2017年3月26日 「信仰の友」
聖書 マルコによる福音書6章6b-13節
月並みな言い方ですが、月日の流れは早いもので、皆さんと教会生活を始めて約1年が経ちました。昨年の今頃に沖縄を出発して各地を巡りながらこちらに来ました。
知らず知らずのうちに心と身体が疲れていたのかもしれません。そんな時に私には「信仰の友」が与えられていることを実感して、思いを分かち合えることができて、宝物を持っていることを思わされました。
おおげさな表現ですが、人間は歴史を刻む中でその時どきで決断をします。それがよかったのか違ったのか、迷うことも多いのです。昨年の出来事は、私にとっては大きな決断でした。
しかし神はちゃんと大庭に信仰の友を与えてくれていて、安心して歩めと、言ってくださったのだと思います。互いに思い合って、支え合って、励まし合えることが、神からの何よりのプレゼントだと思いました。
弟子を派遣する時に、イエスはこのことを最も大事にしろと励ましたのではないかと思います。出かけていく先では困難な事情が待ち受けていることでしょう。しかしその時に、励まし合える友がいることは支えになり、力になり、安心を与えます。
教会が最も大事にしていきたいことは、人間です。人が支え合って生かされていることをここで実感することができれば、私たちはそれぞれ派遣された現場で、イエスの思いを表すことができるのではないでしょうか。
2017年3月19日 「故郷」
聖書 マルコによる福音書6章1-6節a
イエスは郷里のナザレでの伝道に失敗しました。家族や親類などはイエスの振る舞いを見て語っています。「これらのことが、どこからこいつに来たのか。こいつに与えられた知恵は何か。その手でなされた業は何だ」(2節)。故郷に帰ってきた彼を歓迎して「驚いた」のではありません。唖然とし、茫然とし、軽蔑したような言葉が並んでいるのです。
人は、自分の思いの範疇を超えた事柄に出会った時に、驚きから拒否・侮辱に変わっていくのでしょうか。「故郷」という言葉に象徴される自分の思いが、違うものを拒否していく姿が描かれているのかもしれません。
イエスの家族はかつて「彼の気が変になっている」とのことで、捕えに来ていました(3章)。そこでイエスは自分の周りにいた人たちを指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えています。
彼の言う「神の御心」は、命を対等に生かすことだと思います。社会に張り巡らされていた命を区別する頑強な社会システムを、イエスは「神の御心」とは思えず、破壊したかったのではないかと思います。
「家族」「身内」「故郷」という言葉に象徴されることが命を対等に生かすものではないとしたら、私たちの心の中にある「故郷」も、イエスに破壊されなければなりません。私たちはその時に、イエスを拒否するのか、素直に率直に「驚く」のか。問われているのだと思います。
2017年3月12日 「命の区別」
聖書 マルコによる福音書5章21-43節
イエスの一人の人間に対する集中力が表れている個所が続きます。彼は女性たちに出会います。一人はユダヤ教会堂長ヤイロの娘、もう一人は、12年間、出血が止まらない病を持つ女性です。
ヤイロの娘が「臨終のさ中にいる」との知らせを受けてそこに向かっていたイエスは、群衆の中で自分の着物に触った人を探します。緊迫した状況の中、無視せずイエスは自分から探すのです。
女性は「おそれ、おののき、すべての真実を話した」のでした。イエスはその姿を見て「お嬢さん、あなたの信頼があなたを救った」と語りました。
12年もの間、出血が止まらない病の中を生きることは尋常ではありません。彼女はおそらくローマの性奴隷であったと推測しますが、来る日も来る日も性の道具とされ、人間的な扱いからはほど遠い存在でした。
その彼女を探し、「お嬢さん」と呼び、一人の人間・女性として向き合う彼の振る舞いは、苦しみの中にあった彼女の「病」を癒したのかもしれません。人間の温かさは彼女の心に流れ込み、苦しみから解放させる源になったのだと思います。
さらにイエスはヤイロの娘の所に向かいます。「死」を迎えた彼女に、「死んだのではない」と語ります。神は人間の前に絶対的に立ちはだかる「死」を経ても、人間との関係性を棄てないということだと思います。人間を守る神の姿を、イエスは二人の女性に証ししたのではないでしょうか。
2017年3月5日 「一人の人格」
聖書 マルコによる福音書5章1-20節
イエスは一人の「人間」に出会っていきます。社会の流れでは、数の多さや力の大きさ、量の多さなどで人間の価値観が決定されるような中で、彼は一人の人間の人格に向き合っていきます。
イエスは「悪霊に憑りつかれている人」に名前を聞きます。名はその人を表し、自分というものを確認させてくれるものです。社会からも宗教からも隔離されていた(墓場に)人は、名前など呼ばれることもなかったのではないかと思います。
自分にとって面倒なもの、関わりを持ちたくないもの、邪魔なもの。それらを「隔離」して成り立たせている自分の安泰な日常を壊されることは、誰しも避けたいと思うことだと感じます。でも、イエスはそこに目を向けるのです。
登場する「異邦の町」「墓場」「豚」。これらはすべて「穢れたもの」です。イエスはそこに入っていきます。私たちにとっての、現代の「異邦の町」「墓場」「豚」とは一体どこで、何を表すのでしょうか。
自分と違うもの、自分を守るために排除しているもの。それを関係のない場所に置いて安泰であった人間たちの日常性を、彼は根底から揺さぶるのです。私たちにも無関係なことではありません。
同じ命を隔離する私たちの日常性を根底から揺り動かす。イエスの問いかけを拒否するのではなくて、勇気をもって受け取りたいのです。
2017年2月26日 「向こう岸」
聖書 マルコによる福音書4章35-41節
風が吹き、嵐に襲われ、波が舟に入り込んでくる描写は、マルコが属している教会の現状を表しています。イエスを信頼し船出した教会は、あらゆる妨害や迫害に直面して、伝道の困難に陥っています。
マルコは一連のたとえの記事から、教会が「小さなともし火」になり、「からし種」のような小さな状態になっていることを自覚していたのだと思われます。記事を通して、現在の教会を励ましているのです。
「イエスよ、このままではあなたの群れは完全に消えてしまいます。それでもあなたはかまわないのですか」。これは、マルコの教会の叫びです。
現代を生きる私たちの人生や、マルコの教会と同じく私たちの教会の歩みが「舟」だとして、私たちもまた風や嵐や波に次々と襲われます。そしてそれは、イエスが舟の中に一緒にいてくれている時でも、私たちに襲い掛かってきます。いろいろな困難な課題、問題が私たちを包みます。
イエスはいないわけではないのです。いるけれども、困難や課題は起こります。そんな中で注目したいのは、イエスが「寝ていた」姿です。彼の神理解、信仰の姿が表れていると思います。
私たちへの問いかけとして受け取ります。「あなたがたはなぜ怖がるのか。神が共にいてくださることが分からないのか。神の支配は今ここに、あなたがたのただ中にあることが分からないのか」。困難、課題に直面した時、イエスのこの言葉を信頼することが、私たちにはできるでしょうか。
2017年2月12日 「日常の中で」
聖書 マルコによる福音書4章21-34節
排他性や独善主義に陥っている教会への批判をマルコは続けます。「一部のもの」だけが神の奥義を知っている、隠された神の真理を知っているという発想そのものを批判します。
「ともし火」や「量り」、「からし種」の話を、他人を量る(他者を裁く)在り方への警鐘としてマルコは一連の物語をここに配置したのでしょう。
一方でイエスは、この話を農夫の日常の風景を見ながら話したのではないかと想像します。農夫の何気ない日常の中に、神の働きがあることを語ったように思います。
夜寝て、昼起きていれば、大地がおのずから実を結ぶ。柔らかい茎が出て、穂になり、やがて穂の中には十分に実った穀粒ができる。実が許す時が来れば、鎌を入れ収穫する。人間はその大地の命をいただく。
イエスが語った言葉は、誰しもが理解できる日常の風景の中に働く神の業を示しています。からし種は一見、小さくて見過ごされてしまうようなものなのに、そこには神の恵みがあること。升の下や寝台の下の見逃されるような場所を照らそうとするともし火も、神は見逃さない。
小さくて、暗くて、一見何の価値もないようなものなのに、そこに神の働きがある。神の支配はすでにその「小ささ」の中に始まっているということです。私たちが気づかないような、見逃してしまうような「小さな」所で、神はすでに働いておられるのです。
