2023年3月26日 「信仰の祈り」

聖書 ヤコブの手紙5章7-20節

私たちは1年間、ヤコブの手紙からの聖書個所を意識してきました。特にコロナが原因で「病気になった人」、「苦労して働く人」、さらに「疲れて病気になる人」が多くいたこと、今もなおこの中にいる人たちが多いことを知らされてきました。

私たちは引き続き、このような厳しさの中に置かれている人たちを祈りにおいて、また具体的な実践において覚え続けていく者でありたいと思わされています。

「いつかきっと、正義が通る世の中になるはずだ」(8節)と、願い続けている人たちがいます。その声を、私たち自身のこととして受け取りたいと思うのです。そして、厳しい現実に置かれていても、苦労の中にあっても、その人たちにこそ「幸いが来る」という思いを伝え続けていきたいと思わされています(11節)。

新しい年度が始まります。この社会で、抑圧され、苦労し、耐えていくのにも困難を覚えている人たちがいて、その人たちの存在を無視するかのようなことが行なわれる年度だとしても、私たちは、その厳しさの中に置かれている人たちにこそ、神は、幸いだ、という出来事をもたらしてくれるだろうと信じて、祈りまた行動する者でありたいと願います。


2023年3月12日 「何の準備?」

聖書 マタイによる福音書24章45-25章13節

3月11日の大きな出来事から12年が経ちました。時間の経過が人の記憶を弱めていくことはその通りなのですが、私たちは今もなお困難な日々を送らざるを得なくされている人たち、また、大きな傷を抱えながら生活している人たちがいることを、心に留めたいと思うのです。

「主人がその家の使用人たちの上に立てて…」「仲間を殴り始め…」(24章45節、49節)。イエスの目には、権力者たちの振る舞いが映っていたのでしょう。この世界で人々を支配することを神から託された者たちが、人々を打ち叩いたり、弾圧したりしている。神から見れば人間すべてが同じ人間であって、同僚や市民を弾圧している人間たちも、神のしもべの一員に過ぎないのに。

「人の上に立てられる」のは、人に対して権力を振るうためではなくて、すべての人に仕え、「しかるべき時に、必要な食事を与えるため」なのだ、とイエスは言います。

困難を抱えて今もギリギリの生活にある人に、私たちの国は、政府は、権力者たちはどんなことをしてきたのでしょうか。そして今、人間を殺す道具を爆買いし、基地を造り要塞化を進めています。一体、何の準備なのでしょうか。

この個所も、マタイ教会が置かれている事情を汲んで読むことも大事ですが、神の支配に入るための条件を作っていることには批判が必要だと思います。課題を共に担おうとし、互いに生かされている者として支え合うことが、イエスの視点です。


2023年3月5日 「スケジュールがいっぱいの手帳」

聖書 マタイによる福音書24章32-44節

神への信頼を共有し、教会生活を共にしてきた友の生き方は、私たちに励ましを与え、大きな問いかけを残してくれました。人間がその生き方において様々な壁を作って物事を判断し、それをもとに正しさや間違いといった固定した思いを当たり前のように持つことへの問いです。あまりにも早い生涯の終わりは大きな悲しみをもたらしたのですが、私たちに示してくれたものもまた、大きなものでした。

いちじくの木を見ての話、そして「目を覚ましていろ」との言葉。イエスは、自然の命を神が生かしていることを見て、壁や区別を作って自らを正当化する人間の生き方への問いを示したのでしょう。「目を覚ましていろ」とは、神が人間の命をどれだけ大事にされているかを心に叩き込め、との言葉だと思います。

自然は差別をしません。風も、太陽も、名もない草花も、何の区別もなく吹き、照り、咲きます。海にも境界線など引く必要があるのでしょうか。魚たちは、そんな線など関係なく泳ぎ暮らしています。時間もみんなに1日24時間です。そんな自然の秩序・法則があるのに、どうしてわざわざ人間は壁を作り、いがみ合い、人種や思想の違いをあげつらうのか。

愚かな戦争も続いています。友の生き方を心に刻み込みたいと思います。


2023年2月19日 「『神の家』の崩壊」

聖書 マタイによる福音書24章1-31節

ウクライナでの戦争が1年になってしまいました。2014年から続く戦いを含めると、想像することも困難なほどの厳しい毎日が続いてきたことになります。

ロシアの侵略者が侵略しようとしている大地から去らない限り、これは続いていくということでしょうか。誰一人として幸せにならない、幸福をもたらすことのない暴挙が、一日でも早く終わることを祈り続けなければいけないと思います。

偽キリスト、偽預言者、偽メシア。福音書記者たちは、これらが出て来るだろうと書いています。さらに人と人、国と国、民族と民族が争うこともあり、地震や災害が襲うこともあるだろうと言っています。そのような時に、私たちは何を礎にして立ち、何を信頼して困難に向き合うことができるのか。著者たちはその問いを私たちに与えているのでしょう。

「神の家」とされた神殿は崩壊しました。実際には戦争で破壊されたのですが、象徴として受け取るなら、中身、在り方が滅びたのでしょう。なぜなら、人間を生かすはずのものが逆になり、その蔭でどれだけの人の命がないがしろにされ、苦しめられてきたことか。「神殿」というものは、私たち一人ひとりの生き方にもつながるものでしょう。


2023年2月12日 「私も偽善者の一人です」

聖書 マタイによる福音書23章13-39節

「天の国を人々の前で閉ざす。入ろうとする人たちを入らせない。ユダヤ教への改宗者を探すが、その人たちを自分の2倍になるほどの地獄の子どもとして仕立て上げる。十分の一税は払うという細かな律法に固執するけれども、律法の根幹である公正・慈悲・信実というものを実現しようとしない。杯・皿の外側だけ清めて、内側は強欲と不節制に満ちている。墓の外側は白くきれいに塗るが、内側は偽善と不法に満ちている。自分みずから、預言者や義人殺しの子であることを証明している」。

掲げられているこれらの「呪いのリスト」を見て、他人事でいるなら楽なのですが、表面的なことで物事を判断して、その裏にあるものを見ない、気づかない、ということでしたら、自分自身はどう読めるでしょうか。

マタイは削除していますが、この記事の中、あるいは前後には、「やもめの家を食いつぶす」という言葉、さらに「やもめの女性が神殿の賽銭箱に献金をした」記事がマルコの並行個所には書かれています。これに注目することが必要かと思わされています。

社会・宗教からは取るに足らない存在とされている人や出来事にイエスは注目するのです。自分のすべてを神に放り投げた女性が何を祈り求めたのか。私たちは何に心と身体を寄せていけるでしょうか。


2023年2月5日 「拝啓、牧師先生様」

聖書 マタイによる福音書23章1-12節

マルコでわずか3節で語られている言葉を、マタイは23章全体を使って一大説教を展開しています。「7つの呪い」と言われているものを一つの章にまとめていますから、イエスがもしこの言葉を言ったとしても、どんな状況なのかが不透明です(しかもマタイは、イエスが最も言いたかったと思われる「やもめの家を食いつぶす」との言葉を削除しています)。

マルコの並行個所を見てみると、この記事と「盲人の癒し」を重ねて書いています。ですから、人は魅力があって目に心地よいものばかりに注目してしまうものですが、その裏には何があるのかを「見ていない」ことを、マルコを言っていたのでしょう。

イエスは盲人を癒した後に「何が見えますか」と問いました。私たちへの問いでしょう。しかも「触れる」ことが未完了で言われていますから、イエスは何度も何度も私たちに問いかけてくれること、さらに、私たちは何度も触れてもらわないと、真実がなかなか見えないことが言われていると思います。

イエスの「何が見えますか」という問いは、私たちのものの見方を変えてくれるもので、人間が関心を持つ方向性も変えてくれるものです。見えにくいものの中にこそ、神の関心があることを覚えたいものです。


