2025年8月24日 「眠っているのか」
聖書 マルコによる福音書14章32-42節
みんな寝ていたのですから、イエスが何を祈ったのか、もはや誰にも分かりません。マルコの内容に従うしかないと思いますが、ギリギリのところでイエスは何を神に祈ったのでしょうか。
イエスとて人間。十字架で虐殺されることなんか平気、などという思いではなかったはず。自分の苦しみを正直に告白したのではないかと思います。恐怖もあったでしょう。
同時に、彼は十字架というような、人間が人間の命を奪う暴力装置をなくしてほしいと祈ったのではないかと思うのです。人間が死を作ってはいけない。こんな死の形をなくしてほしいと、神に祈ったのではないかと想像するのです。
自然災害などはある程度の予見はできますが、残念ながら人はそれを阻止することはできません。でも、被害を受けた人たちに寄り添い、助け合うことはできます。一方で、戦争などの暴力は人間が作ったのですから人間が壊すことができます。一刻も早く終わらせないといけないことが今も続いています。
マルコが何度も「眠っているのか」と書いたことは、暴力で命を奪う力があることにあなた方は「眠っているのでは」という問いかけでしょう。イエスの祈りを祈っている人たちが今もいます。そのことに、私たちの心が眠っているのではないか。目を覚ましていたいものです。
2025年8月17日 「『暴力』から『生』への食事」
聖書 マルコによる福音書14章22-26節
「主の晩餐」「最後の晩餐」などと言われる個所ですが、この出来事をよく見てみると、「出発の晩餐」「最初の晩餐」のような気がします。イエスが実践した食卓は、そこにいる人たちに人としての生き方を考えさせるものだからです。招かれている者としてどう生きるのか。この食卓が目指す方向性はどんなものなのか。一人ひとりに問われる食事です。
私たちが生きる今の教会が儀式として行なっている「聖餐式」は、教義として定められるよりも前の、イエスが行なった食事に目を注がないといけないと思わされます。生前のイエスにまでさかのぼらないと、イエスが考えていたことを抜きにして行なう儀式になってしまいます。この出来事が示すことは、区別・差別の否定、克服への道です。
「お前たちの先生はどうして罪人どもと食事をしたりするのか」と、律法主義の学者たちが文句を言ったほどですから、イエスは日常的にこのような食卓を実践していたのでしょう。何も特別に、「弟子たちだけ」というわけではなかったと思います。
教会は問われています。何かの条件をつけて人と人を区別する在り方を生きるのか。すべての人が神の祝福の中に置かれていることを実践し、異なる者同士がいかに共に生きることができるのかを学ぼうとするのか。
2025年8月10日 「身を投じる」
聖書 マルコによる福音書1章9-11節
イエスが浸礼を受けた時、「天が裂けた」とあります。そして「お前は私の愛する息子、私はお前を喜んだ」という声が聞こえたと、マルコは記しています。
「天が裂けた」とは、神が住むとされた天と人間が生きる地上との境目が裂けた、ということです。自分は特別だと自負していた人間によって勝手に開け閉めされていた天が裂ける。イエスの登場によって、人間の傲慢や独善主義が破壊されたことを言っているのでしょう。
ついでに言えば、イエスが十字架で殺害された時には「神殿の垂れ幕が裂けた」とあります。これも、神が臨在しているという場所と人間との境目にある幕(壁)が裂けたということ。特別だと思っている人間だけが神の幕屋に入れるとしていたその傲慢さが「裂けた」瞬間だったというのでしょう。イエスはそういう生き方をした、との証言です。
自分と誰かを分ける。自分は正義、他は悪。いつの時代にもこのような考えに基づいて、自らを正当化する人間たちが絶えないのです。今、どこに、これらの思いにとらわれている人間たちがいるのでしょうか。彼らは何をしているのでしょうか。レイシズム(人種差別)とも言える振る舞いで、自分が邪魔だと思っている人間を大量虐殺している国家があります。それがイエスがかつて生きた場所だと思うとおぞましい。イエスの戦いは、今もずっと続いているのでしょう。
2025年7月27日 「生き方としてのキリスト教」
聖書 マタイによる福音書7章21-23節/ルカによる福音書7章46節
イエスの皮肉のように聞こえる言葉ですが、おそらく著者マタイのものでしょう。でも、イエスはこんな発言を何度もしていたのではないかとも思わされます。さらに、ルカの女性の振る舞いの記事も読んでください。
キリスト教は「生き方」だと思います。教会の内と外、クリスチャンとノンクリスチャン、篤い信仰と薄い信仰…、教会という組織の教理上は大事なのかもしれませんが、生きている人間にとってはどうでしょうか。それも、イエスが積極的に出会おうとしたような人たち、厳しい日常を生きざるを得なくされている人たちにとっては、このような区別はどのように映るでしょうか。疲れた心、打ちひしがれた魂に、「キリスト教」「教会」は温かさをもって迫ってくるのでしょうか。
ルカのほうの記事では、一人の女性がイエスの足に油を注いだとあります。生きにくくされていた女性が、「真の王とは何か、誰か」を見抜いていたのでしょう。この人の足が、この足が、忘れ去られている人たちの所に向かい、駆けつける。だから、この足を祝福し、守らなければいけない。女性は祈りと願いと祝福のしるしとしてイエスの足に油を塗ったのでしょう。では、私たちは教会に生きる者としてどんな生き方ができるのか、何ができるのでしょうか(安重根を取り上げた著書と映画『ハルビン』を参照しました)。
2025年7月20日 「埋もれている人、場所、真実」
聖書 マタイによる福音書7章13-14節
いかにもイエスが言いそうな言葉なのですが、これがマタイや編集者の言葉だとすると、イエスを信じる共同体への生き方を迫るものだと感じています。マタイの教会倫理・道徳を重んじる思想には慎重に向き合うべきだと思いますが、「狭い門」との言葉からはイエス本人の生き方がどのようなものだったのかに思いを向けさせるものを感じます。
自分自身のことを思うと、狭く細く見えにくい、そんなところに大事なことがあるのになかなか気づかない、気づこうとしない。「真実」があるのにそれを見たり聞いたりすることに思いを至らせることができない。むしろ、感覚を麻痺させることに長けているとさえ思わされます。
イエス時代と同じように、今も苦痛を伴いながら生きた人、生きている人たちがいて、その声を聞こうとすれば草に覆われた道をかき分けるようにして声を探していかなければいけないのです。今この時も、人に見えにくい、人が見ようとしないような苦痛を抱える人は、常にどこかで生まれているのです。
「狭い門から入れ」との言葉がもしイエスの言葉ではないにしても、彼の生きざまに自分の日常を少しでも合わせていきたいと、そんな決断が必要だと示されているようです。(韓国の作家キム・スムさんの著作を参照しました。『ひとり』『Lの運動靴』『沖縄 スパイ』『さすらう地』)
2025年7月13日 「画面を見ろ」
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
手元にあるテキストによると、今日の話はイエスのオリジナルではなく、新しいものでもない、ユダヤ社会でよく話されていたものだというのです。ユダヤ教のラビ(教師)のコメントだそうで、そうだったのかと思わされました。
