2024年4月28日 「誇り」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節

ガラテヤの諸教会の人たちを「物分かりの悪い間抜け」と呼ぶ時もあれば、終盤になって「あなた方は霊の人たち」と言うパウロという人は、こういう自己矛盾にも平気だったのでしょうか。私など理解不足の人間にとっては、彼の手紙を読むたびに複雑な気持ちにもなり、彼の主張を納得のいく形で受け取ることがなかなか難しいのです。

最後の部分になって彼の物言いは懇願するようなものになっている気がします。気持ちがそうさせたのでしょうか。柔和な心を持て、誘惑されないように、重荷を負い合え、自分の行ないを吟味せよ、聖職者の生活を助けよ、善を行なえ…。まことにその通りだと思うのですが、このように書く必要があった、ということでしょうか。

ひょっとしたら、ガラテヤの教会内で不和が生じていたり、互いが競い合ったり、他者のことを思わず自己主張に陥っていたり、といった事情があったのかもしれません。洗礼を受けて何か特別な人間にでもなったと思っていたのでしょうか。信仰心を誇っていたのでしょうか。

誰でも陥ることだと思いますし、私自身も例外ではありません。ただ、ここで言われている「誇り」が、他者を貶めたり自分を優位に立たせたりというものなら、私は抵抗します。「弱さ、小ささ」こそが、私にとっての「誇り」ですから。


2024年4月21日 「限界があります」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13-26節

19節から書かれているのが「肉の業」。22節からは「霊の結ぶ実」。パウロもずいぶんと並べてくれたものです。よほどこのような「悪徳表」がお好きなのか、他の手紙でも多数出てきます。

読んでいていつも思わされることは、「悪徳表」の中に書かれている「悪」の項目で、自分自身が当てはまらないものを見つけるのが難しいことです。気持ちとしては「徳」の中にいたい、「徳」の項目を実現できる自分でいたいと思うのですが、ダメ人間はダメのままのようです。

ルカ10章に書かれている「サマリア人のたとえ」の記事を思い出すのですが、瀕死の状態だった人に関わらずに通り過ぎた祭司とレビ人の中にどうしても自分自身の姿を見てしまいます。彼らは律法を守ったのであり、律法を守るという観点からは、何も責められることはありません。

ただ、神が与えたという律法を守ることで人間の命が脅かされるとしたら、律法とは何だろうと思わされます。命の前では、ユダヤ人も外国人も、その他の壁があるということを問うこと自体が無意味な気がします。

私自身は、パウロの言う「悪徳表」の中の「悪」に自分がいても構わないと思っています。そうじゃないと、自分も命の前を通り過ぎることを選択してしまうかもしれないからです。


2024年4月14日 「慢心、傲岸です」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章1-12節

今日の個所の新共同訳の翻訳が気になったことで、イエスの弟子の筆頭だったペトロがイエスを「知らない」と言った個所が思い起こされました。なぜなら、今日の個所の翻訳からは「すでに救われている自分」と、「そうでない他者」とを分け隔てている態度が見えるからです。

ペトロは十字架の現場近くまで行きながらイエスのもとにはいなくて、周りにいた人間から「あんたも一味ね」と言われた時に「知らない」と答えたのでした。この出来事を非難することは簡単ですが、自分自身ならどうするだろうと考えた時に、やはり同じことになるだろうと思います。

彼はこの出来事ののちに、後悔や失敗をまったくしない「完璧な人間」になったかというと、そうではなかったと思います。私たちと同じように、相変わらず失敗もし、後悔をしてしまう行動もした、そんな人生だったと思います。ただ、イエスと一緒に生きたことで、今まで見ていた風景がまったく違ったものとして映る、そんな経験はあったのではないかと思うのです。

失敗をし続けるペトロ(私たちを含む人間)に、イエスは「お前のために祈った」(ルカ22・32)と言ってくれます。ダメでいい、弱くても小さくてもいい、祈っている。私たちの希望はここにあると思います。


2024年4月7日 「新しくされて、出発」

聖書 マルコによる福音書7章24-30節

イエスにとっては重大な出来事だったのでしょう。マルコの順番が正しいと仮定するなら、この出来事のあと彼は積極的に「外国人」との接点を持とうとしているように読めます。ユダヤ人から見れば外国人を差別思想を含んだ「異邦人」(犬ども)と呼び、交わることも決してしなかったユダヤ人であるイエスがそういう行動に出るとは、いかにこの経験が彼自身の思いを変えていくことになったのか、想像することができます。

世界を見ても私たちの社会を見ても、「分断」をよしとする流れの中にあります。世の中が「分断」の道をよしとするなら、私たちは「共生」の道を選択したいと思うのです。言葉では簡単に言えますがとても困難な道で、でもイエスも自分の生き方を変えられたように私たちもまた、自分たちが信じる道を歩みたいと思います。

光があることは心強いです。でも、いくら明るくてもそこに「闇」は存在します。「イエスは光だ」だとよく言われますから、イエスに招かれている私たちはつい「光」ばかりに注目してしまいますが、そこに確かにある「闇」に気づいて、そこにある課題は何なのか、自分自身はどういう行動ができるのかを考え続けていきたいと思うのです。戦争を遂行する責任者は「光」ではありませんし、「闇」とされている場所に生きる人たちがいます。


2024年3月31日 「食卓による再生」

聖書 ヨハネによる福音書6章33-35節a

イースターの日に、ヨハネ福音書の短い言葉を読みました。ヨハネはここで、「イエスこそが、神が与えた命を生かすパンだ」と言っています。そしてそれは「世に命を与え続けている」というのです。人の枯れている心に温かいものが染み渡るように、イエスの生き方が人を立ち上がらせ続けている、というのでしょう。

税金を徴収する下っ端役人のレビが、イエスのたったひと言の声で「立ち上がった」というマルコの物語が思い起こされます。ユダヤ人から見れば外国人のローマに仕える彼に、同胞から向けられていた憎悪は激しいものだったと思われます。彼は仕事場で「座っていた」のでした。それが「立ち上がった」とは、彼の心の状態を表していると思われます。

彼を立ち上がらせたのは「レビ、ついて来い。一緒にメシを食おう」というひと言で、それはまったくの条件も資格も問わないイエスの招き、神の祝福の声でした。それが立ち上がれなかった人間を生き返らせるのです。

教会という場所は、イエスのパンをいただき、命のパンをいただいて生きている共同体です。互いに生かし、生かされる関係性を持つことに導かれている場所です。教会での働きでも、それぞれの日常の生活の中でも、イエスのパンが導く生き方につらなる者でありたいと思うのです。

2024年3月24日 「そんな無茶な」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節

私には、今日の個所におけるパウロの説明には無理があるとしか言いようがありません。自分の主義主張を正当化するために、ヘブライ語聖書創世記の物語をねじ曲げていると思われるからです。ガラテヤの諸教会のメンバーたちのことが心にあったとしても、これでは新たな「分断」を引き起こすことにならないかと思います。彼がいつも言う「イエスの信」や「イエスの福音」との整合性はあるのでしょうか。

創世記の物語は、立場を分断してこちらとあちら、ということを主張しているのではなく、むしろ、違っている者同士がどうやったら互いを理解し共に歩めるのかの、問いをくれている個所だと思います。

この道こそが正しい、とか、これ以外はダメ、というものではなくて、もう一つの道を選択した(選択せざるを得ない)人をも神は守り、支えてくれるというメッセージです。その神を神とすることで、人間は人間同士、与えられた異なる個性を生かし合える方向に導かれる、との信仰者たちからの問いかけです。

パウロの態度を批判しなければいけませんが、これは教会の生き方や自分自身の在り方にも問いを与えてくれているものだということに気づかされた、そのことで少し救いがあった、と思わされた個所でした。


2024年3月10日 「イエスを心の中に形作る」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節

「神への信仰のために」とか、「神への熱心のために」と言いながら、その内実は自己主張のため、党派拡大のため、という態度を見ての発言がここにあるのでしょうか。なぜなら、パウロもかつては「神への熱心のため」と言いながら、実際には強烈な自己主張をしているに過ぎなかった、そのことに気づかされた、ということでしょうか。

