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明

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明村

明とは「私の町」の中でも述べたように、嘗てこの地区に存在した行政区分の明村を指します。明村が誕生したのは明治二十二年の市町村制施行を受けてのことで、現在の関町福徳、関町萩原、芸濃町楠原、芸濃町林、芸濃町中縄、芸濃町忍田及び亀山市楠平尾の七村を統合して明治に誕生した新たな村です。

合併に当たっては各村間でも紛糾が在った模様で、村名の由来も各村の不公平を抑えるため明治の元号の一字を取って明としたそうです。

しかし同時に明治維新による新生日本誕生時の熱い思いを引き継ぎ、新時代への期待を感じさせる良い名前ではなかったかと思います。

明村に統合された七村は、幕藩制末期のころには福徳、萩原、楠原、忍田、中縄の五村が津藩に属し、林と楠平尾の二村が久居藩に属していました。

しかし藤堂高虎が伊勢国安濃津藩主となった慶長13年(1608年)当時は七村とも津藩領に属しており、その後二代藩主藤堂高次が隠居の際、次男高道に五万石を与えて久居藩を分藩させたことから林と楠平尾の二村が久居藩へと藩替えされたものです。

明治末期に明村の豊濱安太郎氏が作成した明村地図(三重県郷土史データーベースより)

福徳、萩原、楠原、林、楠平尾の五村は元々中ノ川沿いに水系の上流域から中流域に発達した村邑です。しかし福徳・萩原二村は中ノ川上流域に位置し、水田適地が少ないことから明村統合当時は林業や畑作にも重きを置く村落であったようです。

他方、楠原・林・楠平尾の三村は河川中流域の周囲に開けた河岸段丘の水系による稲作を中心とした農村集落で古くより三郷なる村落共同体を構成していました。

山地の縁辺に立地した福徳・萩原の二村は、より下流域の村落が米作主体の生活形態を取っていたのに対して、むしろ加太や関周辺の林業を良くする村々に近い生活を営んでいたようです。

そしてこのことが、後になって明村が安濃・河芸両郡五ヶ村と合併して芸濃町となる際大きな障害となり、最終的には二地区の反発離反を招いて明村より分離し関町に合併する原因となります。

また忍田と中縄は、安濃川左岸沿いの平地から中ノ川と安濃川の中間地帯の台地に開けた農村集落で、雲林院や椋本、萩野、岡本の村落と共に雲林院五ヶ村と呼ぶ村落共同体の一村でしたが、津藩の統治系統では福徳・萩原・楠原・中縄共々高野尾組と呼ばれた高野尾の大庄屋の下に組織されていた関係で、旧村の統合ではこれらの村々が一括して明村に組み入れられました。

明村の上位は奄芸郡となり白子本町に郡役場があったことは『芸濃町林』の処で述べましたのでそちらを参考にしてください。

大正13年の河芸郡域。西は錫杖ヶ岳麓の福徳から南は津興の結城神社辺りまで、北は四日市境の長太から采女の辺りまでに及んでいた。紫は明村域、桃は奄芸郡域、水色は河芸郡で追加された河曲郡域と津海岸周辺地域(http://www.geocities.jp/il_ferroviere/page/map/map2.htmより)

戦後の高度成長以前の日本経済は、農業村落を基盤としており、明治以前の行政区分も主に稲作中心の村邑とその相互の結びつきによって地域の線引が行われました。

稲作農業の基盤は水の確保であり、このため過去の稲作農家は河川の下流からその上流部へと、河川が生んだ沖積平野と河岸段丘を水田とする形で発達してきたものです。

明村は、明治の市町村制施行に当たり、当然この様な形で形成されてきた江戸時代の農村集落主体の藩政区域を引き継いだ形であり、久居藩領として切り離されていた林、楠平尾両村を明村に組み入れ、中ノ川の流域に発達した村邑を中心に志登茂川流域までを奄芸郡として再編成したものです。

現在、中ノ川河口は嘗て郡役場が存在した白子中心部より3km以上南の磯山地区にあり、白子には堀切川が流入しています。

しかし地図を見れば堀切川は以前の中ノ川河口部を形成する中ノ川の一分流もしくは本流として存在していたであろうことは容易に想像されます。

本庁の在った白子から中ノ川沿いに発達した村落を辿ってゆけば自然と楠平尾、林、楠原、萩原と続く明村西部まで遡ることが出来たわけで、当時の奄芸郡の行政区分も、この川沿いの道にそって合理的に仕切られていたと言えます。

ただし、中ノ川流域に有っても、藩政時代に亀山藩に帰属していた中流域の槇尾村と昼生村は、亀山と関を中心とした鈴鹿郡に組み入れられましたので、その殆どが奄芸郡に属した中ノ川の水系に、その中流から上流にかけて一部鈴鹿郡の郡域が入り込む形となりました。

