るとすぐ大きなT字路に出会います。ここを右に折れてゴルフ場の手前で再び小さなT字路を右折して少し走ると石山観音公園に着きます。
石山観音は磨崖仏の山として知られ、粗粒砂岩の山肌に西国三十三所の本尊に模した像の他大小多数の仏像が刻まれています。造像に関する記録が残されていないため、制作年代や由来等詳しいことは殆どわかっていません。
石山観音の名が示すように仏像の殆どに、様々な姿の観音菩薩(まだ悟りに達していない修行中の仏の姿)が彫られいますが、その像容も制作年代もまちまちです。公園入口にある巨大な地蔵菩薩像と入り口東側の山腹に彫られた石山最大で唯一の阿弥陀如来像がもっとも古く鎌倉から室町初期と言われ、三十三所の観音像はそれ以降の作のようです。
以下芸濃町史寺社編・石山観音に記載された文章の一部を上げておきます。磨崖仏に関する本文の内容も同書を元にしていますので詳細は町史を参照してください。
大小四十余体を数える仏像のうち概して大型のものが古く、鎌倉中期に遡るものがあるという。それより江戸初期までに西国三十三ヶ所に因んで多数の観音像が彫刻された。これらはすべて巨巖の磨崖に深く仏龕を掘り凹めて、その中央に仏体や台座をほとんど丸彫りに近い半肉彫りに彫り残す手法になっている。・・・・大正以降、新しく別石に像を刻んで古い仏龕中に据えたものが十余体ある。
石山観音公園入口右手に据えられ観覧者を最初に出迎える三十三観音の一番・那智山青岸渡寺の如意輪観音。像高160cmの立派なもので彫り込みも深く意匠も素晴らしい。
公園の入口を入ると、直ぐに2つの大きな仏像に出会います。園内には人の背丈を超す高さを持つものが何体かあり、それらは公園の入口付近に集中しています。
まず三十三所の第一番・那智青岸渡寺の本尊如意輪観音に因む半跏像で像高160cm 仏龕や蓮華座も含めれば4m近くにもなる立派なものです。
那智の本尊は秘仏で、年一日の開帳日に訪れたこともなく、どの様な姿なのか私には分かりませんが、本堂に安置され平日観覧できる如意輪観音はやはりこれと同様の半跏像です。
第一番・那智山青岸渡寺如意輪観音半跏像。人の背丈の数倍はある砂岩の転石にほぼ等身大の美しい姿で刻まれている
優れた石匠の手になるものでしょう、数百年の歳月にも風化浸蝕の少ない石質を選んで彫り込まれており、現在でも美しく原型を保っています。
整った意匠は多くの六臂像に見られる奇異感もなく、口ひげをもたない少年の様に爽やかな表情は中性ともとれる観音さまの姿をよく表現しています。
公園入口には、もうひとつ石山でも二番目の像高をもつ地蔵菩薩立像が刻まれています。芸濃町史によれば錫杖の形から室町初期を下らない頃の作と見られるそうです。
公園入口奥手の巨大な砂岩の一枚岩に彫り込まれた地蔵菩薩立像。像高326cmの大作で室町初期以前の作と言われ県指定文化財。石山観音の摩崖仏の中で阿弥陀如来立像と共に最も古いと見られている
写真は撮影する場所や季節や時間に依って光が変化し、像の色合いや陰影に変化が起きるため像の表情も異なって見える
一体どの様な縁でこの石山の地に多数の仏像を彫り始めたのでしょうか。この地に起きた戦乱や飢饉などの大きな厄災を鎮め民を救済したいとの思いから、当地の仏教者か有力者によって都から石像彫刻に秀でた石工が招聘され初期の仏像群が刻まれたと想像しますが、三十三所観音については、もう少し世俗的な意図があったような気がします。
石山は敦煌莫高窟や大同の雲崗石窟、洛陽の龍門石窟等その規模と歴史に圧倒される中国の磨崖仏などと比べると、いかにも小規模な日本的石像群ですが、飛鳥の時代に百済より仏教が伝来して以来、日本各地に様々な形で自然の地形を利用した磨崖仏が彫られ地元の人々の信仰を集めてきました。