2023年1月29日 「なすべきことは何か」

聖書 ヤコブの手紙4章13節-5章6節

ずいぶんと厳しい言葉で批判がなされていますが、ヤコブをここまで怒らせていることには何があるのでしょうか。取り上げた個所の4章13-17節までは「地中海での商人の話」、5章1-6節までは「自分の所有する土地で日雇い労働者を働かせている大土地所有者の話」になっています。

この記事でヤコブが最も言いたかったことは、5章4節の言葉にあると思います。「見よ、あなた方の土地の刈り入れをした労働者の、あなた方が搾取した賃金が、叫んでいます。そして刈り入れをした者たちの叫び声が、万軍の主の耳に到達しています」。

蓄えをするなとか、これからの人生に必要なものを用意することがだめだというわけではなくて、その裏には何があるのかを見る、その問いかけだと思います。不当な方法で労働者を搾取し、莫大な富を得るのはこの時代に限ったことではありません。不当にぼろ儲けしている金持ちがいるということは、表裏一体で不当に搾取される労働者たちを生んでいるという現象と結びつくわけです。

人はつい、表面的なことで物事を見て判断することが多いのですが、その裏にあるものを見ない、気づこうとしないのです。埋もれているものを明らかにしたい。ヤコブの叫びは、今の時代にも問いかけています。


2023年1月22日 「これがあれば…」

聖書 マタイによる福音書22章34-46節

「シェマーの祈り」というものも、「隣人を愛せ」というものも、本当にこれらが実現されていく世の中なら、今よりはもう少し優しく、温かいものになっていく気がしますが、現実はどうでしょうか。

教会ではあまりにも有名な言葉で、教会でなくても、当たり前に捉えられるようなものですが、内実がどうなっているかを問わなければいけないと思わされています。

個人的には並行個所のルカ版に、イエスの思いが記されている気がします。というのも、この問答の後にルカは「サマリア人のたとえ」の記事を続けて、イエスが問いを残すという形で物語を終えているからです。

イエスは質問者に「正確に答えましたね。そんなに言うなら、その通りにすればいいではないか」と言っています。状況・現実を無視して、特定の原理とか原則に固執する態度や考え方が「教条」というものなら、そんな態度に陥っていた権力者たちへのイエスの批判でしょう。

「隣人とは誰か」とは、定義の問題ではなくて私たち一人ひとりの主体的な行動のことです。イエスの問いに応えるなら、今の現実の課題に私たちがどう向き合えるのかを、思いを総動員して考え続けることだと思います。(参考図書『どうぶつ会議』岩波書店)


2023年1月15日 「男は『亡くなり』、女は『死んだ』」

聖書 マタイによる福音書22章23-33節

「サドカイ」を象徴として読むなら、自分自身の中に凝り固まっているものがあって、それが解放される必要があるとすれば、なんとかそれを神の方向に向くものに変えていきたいと願うこと、また、イエスの生き方を考えながら、自分の思いが揺さぶられる必要があることに気づかせてくれる、そんな記事だと思いました。

観客席に座っているようにして記事を読んで、イエスが相手を論破していく姿にすっきりして拍手喝采しているだけなら楽なのですが、実際に生活する中で、イエスの言葉が自分自身の在り方にも迫ってくることが確かにありますから、この記事も私たち自身への問いとして読むことが大事かと思っています。

「レビラート」という婚姻制度が出てきますが、「復活」のことは関係ないように思います。屁理屈を並べてイエスをおとしめようとするのですが、女性を人間とも思わず道具としてしか見ていない態度に、イエスは心底怒ったのではないかと思います。結論を持っていて、凝り固まっているものが他者を人とも思わず、自分の正当性を主張するためだけのものなら、イエスの生き方によって壊される必要があるでしょう。神から常に新しい出会いと経験を与えられている者としての自覚が必要なのです。


2023年1月8日 「私にとって神とは?」

聖書 マタイによる福音書22章15-22節

「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返したらいい」。この言葉は、福音書記者たちそれぞれの思いで書かれているようです。それぞれの理解があるのは当然ですが、私自身としては、皇帝崇拝を受け入れていたユダヤ権力者たちの振る舞いを暴露する、イエスの痛烈な皮肉だったと思います。

「あなたたちがローマの皇帝を神様だと思っているなら、その神様にお返ししたらいいだろう」。これがイエスの真意だったと思っています。つまり、「お前たちはどう生きるのか。お前たちは何を生の根拠として生きていくのか」というものだったと思います。

イエスの問いは、今の現実にも見事に通じるものだと思います。私たち自身がどう生きるか、という問いになっているからです。ウクライナで起こっていること、沖縄が置かれている現実、様々な場所で命を生きにくくされている人たちの日々。私たちの目はどこに向けられているでしょうか。自分が信じる神が、人と自然の命を最も大切にする方だとすれば、私たち自身もその思いに連なっていきたいと思うのです。

どんな理由があっても、人の命を無差別に殺していいことにはなりません。自然の命も自由に扱っていいことにもなりません。イエスの問いに応えるなら、生かされている命を互いに支え守り合う生き方の選択です。


2023年1月1日 「『救われる者』と『滅ぼされる者』?」

聖書 マタイによる福音書22章1-14節

婚宴の席に招いていた人たちがそれぞれの理由で来られなくなった時、主人は通りに出て、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来いと言いました(マルコ版。マタイはこれらをすべて削除)。そしてまだ席が空いているということで、通りに出て誰でも連れて来いと言うのです。ここには、人間がどういう状態であれ、無条件・無前提に神が招くという、神の招きの本質が語られていると思います。

マタイの教会や神学が目指したものは尊重しなければいけないこともありますが、先に招かれたのがユダヤ人で、しかし神の招きにふさわしくない(正装していない)から外に放り出され、それに代わってキリスト者が選ばれたのですよ、との結論にするとすれば、それは批判しなければいけないでしょう。

どちらが正統でどちらが異端。祝福されるものとそうでないもの。人間の命を新しい壁を作って区別する。教会も例外ではありません。ユダヤ人とキリスト者。キリスト者の中でも、油断していると「外に放り出されますよ」との教え。でも、それこそ「油断していると」、今、ウクライナで起こっているような現実に無関心でいることになるか、侵略者の行為を正当化する側に、いつの間にか立つことにもなります。イエスの招きの本質を、改めて学ぶ1年にしたいと思います。


2022年12月25日 「視点を神に」

聖書 ヤコブの手紙4章1-12節

いろいろな翻訳を見て学ばされたことでした。特に5節と6節ですが、神が人間に与えた霊は、ねたむことを欲する、という言葉にハッとし、注目させられました。神は人間に霊を与えたのですが、その霊は良い働きをすることもあれば、人をねたむことで行動をすることもあるというのです。人間自身の行動が問われているということでしょうか。

神はさらに、霊を超える賜物を人間に与えるとも書かれています。それは、謙虚さ、だというのです。当たり前のようなこととして漠然と考えていたのですが、改めてこのような言葉に出会うと、心が揺さぶられる思いがしました。

ウクライナの空と大地を想像します。人間が、与えられた霊を自分中心の欲望(ねたみ)のために働かせ、そしてさらに与えられている謙虚さという恵みがあることに気づかない。この個所をクリスマスの礼拝に与えられたことを、今の世の中の状況を見る時に心して見つめていかなければいけないと思わされました。

創世記の創造物語を書いた著者たちは、破壊され尽くされた大地を目の前にして、心から光を求めたのでしょう。そして、人間同士の関係性、また自然の命に対しての生き方を示したのでした。ヤコブもおそらくこの物語を知っていて、意識しながら、人間の生き方とは何かと、読者に問いを与えてくれているのでしょう。


2022年12月18日 「神はどうするだろうね?」

聖書 マタイによる福音書21章33-46節

「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。ここでイエスの話は終わっています。「さて、神はどうするだろうね?」。まことにイエスらしい話し方、終わり方だと思います。

私たちは、この問いに応えなければいけません。私たちにもイエスが自分自身で考えて応えろと言われていると読むなら、この問いは私たちにも投げられているものです。どんな思いを返せるでしょうか。