2017年2月5日 「すべてのはじまり」
聖書 マルコによる福音書4章1-20節
マルコの順番が正しければ、イエスはすでに殺害計画の中に置かれ、「これぞ」と思って選んだ弟子たちには真意を理解されず、「身内」にいたっては、「気が変になっている」とのことで捕えに来ていたという現実に向き合っています。その時の心はどのようなものだったのでしょうか。
私たちと同じように、彼もまた心穏やかにいることはできずにいたのではないかと想像します。「種蒔きのたとえ」は、彼のそんな心情を表している言葉ではないかと思うのです。
聞いても聞かず、理解せず、見ても悟ろうとしない。厳しい言葉なのですが、イエスの心をも思うのです。ただ彼は、そのような思いを語りながらも、人間の弱さや限界を知ったうえで「神はそれでも赦すだろう」と語ったのだと思います。
道端、岩地、茨に象徴される場所や生き方を選んだとしても、神はそれを育て、必死に神にすがろうとする人間を赦されるだろうと発言したのだと読み込みたいと思いました。
マルコは「かの外の人たちには神の奥義は隠されている」との教会理解を批判しています。排他性や独善主義、優越性といったものに陥っている教会に、神の赦しを信じたイエスの振る舞いを通して語っているのでしょう。教会という場所は、今一度イエスの心に聞かなければなりません。
2017年1月29日 「家族」
聖書 マルコによる福音書3章31-35節
イエスの「身内」は家の外に立って、人を使って彼を呼ぼうとします。呼ぶとは、「逮捕する」との意味もある強い言葉です。
身内は群衆の中に入ることをせず、人に頼んでいます。イエスの近くに行けなかったのではなくて、行くことを拒否したのでしょう。彼が一緒にいたのは「罪人」と呼ばれる人たちだったからだと考えられます。自分たちが「法」に触れる可能性があると、拒否したのでしょうか。
記事の背後には原始キリスト教会の姿があると思います。生前のイエスの姿は「気が変になっている」から連れ戻す、という教会の思いでしょうか。閉鎖的で排他的になっている教会を、マルコが批判しているのでしょう。
これは私たちへの問いでもあります。「あなたがたはどういう思いでイエスを探しているのか」。私たちは、自分の都合のいい「身内」「枠」の中にイエスを引き戻そうとしているのかもしれません。
イエスは群衆を見回しながら、「ここにいる者こそ、神の意思を行なう者だ」と言いました。「ここにいる者」は、社会・宗教から差別された「罪人」です。その人たちこそが神の意思を行なう者だと言われるのです。
私たちの考える「常識」「枠」といったものを圧倒的に超えています。神に必死にすがって生きるしかない者が、条件・資格なしで神に受け入れられていることを示すのです。イエスがそうしたように、教会もまた、人と人を分け隔てる「枠」「壁」「身内」を崩していきたいと願うのです。
2017年1月22日 「自由の風」
聖書 マルコによる福音書3章20-30節
「サンドイッチ型」と言われるマルコの特徴が表れている記事です。前後に同じような内容の記事をおいて、中身の物語を挟み込む手法です。挟まれている物語を前後の内容を踏まえて読んでほしいとの意図がある、そんな手法だと言われています。
今日の物語では、イエスの「身内」の話を前後に配列して、「ベルゼブル論争」と言われる記事を挟み込んでいます。悪霊の頭(ベルゼブル)だから、そのような振る舞いができるのだと、イエスを揶揄する物語が挟まれています。
イエスの「身内」は、彼の「気が変になっている」とのことで、連れて帰ろうとしました。「悪霊」に憑りつかれていると考えたのでしょうか。イエスは当時の格言を用いて話しています。一つの国だろうとサタンだろうと、内部で分裂しては立ち行かなくなるだろうと。
おそらくマルコの時代の教会とユダヤ教との衝突が背景にあるのだと思われますが、イエスが語った言葉は印象的です。
イエスは神の意思を行なっているのだと確信しています。その働きは「身内」という枠を突破していくものであったと思います。人間の自由を脅かす枠や壁が「身内」という姿で描かれているのかもしれません。その枠や壁を突破していく神の自由の霊(聖霊)を冒涜する者は決して赦されないと、彼は語ったのではないでしょうか。
2017年1月15日 「不信仰」
聖書 マルコによる福音書3章7-19節
「ファリサイ派の人々はヘロデ派と共に、どうやってイエスを殺害するか謀議を企てた」(3章6節)。マルコによると、イエスは活動の初期段階からすでに命を狙われていたことになります。彼はそのことをどのように感じていたのでしょうか。
7節に「イエスは湖に逃げ去った」とあります。命を狙われていることから逃げたのでしょうか。一人静かに祈りたかったからでしょうか。その場を立ち去るのです。
「逃げる」ことは一見、消極的なようにも感じますが、イエスの知恵でもあったと思います。深い思いから来る行動だったとも感じます。
イエスが「これぞ」と思って招いた弟子たちはすべて、彼を棄てました。十字架の場面を目撃したのは女性たちでした。その時のイエスの思いを想像するのですが、逃げ去った弟子たちに「それでいい」と思っていたのかもしれません。「命を守るために逃げろ」と。
「これぞ」と思って選んで召命した弟子たちもすべて彼を棄て、周りに群がっていた人たちも彼から離れていきます。イエスの「これぞ」という思いが間違っていたのでしょうか。
私たちも同じように、彼を棄てて逃げるような振る舞いしかできないのかもしれません。でも、それでも「これぞ」と思って私たちを招いてくれていることを信じたいのです。希望はここにあるのだと思います。
2017年1月8日 「放置国家」
聖書 マルコによる福音書2章23-3章6節
「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」。この言葉を、沖縄に住む時ほど痛感したことはありません。「法」が人間を苦しめ、「法」によって生活が脅かされている現場です。
人間の命に視点と生き方を置こうとしない在り方に、イエスは目を向けていきます。聖書を引用して(ダビデの物語。サムエル記上21章1-7節)、聖書が律法に例外があることを示すのです。それは、人間が必要としているものが与えられることに対して、聖書は拒否していない、神は拒否していないという思いです。
2つ目の段落では、「片手が麻痺した人」を癒す記事が置かれています。奇跡物語に分類されるものですが、安息日問答を含んでいます。
イエスは彼に「立て、真ん中へ」と言います。イエスを陥れるためにその振る舞いをじっと見ていた人間たちに、怒りを持ってそのように語るのです。手が麻痺した人よりも、邪魔者を陥れることに向いている心。手が麻痺した人の存在よりも、「法」というものを重視する在り方。その姿にイエスは心底怒って発言したのだと思います。
「立て、真ん中へ」。「礼拝の中心に立て」ということだと思います。安息日礼拝の「幻想的平和」の姿が粉砕された瞬間です。「礼拝の中心」にあるべきものを見ない。私たちの時代の教会への問いでもあります。
2017年1月1日 「新酒」
聖書 マルコによる福音書2章18-22節
印象深いイエスの言葉が並んでいます。ここで問題になっているのは「断食」についてですが、彼は別に断食とか「古いもの」を必要ないものだと言っているのではないと思います。
彼の目には、そういった規則なり規律が形骸化していたから、今日のような言葉を語ったのだと思うのです。そもそも規則や規律は、人を生かすためのものであるのにそうではなく、本来の意味が失われて特定の人間たちの思惑の道具にされていた、そんな状態を批判したのでしょう。
そもそも断食は、神に1年の歩みを感謝し、さらに新しく迎える日々が守られるようにとの「祈り」の時です。そして「婚礼」も、新しい人生を歩むことになった感謝の告白と、支えがあるようにとの祈りの場でもあります。心が神に向いているのか、という思いをこういう例を出して語ったのだと想像します。
さらにイエスの「新しいぶどう酒」という言葉にも注目させられるのです。新しい酒は「発酵中」です。人間は「発酵中」だということも言ってくれたような気がします。完成された人間などいなくて、今も人生の途上を生かされている者として自覚する必要があることを教えてくれたのだと感じています。そんな者が他者を裁き、区別・差別する在り方を、厳しく批判したのではないでしょうか。
2016年12月25日 「最初のクリスマス」