また昭和三十一年市町村大合併の折、地元の実情に即して楠平尾が鈴鹿郡側(亀山市)に、福徳と萩原が関町に入るよう線引が変更され、現在旧林村の中では楠原、忍田、林、中縄の4地区が旧芸濃町(津市)の仲間として残る形となりました。

中ノ川と安濃川に挟まれたこの一帯を明村に統合するに於いては、当時最も人口が多く石高も多かった林村がその中心となり、明村役場は林村(現在の林町)に置かれました。

明治39年当時の明村各地区人口構成(三重県郷土史データーベース収蔵谷川直義氏地誌他より)

この時、林村が中心的な役割を果たした背景には、幕藩制の時代より久居藩林組の大庄屋として代々奄芸、安濃、鈴鹿の三郡に亘る21ヶ村を束ねていた林村の林喜兵衛の存在が大きかったものと思われます。

林家は南北朝の頃までその家系を辿れる名門で、屋敷があった一帯は今も殿町とよばれ城屋敷の小字名もあります。嘗ては此の地に林城があったと言われ、室町の後期には林氏の支配は津の一身田当たりにまで及んでいたそうです。

さらに織田信長の伊勢侵略の折には林城に籠城してこれを防いだ記録が残されていますが、その後林城は落城して織田家の支配となります。

しかし家康の天下となって林一万石を所領していた織田信重は家名断絶、領地も没収され林城は廃城となります。しかし林家の子孫が帰農して此の地に留まり、安濃津藩及び久居藩時代には大庄屋として重用されて、嘗ての配下であった村邑を束ねていたようです。

林家が膨大な資産を有する豪農であったことを示す逸話は地元にも色々と伝わっており、芸濃町史の中にも『伊勢久居藩史』より林家の土蔵の中から八千両近くの小判が見つかった「掘り出し物」話が紹介されています。

明小学校

この豪農林家の存在が有ってか、林村には芸濃地域で最も早く、明治五年の学制頒布の前年に早くも小学校の前身久居義塾林分塾が誕生、学制頒布を受けて明治七年四月二十二日(明小学校創立記念日)には連区林小学校が生まれました。

久居義塾分塾当初の設置場所は良くわかりませんが、連区小学校以降は設立当初より現在の明小学校の敷地内に在った模様です。

明治十二年十二月に改称されますが、正式名称は三重県奄芸郡第七学区林村外二ヶ村(林・中縄・楠平尾)連合小学校と長いもので、学区も未だ三ヶ村だけでした。

明治十九年一月には、ここに楠原・萩原・福徳が加わり、新生明村が誕生する明治二十二年に忍田を加て明七ヶ村の村立小学校として明村立林尋常小学校となります。

昭和49年明小学校創立100週年記念碑に刻まれた明小学校の校章。右は旧明村役場玄関前の破風に掲げられた明村の村章で、どちらも明をデザインしたものだがこちらはより洗練され伝統的な紋章デザインに近い。

さらに明治二十六年には高等科も併設され明村立林尋常高等小学校に改称しますが、明治三十三年五月には学校名にも明の文字を用いて明村立明尋常高等小学校となります。豊浜安太郎の明村図で、当時現在の明小学校の位置に学校が在ったことが分かります。

明小学校に残る木造校舎当時の写真。戦前の学校校舎の多くがこのような建物で、日本の伝統建築の技術で建てられているが建物の構造には西欧建築の影響が感じられて面白い。

昭和三年七月には木造平屋建二百十九坪の新築校舎が完成。昭和二十二年には明村立明小学校、さらに昭和三十一年の市町村合併を経て芸濃町立明小学校と改称され昭和五十五年二月には現在の鉄筋二階建て新校舎が完成し今に至っています。

現在の明小学校。地区と学校の結びつきは強く、盆踊り(夏祭り)や町民運動会を通して明地区の住民の親睦の場ともなっている。

明の名前の由来となった明治の世も遠に過ぎ去り、肝心の明村もすでに消滅して55年以上の月日が過ぎた後も明小学校だけは明治維新の気風を受け継いだ明の名を今に残しているものです。

ただし近年の各区統廃合の流れは、少子化による生徒数減と云う名目で明小学校にも及んでおり、椋本小学校へ統合しようとする動きが度々出ています。

教育とは本来地元の生活やその文化、その歴史に根ざしたものであり、経費を安く上げることができるからと言った安易な理由でその有り様を左右されるべきものではないと思われます。今後共この伝統ある学校が存続されることを願ってやみません。

明村役場

明治維新に伴い、明治新政府は明治四年の廃藩置県、翌五年に大小区制の導入、明治六年には地租改正法の公布と矢継ぎ早に行政改革と法改正に乗り出します。

勿論最初から全国の行政組織を全て一から作り直すことなど出来る訳もなく、先ずは各藩の行政組織をそのまま引き継ぐ形で、旧藩の藩主を知事とし旧藩庁の藩士を中心に新政府の官僚制度がスタートします。