この話を「農民一揆」のような話として受け取るか、「神の恵みの繰り返し」として読むか、いつも二つで悩みますが、私自身としては、自分が批判されることを望む時には後者を選びたいと思わされています。

でも、どちらを取るにしても、イエスが最後に「神は罰するだろうね」とは言わなかったことに注目します。「農民一揆」の話として受け取る時は、神がそのような暴力的なことを「赦す」という理解には難しいとしても、大土地所有者が労働者をこき使って収穫だけを奪っていく経済システムに抵抗することは、「赦し」の中に入るかもしれませんし、何度も繰り返し神が送ってくれる恵みに気づかず、拒否することもある人間に、それでも神は恵みを与えることをやめないと読んでも、「赦すだろうね」とイエスは発言したと思います。「赦す神」に応える生き方を模索したいものです。


2022年12月11日 「『田舎者』の挑戦」

聖書 マタイによる福音書21章23-32節

神殿で商売している人間たちの道具や机、両替の金をひっくり返し、また、商いのために神殿を通ることさえ妨害するような振る舞いをした後に、またそこにのこのこ出かけて行ってうろうろするとは大した度胸だと思いますが、人をそこまでの行動に駆り立てるものは何かと思わされます。

イエスが心の内に携えていったものは、ガリラヤや旅の途中で出会った人たちの声だと思います。この声が、人間を人間に回復させる力を持っているからです。同じ命を与えられ生かされている人間同士が、目の前にいる人を一人の人として認める、認め合うこと。人生最後の場所にこれらの思いを持って行ったのだと思います。

「許」と「赦」。同じ「ゆるし」ですが、「許」は許可。「赦」は「人間を一人の人間として認めること」を意味すると思います。イエスに導かれることは、神は「許可」ではなくて「赦す神」だということです。一人の人間を人間として生かす。それがイエスが信じた神でしょう。

この事実がどこから出ているのか。ガリラヤであり、今では沖縄や弱く小さくされている場所や、そこに生きる人たちからです。ここに、人間を人間にする力が宿っています。「神の許可」を自由に出せるという立場にいる人間は、この事実に真剣に向き合う必要があるでしょう。


2022年12月4日 「人間を苦しめるものは沈められ、消えてしまえ」

聖書 マタイによる福音書21章12-22節

ケンカを売りにいったようなものです。それもただのケンカではなく、命がけのことです。日常的に命が脅かされている人の現状と心を訴えていくには、それほどの決意が必要だったのでしょう。こうして言葉で言うのは簡単ですが、想像力を総動員して向き合わなければならない出来事だと思わされています。

マタイでは独立した二つの話になっていますが、マルコのほうでは「サンドイッチ型」にされていることに注意を払いたいと思います。外側のパンの部分である「実のないいちじくの木」の記事で、中身の「神殿での大暴れ」の出来事をはさんでいるのですから、神殿という機構がいかに中身のない、空虚な、さらに根元が腐って枯れてしまっている状態だということを訴えたかったのでしょう。

そして証言者たちは、神殿に入ることが許されていない人たちを登場させていることにも注目させられます。嬰児、幼子、目の見えない人、足の不自由な人…。神殿機構からこれらの人たちがなぜ排除されているのか、神の思いはどうなのかと訴えています。人間を区別・差別する心など、神の秩序(海、山、自然の営み)の中に沈められてしまえ、消えてしまえ…。信仰者の言葉から、自分自身の行動が問われていると感じます。


2022年11月27日 「中心に置くものは『平和』」

聖書 ヤコブの手紙3章1-18節

ヤコブの批判の目は、教会の「教職制度」にも注がれているようです。とても厳しく「教師になるな」と言っています。続けて、人間は誰しもが間違いを犯す者であること、限界を持つ者であることも言っています。

教会の指導者と言えども一人の人間であることを自覚せず、自分の思っている理念なり、態度、言葉が、それがすべて真理であるようにして人を裁くような振る舞いだったのでしょうか。私自身も教師であり、このようなことに陥っているのではないかと、ヤコブの言葉を心して聞かなければいけないと思わされることです。

人間の「舌」が、神から与えられている大事な恵み、秩序を壊しているとも書かれています。地上的な判断で神の平和を壊しているというのです。利己心、ねたみ、不安定…。これらから完全に解放されている人間はいないでしょう。限界を持つ人間同士が、これらを赦し合い、認め合いつつ日々を送ることは難しいことですが、なんとか意識の中に置いて過ごす心を持ちたいと思わされています。

ヤコブは、人間が何かをする時にはいつも「平和的であれ」と言います。何事かをなす時に、心の隅にでも「平和的」な思いを持ちたいと思わされます。そんな時に、この世の中、もう少し温かいものになる気もします。


2022年11月20日 「収穫の恵みを武器にして」

聖書 マタイによる福音書21章1-11節

いわゆる「エルサレム入城」と言われる記事です。まず、イエスがろばを借りて来いと言う場面ですが、聖者伝説のようにされていることを除いて考えると、「主がお入り用なのです」との言葉が、「このろばたちの主人がお入り用なのです」だったことに、今まで気が付きませんでした。「ろばたちの主人」、つまりイエスは「日常性の主」だということです。

もう一つ気づかされたことは、ろばを借りたベトファゲという村が果たしていた役割についてです。エルサレム近郊(ヨハネによると約3キロほど)にあったこの村では、エルサレム神殿において大きな祭り(礼拝)がある時に、本来はエルサレムで焼かなければならないパンを用意したり、犠牲の動物を屠ったりすることが許されていた、ということです。

つまり、イエスは「エルサレム神殿御用達」のような働きをしていた村で、パンではなく犠牲の動物でもなく、ろばを用意したのです。ろばは庶民と一緒にいるもので、馬のような軍事目的にも使われた緊急性のものではありません。いつも生活の身近にいたのです。

その「主人」であるイエスは、人間の日常を携えて、人間の日常を破壊するような力を持つ場所に向かったのです。しかし、パフォーマンスとして読めばおもしろいものですが、実際は命がけだったでしょう。


2022年11月13日 「イエスの目で見た時」

聖書 マタイによる福音書20章20-34節

前の段落の「3回目の受難予告」の記事と一緒に読むほうがいいかもしれないと思いました。受難予告、2人の弟子の権力志向、そして道端に座っていた「盲人・乞食」との出会い(マルコではバルティマイオスとの名前になっています)、すべてがつながっていると思われるからです。

イエスがエルサレムに行く決意をした中にある思いを理解できない人間は、その右・左、つまりナンバー2と3にしてほしいと願う。心の中ではかりごとをして、計算をして、自分の立場を有利に、また誇示したいと思う人間の目には、道端で生活せざるを得ずに乞食をしなければいけない盲人の姿が映ることはないのです。いったいどちらが「盲人」か。私自身の心や生き方を含めて、大きな問いを与えられています。

イエスはバルティマイオスに言いました。「あなたの信頼があなたを救ったのだ」と。バルティマイオスが自分の心にある思いを素直に率直に叫んだことを、イエスはこう認めてくれたのです。

彼は「盲人」となっています。でも、イエスがそこに来たこと、イエスがどこにいるのかを「見て」「感じて」いました。それでは自分は?と思うのです。今、イエスがどこにいてどのように働かれているか、心と体で見て、そこに身を寄せていくことができるように、祈り求めていきたいと思わされています。


2022年11月6日 「人を訪ねる神」

聖書 マタイによる福音書20章1-19節

他に並行個所はありませんが、まことにイエスらしい話だと思わされます。日常の風景を見て語り振る舞われたことを思うと、イエスが実際に話した可能性は大きい記事だと思います。

日没まであと1時間ほどの夕方5時に雇われた人も、朝からいた人たちと同じ賃金をもらったということを考えると、誰でもその時間から働こうかと考えてしまいそうですが、それは私のように一応はその日の暮らしができる人間が考える発想です。なぜなら、労働者の切実な思いを理解せず、日々の生活をどうしたらいいのかという立場を想像していないからです。