聖書 ルカによる福音書2章1-21節
2000年前にイエスはアジアの片隅に生まれました。その誕生は、私たちと同じようにひっそりと、そして新しい誕生に立ち会った人たちに祝福される中での出来事だったのだと思います。王の誕生のようなきらびやかなものではなく、豪華絢爛な王宮に生まれたのでもなく、私たちと同じような生活の場に誕生したのでした。
ルカでは、イエスの誕生は羊飼いたちに最初に伝えられたとなっています。ここには、のちに成長した彼がどのような生き方をしたのかが示されていると思います。羊飼いに代表されるような「底辺」で暮らさざるを得ない存在に目を向けて生きていった、彼の生涯を象徴しています。
そして彼が誕生した時代は、戦争の世の中です。ローマに対する大規模な反乱戦争も起きています。イエスの故郷、ナザレにも戦火は及んだのではないかと思われます。彼はそんな時代の中で誕生し、生涯を送るのです。
彼が見たものは私たちの生きる今にも存在します。人と人が命を奪い合う紛争や戦争、それが原因となって生まれる飢餓や難民。今と同じような現実の中、イエスはそんな状態を生み出しているモノに目を向け心を向け、その現場に身を投じていったのです。
彼の誕生を覚えるクリスマスは、何よりも命の大切さを改めて考える時だと思います。すべての命が大切にされることが実感できて、心から「クリスマスおめでとう」と言える日はいつでしょうか
2016年12月18日 「無条件の招き」
聖書 マルコによる福音書2章13-17節
徴税請負人であるレビをイエスが招く場面です。この記事は、イエスの招きの本質が表れています。レビを招くために何かの条件・資格が問われることはありませんでした。イエスはただ一言、「ついて来い」と言っただけです。レビはその言葉に導かれて、イエスの後に従う者となりました。
イエスはレビを招いた後、たくさんの「徴税請負人や罪人」たちと一緒に食事をしました。解放的で包含的な食卓だったと思います。そしてレビにとっては、新しい人生を歩み出す宴となったでしょう。
「罪人」とされ、孤独で、嫌われ者だったレビは、この時どんな気持ちでいたでしょうか。声をかけられることもなく、食事も孤独で寂しいものだったと思うのです。それが、イエスを囲む喜びの食事になりました。
そしてその食事は、ファリサイ派律法学者たちにとってはただの律法違反としか映りません。「なぜこんなことをするのか」と、イエス本人にではなく弟子たちに問いただしています。
イエスは当たり前の応えをします。「達者な者には医者はいらない。いるのは病人だ。自分が来たのは正しい人を招くためではない」と。「正しい人」とは、皮肉を込めてファリサイ派律法学者たちに向けて言った言葉でしょう。
教会はイエスの招きの本質を受け継いでいく場だと思います。それとも、条件をつけて人を排除する集まりであろうとするのでしょうか。
2016年12月11日 「生かされていること」
聖書 マルコによる福音書2章1-12節
福音書の物語を読む際に、登場人物の誰に自分の姿を重ねることができるのかを意識することが大切だと思います。今日の場面では誰に自分自身の姿を見ることができるでしょうか。
病を持つ人でしょうか、この人を連れてきた4人でしょうか。また、取り巻いていた群衆でしょうか、それとも律法学者でしょうか。
人は誰しも「助けてあげよう、してあげよう」という思いを持っていると思います。この場面では病を持つ人をイエスのもとに「運んであげよう」と、屋根を剥いで穴を開けてまで連れて行った人たちです。
私自身もこのような職業に就いている者ですから、人を「助けてあげよう、運んであげよう」という意識で、願いとしてはこの4人のようになりたい、ですからここに自分の姿を見ようとします。
でも考えてみると、自分は「運ぼう」としているのだけれども、実はイエスのもとに「運ばれている」のではないかと思います。しんどい思いも経験します。つらい、厳しい出来事に出会うこともあります。そんな時、いつの間にかイエスのもとに運ばれていたんだと思わされる時があります。
人は人に助けられ、祈られ、支えられて生かされているということに気付かせてくれる記事かもしれません。人がそのように思い合って、祈り合って、支え合い仕え合う姿に、イエスは「信頼を見た」と言ってくれたのかもしれません。
2016年12月4日 「格闘」
聖書 マルコによる福音書1章29-45節
シモンのしゅうとめが熱を出してふせっている場面、イエスの宣教の宣言、祈る場面、そして「らい病」患者を癒す記事です。
前回の記事にはイエスの振る舞いを見て人々は皆「驚いた」とありました。イエスの言葉と振る舞いは「常識」と思われていた価値観を転倒させ、信仰の在り方で人と人とを分断させるものから解放させるものでした。「今まで出会ったことのない教えだ」と人々は「驚いた」のでした。
しかし、イエス自身が考えていた真意と神理解を、イエスの側近たちも群がっていた民衆たちも最後まで自分の神理解として受け取れなかったのではないかと思います。弟子たちや民衆の「無理解」の姿は、福音書のあちこちで描かれています。
「しるし・奇跡」を見てイエスを見ない。「しるし・奇跡」を見て人を見ない。そんな姿かもしれません。「奇跡」を行なうイエスには群がりますが、十字架で殺害されるイエスからは女性たちを除いて皆、逃げました。
そんな思いをすでに見抜いていたのか、イエスは「誰にも言うな」と沈黙命令をしています。真意が伝わらず、心乱れていたのかもしれません。彼は、一人さびしい所に行って神に祈ったとあります。自分の生き方・在り方を神に問う、闘いの祈りだったと想像します。
「人」を見ること。「命」を見ること。私たちに欠けているものも、そういう在り方なのかもしれません。
2016年11月20日 「解放」
聖書 マルコによる福音書1章21-28節
数人の弟子を獲得した後、イエスはカファルナウムに行ったと書かれています。彼はガリラヤ地方の小さな町を選び、宣教を開始しました。そして、カファルナウムとはイエスの宣教の本拠地となりました。
「中央」「権力」「宗教・政治の中枢」であるエルサレムではなく、人間が生活している現場・生活者の声が聞こえる場所がイエスの活動の拠点になりました。彼はこの場所からの視点を学ぶことを選んだのでしょう。
イエスは、「常識」だとされていた従来の価値観や視点を転倒させていきます。具体的には、政治・宗教を支配していたユダヤ教支配者層との対決です。人間が神となって人を裁き、同じ価値ある命に優劣がつけられ、神に祝福される者とされない者との区別・差別を造り出すことが宗教によって正当化されている現実を厳しく批判していくのです。
穢れた霊にとりつかれた男が登場する場面ですが、霊が「我々」と言っているように複数の罪を犯した者とされていた人だと思います。人間の「罪」はカウント可能だったのです。
イエスはただ「黙れ、この人から出て行け」と言うのです。目の前にある事実をありのままに見ることから出る確信を持った言葉だと思います。事実をあるがままに見た時に、「黙れ、出て行け」という言葉を発するしかなかったのでしょう。これ以外には、男性への真実の言葉はあり得なかったのです。イエスの「権威」は、人間を神の方向へ解放する力です。
2016年11月13日 「船出」
聖書 マルコ1章16-20節
ルカ福音書の並行個所(5章1-11節)と一緒に学びます。マルコ、ルカ共に、この記事から「イエスに従う者の生き方そのものがどのように示されているか」を読み取りたいのです。
ルカ版のほうではいわゆる「奇跡物語」が挿入されています。漁のプロであるペトロたちが夜通し漁をしても取れなかった魚が、イエスが「網を打て」と命じると2艘の舟いっぱいに取れた、というのです。
漁に適した夜に取れず、昼間に魚があがる訳はない。漁師としての「常識」です。その「常識」を破っていくイエスの姿には何が語られているのでしょうか。私たちにも破られるべき「常識」があるということでしょうか。
ここにあるのは、「裁きではなく福音」、「赦し」、そして「不義だと告白する者と忍耐強く共に在ろうとする神の姿」です。「人間のための漁師」とは本来、裁きの際に使われる表現であったと言われますが、ここには裁きはなく、ただ福音があるだけです。そして、人をあるがまま受け入れ包み込む「赦し」の姿があります。さらに、ペトロ自身が告白しているのですが、「不義な者と共にいようとされるのが神の本質」だという思いがあります。私たちの心にある「常識」に問いかけが迫るでしょうか。