中には臼杵の石仏群のように国宝指定されているものも有ります。石山観音もそうした石仏群の一つで一部は県指定の文化財に登録されており、その歴史が不明なことも併せてなかなかに興味深いものですから石山の一帯が公園として整備されたのも頷けます。
石山観音公園最高点「馬の背」から見た西部山地。中央に小雀の頭、雀頭(錫杖ヶ岳)はその右背後に隠れている。西コースの四阿が中央右手に見えている
石山の地は明治以前には、地元の楠原三郷(旧楠原・林・楠平尾の三村)の雨乞霊場であり、石山観音の諸仏ことに雨乞の本尊であった地蔵菩薩像は三郷共有仏として大規模な天災や疫病の際にこの地で様々な仏事が行われたと想像します。
芸濃町史によれば地蔵菩薩像と阿弥陀如来像のまえに立つ石灯籠には、旱天の続いた元文四年(1739)雨乞勧請成就を報恩感謝して楠原三郷(旧楠原・林・楠平尾の三村)によって建立されたことが刻まれているそうです。
三郷中の旧林村、楠平尾村は江戸初期(1669)に津藩より分領の久居藩の所属に変わるのですが、お上の都合で藩替えが行われても、古来より引き継がれた水利を基盤にした村落共同体による三郷の結びつきのほうが強かったことが良く分かります。
子雀の頭より見たの雨乞の霊場・雀頭 ( 錫杖ヶ岳 ) 石山観音公園の3km程西に位置する。
この地区の雨乞い霊場としては雲林院五ケ村 ( 雲林院・忍田・椋本・萩野・小野平の津藩領五村)による河内の錫杖ヶ岳が古くより知られ、雨乞いに伴う記録が各村に残されています。
一方は仏教で他方は山岳信仰の修験道なのですが、非常の際には神仏の区別なくすがりたいのは世の習いで、各村がそれぞれの霊場でこぞって雨乞いを祈念したのであろうと想像します。
楠原三郷と雲林院五ケ村は各々水利を違えた村落共同体(楠原三郷は中ノ川、雲林院五ヶ村は安濃川)であったため、楠原など津藩領に属しながらも、お互いが共同で祈念を行うことはなかったようです。
石山最大の磨崖仏・阿弥陀如来立像の前にも楠原三郷 ( 旧楠原・林・楠平尾三村 ) 雨乞勧請成就の献灯が置かれていることから、この巨大な仏も有事の際には地元の人々の信仰の対象であったと思われます。
石山最大最古と言われる阿弥陀如来立像。総高5mに近い像で東に面した切り立った砂岩の岩盤に刻まれている
芸濃の地にこのような摩崖仏が刻まれた理由の一つは、石山の一帯が穿削の容易な、中新世に海底に堆積した砂岩層であったことでしょう。三重県北中部の地質は、西部の山地には古生代から中生代に起源をもつ硬質の岩盤が広がり、伊勢湾周辺から内陸部は沖積層もしくは東海層群の新生代鮮新世以降の堆積層です。前者は硬すぎて簡単に石像を彫り刻むのは困難です。逆に後者は堆積年代が若く石化していないため彫るのは楽ですが雨水の浸食に会えば簡単に失われてしまいます。
石山最上部・馬の背の石山砂岩層露頭
平行層理の発達した部分の石質は脆く風化しやすい
その中間に位置した石山の一帯は、日本海が拡大した中新世・1600万年前頃に海中に堆積した鈴鹿層群・石山砂岩層と呼ばれる地層が分布しており、穿削するのに手頃な硬さと強度を持った砂岩の露頭が広がっていたことが多数の摩崖仏を生んだ要素の一つであったと思われます。
石山砂岩層など中新世の地層が分布するのは西部山地と東部の東海層群と沖積層に挟まれた南北に伸びた狭い範囲。亀山の観音山にも三十三所観音があるが、こちらは含礫砂岩で刻むには岩質が悪く他所の石材に彫ったものを置いてあるだけで摩崖仏ではない ( 5万分の1 地質図幅 津西部より )
地層が南西に30度以上傾斜しているため同一の水平面でも北東側の方が古い地層が露出します。古い地層程硬いとも言えませんが、保存の良い石仏は古い地層に刻んだものが多く見受けられます。