神は、夜明けでもその後の時間でも、夕方の5時になっても、神のほうから人間を探し求めてくれていることが示されています。人間は必死に神を求めるのですが、実は神のほうから人間を招くのです。それも、何時になっても主人が労働者を求めたように、神は人間がどんな状態にあっても招くことをやめないというのです。

そのような神ですから、この世の人生を終えた人たちとの関係性を断つことはなさらないでしょう。家庭で、社会で、教会で生きた人たちと神は今も一緒にいてくださって、私たちと同じように懐に抱いてくれているでしょう。人間が図る条件などは、神の招きに対しては無力です。


2022年10月30日 「実践」

聖書 ヤコブの手紙2章14-26節

私たちが心と具体的な行動を意識しつつ掲げる「目標」を、30日の日曜日に実践することに導かれました。「コロナ禍での課題を担う」ことを特に意識するものでしたが、よくよく考えてみると4つの「目標」すべてにあてはまるもののような気がしました。私たちが与えられている「信仰」をどのように実践につなげて、その実践の中でどのように「信仰」を生きていけるのかが「目標」すべてに関係しているからです。

ヤコブが残した言葉の中で、特に今日のようなものが与えられたことを恵みに思います。彼は教会の閉鎖性や優越意識に厳しく対峙し、「本物の信仰は行為の中にしか表現されない」と書いています。「信仰」の形はそれぞれの人によって違うものではありますが、私たちはヤコブの言葉に導かれ励まされ、弱く小さな群れですが、イエスの信頼を具体的な行動にして表していきたいと思わされています。

私たちが行なった今日の実践が、イエスの思いに連なるものとして神が受け止めてくださいますように。そして日常の私たちの行動の中にも、神が導きを与えてくださって、どんな命をも神に肯定されていることを示していける働きができますように。困難の中にある人たちに、私たちがイエスの思いを携えて、これからも身を寄せていくことができますように。


2022年10月23日 「本来の場所に返せ」

聖書 マタイによる福音書19章16-30節

この人の莫大な富はどこから来たものだったのでしょうか。まともな職業についてまともな報酬でこうなったわけではなさそうです。それが、古代の富のシステム(今もありますが)といったものですが、この人も例外ではなさそうです。

他人(弱者)をだまし、人のものを搾取し、それで懐を肥やしていたのでしょうか。外ではそれゆえに高圧的な態度も取っていたのでしょうか。しかしイエスの前に来たとたんに「善い先生」と挨拶する(マタイは「善い」を「行ない」にかけて、永遠の命を得る条件の話にしている)。イエスは嫌悪感むき出しのような態度で「どうして私を『善い』などと言うのか。善いものは神以外にいない」と突き放している雰囲気です。

さらに、ユダヤ人なら誰でも知っているだろう十戒を持ち出して、「うばうな」「だますな」等と話しています。それは守ってきましたと答えた彼にイエスは「それなら結構。ただし、あなたに欠けているものを言おう」と答え、「持っているものを返せ」「困窮の中にいる人たちを覚えろ」と言うのです。

不当な方法で得た持ち物を本来の場所に返せ、と言っているのです(「施せ」という訳はとても嫌なものです)。本来は生活者のものだから、その人たちに返せ、と。社会構造への批判と共に、人間の関係性をも本来のものに戻そうとするイエスの言葉と振る舞いです。戻さなければいけないものが、現代にも多くあるのです。


2022年10月16日 「『男』はどこに行った? 隠れずに出て来い」

聖書 マタイによる福音書19章1-15節

「人の世に熱あれ、人間に光あれ」。この言葉で終わる「水平社宣言」が出されてから今年で100年です。宣言は、不当な差別を受けて来た人たちの思いだけでなく、すべての人があらゆる差別を受けることなく人間らしく暮らしていける社会の実現を願う思いが込められたものです。

この間、宣言文に込められた願いがどうなったかといえば、相変わらず差別も偏見もなくならず存在しますし、さらにそれが激しくなっていることも感じます。人と人がますます分断され、区別や差別が助長されている現実もあるのです。

今日の個所を読む時に、構造的差別に対してどのように向き合ったらいいのかを考えさせられます。代表作『橋のない川』で被差別部落の課題を告発した住井すゑさんは、人間を支配したり搾取したりするための一番の方法は、弱者を作ることだと言っています。それで権力者たち(強い者)はその力を維持できるのだと。

イエスが闘ったものが見えるようです。宗教・社会を牛耳るため、または自己保身のためには一人の人間、特にここでは女性の存在が無視されています。離婚問答の際も、子どもとの出会いの時も、イエスは怒りました。この怒りを、私たち自身も受け取らなければいけないでしょう。


2022年10月9日 「払い切れない負い目」

聖書 マタイによる福音書18章21-35節

天文学的な数字の金を動かせる人間がいるかと思えば、その日一日の生活にも困窮している人たちがいる。イエスの怒りはここにあったと思われますが、教会は(マタイ教会や今の教会も)この話を「兄弟同士、赦し合いましょう」といった「ありがたいお話」にしていることに、それこそ私は怒りを覚えます。

コロナの事情も重なり、またそれ以前から生活が厳しい人たちは多くいます。そんな中、教会は自分たちだけの安全地帯となり、「ありがたい言葉」を聞き、「篤い信仰を保ちましょう」となっていること。私自身の生き方を含めて、イエスの怒りを受け止める必要があるでしょう。

神の前では、すべての人間が「神の下僕」であり、とうてい払い切れない負い目を持っているのに、人間同士に卑賎があるようにしていること。神は必要な時に必要なものを与え、私たちを生かしてくれているのに他者と自分とを分ける。ここにイエスの怒りはあるのです。

神に対する払い切れない一切の負い目を、私たちは神に赦してもらわなければ生きていくことはできないのです。あれもダメでした、これもダメでしたという祈りしかできない私たちなのに、神はそれでも生かしてくださる。この恵みに応えて何ができるのかを考え続ける者でありたいのです。


2022年10月2日 「二人または三人」

聖書 マタイによる福音書18章10-20節

「99匹と1匹の羊」「二人または三人」。どちらも有名な話ですが、イエスの視点がどこにあったかが明確に示されているようです。もともとの話をマタイは教会の事情に合わせて解釈しているようですが、その思いも分からないではありません。

教会の中に信仰が不安定になったり、信仰を棄てたりという人が出て来て、その人たちを「連れ戻す」(1匹の羊を探すように)ことの意義を言ったのでしょう。ただし、その「取り戻す」ことが「努力」とされ、怠るのならやがて来る終末の時に神から…、となります。

世の中は合理性で動きます。私自身も、99と1のどちらを選ぶかと問われれば、99を棄てますとは、なかなか言えないのです。でも、羊飼いの心を考えれば、どの1匹も彼にとっては個性と命を持つ大事なものです。99をいったんは放っておいても、1を探しに行くのも正しいのです。

イエスは「1だ」と言い、「二人、三人」の大切さを語っています。社会では、「1」はだいたいの場合、なんらかの意味で弱い者であり、「99」は強い者です。99のために1を犠牲にすることがまかり通っていますが、イエスのように私たちも、「1だ」「二人または三人」と叫び、そちらを選択しなければいけない時もあることを覚えたいものです。


2022年9月25日 「イエスの名による暴力」

聖書 ヤコブの手紙2章1-13節

2章に入っても、ヤコブの辛辣な言葉が続きます。著者の視点や言葉からは、教会がどのようなことに関心を持ち続けるべきか、どのようなものに視点を置いているのか、何に価値を見出しているのかといった問いが与えられているのではないかと思わされます。

キリスト者、クリスチャンなどと呼ばれながら、自らその行ないでその名前を冒瀆していると著者は言います。人を片寄り見る、金の指輪をはめて立派な服装をした人間をたたえる、汚れた服装で教会に来た人をないがしろにする。こんな露骨な区別や差別があるという報告に驚かされますが、それが「自分たちの間で疑うことをせず、悪しき考えを持った裁き手になってしまっている」というのです。つまり、教会の中では当たり前になっていたから、自分たちで疑うこともしなかった、ということでしょう。