救いとは何か、神の恵みとは何か、教会とは何かを考える時に、まず私たちは神に赦され、恵みに包まれていることに気付く者でありたいと願います。そこにイエスを信じる共同体の礎があると思うからです。
2016年11月6日 「新しい生の希望」
聖書 列王記上19章1-18節
イスラエルの預言者エリヤは、アハブ王の妻イゼベルに命を狙われることになります。バアル神を崇拝する信奉者たちと闘い滅ぼしたからです。エリヤにとってみればバアルは異教の神であって、民が崇拝することを断じて認めることができなかったのです。そしてそれが神の御心だと信じたゆえの行ないでした。
荒野の地に逃亡したエリヤは疲労と恐怖からでしょうか、神に願いを告白します。「主よ、もう十分です。私の命を取ってください」(4節)。「自分」として生きること、「エリヤ」として生きることをやめ、命を取ってほしいと願うのです。
しかし神はエリヤに対して「起きて食べよ」と2度も語りかけ、食べ物と水を与えるのです。そして彼が再び立ち上ると、またしても2度「エリヤよ、ここで何をしているのか」と語りかけるのです。
人が神から離れようとしても神は語りかけ、大事な自分というものを見失い、拒否しようとしても神は「食べよ」とその人の命を祝福されるのです。
さらにその神は、人間が求めたがるようないかにも力強いものや大きなもの(強い風や地震、火)とは異なる所で、かすかなささやきのように小さい在り方、人間がよく耳を澄ませて心を研ぎ澄ませていないと見逃し聞き逃してしまうような在り方で人間に語りかけ関わっておられるのです。
小さな、弱い私たちの働きの中にも、神の語りかけは必ずあるのです。
2016年10月30日 「神の支配」
聖書 マルコ1章12-15節
通常は理不尽なこと、不条理なことが起こっていることを目撃しても、自分との「距離」をそのままにしておくことが多いのではないかと、自分の振る舞いを含めて思わされていますが、イエスはその「距離」を縮める決意をしたのでしょう。
ヨルダン川に殺到してきた人たちの姿を見て、「罪人」とする側に自分も立っている、原因を造り出している側に自分がいることを思ったのではないでしょうか。自分はどう生きていくのか、考え決意したのでしょう。
12節に「霊は彼を荒野に放り出した」とあります。人の温もりとかあたたかみとか、人と人との助け合いが存在しない、存在しないようにされている場所(荒野)にイエスは「放り出された」のです。ヨハネから洗礼を受けた後、すぐに彼は闘いの現場に身を投じたのでした。
そしてサタン(神から人を離そうとする力)から「試みられ続ける」のです。1回限りの「試み」で終わりではなく、彼はサタンという力から「試みられ続ける」人生を送るのです。
私たちの人生、生活でも荒野という現場はたくさんあります。荒野という出来事もあります。それは、持続的に私たちの前に表れてきます。でもそこに、確かに神の働きがあることを信じて、イエスは向き合って行ったのではないかと思います。困難の中に必ず神が働いておられること。一緒にその恵みを実感しようという、彼の言葉だったと感じています。
2016年10月23日 「下にのぼる」
聖書 マルコ1章9-11節
イエスが洗礼を受けたことが都合が悪かったのか、福音書記者たちはいろいろと「作業」をしています。ヨハネをイエスの下の位置に持って行こうとしたり、イエスが洗礼を受けるのをヨハネが止めるような記事にもしています。また、ヨハネ自体を削除している福音書もあります。でも、そうすればするほど、真実は明らかになっていきます。
私たちにとっては、従来のキリスト教があまりにもイエスの神性を強調するあまり無視しがちだったこの個所でのイエス自身の思いとか、当時の生活者の姿を見ることが重要なことではないかと思うのです。
もともと肥沃な土地であったガリラヤ地方の農民や漁師たちの生活は、極貧であったと言われます。それは、その土地を支配する人間たちに富が集中するシステムだったからです。原因の多くは重税で、生活者は生活すればするほど貧しくなり、借金にはしり、土地は取り上げられ小作人となり、やがて農奴となります。人口の5パーセントほどの富裕層(エルサレムの宗教支配者も含む)が生産高を収奪していたのです。
イエスはおそらく、生活者と自分との距離を縮めようとしたのだと思います。それが洗礼のきっかけだと私は思います。自分もガリラヤの生活者を苦しめる側に身を置いていることを「負い目」として、ヨハネのもとに行って思いを告白したのではないかと思います。イエスの姿から、私たち自身の立ち位置、命を蔑ろにされている人たちとの距離を思うのです。
2016年10月16日 「価値基準」
聖書 マルコによる福音書1章1-8節
福音(エウアンゲリオン)という言葉は「勝利」をも意味する言葉です。多くはローマ皇帝の誕生、即位、そして軍事的・政治的勝利の際に用いられる言葉でした。アウグストゥス(在前27~後14年)の碑文やウェスパシアヌス(在69~79年)に関する報告(ヨセフス『ユダヤ戦記』Ⅳ618、656)に出てきます。この2人の誕生や即位が「福音」と語られ、また天の摂理が遣わした「救い主」とされています。
2人の皇帝は、激しい権力闘争に勝って実権を握った人物です。そのことで世界に平和をもたらしたということが称揚されています。
その中で福音書記者マルコは、イエスこそが「福音」、彼そのもの、彼自体が「福音」であると語るのです。世界では武力や権威、権力をもって支配することが「福音」であるのに、まったく逆にその力によって抹殺、虐殺されたものが「福音」であるというのです。
マルコは自分が属する共同体に対して、権力や権威、暴力の応酬で獲得したものが「福音」ではないということを伝えたのだと思います。おそらく彼の共同体が激しい迫害の中を生きていたからです。歴史を生きたイエスもまた厳しい現実の中で生きたことを示して、困難な今を乗り越えて行く力を同胞に送りたかったのでしょう。
現代の教会もまた、「福音」の意味をどのように捉えているのか、その在り方、生き方において問われていることだと思います。
2016年10月9日 「人が神にならないために」
聖書 マルコ福音書16章1-8節
マルコはイエスの復活顕現物語を書かずに福音書執筆を終えました。その理由は想像するしかないのですが、イエスの復活というものは人間が思うような美しい物語として描けるものではないと思ったのかもしれません。自分の物差しでははかれないような神の思いがあって、そのことを尊重するから彼はあえて書かずに読者に問いを残すような形で終えたのではないかと想像するのです。
マルコは「ガリラヤに行ってイエスに新しく出会うこと」を、「復活」の意味として捉えていたように感じます。イエスの信仰や彼が生き生きと振る舞った真実は、ガリラヤに行かないと見えないということだったと思います。しかし教会は、エルサレムに活動の拠点を置いたのでした。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行っている。そこで会える」(7節)の言葉は、「現代の弟子たちとペトロ」に語っているように思うのです。
「エルサレム」という力に抹殺されたイエスが、生前最も多くの時間を過ごして、大事な経験をしたガリラヤでどんな振る舞いをして何を語ったのか、そのことにもう一度出会ってほしいということがマルコの願いだったのだと思います。
「現代のエルサレム」の姿を私たちは知っています。マルコと一緒に、イエスが生きたガリラヤへの旅に出発しましょう。
2016年10月2日 「命を生かす共同体」
聖書 マタイ福音書18章10-20節
どんな場面でどういう状況の中でイエスが語ったのかははっきりしませんが、イエスらしいと言えば彼らしい発言だと思います。99匹を残しても1匹を探し出す。「迷い出た羊のたとえ」は、聖書の中でも有名な物語の一つです。
2つ目の段落「兄弟の忠告」(15-20節)を羊のたとえの後に置くことで、マタイも後の教会も、羊のたとえは「教会運営」の話として読ませたかったのだと想像します。「罪を犯した者」(教会の主張と異なる振る舞い)を教会の規律に立ち返る(悔い改める)ように説得し、もし聞かなければ断絶せよ、という解釈だと思います。
そうしなければならない事情があったのだと思いますから否定は避けますが、イエスは何を語ったのでしょうか。羊飼いが神として読むなら、羊飼いが99も1も同じ命として大事にすることと同じで、神もご自分がお造りになった命に99も1もなく、すべてが同じ価値を持つ大事なものとして守り支えてくださるだろうという、単純明快な話だと思います。