同じ言葉にしても、語り手によって受け取る側の思いは違ってくると思います。日常的に接していた話だったとしても、イエスが語った言葉はどんなふうに受け取られたのでしょうか。
花がよく言われる「ゆり」や「アネモネ」ではなく「あざみ」だとすると、あざみは王が好んで着た衣の色であり、棘がある。そして枯れると燃料にされるために燃やされるのだそう。鳥が「カラス」だとすると、聖書の証言にも忌み嫌われる存在として見られていた。これが正しいとすると、イエスが病を持つ人や子どもや女性を祝福したことに通じる気がします。
イエスが考えていた神の支配・神の国というものは、この社会・世界で最も小さく弱くされているものが最も大事にされること。イエスはこのことに通じる特徴的な花と鳥を指しながら、神の思いを伝えようとしたのでしょうか(私たちの今は、野の花・空の鳥を見よ、ではなくて、コンピューターの画面を見ろ、としていることで、大事なことを忘れているのではないかと、この題をつけました)。
日常的に聞いていた話でも、民衆にとってはまったく違う視点に気づかされ、権力者たちにとっては、それこそ「棘」のある指摘だったのではないかと思います。
2025年7月6日 「花の名前が覚えられないのです」
聖書 マタイによる福音書5章43-48章
「武器を持つな。敵を愛せ」。イエスは誰に、どんな場面を見て発言したのでしょうか。
私自身は、彼が圧倒的な力を持って人間を支配しようとしている側に向けてしゃべった、叫んだ言葉、として受け止めています。もし、武器を持つな、敵を愛せという言葉が適用されるとすれば、それは権力者や侵略者たちのその振る舞いが、正当に平等に裁かれるという世界・社会があってこそ機能するものだと思うからです。
ところがイエス時代も今も、状況はどうでしょうか。ウクライナを侵略しようとしているロシアの振る舞いも、人間を人間として認めないでガザを攻撃し、虐殺の限りを尽くしているイスラエルの振る舞いも、それに対して国際社会はほとんど何もすることができない。もし私のような安全地帯に生きている人間が、ウクライナやガザに行って「武器を持つな。敵を愛せ」と言ったところで、何の役に立つのでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。かえって冒瀆になる言葉だと思います。
この言葉を受け止めなければいけない人間たちがいます。この言葉なんか必要がなくなるような世界を待っている人たちがいます。私たちはどの立場に立って、イエスの言葉を聞けるでしょうか。
2025年6月29日 「神を殺すな」
聖書 マタイによる福音書5章13-16節
沖縄を訪ねても辺野古の現場に行っても何をすることもできない。ヤマトが行くことがかえって失礼になってやしないか。地の塩でもない、世の光でもない、明かりを灯すような働きをする力もない。ここはひとつ、ふさわしい人たちにそれらを任せておいて、自分は社会のすみっこにいてじっとしていたらいい。心から、そう思います。
でも、イエスという人は励ましてくれているのでしょうか。民衆に話した言葉は、「あなたたちこそが地の塩であり…」というのです。「こそ」、強調されている言葉です。
彼が話した人たちを想像すると、誰が社会から「塩」であり「光」であり、暗い場所を照らす「ともし火」として認められていたでしょうか。むしろ、社会・宗教からは救いの外にある存在として区別・差別される中に生きざるを得ない人たちでした。その人たちに、「あなたたちこそが地の塩…」だと、イエスははっきり言ったのでした。
時の権力者たちがどう判断しようと、神はあなた方に塩を与え、光を与え、人を照らすともし火を与えているのだから、それを使えと、励ましてくれているような気がしました。私たちの教会にも言ってくれるでしょうか。あなたたちの教会こそが、できることをやっていけ、と。
2025年6月15日 「『家』に帰ろう」
聖書 マタイによる福音書11章25-30節
段落のはじめに「その時」と書かれているのですが、それがどういう時なのか分かりませんので、イエスがどんな場面でこれらのことをしゃべったのか不明です。さらに、一部を除いて生前のイエスにまでさかのぼる可能性のある言葉はほとんどないと思われます。
ただ、彼は「疲れただろう」「しんどい毎日だね」「けしからんことがいっぱいあるね」と、まわりの人たちに話しかけていたかもしれません。そんな姿が、この個所には残っている気がします。
「疲れた人」とは労働で疲れたこと。「重荷」は日常のしんどさや責任、負っていること、負わされていること。イエスは日常の生活で疲れてしんどい状態にあった人たちに、このように話しかけたのだと思います。
自分で自分のことを「柔和で謙遜な人間」だと言う人は、私なら信頼できないと思います。本当に柔和で謙遜な人は、自分で自分のことを柔和で謙遜な人間だなんて言わないはず。ここでは彼が、ギリギリの毎日を暮らしている人たちと交わりを持った風景があるのではないかと思います。
疲れたら休める場所。互いのことを祈り合える場所。また元気になって一週間の旅に出かけようと励まし合える場所。それが教会だと思います。みんなでがやがや飲み食いしていたイエスの集まりが目に浮かびます。
2025年6月8日 「洗脳装置としての教会に、喝っ|」
聖書 ルカによる福音書18章15-17節
並行個所のマタイとマルコが使っている「子ども」と、ルカが用いた言葉が違うことに気づかされました。マタイとマルコは「子ども、少年」、ルカは「乳飲み子」「新生児」などの言葉です。
生まれてすぐの赤ん坊の時から幼児と言われる特にこの時期は、親や養育者は幼く弱く小さな存在に、必要だと思った食べ物や生きるためのものを必死に考えて与えようとするでしょう。赤ん坊はそれを受け入れます。
大人と言われる人たちは、無条件で受け入れる幼子たちに何を与えようとしているでしょうか。イエスが幼子たちを祝福した時、祝福と同時に、子どもたちへの責任があることも示唆したのではないかと思わされます。
ルカが「乳飲み子」「赤ん坊」の言葉を使っていることから気づかされたのですが、与えられたものを受け入れる存在に私たちは、いったい何を与え、伝えていけるのでしょうか。そんな問いがある気がしました。
「戦争が出来る国」から「戦争をする国」になろうとしている今、私たちは自分の生き方において何を伝えていけるのか、どんな振る舞いができるのかを思います。かつての戦争の中で徹底した軍国教育がなされて、人間が人間でなくされていく歴史がありました。同じような危険がすぐそばにやってきている今、私たちは、教会は、どんなメッセージを出せるでしょうか。
2025年6月1日 「赦しを与えるエネルギー」
聖書 ヨハネによる福音書20章11-18節
意図的に挿入された部分を除くと、ヨハネ福音書はこの一連の個所で終わりです。著者ヨハネは、「見ないのに信じる者は、幸いだ」との言葉で福音書の執筆を終えていることになります。
ところが少し前の「復活の記事」で、イエスの墓に行ったマグダラのマリアには、「私は主を見ました」と言わせています。ここでは「見た」と書かれています。ヨハネの意図があるものと思われます。イエスの何を「見た」「見る」のか。彼が信じた神をどのように「見ている」のか。ヨハネの問いはこのようなところにあったのでしょうか。
6月に入って、沖縄の「艦砲ぬ喰えーぬくさー」との言葉を強く意識しています。どうしてあの戦争で自分は生き残ってしまったのかと、深い「負い目」を持ち、自分を責めるという厳しい毎日を生きてきた人たちがいます。これは、イエス自身が感じていた「負い目」とつながる気がします。