場所によって岩質が異なり含礫砂岩から粗粒~細粒砂岩、砂質シルト岩と変化があります。石の強度も場所によって変化し、石の表面を金属で削ってみれば脆くて風化しやすいものから固結の良いものまで差があります。彫るべき場所の選択を誤ると像が風化に耐えず短期間で崩れてしまう結果となりますが、既に風化により多数の石仏が失われています。
先に上げた二体の立像とともに県の文化財指定を受けている聖観音立像。大作だが石質が悪く風化が進んでいる。
入り口から順序通りに進むと二番十一面観音の次に巨大な聖観音立像に出会います。石山観音中唯一像の由来と作像年代が楠原の浄蓮寺の記録に残っているもので江戸後期 寛永元年(1848)のとても新しい仏像です。
石工の経験・知識が初期の造像の頃より劣っていたのでしょう。像の顔面に風化を受けやすい平行層理の発達した岩を充てたため、短期間で風化して顔面が失われた醜い姿になっています。
Wikipediaの西国三十三所によると近畿周辺の観音菩薩を巡る西国三十三所の巡礼が一般庶民にも広まるのは室町後期以降とのことです。西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされた、ある種真偽のはっきりしないご利益よりも 、当時の名所巡り的な要素も強く持つ西国三十三所の巡礼は、衣食住以外にもある程度生活に余裕のできた一部庶民の裕福階層にとって魅力的なものとして捉えられ、彼らの援助でこれら三十三所観音が刻まれていったものと想像します。
石山の仏像の多くは馬の背と呼ばれる標高160m ( 公園入口の標高が105mだから標高差は50m前後 ) 程の小山を中心に東西に伸びる山の岩壁に仏龕をえぐり、その内部に彫られています。
順路に沿って巡ると、すべての像を見ることができますが、上の石山観音公園案内図からも分かるように石像の中にはこれら以外にも弘法大師や地蔵、不動なども混じり、先人が様々な思惑で石山に石仏を刻んだことがわかります。
西国三十三所のお寺が本尊としている観音菩薩を刻んでいるものが三十五体、それとは別に何らかの由来で地蔵菩薩・聖観音・阿弥陀如来・役行者・弘法大師等が彫られたものを合わせると石山全部では五十体ほどにもなります。
一般に西国三十三所に因む像は小型であるため、風化浸蝕の影響が大きく半数近くが大正以降に新しい像に取り替えられています。
地蔵菩薩像より少し上に上がると、第二番札所の紀三井寺の本尊に因む十一面観音に出会います。この像も第一番と同じ石匠の手になるものでしょうか、鼻筋の通った面長な観音像と少し表情が異なり、平安期の観音像に見うけられる穏やかな少女のような表情を見せます。
頭部は化仏面よりは螺髪のようにも取れるのですが如来像ではありませんし、あるいは一面二臂の聖観音様として彫られたのかもしれません。
二番紀三井寺の十一面観音像。Webで見る紀三井寺の観音像よりも柔和なまるで童女のような表情を持つ。深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施すとされる十一面観音に与えられたこの造像は、一番の如意輪観音にも言えることで同じ石匠の手になるものか
三番から五番までは千手観音像なのですが、初期に仏龕に彫り込まれた像は既に風化で失われた模様で、明治以降に小さい花崗閃緑岩に刻まれたミニチュアの様な石仏に置き換えられてしまい趣を失しています。
元の石仏が小さく、細かな彫りこみが風化に耐えられなかったことも在るでしょうが仏龕の背後に残された初期の造形と比較すると新しい石仏の存在感はどうにも希薄で、私には歴史的な価値を無視した暴力的な方策のように感じられます。
第三番粉河寺・千手観音