ガラテヤの諸教会に来ていたパウロの「敵」たちもまた、「神への熱心」と言いつつ、ガラテヤの人たちが神ではなく自分たちのことを熱心に求めるようにしていた、その欲望を満たそうとしてここに来ているに過ぎないと言っているのでしょうか。

このことから、現代に生きる私たちが気づかされることは多いと思います。神への信仰とか神の国の実現のために、と言いながら、そんな美名のもとで人間の醜い欲望のために、ということはいたる所で見られることです。そしてそれは、私たち自身の心にも潜んでいることかもしれません。

そんな中で、「イエスの心が形作られるように」との言葉を心に留めておきたいと思わされます。私たちの心にイエスを、イエスが信じた神を形作る。その心を携えて、それぞれの場所に出かけて行って、イエスとイエスの神の視点から見た社会の実現のための働きをしていきたいものです。


2024年3月3日 「何も出来なくても」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章8-11節

古代の時代のことを想像し理解することはなかなか難しいことだと思います。例えば今日の個所に出て来る「神でない神々」とか「無力で頼りにならない諸霊」とは何を指しているのでしょうか。ずいぶんときつい言い方だと感じますが、パウロの何を思っての発言でしょうか。

例えば、天に浮かぶものを見る時、ある程度の知識を持っている私たちにとっては、それが何かを理解する、理解していることはありますが、古代の人たちにとって太陽や月や星といったものは不気味に映ったかもしれません。そしてそれらは、人間によくない影響を与えるものだという理解が多かった、という指摘もありました。

パウロがここで言っていることを想像すると、天に浮かぶそれらのものがとても不気味で得体の知れないものだからといって、それは神が造った被造物に過ぎないのだから、何も恐れる必要はない、ということだったのでしょうか。そして、それらを教会の神と結び付けて、悪い影響が自分たちの身に及ばないようにするために、提示された条件をクリアしようと、そのように教会員たちを説得しようとしていた「論敵」たちへの言葉だったのでしょうか。

先週の個所で「アッバ、父よ」というイエスの言葉を引用していたのですが、今日の議論をひもとくカギも、この言葉にありそうです。


2024年2月25日 「お父ちゃん-差別を克服する叫び」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章23-4章7節

ウクライナにロシアが侵攻して2年が経ちました。昨日のニュース番組でアメリカに亡命したロシア人ジャーナリストに密着した映像がありました。彼女は今、ジャーナリストとしての仕事はしていないようですが、他の場所で、アメリカに逃げて来たウクライナ人の家族と出会います。

英語が話せないウクライナ家族のために、仕事や生活で必要な援助をしたり、時には一緒に食事をしたりといった日々を送っているようです。戦争の話になると共に泣き、慰め合い、励まし合っています。対立する国の市民はそうやって思いを共有できるのに、戦場では殺し合っている。パウロがここで「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由な者も、男も女もない」と言っている言葉が実現することはないのでしょうか。

神を「アッバ」と呼んでイエスが信じた神は、父親が子どもを無条件で愛するように、いつでも応えてくれる存在でした。必要なものを用意し与えて、幼い子どもが「抱っこしてほしい」とせがめばそうしてくれる。イエスは神をそんなイメージで捉えていたのでしょう。

神においては何の区別も差別もない。優劣もない。聖と俗を分ける在り方もない。命が生かされる人と殺される人があっていいはずもない。イエスの「アッバ」は、すべての人にとってのものです。


2024年2月11日 「遍在する神」

聖書 マルコによる福音書12章13-17節

「お前たちがローマの皇帝を神だと思っているならそうしたらいいだろう。お前たちがユダヤの神を神として信仰しているならそうしたらいいだろう」。

巧妙な質問をしてきた貴族階級に、イエスはこのように返したのでした。相手の土俵にはのらず、自分たちの生き方はどうなのかと、突きつける問いを残したのです。私たち自身は、このイエスの問いにどのように応えられるでしょうか。

私たちが信頼する神とはどういう存在なのか。どんな性質の神なのか。イエスに問われている気がします。人間の分際で神にでもなったかのように振る舞っている「人間」がいます。その振る舞いでどれほどの人たちが苦しんでいることか、暴力でどれほどの人たちに苦しみをもたらしていることか。

私たちは、命を創造し、命を育まれる存在としての神を神として、ではその神を信頼する者としてどのような生き方ができるのかが問われているのです。私たちは生かされ、この瞬間があることも感謝をもって味わい、隣人と一緒に過ごさなければいけないと思うのです。目に見える富や力は暴力支配などは、すぐに消え失せるものです。


2024年2月4日 「神がくれた魂は」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章15-22節

あまり人に堂々と言えることではありませんが、私にも神は個性を与えてくれています。それを賜物として生かしてくれているのでしょう。もし、自分が一つのことで括られ判断され、評価されるとしたら、とても息苦しくなると思います。

イエスが見ていた「律法」の問題点は、律法が人間を一つのものに括り、それに当てはまらなければ罪となり、その人はなんらかの応答をしなければ解放されないという点にあったと思うのです。

ここでのパウロを批判しなければいけないと思わされたのは、彼が以前は律法だ、律法だと生きていたことから、今は信仰だ、信仰だという立場になって、それを信徒たちに押し付けていることがあるのではないかと思うからです。

これでは彼が思う「信仰」を持たないことには人間は神に「義」とされず、それは「信仰」という名を借りた新しい「裁きの律法」になります。多様な個性を与えられて生かされている人間の生命を、尊重することにはならない気がします。もし人間を一つのことに括ることが許されるとすれば、互いの命を尊重し生かし合う心を持つこと、その1点においてです。


2024年1月28日 「『物分かりの悪い間抜け』で何が悪い」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章1-14節

新共同訳で「物分かりの悪い」という日本語があてられていますが、これは「アホ」とか「バカ」とか「間抜け」ということのようで、ガラテヤの諸教会に集う人たちに対して、パウロはずいぶんと失礼な態度をとっているようです。ののしっている、ということです。

私自身は、「間抜け」と言われてもかまいません。実際、間抜け野郎だからです。私は、神と自分自身との間にイエスがいてくれないと困るからです。間の抜けたその場所にイエスがいないと、私自身はどのように神のことを考えられるか、神に対してどのように生きることができるのか、気づくこともなかなかできないからです。

でも、そんな間抜けでも神は人間を生かし、支え続けてくれています。自分に都合のいい神を作ったり、仕立てたりすることがあることを自覚しなければいけませんので、間抜けでいいのです。

「十字架につけられたままのイエス」(1節)とあります。今も、イエスが殺された原因が存在し続けていることを表しています。人間が生きにくくされ、命を殺されていく出来事が起こり続けています。間抜けな自分は、イエスに間に入ってもらって、なんとかその原因を探し出し、心と身体を寄せて行けるようにする行動へ、押し出されたいと願い続けます。


2024年1月21日 「人間イエスの信仰」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

人間イエスの信(信)とはどんなものだったのでしょう。これは、彼がどんな神を信頼したかにつながります。すべての命を創造し、その命すべてが対等に平等に、相互性をもった関係を生きるように人間を導くのが神であると、彼は信じたのだと私は理解しています。

ところがその使命と責任を与えられた人間は、この生き方から離れ、驕り高ぶりの中を生き、互いを区別し差別することで自分を生かすという生き方を選んできました。イエスはこの崩れたバランスを、神の思いに寄り添えるような方向に立て直そうと、人を導いたのでした。

「イエスの信仰を生きる」とは、彼の生き方をまた自分たちの生き方としていくことです。その生き方に必死に向かおうとする人間を、神は「義」としてくれるのでしょう。「イエス・キリストへの信仰」を持つことが救われるための条件ではなくて、「イエス・キリストの信仰」に思いと身体を寄せて生きていくことが、神の思いに近づくための私たちに出来ることだと思います。条件にすれば、また新たな区別・差別を生みます。

正義と公正と公平。この3つがイコールで結ばれるバランスが保たれた時に、初めて「平和」とつながります。イエスの時代も、今も、このバランスが保たれているとは思えない世界です。私たちに出来ることを求めていきたいものです。