彼には多くの「負い目」があったと思います。家族や故郷の人たちに対して。また、神に対して。それでも自分を生かして、「負い目」があっても生きていける力を与える存在、自分を圧倒的な支配で赦すエネルギーのようなものを神として感じてイエスは生きたのではないかと思います。「艦砲ぬ…」で苦悩の中にある人たちを、神が抱きしめてくださいますように。
2025年5月25日 「祈りの背後にあるもの」
聖書 マタイによる福音書6章1-15節
何かしらの出来事や物事を批判するためには、それなりの材料なり根拠を示すことが必要です。ここでのイエスは「祈り」について発言しているようですが、彼の批判はいったいどのようなものだったのでしょう。
ユダヤ教には伝統的な祈り「カディシュ」というものがあります。イエスは「それで十分だ」と言いますが、カディシュの本質を見ていないことへの批判だったのでしょうか。さらに、カディシュの中に潜む課題についても何かを感じ取っていたのかもしれません。
狭い民族主義に陥っているがゆえに、神との対話としての祈りにも区別や差別の思いがあることを問題にしたのでしょうか。批判の対象にされた人たちは言ったのでしょう。そんなに言うなら、お前はどう祈るのか、と。
イエスは答えたのです。これは私たちが祈る「主の祈り」のもとになっているものですが、イエスの祈りはシンプルかつ見失っていた神への思いを指摘するようなものでした。
お父ちゃん、と呼びかけ、社会全体が神を神とする世界実現への願い、今日のパンが食べられない存在への助けと自分を含む責任のありかの告白と克服への願い。この祈りは、祈りの背後にある存在を見てのもので、こう祈らざるを得ない人たちの心の声だったと思います。
2025年5月18日 「神は開き、人間は閉じる」
聖書 ヨハネによる福音書14章1-11節
ヨハネの共同体・教会は、危機に瀕していたのでしょうか。イエスの告別説教として言葉を紡ぎ、自分の教会を励ましているように読めます。イエスの最後の日々の苦しみに重ね合わせなければいけないほどに、ヨハネもまた、厳しい現実を生きていたのかもしれません。
彼は、神の国にはきちんと整えられた居場所が用意されている、と語ります。神は、人が生活する中で疲れたり、打ちひしがれたりしても、その身体と心を休めることができるような場所を作ってくれているのだから安心しろと、言うのです。そうやって共同体を励ましているのでしょう。そしてその場所に入るためには条件があるわけではないのです。神が開放している窓を、人間が勝手に開け閉めしてはいけないのです。
ヨハネはさらにイエスに語らせています。「イエスは道であり、真理であり、命である」と。ヨハネにとってイエスの生き方こそが従うべき道であり、そこに真理が見えるのであり、命を生かす振る舞いにつながるのだと言っているように思えます。
イエスの道を歩こうとすれば困難が待っている。真理は見えにくい場所にあるもので、探そうとしたらまた困難がある。命を生かす道を探れば、抵抗にあう。私たちが生きる今も同じことが起きていると思います。でも、真理と命につながる道を見出そうとして、困難の中を歩いている人たちがいます。私たちは心と身体を、そんな大事な働きに合わせていきたいと思うのです。
2025年5月11日 「マルタ・マリアム連合VSキリスト教の『イエス』」
聖書 ヨハネによる福音書11章17-27節
ふざけたと思われるようなメッセージ題にしましたが、真剣です。キリスト教で「宣教されたイエス」は、姉妹にこてんぱんにやられ、敗北です。なぜなら、ここでの「イエス」は、人に寄り添っていないからです。
私には、著者のヨハネがあえてこのような行動をイエスにさせたとしか読めません。ヨハネはそれほどまでに、教会やそのイエス理解、神理解に批判の目を持っていたのでしょう。イエスをキリストとして出発した宗教としての教会は、新しい壁を作っていたのでしょう。
その意味では、私自身も今の教会も、ヨハネの批判の対象であり、彼の問いの前に立たされていることを自覚する必要があると思います。自然と人の命をかえりみようとせず、自己中心的な思想を持った生き方をしてしまっていること。今の教会も例外ではないと思います。
この段落に続く場面で、ヨハネは一転して「人間イエス」を描きます。彼はラザロの死に直面して憤り、そして泣くのです。これこそが、人としての自然の姿であり、悲しみ苦しむ人たちを前にして出来る、人としての振る舞いだと思います。なぜこのようなことになったのかと、死を前にして苦しむ人に寄り添おうとする。限界がある人間として、互いに支え合う。命に区別はないのです。もし、これらの思いを失っているとすれば、教会とはいったい何でしょう。
2025年5月4日 「神の支配(国)はどこに」
聖書 マタイによる福音書12章38-42節
「お前がやっていることが神に由来するものだと言うのなら、その証拠を見せろ。はっきり見える形で示せ」。ファリサイ派律法学者から問われたイエスは答えたのでした。「そんな『しるし』は求めるな」と。
イエスの意図はどこにあったのでしょう。マタイの記事には(ルカも)、マルコにはない言葉、ヨナの話とシェバの女王の話が出てきています。イエスの言葉にまでさかのぼるかどうか不明ですが、もし彼がこれらの話をしたのだとすると、「奇跡的なものや大きなもの」に目と心を奪われがちな生き方に問いをくれたのかなと思いました。
神の働き(国)を「大きなもの」や「力あるもの」、「奇跡的なこと」の中に見つけることもいいのかもしれませんが、イエスの視点はいつもそういったものの陰にある、見えにくくなっている事柄に注がれていたと思わされています。
神の働きは私たちの日常の中にある。耳を澄ませば、心の目で見れば、そこにも、ここにもある。人間が意識しないような場所に、神の働きはずっと続けられている。イエスはそう言ってくれたのではないでしょうか。
そして、人が人として命を生かし合う行動の中に、神の国ははっきりと見える。たとえ小さくても、正義、公平、平和を目指す働きに神はつながってくれていると、教えてくれたのでしょう。
2025年4月27日 「命への責任-京都の塔」
聖書 マタイによる福音書28章11-15節
イエスの死の後始末。どうしたらいいのか考えた人たちがたくさんいたのでしょう。ある人は自分の都合のいいように。そしてまた違う立場の人たちはその人たちの都合のいいように。人の死というものを、いったいどう考えていたのでしょう。
権力や金を使って事実を隠蔽する。歴史を修正する。今も同じことが行なわれています。イエスは権力機構に殺害されたにもかかわらず、のちに新興宗教として出発したキリスト教もまた、同じような権力主義に陥って、「私たちの主、私たちの罪の贖いのために死なれた主」として崇め奉る。これが「正統」であり、他は「異端」とでも言うように。
ここには問題があると思います。それは、イエスがいったい何に抵抗して生きたのかが見えなくなるからです(見なくなる)。彼がどんなことに腹を立て、向き合い、怒り、泣き、そして笑い、喜んだのか。そんな、人間として生きた彼の姿が見えないのです。最も大きな問題は、彼がどんな力に命を奪われたのか、虐殺されたのかを考える感覚を失わせてしまうことです。この態度からは、今の世界・社会で起きている紛争、戦争、そしてかつての日本の侵略戦争に対して批判ができなくなります。