著者はイエスの言葉を深化させ、心に刻んでいたのでしょう。マタイ5章、ルカ6章にある「幸いだ、乞食たち。天の王国は彼らのものだ」とのイエスの言葉を突き付けている気がします。

教会はイエスの強烈な生き方を継承して、被差別者の側に身を置く生き方を選択したはずですが、やがて反対に、イエスの名を使った「暴力装置」に変化していきます。私たちの生き方にも問いが与えられています。


2022年9月18日 「現実との乖離」

聖書 マタイによる福音書17章22-18章9節

福音書によると、イエスが自分に待つこれからのことを話すのが3回あったとしています。この「受難の言葉」の意味は何かを、出会うたびにいつも考えさせられるのです。イエス以後の教会が作った言葉だと思いますが、この通りではないとしてもイエス自身が語った可能性はあると思います。

「神と人と自然の命に仕える生き方」。イエスが言った言葉の意味はこれではないかと思わされています。そうすると、この言葉を具体的に生きるなら、必然的にこの世での、この社会での課題に直面することになります。イエスの生き方や最期のことを思うと、この言葉通りの生き方を目指したことを思わされます。同時に、私たちもこの生き方を選択するようにとの問いかけをいただいていることを思います。

今日のマタイの一連の記事を読む時に、イエスが生きた具体性が失われていることを感じます。それは、私たち自身に、また教会にとって大きなチャレンジとして迫ってくるようです。救いのための条件が問われたり、神の祝福にあずかるための資格のことも言われたりしている気がします。私たちが目指すべきは、「神と人と自然の命に仕える生き方」であり、それは具体性をもって向き合うべきことです。(今週は、「抵抗のジャーナリスト」と言われた桐生悠々の言葉にきっかけをいただきました)


2022年9月11日 「信と不信の間」

聖書 マタイによる福音書17章14-20節

マルコの並行個所では、イエスが「徹底的に祈れ」と言っていたことがメッセージの中心だと思われますが、マタイになると「信仰の薄い・篤い」話になっています。教会の事情があったにせよ、何事かに関わる時にそれが希望通りにならなかった場合に「信仰が薄いからだ」と断罪されるとなると、私自身はもうそこで立ち止まって進めなくなってしまいます。

福音書の物語に登場する誰に自分自身を重ね合わせて読むことができるかを考えた時には、この場面では、私は「父親」だと思っています。病で苦しむ息子を持つ父親は、心の中ではとても揺れ動いています。信頼と不信との間で揺れ動き、マルコのほうでは「もし、何かできるならやってほしい」とイエスに願っています。「どうせダメだと思うけれども」といった意味にも取れる言葉です。

少しの可能性でもあればそれにかけようという思い。一方では、「どうせダメでしょ」との心の声。人間はこのような思いを持つことが当たり前なのです。でもイエスはそれが「信頼だ」と認め、懸命に神に祈ることを勧めるのです。人間には限界があることは分かっていて、神もそう認めるでしょう。限界があり、揺れ動いても、人を生かすのがイエスが信頼した神です。救われるための条件・資格など問われていません。


2022年9月4日 「イエスの生き方を見た後に」

聖書 マタイによる福音書17章1-13節

自分がどこに立って物事を見て、どういう視点を持って生きるのか。この個所を読むたびに思わされることです。

イエスに関する聖者伝説のようなこの話をどう受け取るのか。「イエス」という歴史を生きた一人の信仰者の言葉と振る舞いを通して自分の生き方を考えることが問われている気がします。ところが一方では、宣教された「イエス・キリスト」を信じる信仰のみが正しいという受け取り方があって、この二つはあまりにも乖離していると思わされます。

かつて教会の教師がこんな話をしました。「ノンクリスチャンは道端にある肥溜めにいる人。その汚れた人たちを肥溜めから上げて、イエス様の輝くような白い衣を着せてあげる。これが私の務めです」。

聞いていてひっくり返りそうになったことを思い出します。100%あり得ませんが、この人の言うことが正しいなら、私は肥溜め上等です。イエスに輝くような白い衣を着せてもらいたくもなく、お前はこっちだ、などと言われたくもありません。喜んで肥溜めに入ります。

イエスと出会ったなら、彼の生き方から自らに問われていることを見出したいのです。彼に自分の中を新しくされなければいけないのか、イエスを通して新しく生きるとはどういうことかが問われているのです。


2022年8月21日 「サタン、私の後ろに引っ込んでいろ」

聖書 マタイによる福音書16章21-28節

8月を過ごす中で、今年も「エルサレムとは一体何だろう」と思わされています。神を礼拝する場所としての神殿を中心にして、人々の拠り所のような場所だったエルサレム。今日の記事が8月に与えられたことは、改めて重要な課題を私たちに与えていることだと思います。

イエスは神殿を「強盗の巣窟」だと言っています。強盗ですから、人の持ち物を奪い、また心を不安にさせ、命まで奪ってしまう、そんな場所になっていることを指摘したのでしょう。本来は、人間を生かす「聖なる」領域であるものが、人間を苦しめる装置・機構になっていたのです。

ペトロはイエスがエルサレム行きを伝えた時にイエスを叱責し、「行くのをやめろ」と言っています。それに対してイエスは「サタン、私の後ろに引っ込んでいろ」と応えています。先週の個所では「教会の礎」「岩」だと言われたペトロが、今度は「サタン」です。

サタンとは神の働きに抵抗する力でしょう。現代のエルサレムはいたる所にあるわけですが、そこに視点を注ぎ、心を寄せ、身体を使って関わることが、私たちには求められているということです。力があるものは魅力に感じるものですが、人間の命(魂)を大切にしない「力」は、神の働きではなく人間から出る思いです。ご一緒に、エルサレムに向かいましょう。


2022年8月14日 「何が見えますか?」

聖書 マタイによる福音書16章13-20節

弟子の無理解を見てなのか、イエスは「誰がキリストだとかメシアだとか、そんな議論をするな」と厳しい発言をしています。その心には、神を信じて生きる者としての在り方が問われていることに気づいてほしいということがあったのでしょうか。

一方で福音書記者マタイは、16節から19節においてイエスがペトロを褒めちぎる言葉を作文し、ここでの話を違う方向に持って行く「仕事」をしている気がします。これを批判するなら、「教会の基礎」「岩」と言われた人間を中心にして歩む道はどんなものなのかをイエスの視点で考えなければならないということでしょう。

さらにマタイは、並行個所のマルコにあった「一人の盲人を癒す記事」を削除しています。ここでの一連の出来事の意味に出会うために、これは重大な話です。イエスは盲人を癒した後に「何か見えますか?」と言っています。私たちは、イエスに触れてもらって一体「何を見ている」のか、その問いをいただいているのです。

キリストとは誰か。メシアとは何か。私たちはイエスをキリストだと告白していますが、この問いにどう応えるでしょうか。日常の中で私たちは、イエスを通した目で何を見ているのか、何を見ようとしているのでしょうか。


2022年8月7日 「ひまわりが咲く大地を想う」

聖書 コヘレト8章9節、マルコ15章37節

ウクライナの美しいひまわり畑、そして小麦の大地。ここにロシアからの砲弾が撃ち込まれて一面が焼け野原になっている光景がニュースで流れています。人間の心を癒し、命を育むものが、人間が撃ち込んだ砲弾によって焼かれている姿に、人間の罪の深さを思います。戦争の責任者は、自分の命が何によって支えられているのか、何によって今を生かされているのか、想像する心も力もないのでしょうか。自分の命の源である神を恣意的に使って、まるで神が大事な命と奪われていい命とを選別しているかのようにして、自分(と国)の振る舞いを正当化しているとしか思えないのです。平和聖日に、私たちはこの世界の出来事にどのように向き合うことができるでしょうか。