2024年1月14日 「恵みへの扉の開け閉め」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節

パウロの伝道拠点アンティオキア教会は、異邦人出身のキリスト者とユダヤ人キリスト者(迫害から逃れてきた人たちを含む)が混在していたものと思われます。出自や文化などを異にする人たちが共に礼拝を献げ、食事をしていたのでしょう。ペトロはしばらくこの場所で礼拝と食事の交わりに参加していたと思われますが、エルサレムから来た(派遣された?)人たちが現れた時に、彼はこの交わりから離れた、という記事です。

ペトロがなぜこのような行動を取ったのかはある程度想像できますが、課題に直面した時に人はどういう振る舞いができるのか、私自身のことを含めて考えさせられる記事だと思いました。

生前のイエスと一緒に生活し、彼の言葉と振る舞いを目の前で目撃しながら、イエスの生き方とは真逆のような行動を取ることを批判するのは簡単ですが、では自分なら、と思わずにはいられません。自分が意識しているにせよ、無意識にせよ、壁を作って何かと何かを区別して物事を考えてしまっていることに気づかされるようです。

想像したいのです。目の前に生きる人たちの今がどんな今なのか。どんな今を生きているのか。必要なものは何なのか。それを目撃した自分はどういう行動ができるのか。アンティオキア教会にはユダヤから迫害を逃れて来た人たちがいたと言いますが、今、ウクライナやガザから逃げている人たちの今はどんな今なのか、それに対してどういう行動を取り、思いを寄せることができるでしょうか。能登の震災の現場にいる人たちには、私たちはどのような思いを届けられるでしょうか。


2024年1月7日 「約束を胸に」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章1-10節

違う者同士がその違いを認め合って生きるということがいかに難しいか、そのことが示されているのかもしれないと思わされます。「一緒に生きていこう」と、口では簡単に言えるのですが、自分自身の思いや振る舞いもまた、この問いの前に立たされます。

ただ私たちは、歴史を生きたイエスを見て、彼自身もまたこの課題と向き合った人だったことを知っています。彼の生き方を通して、神が今、何を人間に語ろうとしているのか、何を求めているのかを考える時に、同じ命を与えられた人間同士がいかに生きるべきかの道筋を与えられていることも確かで、そこに注視していきたいものです。

教会会議においてペトロたちは「割礼へと」、パウロたちは「異邦人へと」それぞれの現場に出かけることになりました。平穏な雰囲気では決してなかった集まりだったと思いますが、神がそれぞれの賜物を生かして歩むことができる道へと導いたと、そのように考えることができるでしょうか。

今の私たちが属する組織も、それぞれの現場に派遣され、それぞれの現場での課題の中に生きて働く者同士のことを、互いに思い合えるものになってほしいと思います。それが実現しないと、教会は社会の出来事や地域の課題に向き合うことをせず、また、社会に生きる人たちから何かを学ぼうとか、仕えようとか、そのようなことから遠い場所としてあり続けることになります。


2023年12月31日 「神こそが王」

聖書 マルコによる福音書13章1-27節

物語の背景には66年から70年頃にかけて起こったローマへの反乱戦争があると思いますが(事後預言)、私たちが生きる今の世界情勢を見ていると、同じようなことが起こっていると思わされます。そしてそれは今だけではなくて、かつての大きな戦争を含めた、歴史において起きて来た戦争の姿を思います。人間はなんと愚かな生き物なのでしょう。

自分が神にでもなったつもりで自然や人間を支配できるとでも思っているのでしょうか。戦争は必ず弱い立場の人たちを苦しめます。何度もそうやって間違いを犯してきたのに、人間はなんと愚かなのでしょう。

2024年という新しい年を迎えようとしています。この年も、大きな課題や苦しみや困難がまったくないという1年になるなんてことはあり得ないことなのですが、せめて人間が知恵を振り絞ってすべての命を尊ぶような振る舞いが増えるようにと、祈らざるを得ません。

新しい年に出かける時に私たちが携えていく「武器」は、イエスの名であり、イエスが語る福音であり、命を生かす神こそが王であると信じて生きた、彼の生き方です。

「これは苦痛の始まりだ」と聖書には書かれていますが、苦痛を取り除き、苦痛を終わらせる努力ができるのもまた、人間です。


2023年12月24日 「おい、赤ちゃんが生まれたらしいぞ」

聖書 ゼカリヤ書7章9-10節、9章9-10節

このような権力批判の言葉、思想を残したイスラエルは、今、ガザでいったい何をしているのでしょうか。自分たちが「聖なる民」として、他者は異なる者で排除、抹殺しなければいけない存在だと位置づけるその思いとは、いったいどんなものなのでしょうか。今日も小さな子どもたちを含む民が、命の危険にさらされています。

イエス誕生の物語をたどっていくと、この出産はとても危険なものだったと思わされます。福音書の記述に従えば、ヨセフとマリアは150キロほどの距離を歩いて旅をしたことになります。身重の女性が1日に歩ける距離はどれほどでしょうか。5キロか、10キロか、体調のこともあったでしょうから、厳しい旅だったことが想像されます。

1週間から10日ほどの旅の途中、二人はどこに泊まったのか、何を食べていたのか。おそらく、旅を助けた人たちがいたのでしょう。なんとか到着したベツレヘムでも、出産を手伝った人、産着を用意した人、新しい命の誕生を喜び合った人たちがいたのです。イエスはそうやって、命を助けようとした人たちに守られ誕生したのです。

このことを、イエスはマリアから聞いたに違いありません。お前を生む時、その出産は大変だった、でも、それを助けてくれた人たちがたくさんいて、そうやってお前は生まれてくることができたんだよ、と。のちにイエスは、神の平和はこのような場所にこそあるのだと語り、振る舞ったのでしょう。


2023年12月17日 「解放に導く神の声」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節

生まれも文化も違う中で生活している人たちが、分断ではなくて一緒に生きるためにはどうしたらいいのか、共生していくためにはどんなことが必要なのか、自分自身にも問われていることだと思います。

パウロは律法がもはや無効となり、「キリストの信」によって人間は義とされると語り始めました。「回心」の出来事がどのようなものであったかは分かりませんが、彼の生き方が変えられることにつながったのは事実だったでしょう。

ただ、彼は律法に代わる「救いの条件」を新たに作ったことを思わされます。「キリストへの信仰を持つこと」が、律法を忠実に守ることに代わる条件になりました。そこではやはり、救われる者と滅びる者、神の支配に入れる者と陰府の世界に行く者とが分けられることになります。

それも、パウロが提示した「悪徳表」なるものに従って、提示されたものを守る必要が生じます。人一倍自信を持っていた彼なら、彼から見た倫理的条項は守れるでしょうが、一般の民にとってはどうでしょうか。

パウロはケファ(ペトロ)に会いに(調べに)行った、と言いますが、イエスの何を調べたのでしょうか。彼が出会ったのは、生前のイエスの生き方というよりは、「宣教されたイエス」だったのではないかと、気になります。


2023年12月10日 「呪いの端緒」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節

「私は驚愕し、あきれている。キリストという恵みのもとへとあなた方を招いてくださった神から、あなた方がこんなにも早く異なった福音へと移っていくとは」(6節)。

パウロはいきなり強い口調でこのように語っています。「驚愕し、あきれている」「異なった福音へと」。実はパウロの反対者たちが主張していたことは、以前のパウロ自身の姿そのままであり、そのこともあって彼はよけいにイライラしていたのでしょうか。

この段落に「呪われよ」という発言があることが気になります。二度も出てきます(8、9節)。「呪われよ」とは、相手なりその現象なりの撲滅、抹殺を意味します。その存在があることは許されない、抹殺しなければならないということです。

もともとは神と人間との関係において考えられていた概念だったと言われています。例えば、神との約束・契約の時、その約束を破ってしまった時にはどんな罰でも受けます、との意志の表明の場合がこれにあたります。神からどんな「呪い」があってもかまいません、という表明なのです。それが、人間と人間との関係になった時には、相手の撲滅、抹殺という形を取ることが恐ろしいと思うのです。新約聖書というものに呪いの概念を持ち込んだのは、パウロでした。その影響は?