もし今度、沖縄に行かれることがある方は、宜野湾市の嘉数台地にある「京都の塔」を訪ねてほしいと思います。そしてそこに刻まれている言葉をかみしめてほしいと思うのです。沖縄に建立されている各都道府県の慰霊碑には、英霊や慰撫、顕彰、玉砕などの軍国主義寄りの言葉が刻まれています。ところが京都の塔にはそれらの言葉がありません。死者とその死を美化する慰霊碑に対して、京都の塔の「慰霊」の姿勢・思想は、今を生きる私たちに迫ってくるようです。
死者とその死を美化することに、私は本当の「慰霊」の心があるとは思えないのです。悲惨な死をもたらしたものは何か。それを追求しないところでの「イエスの死」とは、いったい何なのでしょうか。イエスの死を美化してはいけないのです。
2025年4月20日 「生き切る」
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章
人間誰しもそうだと思うのですが、パウロという人はよほど「死」というものを恐れていたのでしょうか。この個所を読んでいると、そんなことを思います。私自身も怖くないと言えば、うそになりますが…。
地上で生きた人間の姿と、天にあげられた後の人間の姿は違うのだ。人間の肉、獣の肉、魚の肉に違いがあるように、復活の身体は地上でのそれとは違うのだ。月、太陽、星の輝きにも違いがあるように、地上を生きた肉体が持っていた輝きと復活の身体の輝きも違う。神がすべてを新しくされる合図のラッパが響いた時、一瞬のうちに身体の復活が起きる。
復活を主張するパウロは、神が新しいものを着せてくれてそうなるのだと、強い思いを持って書いています。これが、少なくともコリント教会に宛てた時の彼の復活思想だったのでしょう。ですが、私にはとても難しくて、疑問も持ってしまう、としか言いようがない。そんな思いでずっといました。生涯を閉じた後は神に委ねるしかない。その時のことは分からない、人間にはそんなことに簡単に答えたりという資格はない、そんなことは人間に許されている領域を超えている。そう思っているからです。
大事なことは、今、与えられている命を懸命に生きることだと思います。自分と周りの人たちの命を大事にし合って、守り合って、支え合って生き抜いていくこと。それが命の継承、循環につながっていくことを思います。イエスが示してくれた生き方を大事にしたいものです。
今日はイースター。80年前のイースターの日(4月1日)、米軍は沖縄島に上陸しました。「無血上陸」だったため、米兵の中には「エイプリルフールなのか」とか、「イースターの恵みだ」と感謝しながら上陸したと、証言している人もいます。なんということかと思います。イースターは、命のことを改めて考えることに私たちを導きます。
2025年4月13日 「こいつは何者だ」
聖書 マタイによる福音書21章1-11節
イエスがエルサレムに入ったのがユダヤ教の三大祭りの一つ、「過越しの祭り」の時だったとすると、大勢の人たちでごった返している中でのことだったと思われます。わざとそうしたのか、真の礼拝を献げるのだという決意だったのか、想像するしかありません。ただ気になるのは、福音書の証言によると、彼は「ろば」を伴ったということ、それも母親と子どもの2頭だった、ということです。
ベトファゲもべタニアも、ヨハネ福音書の著者によると、エルサレムから約3キロほどの距離の町だったと言われています。ろばを借りたイエスの姿を奇跡的なものとして読ませようとしている気がしますが、彼は何度かこの町に来たことがあって、どこに行けばろばが借りられるかを知っていたのでしょう。そして言うのです。「ろばたちの主人が必要とされています」と。彼は緊急性の馬ではなく、庶民の日常のそばにいたろばを伴ってエルサレムに入ったのです。人間の心を携えて、ということでしょうか。そして2頭。命を生む母と、その命を与えられた子どものろば。命をないがしろにする権力者への挑戦のような風景です。
さらにベトファゲは、神殿御用達のような役割を果たしていたという報告もありました。神殿に献げるための犠牲の動物やパンなどを用意する、というのです。しかしイエスは、その町でろばを用意したのです。神殿という権力機構から見向きもされないような生活者のパートナーであるろば。権力を誇る人間たちに生活者の視点をぶつけるような振る舞いでした。
イエスはろばを必要としている。人の日常と、人の命が生き生きと生かされる、そのことをイエスは必要としているのです。
2025年4月6日 「見えるようになりたい」
聖書 マタイによる福音書20章20-28節
聖ヤコブと聖ヨハネという「偉大なる」弟子たちが、自ら権力のナンバー2と3の位置に置いてほしいと頼むわけがない、そうさせてはいけないと思ったのか、マタイはイエスに頼んだのを彼らの母親ということにしています。まことにお母さんがお気の毒。とばっちりもいいところ。息子たちの裏口入学を画策する母親といったマンガじゃあるまいし。
イエスは怒っています。「あなたたちの生き方とはそういうものなのか」「あなたたちの信頼というものはそういうものなのか」と。あきれていると言ったほうがいいかもしれません。さらに、狭く偏狭な考え方ではなく、「万人の奴隷となれ」と言っています。なぜなら、「人間は身代金を献げるために生きる」のだから、と。
身代金と聞いてすぐに「イエスの贖罪」と結びつけることは、私には疑問です。「身代金」は、「奴隷状態」「捕虜の状態」にされている人たちを解放するための手段です。
イエスは言うのです。今、目の前に「捕虜」「奴隷」というものが当てはまるような状態にさせられている人がいたら、自分の思いと行動、心を尽くして解放への道を探ること。人はそうやって生きるように神から求められている、と。
欲にまみれた人間への厳しいメッセージです。私自身も含めて、イエスの問いの前に立たされていることを自覚しなければと思います。(マルコがこの記事の後に「盲人の癒し」の物語を置いていることが重要だと思います。「見えている」と思っている人間たちは、実は「見えていない」。「見えない」という人が、イエスとの出会いを通して「見えている」のです。)
2025年3月30日 「仕える」
聖書 マタイによる福音書12章22-32節
4か月ほど前のアドベントの時期に、マルコ福音書の並行個所をご一緒に読みました。今日はマタイ版の「ベエルゼブル論争」の記事です。
「バアル・ゼブブ」。イエスを揶揄した言葉ですが、「悪霊が住む家の主人」とか、「汚物神(糞尿の神)」だとか、「ハエの神(王)」だとかを表わすものだと言われているようです。どの言葉を取るにしても、よくもまあこんな言葉を使って人を誹謗中傷できたものだと思わされます。
ただ、福音書記者、特にマルコの思いだと想像しますが、イエスの本質を見抜いていたのは、皮肉にも彼を断罪し、亡き者にしたいと願っていた人間たちだったということです。いつも近くにいて、彼の言葉と振る舞いに接していた弟子たちをはじめとする人間たちは、イエスとは誰かという真実を捉えられなかった、ということでしょうか。
「ハエの神」という、ある地域では大切なものとして崇拝されていた存在も、ユダヤ人にとっては穢れたモノ。確かにハエの動きはマイナスのイメージで捉えられるものですが、イエスはそのような存在に重ねられるほどに、「穢れとされていた人たち」と積極的に交わったのでしょう。
「穢れ」とされていた人たちの「病い」が癒され、元気を取り戻す。そこにイエスは神の国を見ていたのでしょう。神の働きは、人と人が仕え合う日常の中にあることを教えてくれています。
2025年3月23日 「サタン、引っ込んでいろ」
聖書 マタイによる福音書16章13-28節