イエスは自分の都合に合わせて神を利用することはありませんでした。あくまで自分は神に生かされて今がある、その恵みの不思議さに応える生き方を模索したのです。どの命にも優劣はなく、神にとって必要なものといらない命などは存在しないのです。

イエスの最後の絶叫は、「この世になぜ神に敵対する力があるのかを問い続ける、そんな生き方を続けろ」というものだったと想像しています。今年の8月、特に強く思わされることです。


2022年7月31日 「現実の課題の中へ」

聖書 ヤコブの手紙1章19-27節

8月を迎える最後の日曜日にヤコブの言葉を読みました。重大な出来事が続いた8月を迎えようとしている私たちの今は、コロナやウクライナの問題など、大きな不安の中にあることを思います。

人間が人間の命を奪い、命を育む大地を冒瀆する暴挙が暴挙であると気がつくことはないのでしょうか。私には、ロシアの指導者が行なっていることを理解することはできません。コロナの課題も、病を得てしまった人たちやその家族、医療従事者などのことをどこか他人事のように片付けているような雰囲気も感じることです。私たちは、同じ命を与えられている存在がどのような状態になっても、自分のこととして捉え、自分のはらわたが痛むような連帯の思いを持つことは難しいのでしょうか。

著者は、人間には生得的「ロゴス」が与えられていると言っています。神の働きに通じる思いが与えられているということでしょう。人間には、命を生かす神の思いを実現するための心が与えられているというのです。そして、課題を「聞く」だけでなく、実践することの大事さが言われています。

神が人間に与えた「ロゴス」は、人間同士が生かし合うための源であって、裁きや分断や断罪、暴力を生むためのものではありません。たとえ小さな働きしかできないとしても、私たちなりの実践があるはずです。


2022年7月24日 「天国行きチケット売り場?」

聖書 マタイによる福音書16章1-12節

「何を議論しているのか」「まだ悟らないのか」「まだ分からないのか」。イエスのこの言葉を観客席から眺めているようにではなく、私たち自身にも向けられた問いとして受け取りたいと思うのです。

5,000人、4,000人との供食の出来事があったのに、イエスの思いが理解できない人間の姿があります。弟子たちに象徴されているこの姿は、私たちへの問いでもあります。

一つのパン、つまりイエスという存在が与えられているにもかかわらず、人はもっとほしい、多くのもの、力があるもの、数が多いものを求めて、何か安心を得るような「しるし」が欲しいのでしょうか。私たちに与えられている賜物や業が小さいものでも、それを祝福してくれるイエスを通して示されている神の思いを信頼することは難しいのでしょうか。

福音書からは問いを与えられています。イエスという生き方が与えられていることをどう受け止めるのか(単数形のパン)。人間が追い求めることへの問いかけ(複数形のパン)。では、私たちはどのようなパンを大切にしていけるのでしょうか。今を生きる私たちにとって、何を一番に心にとめていったらいいのでしょうか。

「まだ分からないのか」。イエスの声が今も響いてきます。


2022年7月17日 「神に満腹になってもらうために」

聖書 マタイによる福音書15章32-39節

まるで5,000人との供食の出来事がなかったかのように、4,000人の食事の場面で弟子たちはイエスの言葉と振る舞いが理解できなかった、との様子がうかがえます。マタイはマルコの記事を写しているだけだと思いますが、マルコの思いは、弟子たちの無理解の姿を通して教会の在り方を批判しているものだと思われます。

イエスは食事の際に「パンと魚を祝福した」のでした。人間は、こんなに多くの人数にこんな数のものが何の役に立つのかと思ってしまうものですが、数の足りない、わずかなものにイエスは注目し祝福するのです。

ここに重大な問いかけがあります。人間はつい大きいもの、多いもの、力あるものに注目して頼ってしまうものです。弟子たちにいたっては、来るべき日に「あなたの右、左においてほしい」と願う始末。つまり、ナンバー2と3にしてほしいというわけです。

人間から見れば取りに足りないものであったも、神から見れば大事なもの。私たち一人ひとりの賜物も業も、小さく弱いもの。それでもイエスはそこにこそ注目してくれて、神にとっては大事なものだからそれを用い合え、と言ってくれているような気がします。数字では量れないものを大事にし、注目すること。それを忘れる社会は、とても寂しいものです。


2022年7月10日 「イエスよ、私と娘は神に祝福されないのですか?」

聖書 マタイによる福音書15章21-31節

人は人生の中でいろいろな経験を与えられますが、自分の生き方の方向性を決定づけるような、大きな出会いを経験することもあると思います。イエスにとって今日の出来事は、そんな出会いの一つだったと思われます。彼はここで、ユダヤ人から見れば異邦人=外国人である女性と、彼女の幼い娘に出会います。娘は病を持っていたのでした。女性は自分の幼い娘を助けてほしいとイエスに願います。

ところがイエスが彼女に向けた言葉は、非常に冷たいものです。子どもたち(ユダヤ人)の食べ物を、犬ども(外国人)に与えてはいけない…。外国人、女性、病を持つ子ども。彼女たちと交わるというイエスの振る舞いは、まことにイエスらしいのですが、彼の言葉の中には明確な差別意識が存在しています。

ガリラヤの農民が育てたものを大都市テュロスが搾取している現実を批判したのはイエスらしいですが、女性の言葉はイエスに衝撃を与えるのです。「テュロスの中にも私たちのように困窮している人間はいます。あなたはそれに気づいていない」。「イエスよ、あなたは差別と抑圧にさらされている人たちを大事にして一緒に生きていますが、その中に私と私の幼い娘は入っていないのですか?」。これは、私たちと教会への問いです。


2022年7月3日 「人を穢すものは人から」

聖書 マタイによる福音書15章1-20節

大都市のエルサレムから遠く離れたガリラヤまでわざわざやって来たファリサイ派律法学者たちが言ったことは、「なんで食事の前に手を洗わないのか」というものでした。それほどまでに、田舎の大工がやっていることをつぶさなければいけないという殺意のようなものが強かったということでしょうか。「中央」からの刺客のような彼らは、なんとかイエスの言葉尻をとらえ、抹殺するための理由を探していたのでしょうか。

形骸化している律法を、人間を生かすという本来の形に戻そうとしたイエスの振る舞いは、形骸化することで権力を維持していた者の姿を丸裸にしているようです。読み込み過ぎかもしれませんが、手を洗わないという行為は、わざとのような気もします。自分たちの共同体は、人間の必要を中心にすえた生き方をするんだという、イエスの意志表示のように感じます。

神が与えた自然のものを人間が食べたからといって、それ自体が人間を穢すことはないと、イエスは主張します。人間から出る言葉や行為が自分自身も他者も穢してしまうことがある。自分(内)と他者(外=穢れたもの)とを徹底的に分けて、命を区別する。律法を、人間の都合で「殺す道具」にしている。軍配はイエスに上がっていると思いますが、私たちは観客席に座って眺めるだけでなく、私たちへの問いでもあることに気づきたいものです。


2022年6月26日 「真理は関係の中に」

聖書 ヤコブの手紙1章12-18節

人は自分だけの力で生きているわけではありません。人との関係性の中に、また自然の命との関係性の中に生かされています。自分を含めて人間はなかなかそのことに気づくことができないのですが、自分は他者との結びつきや、自然界の働きの中にその命がつながっていて、生かされていることに気づきたいものです。

ヤコブ書の著者が見ていた風景は、その関係性がいびつなものになっていたのでしょう。人よりも多くを持つ、人よりも強くなる、人より先に…、といった優劣をはかるような価値が大事にされ、その価値基準によって人間の存在もはかられていた。そこには健全な、本来の関係性は成立しないと思います。教会も、社会のこの価値観に縛られていたことに、著者の表面的にはやさしい文面の中にも厳しい批判の思いが込められている気がします。

イエスが人の生活の中に入って行って、そこにある現実を見て、さらに彼自身も教えられながら宣教したことを思い起こします。会堂や特別の場所だけに彼はいたわけではなくて、生活者の中にこそ働かれている神の意志を受け取り、伝え続けたのでしょう。人間はあくまでも人間。神に生かされていることを互いに覚え合う関係性を大事にしたいものです。