2023年12月3日 「人は神ではない」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節

手紙を書く時に自分だったら挨拶くらいから始めると思うのですが、この手紙の冒頭は、いきなり本題から入っているようです。それほどパウロの気持ちは高ぶっていて、一刻も早く思いを伝えなければいけないということだったのでしょうか。

「人々からでもなく、人を介してでもなく、むしろイエス・キリストと、彼を死者の中から起こされた父である神とによって使徒とされたパウロ、そして私と共にいるすべての兄弟が、ガラテヤの諸教会にこの手紙を送る」(1節)。ここにすでに彼が言いたかったことの中心があるようです。ガラテヤの諸教会に来たパウロの反対者たちは、パウロに対して「あいつは神ではなく、人間の保証で使徒だと言っているだけだ」と言っていたのでしょう。これにパウロは反論しているのですが、反対者とてわが身を振り返ればエルサレム教会の重鎮たちに権威を感じていたわけです。

誰が正統で誰が異端か。区別、差別の姿勢。イエスが対決したことがこともあろうに初期の教会にすでに現れています。「使徒」とは「遣わされた者」。その意味ではイエスの姿を追い求めようと生きる者はすべて使徒であり、私たちもその一人ひとりです。追い求めるべきは区別や差別ではなく、共生への道を懸命に探ることです。


2023年11月19日 「罰か、祝福か」

聖書 創世記11章1-9節(参照:使徒言行録2章1-4節)

一つになる、みんな一緒でなければいけない、一緒になろう。一見、聞こえはいいのですが、そこにはとても危険なものをはらんでいると思います。バベルの塔の物語は、人間の驕り高ぶりに対する神の罰が描かれていると読んできたのですが、ここには多様性の祝福というメッセージがあると思いました。

物語は、人間の願いと神の意志が対照的に描かれていて、まったく逆の方向に展開していきます。一緒の言葉、というのは混乱し、一緒になる、というのはバラバラになります。同じでなければいけないという思いの中には、時に強制や束縛といったものが潜んでいて、人間のそんな生き方を多様性の方向に神が導いているのではないかと思わされました。

ペンテコステの記事でも、神は教会が出発する時に「霊を与えた」と言われています。神の霊は、自由をもたらす風です。その風は、多様であることの豊かさを運んできます。教会は、多様な人が集められ、多様な思いでそれぞれが助け合い、補い合い、仕え合って生きる場所だということが言われていると思います。

ウクライナやガザで起きている悲惨な出来事は、多様性を潰す人間の所業です(桐野夏生『日没』岩波書店、を参照しました)。


2023年11月12日 「今、ここに神はいない」

聖書 マルコによる福音書6章45-56節(参照:列王記上19章1-18節)

マルコが見ていた教会は、どこを向いて歩んでいたのでしょうか。何を最も大事なこととして考えていたのでしょうか。イエスが「通り過ぎようとされた」とありますが、何を中心に据えて宣教活動をしていたのでしょうか。湖の上で揺れ動く様子にたとえられている教会は、揺れ動いていたのでしょうか。不安があり、大きな力によって厳しい状態にあった、ということかもしれません。

イエスが「強いて」舟に乗せ出発させた、という記事が気になります。人間が生活する場所には常に不安があり、課題があり、そこで揺れ動きながら生きている人たちがいます。イエスは教会に、「そこに漕ぎ出せ」とのメッセージを与えてくれているんだというマルコの理解でしょうか。

人間の生活や日常抱えている課題とは離れた所にあるのが教会ではない、イエスが「強いて」舟を出させたように、人間の営みの中に教会は漕ぎ出して共に生きようと、マルコは教会を励ましているとも読める気がします。列王記の中で神の声がどこで聞こえたかを心にとめたいと思います。小さな、ささやくような声の中に神の声はあったのです。私たちが生きる今、それはどこで聞こえるでしょうか(幻冬舎『ハマスの息子』を参照しました)。


2023年11月5日 「沈黙の声を聞く」

聖書 創世記4章1-16節

ウクライナやガザで破壊されてがれきとなった地で逃げ惑っている人たちの姿は、現実に起こっていることとは思えない、思いたくないという気持ちにさせられますが、しかしこれが現実で、これほどの悲惨さを生み出す人間の最も醜い姿が出現しています。これはいったい何だろう、人間とは何かを、最も強い非難の思いをもって考えざるを得ません。

弟を殺した兄は、神に問われた時に「知らない」と言い、さらに「自分は弟の番人ですか」と答えます。ここには人間と人間同士の信頼関係は崩れ、さらに神と人間との関係性も壊れています。人間は人間との関係性において、神との関係性において「死んでいる」のです。

創世記において神が人間を造った時、人間は互いの命を尊重し合うパートナーとして生きることを使命とされました。また、自然の命を管理し、それに仕えることが人間の責任であると言っています。自分の都合に合わせて、命を勝手に操作してはいけないのです。

神が与えた使命と責任を思う時、人間が行なう最も善き業は、自分の命を十分に生き切り、同時に他者の命を尊重して思い合いつつ生きることです。今、人間が与えられている最も善き業を、人間自らが自分の手で殺しているのです。血を流し、泣いている子どもたちがいます。


2023年10月15日 「涙の革袋」

聖書 詩篇126篇

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(5-6節)。

どんな場面を想定するにしろ、本当にそうなってほしいと思います。厳しい現実と向き合いつつも、そこに喜びをもたらす収穫や、喜びの歌が満ち溢れるようなことが起きてほしいと、特に今の世界情勢を見ているとそう願わずにはいられません。

戦争によって奴隷とされた人たちが「帰って来るように」「帰って来てほしい」、喜びの歌をうたいながら、涙ではなく喜びの中を帰って来る、帰って来てほしい。バビロニアでの歴史が歌の背景にあるのでしょう。

まるで、今の情勢をそのまま見ているようです。ミサイル攻撃にさらされ、安全な場所を探し求める姿。瓦礫と化した混乱の町で必死に生存者を見つけ、助けようとしている人たち。ガザでもウクライナでも、人間同士が命を奪い合う戦いが続いています。詩篇の言葉が実現することはないのでしょうか。求めることは無理なのでしょうか。

帰って来た人たちは、どこに帰ったのでしょうか。再び軍事力に寄り頼む道に帰ったのか。「神の正義に帰る」ことは不可能なのでしょうか。


2023年10月8日 「リセット」

聖書 マルコによる福音書10章17-22節

人間には限界がありますから、自分中心で物事を捉え考えてしまうものです。私自身も例外ではありません。日々の生活で、自分と他者と分けてどちらが正しいとかそうでないとか、そんな捉え方で過ごしていることが多いことに、イエスから厳しい指摘をもらっているのではないかと思わされた記事です。

イエスに質問してきた人は「多くの財産を持っていた」というのですが、何も富を持つことがどうかと言われているのではないと思います。また、「慈善行為」のおススメ、といったものでもないと思います。

イエスは彼に言ったのでしょう。「一度、お前の生き方を考え直してみたらどうだ」と。「お前は何に依存し、何にしがみついて生きているのか。一度、それを考え直してみないと、お前にとっての親しい人や愛する人、家族や近しい人たちの顔は見えるけれども、厳しい生活を強いられている人や区別・差別の対象にされている人たちの顔は見えないよ」と。

自分自身の生き方も問われていることだと思わされました。マルコはイエスの口を使って読者に伝えたのでしょう。「あなたたちに足りないことが一つある。それは、イエスに従うことだ」。

イエスの生き方を見て自分の振る舞いを捉え直す。なかなかできない難しい課題ですが、意識の中において日々を送りたいと思うのです。戦場になっている場所と為政者たちにも、どうかこの言葉と心が届きますように。


2023年10月1日 「伊江島の花」

聖書 詩篇8篇

8篇に印象深く語られている「人間とは何ものなのでしょう」という言葉を、今こそ意識しなければならないと思わされています。人間と人間が命を奪い合う戦争が続いている今です。