マタイや後の教会がこの話を「教会運営」のこととして捉えたことで、かえって命の尊さを示すこの話から「教会とは何か」を考えるきっかけを与えてもらっていると受け取ることができるかもしれません。
教会とはどういう集まりでしょうか。どういう性格の集まりを私たちは目指していけるでしょうか。(宣教師ギュツラフの訳「よりあいやど」に注)
2016年9月25日 「あなたがたに平和があるように」
聖書 ヨハネ20章19-29節
この短い段落の中で特徴的なことは、イエスが3回も「あなたがたに平和があるように」と語っていることです。ヨハネ共同体は物語を通してどのようなメッセージを示してくれているのでしょうか。
1度目は19節、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて自分たちの家の戸に鍵をかけていた時のことです。歴史的な背景を踏まえつつ、象徴として語られている事柄を考える時、「他者と自分を遮断すること」と、捉えることができると思います。自らの主義・主張に凝り固まって他者との対話や関係性を否定し、思いを絶対化して強要するところからは健全な歩みができないのではないでしょうか。
2度目は理解が難しいと思える言葉を伴っています。しかし私たちが何か特別の権威を与えられていると取るのではなく、「物事の真実を見極める心を養え」ということだと思います。「赦せること」「赦せないこと」を見極める目と心。真実の和解と偽りの和解とを見る感性。それを養えと言われているように感じます。
3度目は神による無条件の祝福の約束です。トマスが「信じる」と言う前にイエスは彼のもとに現れています。「信じる」という条件をクリアしなくても、最初からイエスは彼のもとに一緒にいるのです。条件や資格を問うことで物事を判断したり人を諮ったりする思いから、私たちも解放されたいのです。この3点から、イエスが言う「平和」を考えてみたいのです。
2016年9月18日 「視点の転換」
聖書 創世記4章25-26節
「数の多さ」「力」というものに最も価値観があり、最も優先されるべきものだということが、いわゆる「地方」に身を置いてみた時に強く感じられたことでした。いわゆる「中央」が「地方」に価値観を押し付けてくる。それが生活者の思いとかけ離れているものだとしても、「正当な」「唯一のもの」として強要されていく現実があります。
確かに数が多ければ、強い力があれば安心することもありますが、それらを獲得することだけが目的になってしまう時には大切なことを見失っているのではないかと思わされています。
歴史を生きたイエスは、同じガリラヤで生きる民衆の姿を見ていたのだと思います。決して楽ではなく厳しい現実を生きざるを得ない生活者の姿を見て、何がこのような現実を生み出しているのかを見つめたのだと思います。厳しい現実に生きる人たちと自分との間にある距離をそのままにせず、弱さとか儚さとか小ささの中にこそ神の働きがあることを信じて一緒に生きようとされたのだと思います。
「エノーシュ」(創世記4章26節)。弱さ、儚さ、もろさを持つ「人間」を表す言葉です。この「エノーシュ」に呼び求められるのがヤハウェという神であり、そのヤハウェは「エノーシュ」である人間と共にあろうとする神です。教会という集まりがどんな性格のものを目指すのか、何を最も大切にしていく集まりなのかを考える問いかけがここにあります。
2016年9月11日 「賜物」
聖書 マタイ25章14-30節
旅に出る主人(十字架で死んだイエスが離れる)が人々に「タラントン」を預けて旅に出ます。そして帰ってきた時(復活)、人間の振る舞いを精算します。5タラントン預けた者は倍にし、2タラントンの者も倍、1タラントンの者はそのまま。主人は倍にした者たちを褒め、そのままにしておいた人間には罰を下し、没収。この「役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(教会の外に放り出せ)。
教会の説教としてはこれで納得するのかもしれませんが、イエスの意図としてこの解釈を受け取ることは難しいと感じるのです。私自身が思わされたことは、「富める者がますます富んで、貧しい者がますます貧しくなる」という資本主義社会のシステムが出来上がりつつあった当時の社会の姿と人間の在り方を、ただイエスが批判した記事だと想像するのですが、許されるでしょうか。
もしこの記事が、神が与えた賜物(タレント)のことを言っているのなら、倍にすることよりも、与えられた賜物を大事に守っていく(1タラントンをそのままにしていた)人のことが気にかかるのです。
神が与えた大事な個性・賜物を私たちはそれぞれが持っています。課題や困難にぶつかった時に、その与えられた自分という個性・賜物を見失わないで向き合って行くこと。何も自分を何倍にも見せるように虚勢を張らなくてもいいと思います。自分は自分として神に愛されているのですから。
2016年9月4日 「誰も裁かない」
聖書 ヨハネ7章53-8章11節
ヨハネ福音書が成立したと言われる2世紀前半から後の4世紀頃になってこの記事は福音書に挿入されたと言われています。背景にはキリスト教の迫害の歴史があったことが指摘されています。
迫害時代に棄教した人を教会に再び迎え入れるのかそうでないのか、議論の中でこの物語が聖書的根拠として取り扱われたというのです。つまり、罪を悔い改めることで再び信仰を持つことを許される、との根拠です。
しかしながら、この物語において「悔い改め」を主題として読むことが可能かどうか、考えさせられます。イエスは「姦淫」の現場で取り押さえられて連れて来られた女性に対して「私は裁かない」と言っています。物語の本質は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
登場人物の誰に自分の姿を投影させることができるのかがカギだと思います。イエスを陥れるために女性を道具として用いる人間に自分を見るのか、または聴衆の中か、そして女性の中に自分を見るのか。
私自身は人を裁く側の人間に自分の姿を見ます。そしてそこから抜け出したいと願っていますが、実は女性の中に自分の姿を見ることに促されているようにも感じます。神の前では不十分な者で裁かれてしまう自分なのに、イエスは「裁かない」と言うのです。限界を持つ不十分な者であることを自覚して、そして女性のように「イエスの元から離れない、留まり続ける者」として生きることが私たちに求められていることだと感じます。
2016年8月21日 「鹿児島の海」
聖書 創世記2章15-18節
創世記2章の創造物語において、著者ないしそのグループは、人間が造られた目的と、神に与えられた責任とを記しています。神は人間に「大地に仕え、守る」責任を与えられていることを書き記しています。
人間が人間を支配することでどういうことが起こっているのか、起こってきたのかを著者は訴えています。人間が神となり、人を支配することで起きる戦争・紛争・内紛によって多くの命が奪われ、自然の命が破壊されたことでしょう。それは今もなお続いていることです。
神は人間の命を祝福し、大事に育まれているのに、人間はその思いを悟ろうとはしない。創造物語の著者は、「命を祝福する神との関係を切ってはいけない」という思いでこの記事を書いたのだと思います。そして「命を奪い合うような生き方から決別せよ」との願いです。
沖縄の命、福島の命は為政者の命とは何か別のものなのでしょうか。誰かに勝手に左右されるような、何か別の、劣ったものというようなものなのでしょうか。命に優劣も上下も、そんな区別はありません。
神が人間を造った目的は「大地に仕え、守る」という信仰者の証言を聞く者でありたいと思います。自分の命が沖縄・福島の命と同じものだと思えるなら、新基地建設や原発再稼働などの思いは出てこないはずです。
「自分の命と他者の命の尊さとの関連を、想像力を働かせて知覚すること」(『罪なき者の血を流すなかれ-ル・シャンボン村の出来事』新地書房)
2016年8月14日 「不十分だからこそ」
聖書 マタイ10章5-15節
イエスが、弟子たちや周りにいた人たちを神の宣教の働きに派遣する場面です。彼は一緒に生きる人間たちを招く時に「私について来い」と呼びかけました。人を招く時も、そして今日の派遣の場面でも、招かれる側・派遣される側の準備は十分であったかというと、そうではなかったのです。
むしろ不十分なままで弟子たちをはじめとする人間たちは招かれ、そして神の働きに派遣されるのです。「これで準備万端整った、さあ、出かけて行こう」という状況とはほど遠い状態だったと思います。