2022年6月19日 「心を澄ませて」

聖書 マタイによる福音書14章22-36節

6月23日の沖縄「慰霊の日」に近い日曜日を、私たちの教会は「沖縄を覚える日の礼拝」として一日を過ごしています。コロナの感染者数がまだまだ多い沖縄に行くことは断念しましたが、心を集中して、困難な課題の中にある人たちの思いに連なることを改めて決意する時でもあります。

誤解されやすいのですが、「慰霊の日」は終戦ではありません。ヤマトでの「昨日までは戦争、今日からは違う」といった明確な日付は沖縄にはないのです。沖縄での戦争責任者たちが自決して「組織的な抵抗が終わった」というだけで、この日以降も多くの人たちは戦いの中に置かれ、沖縄県民の犠牲者はどんどん増えていったのでした。

その後も「明らかに戦争状態が終わった」というものは沖縄にはなくて、さらに基地が造られ増強され、今また新しいものが造られようとしています。不発弾は毎日のように見つかり処理され、それはあと70年も100年も続くと言われています。米軍関係者が起こす事件・事故、凶悪犯罪は後を絶ちません。

このような現実を前にして、私たちヤマトは責任を負わず他人事にし続けてきました。今またウクライナの情勢のどさくさ紛れに軍事費を増やそうとする始末。こんな心と振る舞いの中に、神はいません。


2022年6月12日 「野菜畑のように」

聖書 マタイによる福音書14章13-21節

基地があることで人間の命を殺す側に立つことになり、戦争に加担していることになった沖縄の人たちは、ベトナム戦争の時には嘉手納基地から戦場に飛び立って行くB52爆撃機を見ながら、自分の「肝」がつぶされるような思いでいた、と話す証言者がいました。群衆を見ながら「飼い主のいない羊の群れのようだった」と感じたイエスの心に通じるようです。

生活者の中に入って行ったイエスは、食事を共にします。その光景は、「野菜畑のようだった」と聖書は証言しています。イエスを中心にして横たわっていた人たちの風景は、色とりどりの、それぞれ大きさも種類も違う野菜のように、それぞれがそのままでイエスの食卓を囲んでいたのでしょう。喜びの食卓だったと思います。ここから排除される人は誰もいなくて、みんなが神の子だとイエスは言い、招くのです。イエスの招きの本質がここにあるようです。

人間はいろんな計算をして資格や条件を問い、区別し、壁を作ってしまいますが、神はそのようなことはなさらないと、実際の振る舞いを通してイエスが示したことだと思います。

それぞれの個性・賜物が集まる野菜畑のような居場所。教会はそんな場所だと、この物語が教えてくれているようです。


2022年6月5日 「受け継ぐ決意」

聖書 マタイによる福音書14章1-12節

教会の誕生日と言われるペンテコステ(聖霊降臨日)によく取り上げられる使徒言行録の記事も、否定的な感覚で捉えられることの多い創世記11章のバベルの塔の物語も、みんながそれぞれ別の言葉で話していることが伝えられていて、それぞれの個性・賜物において神の意志を伝えることの大切さが言われているものだと思います。

バプテスマのヨハネの登場は、社会と宗教を牛耳っていた権力者たちにとっては、脅威以外のなにものでもなかったと思います。さらに彼から浸礼を受けたイエスの登場はまた看過できず、結局は2人とも当局の手によって抹殺されることになるのです。

神が人間それぞれに与えられている個性や賜物を生かし、人間同士がまた、互いに尊重し合って生きていくことを主張した彼らは、反対に人間を支配する力に殺されていくのです。教会の誕生日を覚える日、その教会に集う私たちは、果たしてどんな生き方を選択できるのでしょうか。

多様に生きることをよしとせず、ある思惑に「一致」することが言われます。イエス時代も今も。一致とは、違うもの同士が補完し合うことです。バラバラの私たちが、それぞれが持つ賜物をこの場所で分かち合って、課題に向かって思いを補完し合うこと。教会は、そんな場所です。


2022年5月29日 「ケチと気前よさ」

聖書 ヤコブの手紙1章2-11節

無責任に相手に対して「頑張れ」という言葉を使うことに抵抗感を持ってきた私は、聖書の中にこのような言葉を読むことにしんどさを覚えます(翻訳の問題をテキストから学ぶことができてホッとしています)。ずっと「頑張って」きた人に向かって、その背景をたいして知らないところから出す「頑張れ」という言葉が、どれほど空虚なものか、空虚どころかその人たちをバカにしたようなものになっていると思うのです。

ヤコブ書の著者が見ていた風景は、例えば今、食料の無料配布の列に並んでいる人たちの境遇と同じにあったと思います。社会が人間を分断するようなシステムを作り、それが「当たり前」になっていて、そしてさらに、その「当たり前」が教会の中にも入り込んでいたこと。著者の思いは厳しくそれらを批判することになっています。

社会的地位を獲得するとか、他者より多くを持とうとか、その結果、より多く、強い者が神から特別な恵みをいただける、というのではありません。著者は励ましています。神がいなくてはどうしようもない、神に必死に祈り求める。それが信仰だと。そして、その信仰から物事に向き合う力が与えられるだろうと。必死に神を求めて、課題に必死に向き合おうとするところに神はおられるのだと言っているのです。「あなた方の信仰が、忍耐を産み出すのです。そして忍耐は、完全な行為をもたらすはずです」。


2022年5月22日 「どうも、こんにちは。私が毒麦です」

聖書 マタイによる福音書13章24-58節

イエスのたとえ話のどこに、誰に、自分の姿を重ね合わせて読むことができるのかを考えた時、今日の個所では、多くの人が「僕(しもべ)たち」に見るのではないかと思います。もちろん他の意見もあるでしょう。

私自身は、そうでした。教会にとって不都合な人間を排除しましょうか、と神に進言する。そこに自分の姿を見てきたことでした。ただ、歴史を生きたイエスの姿に学ばされてきた中で、今思うことは、自分は「毒麦」なのではないかということです。自分の中に「毒麦的」なものが潜んでいることは確かで、認めなければいけないことでしょう。

マタイの教会に「善人」と「悪人」が混在していたということでしょうか。誰がそうやって判断するのか分かりませんが、教会から見た「異端」を抜き取っておかなければいけない。教会はイエスの話をそう理解したのかもしれません。

でも、もし神の視点から見たら、すべての人間が抜き取られることになると思いますが、神が「お前は毒麦だ」と判断されれば、私は毒麦でいいです。港で「良い魚」と「雑魚」が分けられるように、「お前は雑魚だ」と神に言われれば、私は雑魚でいいです。神に委ねるしかないからです。少なくとも、神になったつもりで人間を裁く立ち位置には、いたくありません。


2022年5月15日 「粉砕」

聖書 マタイによる福音書13章1-23節

茨、岩地、道端、良い地。教会は「良い地」である、と自分たちを理解したのでしょうか。そうであってほしいとは思いますが、やっぱりここには宗教的な排他主義が見え隠れしていて、「土地の状態」によって神の国に入れる、入れない、を判断することになってしまいます。

「100、60、30」という数字に「倍」とつけられていることも、私にはよく分かりませんでした。マタイでは、マルコの「30、60、100」という順番が逆になっていることからも、これらの数字がキリスト者の努力や能力の差というものにしていることも想像させます。

イエスはこのたとえにおいて、人間にはそれぞれ違った賜物が与えられていて、それらは数量化されたり、それによって裁かれたりするものではないことを言ったのではないでしょうか。人間の「常識」、あるいは教会の「常識」を粉砕します。この世の「常識」では100を目指せとか、60や30しかないから努力が足りないよ、となりますが、イエスが言った神の思いは、人はそれぞれ100、60、30の大事な個性・賜物が与えられているのだから、それを大事に、またそれぞれが尊重し合って生きることだったと思います。