人間は自然の命を奪い、人間の命も奪い、そこに暮らす人の大地まで奪ってきました。天災というものがこのような仕打ちをした、ということなら、納得することはなかなか難しいかもしれませんが、どこかであきらめもつく時が来るのかもしれません。

でも、戦争や自然破壊は人間の業であり、そこで生み出される苦しみや悲しみ、そして死というものは人災です。人間が起こしたことですから、あきらめがつくということはないと思います。

このような出来事に対して向き合うことは難しく、また無力を感じることでもありますが、でも、歴史的に見ても必ずそこで動く人間たちがいたことも確かです。今も日々、自分の出来ることを最大限に用いて動いている人たちがいます。

教会は、このような命を生かす働きに連なる場所でありたいと思います。命を奪うことではなく生かす働きに、連帯したいのです。小さくても、無力を感じても、神は教会を使ってくれるでしょう。


2023年9月24日 「むなしい企て」

聖書 詩篇2篇

「神のもとに身を避ける人はさいわいだ」(12節)とありますが、この歌を編集した人たちが最も言いたかったことがこれだったのでは、と思いました。

人間が神になるという王制を批判した人たちがこの詩篇をまとめたのだと思います。暴力否定、権力批判の精神を持つ人たちが、戦いの時代にも確かに存在し、社会を見つめ、人間を見つめ、神の思いを最も大事なこととして言葉を残し、振る舞ったのでしょう。

預言者たちもそうでしたが、詩篇の編纂者たちの中にもそのような精神を持った人たちがいたのです。もともと王制を讃えるこの「王の詩篇」に、人間のさいわいとは何かを問う言葉を書き加えて、社会と宗教の在り方を厳しく批判したのです。

国家にとって決定的な出来事があって、歴史を踏まえて新しい在り方を模索したのだと思います。過去の出来事に学ばず、今の在り方を自己批判もせず、ただ今だけ、金だけ、自分だということで社会を支配する動きが私たちの時代を覆ってきているようです。

この詩篇を読んで、私たちが生きる今、現に起こっていることは何かを問うことが必要でしょう。肝に銘じろ、と言われているようです。


2023年9月17日 「さいわいな人」

聖書 詩篇1篇

詩篇全体の表題になるものとして、編集者たちはこの作品を冒頭に置いたようです。「さいわい」とは何か、それがキーワードでしょうか。

信頼するテキストによると、1篇の詩人は「人生において理不尽な経験をした人」だということ。そうすると、大きな困難に置かれたり、道理に反することで厳しい立場に置かれたりしてきた人の声だということでしょうか。その人が、「さいわい」とは何かを考え残してくれた作品だということができるでしょうか。

詩人は3節と4節で、正しい人と邪悪な者の人生を比較するように書いています。水辺の樹木は正しい人、風に吹き飛ばされるもみ殻が邪悪な者。本来はそうなのかもしれませんが、でも、実際はどうなのでしょうか。詩人の時代も今も、むしろ私たちの目の前には義人が苦しむ姿があり、悪が繁栄を享受していることが多く見出されることです。

でも、それが社会の当たり前になっていようとも、詩人はその生き方には自分は与しないこと、そういう生き方からは決別することをここで宣言しているように感じます。詩篇を編纂した編集者たちは、この宣言の中に「さいわい」の姿を見て冒頭に持ってきたのかもしれません。神の前で「さいわい」なる人の生き方とは何か、との問いです。


2023年9月10日 「神が必ず一緒に」

聖書 詩篇113篇

いわゆる「最後の晩餐」と言われる物語(マルコ14章22節以下)において、食事の時に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という記述があります。ユダヤ教の重要な祭り「過越祭」の際にうたわれる「ハレルヤ歌集」「ハレル歌集」を、イエス一行もうたったのでしょうか。113篇を含む歌集をイエスは祈りと共にリードしていたのでしょう。晩餐の場所から出て行った先に何が待っているのかを、彼は理解し、そして覚悟していたでしょう。極限の状態にありながら神を賛美するその心を想像しています。そしてその賛美する神はどういう神なのか、と。

この歌集が過越祭に歌われた背景を考えると、弱く小さい存在に目を留めてくださる神を賛美しようという思想があると思います。超大国と言われたエジプトから、吹けば吹っ飛ぶような弱小の民イスラエルを解放した出来事に、詩人たちは神の特質を見たのです。

7節から9節において告白されている神を神として信頼した詩人の思いをイエスは継承し、言葉を尽くし、行動において示した人生でした。この祈りとも言える告白を、今、誰が祈っているのか、どこでその声が上げられているのか、想像する者でありたいと思いました。大きさや強さ、また自分の必要なことばかりが注目される今ですから。(参考図書:『杉原千畝とコルベ神父』早乙女勝元、新日本出版社)


2023年9月3日 「私の救いはどこから」

聖書 詩篇121篇

121篇は「巡礼の歌」ということですから、エルサレム神殿に詣でる信仰者たちが長く険しい旅に出かける際にうたわれたものなのでしょう。旅が安全であるように、無事に目的地に着くように。今のように旅先の情報が手に入ることもないのです。見送る人たちは神に祈ったのでしょう。

さらに、神殿に無事に着くことができて、これから故郷に帰る時に祭司が祈ってくれた歌だと言うこともできると思います。これも人の安全や無事を神に祈ったという風景があります。

世の中が便利になるのはいいことだと思います。私自身もあらゆる場面でその恩恵を受けて生活しています。ただ、その便利さの中で、人のことを想い、神に支えを祈るような感覚を失いつつあることも思います。自分自身のことを振り返ってみれば、他者を見つめる心が希薄になっているのではないかと、詩篇を読むとはっとさせられました。

信仰者たちは、巡礼の旅の途中でいろいろな風景を見たことでしょう。そびえる山々、豊かな自然、そこに生きる動物、植物…。そこに神の働きを見たでしょうし、小さな人間が小さいまま生かされていることも感じたでしょう。私などが失っている感覚を古代の人たちは持っています。生かされている人間同士、互いを思い合う心を取り戻したいと思うのです。


2023年8月20日 「バル=混乱」

聖書 詩篇144篇(参照:創世記4章17-26節)

「人間とは何ものなのか」。8篇にも似た言葉があります。そして、創世記の創造物語(原初史1-11章)の思想とも通じる言葉です。私たち人間は、神に対してどのような応答ができるでしょうか。

エノーシュという言葉を使い(弱く、小さく、はかない存在としての「人間」を表す)、人間としてのもう一つの生き方を提示した信仰者たちの目には、私たちが生きる今と同じように、人間が神になったかのように振る舞っている姿があったのでしょう。力や大きさ、身に合わない豊かさや強さを追い求め、人間や自然の命さえも支配できると考えている為政者たち。宗教家たち。今も何も変わっていないことだと思います。

144篇は「王の詩篇」というジャンルに入るとテキストにありましたが、王をほめたたえているのではなく、むしろ王といっても神に造られた人間だから、人間としてどのように神に託された責任を果たすのかが言われている気がします。それは、特に「王」として立てられた者だけではなく、私たち一人ひとりにも問われていることだと感じます。

大事な8月を迎えています。混乱=バル(創世記4章20節以下に出てくる3人の名前)が続いています。混乱をもたらしている人間の生き方を見直さなければ、大事な命を守っていくことは不可能だと思います。


2023年8月13日 「今だけ、金だけ、自分だけ」

聖書 詩篇100篇

マルコ10章18節。「なぜ、私を善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」。ヨハネ4章20-21節。「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。イエスは言われた。婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。

人間ではなく神こそが「善い」のであり、イエスは自分が神のように捉えられるのを拒否しているようです(100篇5節「神は善いお方であり…」)。ヨハネのほうでは、サマリアの女性との会話の中で、サマリアかエルサレムか、どちらが正しいのかという捉え方を超えようとしています。

100篇の中に「イスラエル」「エルサレム」といった言葉が出てこないことが気になりました。言葉の裏には意識されているかもしれませんが、詩人が意図的に書かなかったのではないかと思わされています。