そのような中、イエスは旅に出発する際に厳しい命令をしています。「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない…金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない」(9-10節)。
金も、寒さをしのぐ物も、猛禽類から身を守る武器も持っていくなという命令です。厳しいものだと思いますが、そう言いながら彼は「二人一組で行け」(並行記事マルコ6章)と命令するのです。困難な旅路に金や武器ではなく、「人間を持って行け」というのです。
人間には限界があります。時には愚痴もこぼしたくなります。疲れた時、厳しい現実を前にした時に、寄り添い合える友がいることはどんなに心強いことでしょう。不十分だからこそ、人と人とのつながりが人間には必要なのです。そのことを自覚して、他者と神の恵みを分かち合って来いという、イエスの深い配慮が語られているのだと思います。
2016年8月7日 「イエスが見える場所」
聖書 マルコによる福音書16章1-8節
「福音書」という文学ジャンルの作品を世界で初めて書いたマルコですが、その最後はなんとも唐突な形で終えています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。
マルコはいわゆるイエスの復活顕現物語を書かずに、福音書執筆を終えました。マルコにとって「復活」とは、「新しくイエスに出会う」ということだと思うのです。ガリラヤという場所で生前のイエスが何をして、誰と一緒に生きたのか。そのことに改めて出会ってほしいという願いが、この執筆の終わり方にあったのではないかと思います。
マルコはさらに「あの方は先にガリラヤに行っている」「そこで会えるだろう」と書いています。「ガリラヤ」とは、私たちにとってどこで、何を示しているのでしょうか。イエスがいる場所、彼を経験できる場所、事柄。わたしたちにとってそれはどこで、何を指しているでしょうか。
イエスは「よみがえらされた」「起こされた」とマルコは書きます。受け身(神がイエスを復活させた)ということは、神がイエスの振る舞いを肯定したことを示すと思います。同時にイエスを殺害したもの、イエスに死をもたらしたものを神が拒否したと読み込むこともできるでしょう。
彼を拒否し命を奪ったモノは、今を生きる私たちの世界・社会にもあふれています。そこに視点を注ぐことが「ガリラヤ」かもしれません。
2016年7月31日 「見せかけの平和」
聖書 ルカ12章49-53節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」「平和ではなく、分裂、剣」とのイエスの言葉は、聞く人にとっては少しとまどいを覚えさせるように思います。
しかしイエスが見ていた「この世の平和」が、神の視点に立った「平和」の姿ではなかったから、彼がこのような発言をしたのだと感じます。イエスにとって現在は、「見せかけの平和」の状態だったのです。
新約聖書の平和(エイレーネー)も、ユダヤ教聖書の平和(シャーローム)も、神との関係を抜きに考えることはできません。神と人、人と人、そして人と自然との関係において神の視点に立つことが「平和」への道筋なのだというイエスの思いを汲み取りたいのです。
「神との関係性における平和」。それはどのような命をも祝福され生かされる神の思いに従うことで見えてくる状態だと思います。私たち人間の在り方が、自己の平和・正義のために他者を区別したり、差別を助長したりしているものならば、それはイエスに破壊されるのでしょう。その「平和」は火に投じられ、分裂させられることとなるでしょう。
私たちにとっての平和が、他者を弱くしたり小さくしたりする中で成り立っているものなら、イエスに「否」とされるでしょう。原発からも沖縄からも、社会の事柄すべてから、私たちの思いの是非が問われています。
2016年7月24日 「驚くイエス」
聖書 マタイ8章5-13節
ローマの軍人である百人隊長がイエスに自分の部下の病気を治してほしいと願う場面です。支配者側のローマですから、イエスを無理やりに引っ張って行って、病を癒せと命令することもできたはずですが、彼はイエスに直接会いに来て(ルカ版ではユダヤ人を派遣する)願っています。
まず、その姿にイエスは「驚いた」のです。「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)と訳されていますが、ニュアンスとしては「わたしが行って治せとでもいうのか?」という驚きの言葉です。そして10節では、百人隊長が権力ある者としての発言をした後にイエスが「感心し」となっていますが、ここでもイエスは「驚いている」のです。
権力を持つ百人隊長は、権力者が何をするかを知っています。ですから、自分の家にイエスを招いて病を癒してもらうということが、イエスにどういう結果をもたらすのか、ユダヤの権力者たちがイエスに何をするのかを知っていて、警告しているのです。「あなたを家に迎えたら、ユダヤの権力者たちはあなたを許さないだろう。だから、せめて祈ってくれ」といったことが百人隊長の姿だったと思います。
イエスは心底驚いて「イスラエルでも見たことがない」と言ったと想像します。驚き、耕され、変えられていった彼は、私たちにも出会ってくれて、「あなたの願い通りになるように」と祈ってくれるでしょう。
2016年7月17日 「みんなちがってみんないい」
聖書 ガラテヤ2章1-14節
「私が両手をひろげても/お空はちっとも飛べないが/飛べる小鳥は私のように/地面を速くは走れない/私がからだをゆすっても/きれいな音は出ないけど/あの鳴る鈴は私のように/たくさんの唄は知らないよ/鈴と、小鳥と、それから私/みんなちがってみんないい」(金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」)
ガラテヤ地方の諸教会にパウロの「反対者」たちが現れ、自分たちの意見に従わせることで教会運営をするように強制していた事実が語られています。パウロはこの問題に決着をつけるためにエルサレムで行なわれた教会会議に「異邦人」テトスを連れて参加したのでした。
割礼や律法遵守を伴わない福音宣教が、いかに実りを生み出しているかを実証するためだったと思います。偏狭な民族主義や自己絶対化の姿勢を批判し克服していくことが、彼にとっての福音宣教の中核でした。
ここのところしばらく、教団において「一致」という言葉が見聞きされます。どのような意味で言われていることでしょうか。「一致」は「同一」ではありません。「一致」は、違う者同士が補い合って新しい形を作り上げていくことです。同じ価値観、同じ思想を強制することが「一致」ではありません。
2016年7月10日 「命に対する責任」
聖書 マタイ6章25-34節
私たちの信の根本、生き方の根本を神の方向へ向けさせることをイエスが示した個所だと思います。人生を生きる中で私たちはいろいろな課題に直面します。そのときどきで悩み、また不安を覚えることが多いのではないかと思います。
誰もが身近に見ることのできる空の鳥、野の花の姿をイエスは示して、命がどのように生かされているのかを教えられます。私たち人間も同じように神に命を与えられ生かされていることを自覚するように、促してくれているのだと感じます。そして被造物としての人間が、同じ被造物の命とどう関わっていけるのかを教えられます。
イエスのような感性で神の存在を信頼することが私たちにはなかなか難しいことだと思うのですが、彼もまた私たちと同じ生活者として不安や思い悩みの中を生きていたのだと思います。でも、その課題の中にこそ神の働きがあって、私たちを支えてくれているんだということを彼は信じて、分かち合ってくれたのだと思います。
厳しい現実の中を悩みと不安と共に歩んでいる私たちですが、その現実に押しつぶされてしまうのではなく、そこにこそ命を生かす神の働きがあることを信じていきたいと思います。
2016年7月3日 「想起」
聖書 コリントⅠ 11章17-34節
「聖餐式」執行の際に用いられるこの個所がいかに教会の権威や排他性、偏狭さを隠し正当化するために、「ふさわしくない」用いられ方がなされてきたことだと思います。
イエスがもし、政治・宗教体制から排除されている人たちをさらに自分の集まりにおいて区別・差別するようなあり方をしていたのなら、そもそも福音書も他の新約聖書文書も出来なかったのではないかと思わされています。彼が、当時の人間たちの経験値からは気づかなかったことを振る舞ったからこそ、一連の文書群が残されてきたのだと思います。