昭和11年再建だが、背後に旧像が残っている
第四番槇尾寺・千手観音
第五番藤井寺・千手観音
たとえ風化によってその細部の造形が失われ、仏の表情が失したとしても歴史的な重みを考えればそのままの姿で次の世代に引き継いでゆく方が遥かに価値あることだと思われます。
六番 壺阪寺・千手観音 五番同様に馬の背の西面に彫られた石仏だがこちらはまだ原型を保っている。
石山に刻まれた仏像の種類は千手観音・15体 如意輪観音・7体 聖観音・7体 十一面観音・5体 准胝観音・1体 馬頭観音・1体で千手観音が最も多く、その姿も元の仏像の違いを反映して様々ですが、中には仏像を刻んだ石工の技量が低かったのでしょう、ザリガニのお化けかエイリアンの様な印象を与えるものまであります。
仏教やヒンズー教の神々はおよそ人間離れした不気味な姿態を持っているものが多いのですが、人の手によって造形されるものですから、優れた仏師の手にかかれば天平彫刻にみられるような見事な造形美を与えられることもできますが、腕の悪い仏師の手にかかればなんとも情けない像ができてしまう可能性も大いにあるわけです。
七番 岡寺・如意輪観音半跏像。片足を垂らし思いにふける自然な姿態は他の像には見られない不思議な色艶がある。苔むして痛みが早いのが残念だ。
石山に彫られた岡寺の如意輪観音は、本尊の如意輪観音坐像ではなく、弘法大師が本尊 ( 塑像 ) の中へ収めたと伝えられる如意輪観音半跏像( 銅像 ) に似せています。何故に小さい半跏像が選ばれたのか当時の製作者の意図は不明ですが、私には造形的な完成度の高い半跏像のほうが好ましく思えます。
岡寺本尊の体内に収められたという銅造如意輪観音半跏像
岡寺の本尊・如意輪観音坐像 ( 塑像 ) 両写真は岡寺HPより
ただ、足の組み方など岡寺の如意輪観音半跏像とは異なる点も有ります。写真などなかった時代、如意輪観音半跏像といってもその姿は所蔵する寺によって異なるわけですから、遠く離れた明日香の地にある仏像を模造するためには、石工が現物に接してその姿を十分記憶にとどめているか、画工の手で模写をした仏像の姿絵を見ながら刻む以外にないわけで正確にその形を再現するのは思いの外難しいものであったと想像します。
八番は長谷寺の十一面観音像。2m16cmの像高を持つ立派なもので保存の良い綺麗な姿で残されています。石山の初期に刻まれた石仏で等身大以上の姿態で彫られたものは一番・如意輪観音、番外の地蔵菩薩立像、二番・十一面観音、三十三番・聖観音、番外の阿弥陀如来立像とこの八番・十一面観音のみで、これらの石仏はどれも風化に耐えて細部まで良く残っています。
初期に石仏を刻んだ仏師たちは石の性質を良く心得ていて、彫る場所も方々に分散して三十三観音のように馬の背の東西に集中しておらす、これらの大作に対して長期の保存に耐えうるような場所を十分に選び抜いて像を刻んたものだと想像します。
第六番・第七番・第八番ともに日当たりの悪い西斜面の湿潤な環境にあるため、羊歯や地衣類が繁茂して像を隠している。上写真の八番十一面観音は2006年10月の写真。
上の順路図からもわかりますが、八番以外の三十三観音の大半が西国三十三所巡路通り、馬の背の西側斜面と東側斜面に横並びに連続して彫られています。
大半の仏像が山腹の傾斜に合わせて仏像の周りを楕円形に彫りこんで仏龕としその中央に仏像と仏座を置く造像であるため、技巧が高ければとても立体感のある美しい姿態の仏像が刻まれていたはずですが、その多くが風化に依って損なわれたり、失われてしまっているのは誠に残念なことです。
第十三番
三番から五番の千手観音は大正から昭和に作り直されたもの。小さくまとまり野趣がなくなってしまった。
第二十七番 如意輪観音半跏像 像高60cm