イスラエル中心主義、ユダヤ教絶対化。一方では「全地よ」と呼び掛けて神の支配を普遍的に展望する。二つの思想を併存させて、詩人は読者に問いかけています。こちらが正義、その他は敵。そうやって分断の社会や世界が作られ、今もずっと続いています。最たるものが戦争という形になります。神のみが「善い者」。戦争指導者たちが、一日も早く「人間」に戻りますように。


2023年8月6日 「『人間』を探して」

聖書 詩篇122篇

辺野古の海に出て、海上保安庁の職員や作業員に出会った時になんとか思いを伝えたいと願って発する言葉に対して、反応の言葉も振る舞いもいつも同じものでした。無視するか、あるいはマニュアルでもあったのでしょうか。時々は人間的な反応もありましたが、でも、ここには「人間」はいないな、と感じることが多かったのです。

そもそも政府の人間たちが辺野古について語る言葉もいつも同じで、いくら問い詰めたとしてもそこには「人間」は出てこないと思わされてきました。これからもずっと、同じことの繰り返しなのでしょうか。

122篇の詩人は、礼拝に行けたことの喜びを冒頭に記しています。どんな立場の人たちもそこに招かれていて、友人と共に感謝の礼拝を献げることの喜びを分かち合っていた風景が見えるようです。

詩人は何も、神殿の壮麗さや大きさ、立派さなどをほめたたえているわけではないのです。さらに、神殿機構や宗教システムに平和があるようにと願っているわけでもありません。そこに集う一人ひとりの毎日が平安であり安寧であるようにと祈っているのです。詩人は「人間」を見て、その一人ひとりの「人間」を生かす神に感謝しているのです。今の世にも、「人間」を探す旅が必要のようです(参考図書:緒方正人『チッソは私であった』河出書房文庫)。


2023年7月30日 「慈愛と真実(まこと)を忘れた時」

聖書 詩篇117篇

大事な出来事を思い起こす8月を、また私たちは迎えることになります。6日、9日、15日、22日。私が知るこれら以外にも、大切な日として心にとどめている方はおられると思います。

関連個所として取り上げた122篇の詩人は、友人たちが神への礼拝に誘ってくれたことがうれしかった、と歌っています。作品の冒頭に書かれたこの言葉は、深く印象に残ります。礼拝に行ける喜び、一日の労働を無事に終えることが出来た感謝の思い。それらをどんな立場の者も招かれている豊かな空間で共に祈り、飲み食いができること。みんなが生かされている喜びを分かち合う。そんなステキな風景が見えるようです。

117篇の詩人は歌います。神は常に人間に慈愛と真実(まこと)を注ぐ。それは一時的なものではなく、気まぐれなものでもなく、偶然的でもない。常に注がれる神からの恵みだというのです。

そうやって生かされている人間が、このことを忘れた時にどんな行ないをするのか、過去にしてきたのかを問われる思いがします。他者に対して、自然に対して、そして神に対して。

大事な8月です。詩人の思いが私たちの心の中に、隣人との関係性の中に広がりますように。殺し合いが続くあの場所にも。


2023年7月23日 「造られた者としての自覚」

聖書 詩篇117篇

コロナで外出を控えている時、さらにロシアがウクライナに軍事侵攻して悲惨な映像を目の当たりにした時、命とは何だろう、人間とは何だろう、ということを考えざるを得なくされたことでした。そして、神とは何だろう、自分はどんな神を神として信仰しているのか、ということにも意識が向くことが多くなりました。

ヘブライ語聖書の中に多く出てくる「慈愛」と「真実(まこと)」。神から人間に常に注がれている恵みで、それは一時的なものではなく、気まぐれのものでもない、ずっと続けられていることだというのです。

詩篇の詩人も預言者たちも、この2つを書き残している人が多いのですが、そこにはそんな恵みを与え続けられている人間がどう生きるのかという切実な声、問いがあると思います。どのように応えられるでしょう。同じ人間に対して。さらに、自然の命に対して。そして、神に対する応答として。

『沖縄の生活史』(みすず書房)に登場する多くの人たちが、ウクライナの現状に心を痛めている、と答えています。凄惨な沖縄戦を経験しているからです。かつて目撃したことと同じことが今、ウクライナの地で起こっているのです。慈愛と真実をずっと与え続けられている人間が、その慈愛と真実をもって他者と生きることは、不可能なのでしょうか。


2023年7月16日 「見ちゃった」

聖書 マタイによる福音書28章16-20節

イエスを伝える、イエスの思いにそった生き方を目指す。神からの声として自分の責任であることを自覚したとしても、生きる中で目の前に現れ経験することに、どうしたらいいのかと、足がすくんでしまうことが、私の場合はとても多いのです。自らの限界や弱さ、小ささを思います。

目の前で、海にコンクリートブロックが投下されて、海に生きる命が殺される場面を目撃しました。土砂が入れられ、同じように自然の命が生き埋めにされ、長く続いてきた命の循環が破壊される瞬間も目撃しました。自分を含めた人間の愚かさと、愚かな行動を「見ちゃった」のです。

比較することなど失礼千万ですが、水俣に深く入り込んで病の追求と解明、患者の掘り起しと共生の道を探し続けた医師・原田正純さんの言葉を思い出します。石牟礼道子さんとの対談で彼は、「大学で神経学を勉強していて、そして自分は見ちゃった。あの状態を見て、何も感じないほうがおかしい。ふつうの人は何かを感じる。もう逃れられない。見てしまった責任ですね」と、言っています。

現場で見たものに圧倒され、自分がどのように行動していいのか分からない。でも、一人の人間としてこの課題を背負い続けるという意思と決断。イエスが見たものを今の自分は背負っていけるのか、背負おうとしているのか、問われ続けています。


2023年7月9日 「イエスを起こした神への畏れ」

聖書 マタイによる福音書28章1-15節

マルコ福音書が出来てまだそれほど長い時間も経っていないのに、イエスの最後の姿は大きく変わってきていることが分かります。宣伝が宣伝を生み、イエスの最後はどんどんと「美化」されていることを感じます。

辺野古の海に初めて船で出た時に、私は「畏れ」を感じました。恐怖ではなく、「畏怖」の「畏」です。長い年月をずっとあの場所で生き続けてきた命の営みに、ほんのわずかな時間しか関わりを持たない自分のような者が、つながって生かされていることに気づかされ、「畏れ」を感じたのです。

それは、人間が作ったものではなくて、自分の力や思いなどはとうてい及ばない中で続けられてきた命の営みです。そんな力に生かされている人間が、命のつらなりを勝手に遮断してはいけない、断ち切ってはいけない、人間はそんなことを決してしてはいけないと、思わされたのです。

イエスの最後の場面までついて来ていた女性たちは、彼の生き方を思い起こしながら、神への「畏れ」を感じたのではないかと思います。なぜなら、イエスは「起こされた」からです。つまり、神がイエスの生き方を肯定していたことに気づかされ、自分たちは「人間として生きていっていい」ことを示されたからです。不思議さと感謝と畏怖を、彼女たちは感じたと思います。この思いを持って、私たちも「ガリラヤ」に出かけましょう。


2023年7月2日 「『イエスという問い』は、今も」

聖書 マタイによる福音書27章57-66節

6月23日の沖縄慰霊の日、3年振りに現地で過ごすことができました。南部の激戦地で逃げ惑った人たちになんとか思いを馳せ、また、たるんだ自分の心を戒めないといけない、今回もそんなことを思いました。

帰って来てから与えられた聖書個所を読む中で、イエスの埋葬の現場までついて行った女性たちの心を想像しました。あの場所で、彼女たちは何を思っていたのでしょうか。生前のイエスの言葉と行動を思い起こしていたのでしょうか。そして、自分たちに出来ることは何かを思い巡らし、イエスの思いを人に伝えていく決意もしたのではないかと想像しています。

彼女たちがそうしたように、沖縄戦を生きた人たちは、厳しくつらい経験を語り続けています。その姿を見て、私自身は、語られたものを聞き、自分に与えられた問いを問い続けていかなければいけないと、改めて思わされています。

沖縄戦体験者の方の中には、雨を見ると当時を思い出してつらい、と語る人がいます。沖縄の6月は梅雨ですから、戦争当時も雨が降った日が多かったと思います。一方で、雨は大地を潤して新しい命を芽生えさせます。そうやって、沖縄の大地には命が生まれ続けてきたのです。