「規則」などは、破らなければならない場合もあるのです。人間は「規則」の奴隷として存在しているのではなくて、「規則」は人間を生き生きと生きさせるために存在するものです。「規則」を守るために人間の心と身体と命が脅かされるのでしたら、「規則」のほうが間違っています。
イエスが否定し克服されようとしたものを、私たちがまた新しく作るのかどうか、作っているのかどうか、考えてみる必要があります。「イエスの命」を表す「聖餐式」が、「イエスの生き方にふさわしい」のか、「ふさわしくないまま」行なわれているのか。
イエスの視点で考えること。それは教会の生命線だと思います。
2016年6月26日 「命からの問いかけ」
聖書 申命記7章1-5節、ヨシュア記6章20-21節
戦争・紛争からは、憎しみと血と涙と死、悲しみ、苦しみ、癒されない身体と心が残るだけです。聖書の戦いの歴史を見る時、かつての戦争を経験した私たちの国でも同じことが起こった事実を思い起こすのです。
神の召命を自覚した預言者たちは、為政者たちの思いが神から離れていることを糾弾しました。民と指導者の在り方を神の方向に向かせるために厳しい審判預言をし、同時に救済預言を語って命が守られる未来への希望に生きるように活動しました。
6月23日は沖縄・「慰霊の日」でした。私たちはこの日を覚えて、改めて命の大切さをかみしめ、社会・世界、あるいは自らの在り方、教会としての働きを見つめ直す時を与えられていることです。人間同士が命を奪い合う経験、さらに命の営みを途中で絶たれてしまった人たちの姿から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
「死」「死者」からの問いに耳を傾けたいと思います。「あなたにとって死とは、生とは、そして命とは何か」を私たちは問いかけられているのだと思います。「命からの問いかけ」に応える生き方とはどんなことなのか。これからもご一緒に考えていきたいと願っています。
2016年6月19日 「天井粥」
聖書 マルコ9章33-37節
托鉢をしながら一日の修行を終えて、何人かの住職が宿に帰った時のことです。予定に入れていなかった他の仲間たちも同じ宿に宿泊することになって、夜の献立を用意することになりました。それぞれがいただいた米で用意する夕食はお粥です。人数が多くなったので出来上がったものは、それはそれは薄いお粥だったそうです。配られたお椀の中身を見ると、お粥に天井が映っていました。そんなお粥を「天井粥」と呼ぶのだそうです。
分かち合いの場所に「天」があること。分かち合うその現場に「天」が見えること。分かち合いの極みに「天」が存在すること。心が温まると同時に、問いかけをいただいている話だと思いました。
イエスと行動を共にしていた弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いのかを議論する場面が今日の個所です。そしてマルコの順序が正しければ、その後にも弟子たちは「自分たちをナンバー2と3の位置に置いてほしい」とイエスに頼みます。要するに、権力者になりたいという思いです。そもそもの「教会」のスタートは、上記の托鉢の姿に伺えるように思いますが、やがて制度化する中で権力や権威を中心とするものに変化していった歴史が語られているようにも思います。どんな場所に、どんな生き方に「天」が見えて実感できるのかが、問われています。
2016年6月12日 「塩味」
聖書 マタイ5章13-16節
社会や世界の現実を見る時、「光」を見出したくても見出せない。「社会における最も優れた、高潔な部分を代表するもの」である「地の塩」も、一体どこにあってどういう存在を指すのか。いろんな課題や不安を抱えながら生活する私たちはどのように今日の聖書の言葉を理解すればいいのでしょうか。
ところがイエスは「あなたがたこそがすでに地の塩であり、世の光である」と語っています。自分ではとうていそのように感じることのできないと思う中で、彼ははっきり「あなたがたがそうだ」と言うのです。
神がそれぞれの人間を価値あるものとして生かしてくれて、存在をありのままで認めてくださる。神とはそういうお方だとイエスが言ってくれたのかもしれません。それならば、私たちは神に愛されていることを自覚して、愛されているものとしてどのように神の恵みに応えていけるのかが問われているのだと思います。
人間は神ではなく、神に生かされているもの。その私たちは命を生み出すことはできず、ただ神が祝福されている命を大事に守っていく責任が与えられているのだと思います。自らの命と共に、あらゆる場所に生きるものを大事に守り生かしていくことが、私たちにできることだとイエスは教えてくれたのだと思います。
2016年6月5日 「おじぃの背中」
聖書 マルコ7章1-13節
エルサレムから来たファリサイ派律法主義者たちとイエスの論争記事です。この個所を釈義している時に一番気になったのは、「エルサレム」という言葉でした。「中央」「権力」「権威」などを象徴する言葉だと釈義してみましたが、対極にあるのは「人としての心」「対等」「平等」「生かされてある命の共生」「被造物としての自覚」…だと感じています。
いわゆる「地方」「辺境」と呼ばれる地に「エルサレム」は何をして、何を残してきたのでしょうか。何をしようとしているのでしょうか。そこに確かに住む生活者の姿や命の尊厳を自分と同じ価値あるものとして捉えているのかどうか、現在の政治の世界や教会の姿に対しても厳しい批判の目で見なければならないと感じます。
沖縄や福島、原発のある町々、「地方教会」等に「エルサレム」の論理で物事を正当化し、価値観を強要する姿は、聖書の時代と変わらないと思います。現在の「エルサレム」は一体どこなのでしょうか。「自分たちの都合のいい言い伝えに固執して、よくも神の思い(命を肯定する)を無にしたものだ」というイエスの言葉が迫ってくる気がします。
同時に私たち自身の中にも「エルサレム的なもの」がないのかどうか、自己吟味することも問われているのだと思います。イエスが語った「神の思い」に従っていけるように、神の心を聞く者でありたいのです。
2016年5月29日 「人間性の回復」
聖書 マタイ5章38-42節
使いようによっては、聖書の言葉も人を攻撃する材料になり、人の尊厳を傷つける道具になってしまうこともあります。聖書に出会って耕されている私たちは、日常生活の中で相手に対する自分の振る舞いや言葉の用い方を考える時、自分の視点や立ち位置を捉え直してみることも大切なことかもしれません。
また、この社会にある「人を生きにくくしている事柄」を見つめる時に、イエスが見ていた視点を捉えていくことで、自らの生き方が問われ、新しい生きる方向性が見えてくるのかもしれません。
イエスがこの個所で語っている真意は、「人間性の回復」だと思います。理不尽な事柄に対しての忍耐とか服従、被差別者に対する同情や憐れみなどを奨めているのではなくて、「同じ人間として当たり前の主張をしろ」ということだったと感じています。
「差別されることはない」「区別の中で生きることはない」、「あなたも神に生かされている存在なのだから、人として当たり前に生きていい」ということを考えさせる発言だったのだと思います。そして抑圧者に対しても、そのあり方を問わせる振る舞いだったのだと思います。
すべての命を肯定する方こそが、イエスが信じた神だったからです。
2016年5月22日 「戦争屋」
聖書 サムエル記上8章1-22節
「民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(19-20節)。この声をサムエルは拒否し、警告しましたが、イスラエルには王制が誕生することになります。その結果がどのようなものを招いたか、歴史が証明しています。
人間が神のようになって人間を支配する時に何が起こるのか。聖書の記述通りです。息子たちは王を守る盾とされ、女性は兵士のために身体と食事を提供するために徴用される。最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑は没収され、財産も奪われる。残るのは悲しみ憎しみ、癒されない心、そして血と涙です。この経験を私たちの国も歩みました。
同じような現実社会に生きたイエスは、これが「神の国(支配)」だとは思わなかったはずです。ですから彼は、権力による支配や暴力装置を否定し克服する道を模索しました。権力支配構造の陰で生み出されている社会的弱者の側に立って、神が最も関心を持っているのは何かを指し示したのです。