マルコの並行記事と読み比べてくださることをおススメします。最も大きなことは、イエスは誰かという問答の後、マルコでは「私のことを誰にも言うな」との結論になっていますが、マタイでは「私がメシアであることを誰にも言うな」となっていることです。
閉鎖的、偏狭だと思います。イエスは「誰がキリストだとかメシアだとか、そんな議論をするな」と言って弟子たちを𠮟りつけているのですが、マタイになると「イエスがメシアであるという秘密は弟子たちだけに知らされていることだから、そんな秘密は世の中の一般の人間には言うな」となっているのです。教会の特権意識、クリスチャンの優越思想。私はとても嫌な気分になります。さらにマルコにはない「イエスがペトロを褒めちぎる」言葉も挿入されています。もっと嫌な気分にさせられるのです。
救いがあるとすれば、「サタン、引っ込んでいろ」というイエスの言葉が残されていることです。人の上に立って優越感に浸ろうとしたり、すでに救われた者として特別な立場にいる者だと自負したり、その結果、自分と他者とを分け隔てるという振る舞い。これは、イエスが一番問題にしたことではなかったかと思います。自戒を含めて、サタン的なものを持つ人間として、イエスの声を聴かなければいけないと思わされています。
2025年3月9日 「神の霊が導く場所」
聖書 マタイによる福音書4章1-11節
この物語を記憶し、伝えてきた人たちはどんな思いでいたのでしょうか。状況の設定となっている言葉の中で重要だと思われたものは、ここでは「荒野」と「誘惑」だと感じました。話を生み出し継承してきた人たちは、どうして「荒野」を舞台設定にし、「誘惑」にどんな意味を込めたのでしょうか。私たちはここから何を聞くことができるでしょうか。
「荒野」とは、命の営みが感じられない場所。人の生活や、温かさや交わりなどがない。荒涼として、生きる力も得られないような場所。それがいったい何を表わすのか、誰のことを想像できるのかを考えさせられます。
神の霊は、イエスを荒野に「放り出した」のです。そしてそれは強い力でした。イエスは神に、「強いて荒野に放り出された」のです。人間の命、自然の命の温かさが感じられない、交わりがない、区別と差別によってそうさせられている。それは今、いったいどこにあり、誰のことを想像しなければいけないのか、私たちに問われていることです。なぜなら、神の霊はイエスをその現場に行けと、強い力で導いた(放り出した)からです。
人と人との分断をよしとする社会が、強い力を持って現れてきています。それが「誘惑」との言葉で表されています。イエス時代だけでなくて、それは今もずっと続いていることを信仰者たちは伝えてくれています。神の霊は、私たちにも現場に行って目撃しろと導いています。そこから私たち自身の生き方をどうするのか。神の霊は、そのように私たちに問いかけています。
2025年3月2日 「恵みもまた、くり返し」
聖書 マタイによる福音書14章22-36節
イエスをキリストだと告白して宣教の旅に出た教会(舟)は、暴風に襲われ沈みそうになっている。困難な課題、苦難をもたらす出来事が次々に現れて、共同体は揺れ動き、不安にさいなまれている。今日の物語の背景にはこんな厳しい現実があったのでしょう。
しかし、それらの困難を凌駕するような、圧倒的な神の恵みが教会を支配するんだという希望が語られていると思います。イエスが教会に近づき、共にいようとされる。どんなに小さな働きしかできないとしても、それを肯定し、励まし支えようとしてくれる。湖の上を歩くという神顕現は、教会の心からの願いや祈りを表わしたものだと思います。
列王記に記述されているエリヤの物語で語られているように、力尽きそうになっている信仰者を、神自らが励ましています。神のほうから近づき、語りかけてくれるのです。イエスもまた、彼のほうから舟に近づいて教会を励まそうとしてくれます。教会が小さな、ささやくような声しか出せないとしても、それを認め励ましてくれます。
そのような教会は、人間を抑圧する圧倒的な力に押しつぶされている声を聴くようにと、神に導かれます。小さな働きしかできない者をも祝福する神を信じる者として、小さくされている声に出会う旅に出かけましょう。
2025年2月23日 「向こう岸に渡ろう」
聖書 ルカによる福音書8章22-25節
イエスも自分自身が持つ限界性と戦っていたのではないかと思います。弟子たちと舟に乗って「向こう岸に渡ろう」と言って行動を起こした時、新しい出会いを求めていたことと、さらにその出会いを通して自分が変えられることを願っての振る舞いだったのでは、と思います。
イエスとて古代人でありユダヤ人であり、人間です。私たちと同じように弱さも持ち、限界もあったでしょう。それでも彼は、社会の不条理を目撃し、目撃した者としての責任を抱えて新しい場所に踏み出したのだと思うのです。
この旅には困難が伴う。この旅は危険なものになる。この生き方を貫くためには数々の苦難にも出会うことになるだろう。それが、出発した舟(教会)を襲った突風、暴風という形で示されています。イエスは弟子たちを励まし、そして自分自身をも叱咤激励したのかもしれません。
暴風は時に私たちの日常にも吹き荒れることでしょう。逆に、背中を押される風も吹くでしょう。私たちが思いもよらなかった方向に導かれる風も吹くでしょう。すべてが神からの風であって、それは私たちを鍛え、守り、励ますものです。「向こう岸に渡る」ことには勇気も決断も必要だと思いますが、イエスに従うことで新しい視点・生き方が見えるはずです。
2025年2月9日 「あなたはもう赦されている」
聖書 マルコによる福音書2章1-12節
半身不随の人をなんとかイエスのもとに連れて行きたい。彼に声をかけてもらいたい、触れてもらいたい。この必死の思いをイエスはどう感じたのでしょうか。この人なら、この人に触れてもらえればと、病を持つ人を連れて行くこの祈りのような行動は、イエスを動かしたのでしょう。
彼はそのことに「信頼」の心を見て、また「信頼に足る心」はこれなのだと感じたのではないでしょうか。ここでの「ピスティス」を、簡単に「信仰」と訳してはいけないと思います。彼らには、「信頼」「誠実」「信実」「信頼に足る心」が宿っています。何かの条件(信仰が深いとか、篤いとか)をクリアしたと認められたから癒された、というのではありません。
困難や大きな課題の中に置かれた人たちを、神、そしてイエスに執り成そうとしているこの姿は、私たちが生きる今も、いろいろなところで起きていることです。執り成しをする人たちの行動には、「信頼に足る心」があり、「信実」を生きています。この心と行動は、神に必ず届き、神はそれに応えようとしてくれるでしょう。
私たちの祈りや行動が、たとえ小さくても弱いものだとしても、神は受け取ってくださると思います。こんなことしかできないと思っても、「あなたは信実を持っているじゃないか」と言ってくれると信じたいのです。
2025年2月2日 「呪う」
聖書 マルコによる福音書11章15-19節
先週の続きの個所ですが、ここのあたりはマルコの執筆・編集の特徴「サンドイッチ型」の典型だと思います。前後の話を意識しながらはさまれた中身を読んでほしいという願いが込められた手法です。
この個所はいちじくの木の話で神殿での出来事をはさんでいます。読者の私たちは、いちじくの木の話を意識しながら神殿でのイエスの行動を読むことに導かれています。