大地に眠る人たちから私たちへの、命を守り、生かし続けるようにとのメッセージを、雨が運んでくれているような気がします。


2023年6月18日 「あんたたちが持って来たんだよ」

聖書 申命記7章6-7節

「こんな醜いもの、あんたたちヤマトが持って来たんだよ」。米軍海兵隊基地シュワブのゲート前で座り込む、おばあからいただいた言葉です。この「あんたたち」の中に自分が入っていることを、肝に銘じておかなければいけないと思わされています。「あの時はアメリカーが攻めて来た。今度はヤマトが来たよ」。これもいただいた言葉です。海を埋め尽くすように現れたアメリカの艦船の記憶が、今の辺野古の海の状態と重なるのでしょう。まぎれもなく、この醜い姿は私たちヤマトが持って来たものです。

強く、大きく、多くがいい、という価値観の中で過ごしてきました。でも、辺野古の海に造られようとしているものは、強く、大きいものかもしれませんが、自然の命に感謝しながら日々の営みを続ける人たちの生き方こそが、最も価値のある大切なことだと教えられてきました。

教科書に載るような「偉大な人」とか有名な人だけが、歴史を動かしてきたわけではありません。むしろ、名もない、小さな人たちの営みが社会や世界を動かしてきたのです。沖縄で今、命のつながりと営みが破壊され続けています。こんな大事な命のつらなる世界を壊してはいけない、大事に守っていかなければならないと、あらゆる人たちへの問いかけが、座り込みの現場から聞こえてきます。


2023年6月11日 「荊冠が表す真の人」

聖書 マタイによる福音書27章32-56節

イエスは十字架上で絶叫し、そして最後に言葉にならない叫び声をあげて死んでいきました。その叫びを想像しなくてはいけません。なぜなら、同じことがずっと続いて来ているからです。

「どうしてこんな死があるのか。人間が死を作ってはいけない。こんな死をなくしてほしい。そんな社会が実現するように、人間を導いてほしい」。イエスの神への最後の叫びを、私自身はこのように受け取りたいと思っています。そして最後の絶叫は、「このような現実がどうしてあるのか、問い続ける生き方をしてほしい」という、私たちへの問いかけを残したのではないかと思います。

十字架の横木を担がされて歩いているイエスのまわりには、いろんな立場の人間がいました。反応も様々です。無関心か、眺めているだけか、バカにするのか、逃げるのか。では、自分自身はどこにいて、何をしているのかを考えなくてはいけないと思います。

今も、重いものを背負わされ、時にはつまずき、倒れながら歩いている人、場所があります。私たちの目の前を通っている時、自分はそれを見ながらどこにいて、何をしているのでしょうか。無関心か、眺めるだけか、バカにするのか、逃げるのか。


2023年6月4日 「生涯最後の一日」

聖書 マタイによる福音書27章1-31節

イエスの人生最後の一日は、バカにされ、殴られ、最も忌まわしい、残虐な処刑方法で殺される、というものでした。このような死を、決して美化してはいけないと思います。

彼はユダヤ当局の尋問でも、ローマの裁判でも、何も語ることはありませんでした。ただ一言だけ、「それはあなた(がた)が言っていることだ」と答えた、とあります。

「お前はキリストなのか」「お前がユダヤ人の王なのか」と問われ、「それはあなた(がた)が言っていることだ」と言い、これは反対に問いを投げ返しているような言葉です。「あなた(がた)はキリストというものをどう考えているのか。王とは何か」と。

権力を使って邪魔者を排除し、排除するためには暴力をも使う。自分は責任を持つことを拒否、回避する。どうやらこのような人間の生き方は、2,000年経とうが変わらず、これからも続いていくのでしょうか。バラバを選んだ、ということも、人間がどんな方向を向いているのかを示唆しているようです。力には力、暴力には暴力、ということでしょうか。

6月を迎えて、78年前の沖縄で何があったのかを想像したいと思います。このような人間の在り方が何を残したのか。それは、今も続いていることです。


2023年5月28日 「暴力支配への挑戦」

聖書 マタイによる福音書26章57-75節

これはもう、ただの集団リンチです。愚弄し、侮辱し、唾を吐き、目隠しをして殴る。凄惨な場面が浮かんできます。いつも思うことですが、人間とはいったい何でしょうか。

生まれて来た時にはオギャーと泣き、ケツは青くてやわらかい肌。誰かがやさしく受け止めないと、傷ついてしまいます。栄養を与えることも必要です。誰もがそうして、誰かに助けられて命のスタートを切ったはずです。不幸なことに命が守られなかった場面もありますが、今を生かされている人たちの多くは、誰かに見守られて生まれて来たのです。

そうやって助けられ生かされてきた人間に、どうして浄/不浄があり、聖/俗と分けられ、区別・差別がなされるのでしょうか。イエスはユダヤ当局の裁判に立たされる中でも、こういった理不尽がなぜ起こるのかを考えていたのではないかと思います。

不定形で書かれている「唾を吐く」「覆う」「殴る」は、今もそのような状態があることを思わせます。それは、いったいどこなのでしょうか。イエスを「知らない」とは、彼がもっていた視点と自分は「関係がない」「注視しない」ことです。愚弄され、殴られ、目隠しをされて事実が隠蔽され、唾を吐かれている場所を、私たちは見ているでしょうか。


2023年5月21日 「捕縛される正義」

聖書 マタイによる福音書26章47-56節

ゲツセマネでの祈りの後、「眠っていた」弟子たちを促して、「起きろ、立て、見よ、行こう」と言ったイエスは、どこに導こうとしているのでしょうか。彼が促す先には何があるのでしょうか。

できれば見たくない、関わりを持つことを避けたい、そのようなものがあるのでしょう。自分を「安全地帯」に置いていて、声高に「正義」を叫んでいる人もいますが、自分自身の生き方も見つめ直す必要がありそうです。イエスの招きにどう応えられるでしょうか。

ヨハネ福音書の並行個所では、イエスを捕縛する時にローマの軍隊が来ていたとなっています。1軍団、600人です。戦闘のプロがこれほど必要だったのか、象徴として読めば、神の正義を妨害する力がこれほど強いということでしょう。剣や棒という武器を持って来ていたというのは福音書に共通していますが、これも、神の正義・働きをつぶす力がこれほど強かったということでしょうか。

イエスが「誰を探しているのか」と問い、「ナザレのイエスを」と答え、さらに彼は「私だ」と言っています。それが何度も続きます(並行個所)。力や暴力で支配しようとする場所や振る舞いからは、「ナザレのイエスの本質」がなかなか見えないということでしょう。私たちは「ナザレのイエス」が見えているでしょうか。


2023年5月14日 「『眠っている』聞く力」

聖書 マタイによる福音書26章36-46節

イエスはこれから自分におとずれる過酷な現実を、すでに受け入れる覚悟を持っていたと思いますが、しかしそれでもその現実はあまりに残酷、非道なものです。そういった極限にありながら、人はどのようなことを神に祈ることができるのでしょうか。

彼は人生の中で悲惨な死を多く見てきたと思います。神が与えた人生を十分に生き切って、感謝の思いの中で人生を閉じることができた人を目撃できたのは、むしろ少なかったのではないかと思います。多くは、人間が作った死によって人生の最後を迎えた人との出会いだったと想像します。

そんな彼は、ゲツセマネの祈りにおいて、人生で経験してきた悲惨な死を思い起こしつつ、「人間が死を作ってはいけない。こんなことをなくしてほしい」と、神に祈ったのではないかと思わされています。

このイエスの祈りを、今を生きる私たちの時代にも、あらゆる場所で祈り続けている人たちがいます。どこで、誰が祈っているのかを、私たちは「目を覚まして」出会い、聞く者でありたいと思うのです。

弟子たちは、イエスが何度祈っても、眠っていました。私たちも、イエスの祈りを聞くことができず、「眠っている」のかもしれません。何度眠っても、何度も「起きろ」と言ってくれるイエスの声を聞きたいものです。