命を生み出し祝福することこそが神の思いだと信じたイエスの振る舞いに、注意深く聞くべき時代を私たちは生きていると思います。
2016年5月15日 「多様性の祝福」
聖書 ルツ記4章11-22節
ルツ記を読む時に大切にしたい視点は、聖書編纂者たちがこの作品をなぜ士師記とサムエル記の間に置いたかということ。もう一点は、著者がどういう目的でこの作品を描いたかを想像することです。
二つの思いは共通していると思います。士師記とサムエル記という戦いの歴史の間に、人と人とが助け合う物語であるルツ記を聖書編纂者たちは置いたのでした。そして著者は、イスラエルから見れば外国人(「異邦人」と表現される)であるルツという女性を主人公に据えて、「異なる者がどうやったら一緒に生きていけるのか」を指し示したのだと思います。
他民族との戦争や民族同士の争い、そして暴虐の歴史を伝える作品の間に、民族の壁を超えて人間同士が助け合い支え合う物語を書き、ここに配置した人間たちの思いを、戦前・戦中さながらの様相を呈してきた今を生きる私たちは注意深く聞かなければならないと思うのです。
自分と異なる者を排除し、数の論理で自らの在り方を正当化し、自己吟味も自己批判もすることなく「戦争が出来る国づくり」に邁進する為政者たちの姿を、私たちは厳しい目で見つめ、否定・克服していく道を模索したいと願うのです。
神の「ヘセド」(慈愛・真実)は、異なる者同士がその賜物を生かし合って、尊重し合って生きることの中にあるのだと著者は言っています。
2016年5月8日 「われらの主こそは」
聖書 マルコ6章30-44節
「5000人の供食」と呼ばれる記事です。この物語を解釈するためにいろんな試みがなされてきました。私たちはこのイエスの言葉と振る舞いをどのように理解して、今を生きる私たちへのメッセージとして受け止めることができるでしょうか。
この物語には、生前のイエスの姿が生き生きと表れているのではないかと感じます。人がいない場所に行って神に祈った姿。「飼い主のいない羊のような状況に置かれている民衆を『はらわたがちぎれる思いで見た』」こと。そしてそのような民衆と一緒に食事をしたこと。神格化されたものを取り除いた時に、彼の姿が浮かび上がってくるようです。
たった一人で食事をすること。交わりがないこと。生きるために摂る喜びの場である食卓と交わりが、味気のない寂しい営みになっていたこと。しかもそれが出自や性別や立場で区別・差別された中で正当化されていたこと。正当化されることで「神に愛されていない存在」として宗教的にもレッテルを張られて生きていかざるを得なくされていたのです。
そんな「大勢の」、「飼い主のいない羊」(とんでもない悲惨な状況)のような状態に置かれていた人たちとイエスが食事をした、ということが物語の姿であり核心だと思います。教会の交わり、食事、そして「主の食卓」(聖餐)からまた教会は人を区別・排除していくのでしょうか。
2016年5月1日 「イエスの食卓」
聖書 マルコ6章30-44節
「5000人の供食」と呼ばれる記事です。この物語を解釈するためにいろんな試みがなされてきました。私たちはこのイエスの言葉と振る舞いをどのように理解して、今を生きる私たちへのメッセージとして受け止めることができるでしょうか。
この物語には、生前のイエスの姿が生き生きと表れているのではないかと感じます。人がいない場所に行って神に祈った姿。「飼い主のいない羊のような状況に置かれている民衆を『はらわたがちぎれる思いで見た』」こと。そしてそのような民衆と一緒に食事をしたこと。神格化されたものを取り除いた時に、彼の姿が浮かび上がってくるようです。
たった一人で食事をすること。交わりがないこと。生きるために摂る喜びの場である食卓と交わりが、味気のない寂しい営みになっていたこと。しかもそれが出自や性別や立場で区別・差別された中で正当化されていたこと。正当化されることで「神に愛されていない存在」として宗教的にもレッテルを張られて生きていかざるを得なくされていたのです。
そんな「大勢の」、「飼い主のいない羊」(とんでもない悲惨な状況)のような状態に置かれていた人たちとイエスが食事をした、ということが物語の姿であり核心だと思います。教会の交わり、食事、そして「主の食卓」(聖餐)からまた教会は人を区別・排除していくのでしょうか。
2016年4月24日 「教会の礎」
聖書 ルカ4章16-30節
礼拝において聖書の朗読を担当したイエスは、イザヤ書の「神による報復預言」を読まずに巻物をたたみました。この振る舞いを目撃した参加者たちはイエスを訝しがり、さらに聖書の解釈を試みたイエスを殺そうと外に連れ出しました。
ローマによる圧政に苦しむ民衆は、神が敵を殲滅してくれるという「報復の預言」の朗読を今か今かと待ち望み、読み上げる声に合わせて「アーメーン」と唱和し、武装蜂起に向けて気勢をあげる準備をしていた時です。しかしイエスは、その言葉を読まずに朗読を終えたのです。
この振る舞いがいかに危険なものであったか。聖書の著者が語っている通りです。しかしイエスは、報復からは何も生まれないこと、生まれるとしたら憎悪と悲しみしかないことを知っていたのでしょう。そして、神は決して報復とか復讐をもって人と向き合うことを望んでおられないことを示したのだと思います。母マリアも、「賛歌」においてイエスと同じ思いを表しています。
人間が人間を支配し、命を奪い合い、生活を破壊していくことで何が生まれているのか。イエスの目はそこに注がれていたのだと思います。教会の礎は彼のこの視点を受け継ぐことにあると思います。教会が歩む方向性がここに示されていると思うのです。
2016年4月17日 「食卓共同体」
聖書 マルコ10章35-45節
聖書、特に福音書を読む時に大切にしたい視点は、物語に登場する誰に自分の姿を重ね合わせることができるかを考えることです。今日の物語では、イエスの思いを理解できない弟子たちの姿を、私たちに向けられている問いかけとして受け取ることが大事だと思います。自分とはまったく無関係のこととして記事に向き合うのではなく、この姿を通して自分たちには一体何が問われているのかを考える必要があるのではないかと思います。
一部の権力者たちが他の人間たちを支配するいびつな権力構造が目の前にありながら、弟子たちは「あなたの帝国におけるナンバー2と3にしてほしい」とイエスに願います。ローマ皇帝と委任統治者との関係と、イエスと自分たちの関係を同じようなものとして理解しているのです。社会の権力構造と同じ視点でイエスとの集まりを捉えています。
イエスの応えは明快です。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)。イエスが目指した人間社会は、この時代の権力構造を否定・克服して、神に命を与えられたものすべてが対等で平等で連帯の中を生きることから生まれるものだったと思います。
ところがイエスのそばにいた弟子たちでさえ思いを汲み取ることができなかったというこの姿は、私たちへの問いかけでもあると思います。同じ現実がある今の社会に対して、私たちはどう向き合うべきでしょうか。
2016年4月10日 「生かされて在る命の共生」
聖書 詩篇8篇
本来,神はすべての命が生き生きと生きられるようにお造りになったはずなのに,命を祝福しているはずなのに,どうして人も自然の命も生きにくくされている現実があるのでしょうか。人は,「生かされている」ことを思うべきです。それなのに,大切な命とそうでない命があるかのように振る舞う人としての在り方が,聖書から問われているのではないでしょうか。
命に区別はありません。優劣もありません。自分の命はあらゆる命の連続性と連鎖性,連帯性の中に「生かされている」のです。この営みに謙虚に向き合うべきです。人間の側から一方的に連続性を断ち切ることは,人間の傲慢以外の何モノでもありません。私たちは「生かされて在る命」を生きているのです。
詩篇8編の信仰者は,このようなことに気付いて「人間とは何者なのでしょう」と告白したのだと思います。塵にすぎない者なのに,ほんの短い生涯を生きるにすぎない存在なのに,神は人間を生かして,育て,祝福してくださっている。神に愛されている人間とは何者なのでしょう。
命を祝福されている者として,私たち自身の生き方,在り方が問われているということだと思います。あくまで私たちは,神がお造りになったすべての命に仕える存在として生かされているのです。