見栄えのいい、いちじくの木が実を結んでいないことが、エルサレムという大都市の姿を意識させます。壮麗な巨大な神殿もあるこの大都市は、イエスの目から見ると実を結んでいない、人間の心を見る目を持っていない、互いに助け合って生きようとする視点が欠けている。そう見えていたのでしょう。弱者の唯一の武器=「呪い」をイエスは担ぎます。
べタニア村の人たちの日常を背負って、イエスはエルサレムに乗り込んで行きます。彼ら彼女らの「呪い」を携えて行くのです。この姿を見ながら、他人事として済ますことは簡単です。でも、マルコの思いやイエスが望んでいたことを考えると、たとえ小さくて弱い思いや行動でも、自分たちの心を課題につなげていきたいと思うのです。「呪い」はどこから来ているのか、誰が「呪い」の声をあげているのか、感じ取りたいと願うのです。
2025年1月26日 「背負う」
聖書 マルコによる福音書11章12-14節
いちじくの木は年に2回ほど実がなると言われていますが、イエスが見た時がいつだったのか、不明です。マルコが書いた「いちじくの季節ではなかった」とのことが実際なら、イエスの「逆ギレ」であり、いちじくにとっては、とんだとばっちりですが、ここにはどんなメッセージがあるのでしょうか。
イエスが生涯の終わりに近づきつつある日々、彼はべタニア村を拠点にして、ここからエルサレムに通っていたことが気になります。極貧の状態におかれていたというこの村の事情を、イエスは目撃していたと思われます。べタニアからは、エルサレムという大都市の本質が見えていたのではないでしょうか。沖縄をはじめとする「弱く小さくされている場所」からは、日本という国がやっていること、やろうとしていること、本質が見えるのです。
見栄えのいい、いちじくの木。イエスの目には、見栄えがいいかもしれないけれども人間を見つめる心(実)を持たないエルサレムという町の姿・あり方が見えていたのではないでしょうか。神が住むという神殿もある。でも、その本質は実がなっていない、人間の命を思う心が欠けている。
イエスはべタニア村の人たちの日常的な飢えや悲しみや嘆き、そして怒りを背負って、エルサレムに向かっていたのではないでしょうか。「背負う」こと、「背負う」ものを見失っているわが身を、恥じるばかりです。
2025年1月19日 「壁を裂く」
聖書 マルコによる福音書1章9-11節
マルコの執筆の特徴、編集の特徴である「サンドイッチ型」の究極の形がここにあるような気がします。彼は、同じような言葉や物語を配置して、その間に一つの物語を置いてはさみ込む手法を取ります。福音書のあちこちにありますが、間にはさんだ物語を、前後の言葉や物語を意識しながら読んでほしいという願いがある、そんな手法です。
そこから考えると、イエスが浸礼を受けた瞬間に「天が裂けた」(マタイとルカは「天が開いた」)と書き、そしてイエスが十字架で虐殺され息絶えた瞬間に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書いた、「裂ける」との言葉は、イエスの生涯全体をはさみ込んでいます。つまり、神と人間との間に置かれた区別や差別の壁、あるいは人間と人間とを分け隔てる壁を「裂く」、「裂いた」生涯を送ったのがイエスという人間だったと、マルコは主張しているのでしょう。
マルコの思いは、私たちを「裂く」行動に導きます。強い意味の「裂く」を使ったマルコの心は、裂かれては困る人間たちがいることも意識していたと想像します。私たちが生きる今、壁を作り続けている人間たちをどこで見るでしょうか。壁を壊されては困る、壁を作っていなければいけないという行動をしている人間たちをどこで見るでしょうか。それはいったい誰なのでしょう。私たちは壁を作るのではなく、壁を裂き続けている人たちの思いにつながっていたいと思うのです。
2025年1月12日 「小ささの中にこそ」
聖書 ルカによる福音書13章18-21節
預言者エゼキエルが示している「神の国」のイメージは、とてもスケールが大きいと思わされます(17章)。当時、世界で最も貴重とされていたレバノン杉の大きさや頑丈さが強調されて、神の国の巨大さ、強さが示されています。私自身もついそのようなイメージを抱きがちです。
一方でイエスが考えていた神の国は、彼がたとえで語っているように芥子種であり、十分とは言えない小麦の量から見える、というものです。小さくても、不十分なものと思われることの中にも、驚くべき神の働きがあることを示してくれています。
人はつい、大きさとか多さとか、強いものを求めて、それが最優先の事柄だとしてしまうことがありますが、それを中心にしてしまうと、大事な視点を忘れてしまうことにつながるのだと、教えられている気がします。
小さいものだと言われてしまうかもしれない。力が弱いと言われてしまうかもしれない。十分なものを持っていないと言われるかもしれない。でも、そんな場所でも鳥たちが命を育み、種を運んで新しい命が芽生えるような働き、生きる糧を分かち合えるような働きができると思うのです。そのような小さくて弱いと思われる働きに、神が一緒にいてくれる、一緒に働いてくれていると、イエスは教えてくれたのだと思います。
2025年1月5日 「迷ってばかりだけど」
聖書 マタイによる福音書18章10-14節
私たちの今のように情報からの知識が少しだけあって、空に浮かんでいるものが何かが、ある程度分かる時代と違って、古代の人たちにとっては得体の知れない何か、だったでしょう。
その中には定位置にじっとしていないものもあって、不気味に感じたかもしれません。そこから、「迷う」「惑う」など、「惑星=プラネット」の語源になった言葉で、羊の姿を重ね合わせたのでしょうか。
羊は視野が狭いなどと言われますし、前を歩く羊飼いや仲間の羊の足を見ないと進めない、迷ってしまうと、何かの本で読んだことがあります。羊じゃないのによく分かるなと思いますが、「羊年」の私は、自分の行動を考えると、なぜか、なるほどと思ってしまいます。
でも、イエスが抱いていた羊飼いと羊のイメージは、それぞれが違う個性・賜物を持っている一匹一匹(一人ひとり)を大事にする神と人間、ということでしょうか。集団の中から外に出てしまう一匹(一人)を、神は探し、助け、そして無理に集団に連れ戻そうとはせずに、個性を見守ってくれる。羊飼いと羊を見ながら、神と人間の関係性をそんなふうに考えていたのではないかと感じています。
たとえ小さくても、数が少なくても、集団から外に出てしまうようなことがあっても、神はその個性を認めてくれる。そう信じたいと思うのです。
2024年12月29日 「誕生日の場所と時間」
聖書 マルコによる福音書1章14-15節
実際に福音書に書かれていることが起きたかどうかを問うことも大事かもしれませんが、もう一方で、福音書記者(たち)が「何を伝えたかったか」を考えることも必要なのではないかと感じています。
イエス誕生の前後のどこかで人口調査が行なわれたとして、それがどんな意味を持っていたのか。なぜ「誕生物語」の中にこの出来事を置いたのかを想像したいのです。
人口調査は、ただちに軍事的な事柄につながっていきます。税金を徴収することも、どこにどれだけの人間が住んでいて、どれだけの利益を上げているのかなど、それを調べるのもローマにとっては植民地を支配していくために必要なことだったのでしょう。
ピラミッド型の社会構造の中で、日々の命を生きることが困難な状態にさせられていた人たちに、イエスの目は注がれます。この構造自体がおかしい。だから彼はメスを入れようと、権力に抵抗したのでしょう。