もしイエスがイザヤの「頑迷預言」(あえて否定的なことを言うことで、聞いている者を鼓舞する)の意味を知っていて話したのなら、たとえ足りない生き方しかできないとしても、神は癒すよ、と言ってくれたのでしょう。


2022年5月8日 「連れ戻す?」

聖書 マタイによる福音書12章33-50節

4つの段落どれを取ってみても、偏狭な民族主義を引き継いだ教会の独善主義、優越感、さらに差別意識が露呈しているようです。読んでいて気が重くなるのは私だけでしょうか。

「私の母、私の兄弟姉妹」とイエスが語ったことにいたっては、マルコの記事では民衆を指していたのに、マタイでは「弟子たち」になっています。洗礼を受けて教会に属する者だけが、イエスによって祝福されるという趣旨でしょうか。

人間はどうしても、条件付けをしてしまって、自分と他者を分けてしまうのでしょうか。こちらは居心地のいい所にいる人、あちらは条件をクリアしないと祝福にあずかれない人…と。

信仰というものは、そんな条件付けをして人を区別してしまう自分自身の在り方に気づくことでもあると思うのですが、他者を分け、裁くことになっている自分への問いとして受け取ることが必要なのかもしれません。

イエスの身内は、彼を連れ戻すためにやってきました。「連れ戻す」は、逮捕のような強い言葉です。自分たちの思いに、彼を強引に引っ張って来ようとしたのです。自分が思っている「当たり前の価値基準」に人を「連れ戻す」。気が重くなりますが、自分自身への問いでもあるでしょう。


2022年5月1日 「神の心を破壊する者」

聖書 マタイによる福音書12章15-32節

「ベルゼブル論争」と中見出しがつけられている個所で、今ほどこのイエスの言葉が響く時はないと思わされています。というのは、やはりウクライナの出来事を思ってしまうからです。

そもそも人は、何が善で何が悪か、何が最も大切にされなければいけないのか、何が最も尊ばれなければいけないのかを知っています。そして、どんな生き方が人間としてふさわしいのかも知っています。それらが実現するように願い求めてもいます。

ところが現実には、ウクライナで起こっているような事態が出て来ます。貧困の問題もありますし、弱い人たちが暴力を受けることもあります。残酷な、残虐な行為も行なわれます。病で苦しむ人たちもたくさんいて、差別も横行し、人と人との分断も起こります。人が互いに生き生きと生きられるための理想は分かっているのに、実際は反対のことが起きるのです。

ここに、イエスの言葉が刺さってきます。自分の中にもベルゼブル的なものが存在していて、神の働き(聖霊)を破壊してしまう振る舞いに陥っていることを自覚しなければいけないと思わされています。イエスは、人間がそんな弱い存在であることも知ったうえで、神の意志を生かす道を選び取ることができるのも人間だという励ましをくれたのでしょうか。


2022年4月24日 「あなたたちの日々が良い状態であるように祈っています」

聖書 ヤコブの手紙1章1節

各月の最終日曜日にヤコブ書を取り上げて学ぶ1年にしたいと思います。今年度の教会の主題を考える聖書個所にも取り上げましたので、著者の思想を私たちへの歩みへの大事な問いとして受け取りたいと思います。

「あなたたちの日々が良い状態であるように祈っています」という書き出しで著者は文書を残しました。優しく、温かい言葉です。心からそう願っていたのでしょう。また、著者の目にはそうはなっていなかったから、教会がそうした状態になってほしいという願いもあったのでしょう。

社会に「資本主義」が現れ、生活が豊かになる一方で、弱者を生み、人間の価値がはかられるようにもなっていく時代です。この価値観が教会にも入り込んで、職制にも影響するようになったのでしょう。人間と人間の区別や差別がこういった構造の中で正当化され、弱者はますます弱くされている現実が著者の目の前にはあったのです。

生前のイエスが訴えたことはどこにいったのか。神がすべての命を創造され、対等・平等に育まれることへの視点はどこにいったのか。著者が思っていた「良い状態」を忘れてしまっている教会はどこを目指して歩んでいるのか。私たちが生きる現代にもそのままあてはまる問いです。


2022年4月17日 「『イエスという問い』を問い続ける」

聖書 マルコによる福音書15章33-47節

それにしても、何度読んでも十字架という殺害方法は、なんと残虐で残忍なものだと思わされます。このような処刑方法で殺されたイエスを、初めから予定されていた死だとか、神の御心であったとか、人間の罪の贖いのための死だったという理解は、厳しく批判されなくてはならないと思います。なにゆえこのように虐殺されたのかを問うことが大事です。

十字架は、救いの根拠ではなく、私たち人間の生き方の根拠です。イエスの言葉と振る舞いがなにゆえ抹殺されなければいけなかったのか、私たちはこの与えられている問いに向き合う必要があるでしょう。

日本という国が人間を人間とも思わない中で繰り返してきた罪の歴史。今の時代もなお続く命を軽視した国策の数々。目を世界に向けて見れば、ウクライナで起こっている残虐行為。神を信じ、イエスを信頼する私たちは、このような出来事から受ける問いに応えていく必要があります。

十字架上でイエスは「未決の叫び」を上げて絶命しました。そこには私たちへのメッセージがあります。「神がお造りになった世界に、どうして神の正義を壊していく力が存在するのかを問い続けろ」というものです。そして、「問いを放棄しない生き方をしろ」というものです。イエスからのメッセージを受け取り、小さな働きでもこの問いに向き合いたいのです。


2022年4月10日 「掟は神への応答」

聖書 マタイによる福音書12章1-14節

今回も並行個所のマルコ2章から3章にかけての記事を参照していただければと思います。イエスが話した重大な言葉がマタイでは削除されているからです。「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない」(マルコ2章27節)。

律法という掟による支配が、人間の命を生かすどころか殺す道具になっていることへのイエスの批判です。マタイは緊急の場合(「空腹」という言葉を付け加えている。さらに「羊が溝にはまる」など)は許される、という、律法については律法で応える形にしています。イエスの怒りが消えているようです。

そもそも律法・掟というものは、神に対する応答だったと思います。掟を守ったら神が恵みを与えられるということではなく、話は逆で、神が人間を生かし守られ、恵みを与えられているのだから、その神にどのように応えられるのかを模索し、具体的な生き方を示してこれを守っていこうというものが、そもそもの律法の意義だったと思うのです。それが実際には違った方向にあることにイエスは怒り、手が麻痺している人を安息日に癒したのでしょう。権力維持のために律法を人を殺す道具にしていた人間たちに、命をかけて向き合ったイエスを思う棕櫚の主日にしたいものです。


2022年4月3日 「『正義』の名のもとで」

聖書 マタイによる福音書11章20-30節

マルコ4章26-32節を引用します。「彼は彼らに言うのだった、『神の王国とはこのようなものだ。一人の人が土地に種を蒔くようなものだ。そして夜に寝て、昼に起きたりしていると、すると彼が知らないうちに種は芽を出し、伸びる。大地がおのずから実を結ぶ。最初に柔らかい茎、次に穂、次に穂の中から十分実った穀粒。そして時が許すと、すぐに鎌を入れる。収穫の用意が出来ているから』。また彼は言うのだった、『私たちは神の王国をどのようにしてたとえられるか。またはどんなたとえで表そうか。それは一粒の芥子種のようだ。大地に蒔かれた時には大地のすべての種の中で一番小さいけれども、しかし蒔かれると、成長して、あらゆる野菜よりも最も大きくなり、豊かな大きな枝を張る。したがって、その蔭の下で小鳥たちが巣をつくることが出来るようになる』」。

イエスは自然の命を生かし、育まれる神の働きを見ています。命は人間が造るのではなく、ましてや人間や自然の命を人間が支配し、奪ってはならないのです。マタイの記事には、教会が自分たちの正義を押し付け、思うままにならない人や教会を呪っている姿があります。命を与えられ生かされている私たちは、どんなに小さい働きしかできないとしても、鳥が巣をつくれるように、命を生み育む働きに参与する者でありたいのです。