しかし新政府による廃藩置県の意志は徹底しており、まず藩主を華族としてすべて東京に呼び寄せて旧藩との繋がりを断ち切り、県の上層部には新政府から新進気鋭の人材を送り込んで旧藩政の色合いを排除して行きます。

例えば安濃津県の筆頭参事に就いた尾張藩の丹羽賢などは25才の若さで、彼以下県政の要職には土佐藩、岡山藩、姫路藩等旧藩との繋がりを持たない人材が送り込まれました。

同時に地方では、大小区制導入により県の下に新たな大区・小区の線引が行われ区長・副区長がおかれました。そして末端の行政官として小区内の村々には従来の庄屋、組頭(年寄)等を廃止して戸長と副戸長が置かれました。

しかし、これら末端の行政官吏には、県の要職の場合とは異なり、農村の事情に通じ年貢米の徴収等で農政の実務に明るい従来の大庄屋や庄屋が選ばれました。

このため、明治初期の地方の役場は、当時それぞれの村で中心的な役割を担っていた庄屋や大庄屋の屋敷の周辺に設けられたようです。

明村の場合、大小区制が施行された明治四年と五年のみ、楠原、林、中縄にはそれぞれの村に戸長が置かれたのですが、それ以降は三ヶ村で戸長一人とした年が多くなり、明治二十二年の市町村制による村長へと引き継がれます。

先に掲げた明村地誌でも、当時の明村役場は幕藩制時代よりの大庄屋林家(林宗右衛門)の近くに建てられていた様です。また当時の交番も林家の門衛のような位置に有ったそうです。

しかし大小区制は、中央政府に依って天下りに藩制当時の町村の区割りを無視して定められた行政区画であったため弊害が多く、明治二十二年にはこれに替わる市町村制が施行されます。

これに依って、林に在った明村役場は、昭和三十一年の昭和の大合併により芸濃町に統合されるまでの51年間、当時の旧七村(福徳・萩原・楠原・忍田・中縄・林・楠平尾)を管轄したわけです。

明村の村域( http://www.geocities.jp/il_ferroviere/page/map/map2.htmより)

今では明治当初の明村役場がどのような建物であったのかを知る資料も存在しないようですが、ある程度の人数の役人が執務できたことから想像するに、平屋建てのお寺の庫裡の様な建物であったのかもしれません。

大正五年になって、明村役場は当時の明小学校の南、伊勢別街道と林-磯山道の交差点に木造2階建ての寄棟の新庁舎が完成します。

明小学校に残されている旧明小と明村役場周辺のの空撮写真(昭和四十九年)

玄関が建物の角に位置し、建物軸と45度で交わる独特の構造を取っており、限られた立地の中で利便性とデザインを共に両立させようとした建築家の努力が伺えます。

この建屋は現在でも同地に残されており、大正期の建築様式を知る貴重な建物として、津市によって登録文化財の申請がなされ保存されることが決まっています。

大きなガラス窓が特徴的な旧明村役場。洋風建築でも三重県庁(明治12年)のような大時代的な豪華さはないけれど質素な中にも近代的な明るさが感じられる。

玄関部分には簡素なアーチ型の装飾がある。保存が決まったといっても、建物はそのまま放置してあるだけで荒れるにまかされ、なんとも情けない話だ。

高く取った窓ガラスは今も昔ながらのガラスが嵌っており、反射した風景は面白く歪む。

議場として使われた二階のフロア。窓が高く採光の良い建物なのがよく分かる。

シーリングライトのベース部。建設当初は立派な装飾照明器具が取り付けられていた様だ。たぶん戦時下の金属供出によって外されてしまったのではなかろうか。

昭和三十一年、明村の芸濃町への統合合併により、旧明村役場はその役割を終え大正期の建築文化を今に伝える歴史的建築としての価値のみ取り上げられるものですが、地域に根ざした村や町の役場は、すべてを経済効率と合理性で押し通してしまう現在の大規模な役場組織よりも役場に対する地域住民の監視の目も行き届き、時と場合によっては遥かにの地元の利益につながり効率的である場合も多かったのです。

1947.11.17 旧明村中心部の米軍空撮写真 中ノ川沿いに発達した水田村落と伊勢別街道沿いの村邑よりなる

現に芸濃町などは津市に合併した結果あらゆる面で地域サービスが低下し、町政時代にはそれなりに配分してくれていた地域に対する補助金も軒並み減額もしくは打ち切られる有様です。

結局統合で利益を得るのは、本庁出入りの大手業者ばかりで、役場の人間もその土地をよく知らない者が執務するため、細かいところに目が行かない上に、何事によらず無駄が増え、業者を潤すばかりで一向に住民の為には税金が使われないと云う馬鹿馬鹿しい事態に陥っているのではと思われます。

いつの日か、社会や組織の巨大化を廃して、地元の生活に根ざした村や街単位の行政の仕組みが構築される夢の様な日が来ることを願わずにはいられません。


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