イエス誕生物語を記憶し、残して来た人たちは、このような権力構造を壊そうとする人間が誕生したことを伝えたかったのだと思います。その男は、結局のところ彼の生き方のゆえに権力に惨殺されましたが、彼が見た現実は、私たちの今でもあります。私たち自身も、彼のこの行動を伝え、生き方を継承していきたいと思うのです。
2024年12月22日 「誕生日」
聖書 ルカによる福音書2章1-7節
クリスマスの時期が近づくと、「イエスの誕生物語」を読んで過ごすことが多いと思います。私も幼い頃から教会で何度も聞かされて、教会学校という場所にいた頃には、よく劇にも参加しました(させられました)。だいたい、「星」の役だったと記憶しています。
やがて、この誕生物語に込められた意味を考えるように導かれました。教師になるために必要だったということもありますが、イエスの生き方を反映して神話化されたこの物語を通して、著者(たち)が何を「伝えようとしたのか」を考えることが大事だと思わされるようになりました。
イエス誕生の時の風景はどんなものだったのでしょうか。今のガザやウクライナの惨状を、私たちは映像を通して見ることができますが、同じような光景がイエスの周りにもあったのでしょう。
人が命を奪われるという悲惨な世界で、一人の新しい命が誕生することは、大きな恵みであり、喜びだったと思います。イエス誕生の日、おそらくこの困難な出産を手伝った人たちがいたはずです。出産に必要なものを手に抱えて集まったかもしれませんし、赤ん坊を包む産着になるものを用意もしたでしょう、母親のケアをした人たちもいたと思います。ベツレヘムであれナザレであれ、そのような人たちの温かい心と祈りが彼の命を守ったと思うのです。クリスマスは、命の大切さというものから切り離して考えることはできないと思わされています。
2024年12月15日 「誕生日のお知らせ」
聖書 ルカによる福音書1章47-53節/詩篇113篇
クリスマスを迎える今、改めて考えたいことは、イエスとはいったい誰か、彼の誕生をお祝いするならその祝う相手は誰で、どうして自分にとってイエスが大事なのか、ということを思います。
もし人が、他人のことはまったく自分とは関係がなく、社会における課題も関心の外において、自分だけの魂の安心なり癒しなりを求めるのなら、何かの団体に属してその目的のために過ごせば、それで可能になるのかもしれません。その生き方はその人のものですから、私などがどうこう言えるものでもありません。
ただ、私たちは教会に集められて、イエスをキリストだと告白する者として、自分たちの生き方をどのようにするのかという思いを、常に心に置きたいと思うのです。ナザレという場所に生まれて生きたイエスが、その生涯で向き合ったことに私たちも向き合っていこうとする。彼が示した生き方を、今を生きる自分の時代で続けようとすること。それがキリスト者の生き方だと思います。
イエスにならって生きようとすることは、彼が生きたその生き方に自分も参加すること。なぜなら、彼の時代のガリラヤと同じように、今も人が人として生き生きと生きられない、人間らしく生きられないという状況があるからです。アドベントから、私たちはそのチャレンジを受けています。
2024年12月8日 「暗くても、遅くても」
聖書 ヨハネによる福音書19章38-42節
福音書を読む時に、登場人物の誰に自分を重ね合わせることができるのか、そう意識することが大事だと思い続けてきました。ところが当事者意識が薄いのか、なかなか自分のこととして考えることができずにいることを反省します。
アリマタヤ出身のヨセフとニコデモの二人が登場します。私はどうしたことか、この二人のことが気になります。でも、やっぱり当事者意識が薄いのか、二人の行動を見て決断が遅いよ、とか、はっきりしたらいいのに、とか無責任なことを考えてしまいます。でも、この中に著者ヨハネの深い思いがあることを想像しなければいけないと思わされました。
高齢の人、ユダヤ教の位の高い議員。この二人がイエスに惹かれていたとはいえ、自分の思いを公にすることは難しかったと思います。ニコデモのほうは、同僚の議員たちがイエスを殺そうと計画している時に一応は反論のようなものを述べるのですが、結局イエスは殺害されてしまいます。彼ら二人は、危険を冒しながらもイエスに会いに行くほど惹かれていたのに、最後まで自分の思いを公にはできませんでした。
そしてイエスの埋葬の場面で一緒になるのです。なんだか遅い、と思ってしまうのですが、そうではないと思います。弟子たちがみんな逃げたその時、二人はイエスを埋葬します。これは、二人にとっては危険なことで勇気のいることだったと思います。高齢の二人、夜の出来事。高齢と夜。これが象徴するものを考えると、出来事に向き合うことには遅くない、とのメッセージをもらっていると思いました。夜のように感じられる今。戦争や紛争が起きている今。辺野古でどんどんと埋め立てられている海。削られている山々。
今はもう遅い。そう考えてしまうのですが、ヨハネからいただいたことは、遅くない、ということでしょう。暗い夜のように、光が感じられない今の世の中。人の命が殺され続けている闇のような今。でも、私たちに出来ることは必ずあるはずです。二人がイエスになんとか食らいついていこうとしたように、私たちもまた、命を生かす働きに食らいついていきたいと思います。決して、遅くはないのですから。
2024年12月1日 「大酒飲み、大食漢、悪霊の頭」
聖書 マルコによる福音書3章20-30節
一緒にご飯を食べようと、誘った覚えはないのですが、ハエさんが一匹、どういうわけか私のテーブルにずっと滞在していました。定食屋の他のテーブルにはお客さんがたくさんいて、同じようなものを食べているのに、私の所にずっといるハエさん。手足をすりあわせるような妙な動きをしながらほとんどじっとしていました。特に何も悪いこともしない様子なので、どうぞ、近くにいていいですよ、とお話ししました。
彼は(彼女か)、「おい、あんた。我々のことをもう少し勉強したらどうだ」と、伝えに来てくれたのかなと思いました。そうか、「ベルゼブル」だ。そうだった。まことに勉強不足。ハエさんたちが古代、あちこちで大事なもの(神)として崇拝されていたことも知らずにいた私に教えに来てくれたのかなと思いました(岩波書店『キリスト教辞典』を参照しました)。
「大酒飲みの大食漢、そして悪霊の頭(ベルゼブル)」。褒め言葉よりも悪口のほうに真実があるというもの。崇拝されていたハエさんと信仰する人たちを揶揄するような形で「ベルゼブル」と呼んだ人たち。そう呼ばれたイエス。飲み食いもハエさんのことも、そう揶揄されるほどにイエスは日常的に周りの人たちと一緒に過ごしていたのでしょう。
決して触ってはいけない、交わってはいけない。穢れが移る…。不浄だとされていた人たちと一緒に生きるイエスのその姿が、いろいろなものに止まって触れるハエさんに重ね合わされたのでしょう。なんだかハエさんを見る目が変わりました。あの時のハエさん、ありがとう。アドベントの季節、改めてイエスという人を意識しつつ過ごしていこうと思います。
2024年11月24日 「捨て石ではない」
聖書 ルカによる福音書20章9-19節
エルサレムに来た時、イエスの弟子たちは感嘆の声をあげたと書かれています。特に神殿を目撃した時には、その巨大な壮麗な姿を見て驚きの声をあげたことは、ある意味、当然だったかもしれません。でも、そんな時にイエスが言った「こんなものは滅びるよ」という言葉が心から離れません。イエスの視点はまったく別のところにあったということでしょうか。