2023年5月7日 「一番の失敗は、失敗をしないこと」

聖書 マタイによる福音書26章31-35節

この記事を読んでいると、じゃあ自分だったらどうするだろうかと考えてしまいます。「お前はどう生きるか」という問いの前に立たされた時に、自分はどういう選択をするのか、自分は何を一番大事にしながら生きる決断をするのかなと、そんなことを思わされる物語です。

人間はそんなに強くはありませんから、「あなたを裏切るようなことはしない」とか、「あなたと一緒に死を迎えるようなことになっても、ずっと一緒にいます」という決意の言葉も、実際に事が起こった時には反対のことをしてしまうという、それが人間というものなのかもしれません。

世の中の流れに乗っかっていくことが楽だということもありますし、自分を傷つけないようにするとか、関係を持つことを避けるとか、重い決断をする時にはそんな思いもよぎります。

失敗を何度もしてきた自分の人生も思い起こすのですが、一世一代とも言える決断に「失敗」したペトロたちに、イエスは「ガリラヤに連れて行く」と言います。ガリラヤにこそ「人間」が住み、人の生き方の基本姿勢が見えるのだからと。失敗の先に見えることがあり、失敗しないと見えないことがあります。私たちが何度も失敗しても、イエスは声をかけてくれるでしょう。「ガリラヤを見よう」と。


2023年4月30日 「『人間の出発』の晩餐」

聖書 マタイによる福音書26章26-30節

「最後の晩餐」「聖餐式の起源」と位置づけられる物語ですが、教会の神学が入り込む前には、イエスが分け隔てなく誰とでも食事を共にした風景がここにあったのではないかと思わされています。

ローマ支配下、地下墓地(カタコンベ)で礼拝を献げ、信仰を守っていた人たちがいました。そこの壁には、ギリシア語で「イクトゥ―ス」と書かれた絵が刻まれていたと言います。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」の言葉の頭文字をとって「イクトゥース」=「魚」となります。

信仰者たちは、生前のイエスの最も印象深い行為である食事の場面を思い浮かべながら、礼拝を献げ続けていたのでしょう。親しかった人や別れてしまった人を思い起こす時に、私たちもその人の最も印象深かった行動などを心に浮かべるのではないかと思います。

そしてイエスは、食卓を囲みながらみんなを祝福したのでしょう。それは「最後の」ではなくて、「出発の」晩餐だったと思います。暴力的に支配する社会から、人が人として当たり前に生きていける社会を目指す出発の晩餐。奴隷状態のようにされていることからの解放を目指す出発の晩餐。人間の命が生かされない「死」の状態から、命が生き生きと生かされる社会を目指す出発の晩餐です。「人間の出発」への旅に、私たちも出かけましょう。


2023年4月23日 「無理するなよ」

聖書 マタイによる福音書26章14-25節

まことにお気の毒なことに、ユダはイエスの「裏切り者」という烙印を押され、さらに横領の罪まで着せられるという立場に置かれています。果たして事実はどうだったのでしょうか。

さらにヨハネ福音書では、イエスの頭に香油を注いだ女性を批難したのはユダだったとあります。それは、預かっていた金をごまかそうとしたからだと。物語を正確に書き残そうとしたヨハネ福音書の著者がこう書いていることには、注意しなければいけないと思うのですが…。

私自身は、もしかしたらイエスの一番の理解者は、ユダだったのではないかと思っています。理解できなかった弟子たちは、理解していた人間を駆逐する必要があったと思われるからです。ユダはいつもイエスに、「無理するなよ」と、語りかけていた光景が浮かんでくるようです。

それにしても弟子たちはみんな、イエスの殺害現場から逃げているのです。のちに彼らが「聖人」となり、教会の最高指導者という権力を持つためには、彼らの振る舞いを越える「極悪人」が必要だったとも思われます。そういう存在を作る必要があったと同時に、彼らにとってのイエスの死の意味が必要になります。イエスの死が、ここから急速に美化されていくことに注目せざるを得ません。「贖罪信仰」のスタートでしょうけれども、確かに弟子たちにとってイエスの死は「私たちのため」であったのです。そしてそれがやがて、「全人類の罪を贖うための死」となります。

人間の死を美化し、何かを得るために犠牲を作る。かつての戦争の時代もそうでした。キリスト教は、そういった暴力を批判できるでしょうか。



2023年4月16日 「妨害があっても」

聖書 マタイによる福音書26章1-13節

「神殿」や「弟子」という言葉が意味する「力」や「権力」などが、社会でどういう働きをしているのか、イエスの頭に油を注いだ女性の行動から示唆されているようです。

女性は、イエスこそが「王」だと見抜き、心から信じていたのではないでしょうか。神が即位させる「王」は、暴力や権力をもって人を支配するようなものではなく、命に目と心を注ぎ守り切る行動を起こす者こそがそれだと、女性は気づいていたのでしょう。

弟子はこの行為を批難しますが、たとえ妨害があっても自分が信じることを貫く女性の姿に、私たちは学びたいと思うのです。この世や社会がどんな状態になろうとしても、イエスの生き方を中心にした自分たちの思いを貫いていくこと。たとえ妨害があっても、神の思いを自分たちの生きる道として守り続けていきたいと思うのです。

ヤコブ書の最後に、この社会にいつか神の正義が実現するんだと信じている人たち、待ち望んでいる人たちがいて、その人たちにこそ神の祝福があるように祈ろう、連帯しようと、ありました。私たちもそうありたいと思うのです。ヤコブ書の著者の視点と、今日の女性の行動から、私たちは具体的に何を大事にして日常を送ることができるのか、問われています。


2023年4月9日 「内と外」

聖書 マタイによる福音書25章31-46節

「互いに助け合いましょう」と言えばとても聞こえはいいのですが、「互い」というのが誰を指すのかによって、事情は変わってくるでしょう。イエスがここで「これらの人たちにしたことは、私にしたのだ」と言って、弱く小さくされている人たちと自分とを重ね合わせるようにして発言したものだとしたら、私たちに問われていることは、「イエスのごとく生きよう、彼の生き方に合わせた生き方を私たちもしていこう」となると思います。それなら、私も納得できることです。

一方で、「これらの人たち」が教会や、キリスト者や、キリスト教という限定されたものだとする読まれ方もなされてきたことを思います。「互いに」は、この範囲内で行なわれるのです。飢えた時に食べさせ、渇いた時に飲ませ、よそ者扱いされていたら温かく迎え、着る者を与え、病を得たら看病し、牢獄に入れられたら訪ねよう、と。これを実践することは、イエスにすることになるんだから…。

「マルチン、私は明日、お前に会いに行く」。靴修理屋のマルチンにイエスの声が聞こえます。しかし、イエスは来ませんでした。その日、マルチンが出会ったのはどんな人たちだったのでしょうか(レフ・トルストイ『愛あるところ神あり』)。



2023年4 「『自分』という賜物を生かす」

聖書 マタイによる福音書25章14-30節

それぞれが神からいただいた賜物を生かして努力していきましょう、という内容として受け取って済むような話なら、すぐに納得できるものですが、「タラント」という庶民の感覚からかけ離れている金額を出したイエスの意図を考えると、そうは簡単にはいかない気がします。

気になるのは、3人目の人の行動です。この人は、「主人」から預かった1タラントを地面に埋めて隠していた、とあります。それで「主人」からは叱られることになっていますが、私自身は、この人が自分の個性・賜物を「大事に抱え、守っていた」と理解できるのではないかと思いました。

莫大な金を動かして富も権力も得ている人間がいる一方で、懸命に働いても貧困から抜け出せない労働者たちがいて、その人たち自身がつぶされている日々がある。イエスは、「ひどい世の中になったものだ」という意味で、今日の話をしたのではないかと思わされています。

個性がつぶされ、全体に従うことがよしとされる。そういった社会で、どれだけの人たちが厳しい日常を強いられてきたか、想像する力を持ちたいと思わされます。それぞれが与えられた課題に、その人がその人として、個性をつぶされずに、自分というものを見失わないで向き合うことができるようにと、祈り求める者でありたいと思います。