大工として、石工として生きたイエスは、使う材料のことを多くの人よりも詳しかったと思います。そして大事にもしていたでしょう。彼は神殿を見た時に、巨大さや壮麗な姿に心を奪われたのではなくて、この建造物を作るために使った「捨て石」のことを思っていたのではないかと思います。そして労働者のたとえを話し、詩篇の「家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石となった」との言葉をつないだのでしょう。壮麗なものを作るために棄てられたもの。イエスの視点はそこにあったと思うのです。
「捨て石」となった存在とは何か。今もそんな立場に置かれている人たちは…。「捨て石」ではない。その石たちが、神の王国では大事な礎として生かされる。この石たちが叫び出すぞ。こう話した彼の迫力のようなものを感じます。
沖縄、非正規労働、外国人労働者、かつての炭坑。私たちは「叫び」を聞いているのか。都合のいい「捨て石」など、あってはならないのに…。
2024年11月17日 「起こらないように祈れ」
聖書 マルコによる福音書13章1-13節
「イエスの告別説教」と言われるこの記事は、紀元後66年から70年にかけて起きたユダヤ戦争が背景にあると思われます。イエスが死んでわずか30年から40年後に起きたこの戦争は、対ローマの反乱戦争で、エルサレム神殿も破壊されました。
マルコは目の前で起きたこの大事件のことをイエスの口に入れて書いたことになりますが、いくつかの言葉はイエスの伝承に基づいているものと思われます。特に、エルサレム神殿を見て弟子たちが感嘆の声をあげた時にイエスが言った言葉、「こんなもの滅びるよ」というものがあげられるでしょう。
暴力と権力で支配していた神殿が、結局のところ暴力でつぶされた(る)ということ。イエスの目線はそんなところにあったのでしょう。そのイエスの思いを受け継いだマルコは、読者と自分の共同体に向けて、「イエスの福音こそが武器で、暴力には加担するな」と言っていると受け取りたいのです。
「~を取りに行くな」とも書いています。「逃げ」のようですが、逃げることは消極的ではありません。命を生きろ、暴力には加担するな。具体的にはこのユダヤ戦争には参加するなとのメッセージです。
連行されて暴力を受けても、福音を信じて生きるその決断こそが、「証し」となる。生きろ、祈れ。現実が厳しいものであっても、選択するべき道はこれだと思います。
2024年11月10日 「来なさい、そうすれば分かるだろう」
聖書 ヨハネによる福音書1章35-42節
バプテスマのヨハネの二人の弟子たちがイエスに問います。「先生、どこにお泊りなのですか?」。イエス(著者ヨハネ)は明確に答えず、「来なさい、そうすれば分かる」と言ったというのです。他愛のない会話のようですが、重要な問いかけがあると思わされました。
イエスがどこにいるのか。私たちはどう考えるでしょうか。どこか遠い、手の届かない特別な「聖なる場所」にいるのか。そうではなくて、彼は人間の傍らに、生活の場にいたのです。
ヨハネがあえてイエスがいた場所を書いていないということは、私たちへの問いかけになっているのでしょう。前後の文脈がつながっているのなら、そこはべタニアという町になります。ここは一説では、「らい病患者が隔離されていた場所」と言われています。
ということは、イエスがどこに滞在し(留まり)、誰と一緒にいようとしたのか、どんな課題に連なろうとしていたのか。それが私たちへの問いになっていると受け止めたいのです。「泊まる」「留まる」「連なる」は、すべて同じギリシア語です。
私たちの教会、そして私たち自身がどこにいようとするのか、何に連なろうとするか。イエスをキリストだと告白する者として…。
2024年11月3日 「風に育てられて」
聖書 ルカによる福音書8章19-25節
思いもよらぬ方向に導かれたな、想像もつかなかった出会いや経験があったなと、そんな思いを与えられてきた方は多いのではないでしょうか。さらに、あの時、確かに自分は助けられ、支えられていたなと、様々な場面を思い起こすことができるのではないかと思います。
聖書を残した信仰者たちは、神の意志を「風」として捉え、その時々で神は違う風を送り続けてくれて、必要な助けを自分たちに与えてくれてきたと告白したのです。
逆風と感じるものもあったでしょう。でも、正面から迫って来る風は、時に私たちを鍛えるものであり、なんとか踏みとどまろうとする力を生むものでもあります。背中をそっと優しく押し出す風を感じた方もおられるでしょうか。神はそのようにして、どのような立場の人の人生にも、あらゆる場所で傍らにおられようとしてくれた。実際そのように感じ、感謝してきた信仰者たちの声が聞こえるようです。
この教会を生み、支え続け、祈り続けてきた先達たちに、神は命の息を与え、必要な風を送り、与えられた人生を生き切っていけるようにと導いてくれたのだと思います。私たちは神が赦してくださる時間、地上での生活を続けていきますが、神の風(息)を糧にした生き方ができますように。
2024年10月27日 「あんたも彼の一味ね」
聖書 マルコによる福音書14章66-72節
一挙手一投足がすべて神に判断されて、それによって祝福されるか罰が与えられるか。この個所を読んできて、特に自分の幼い頃にはとても怖い物語だと感じてきました。
神といえば、罰を与えるというイメージ。一つひとつの行ないによって判断されるなら、おそらく自分は罰を与えられるに違いない。鶏が鳴くに決まっている。私はずっと、そんな恐ろしい存在としての神イメージを持っていました。
ところが歴史を生きたイエスに、私なりに出会った時に、そんなイメージが粉砕されてしまいました。神は人間に自由に生きることをよしとされて、きつい課題や困難に出会った時にも恵みを与え、支え続けてくださっている。そんな神イメージに変えられていったのです。ただ、その「自由」というものがどんな生き方なのかを常に問い続ける責任は、人間にはあることを忘れてはいけないと思います。他者や自然界の命を勝手に奪うことが自由ではなく、傍若無人に振る舞ってよい、ということではありません。
ペトロは何度も拒否しました。どんなに拒否しても神は声をかけ続けてくれる。大祭司邸に仕える女性からの声が叱責ではなく「神の招きの声」だと思えるように、私自身は変えられていきました。
「あんたも彼の一味ね」「あんたもナザレ人イエスと一緒にいたね」。人間は弱いですから、つい「知らない」「関係ない」と答えてしまうのですが、それでも神は招き続ける。この記事は、裁きではなく招きの本質を問うものだと思います。
彼の一味。堂々と言えないこともある私たちですが、そんな私たちをも神は見捨てることはなさらないでしょう。
2024年10月20日 「誰の許可を得ているのかね」
聖書 ルカによる福音書20章1-8節
不謹慎かもしれませんが、任侠映画に出て来る「誰の許可を得てここで商売しているのか」というお決まりのセリフが浮かんできました。礼拝メッセージに任侠映画をたとえることはダメなのかもしれませんが、イエスを亡き者にしようと画策している人間たちの姿を考えると、さほど違ったものとは思えない気がしました。
自分たちは「正義」。他は「悪」ないし、邪魔者。そしてそれらは抹殺しなければいけない。「神がバックにいる」「神を信頼することこそが大事だ」と言いながら、人間中心主義に陥っていること、そして自らの立場とそれに迎合する者の側こそが「正義」だという在り方。そんなものを目撃したイエスは、神殿だろうとどこだろうと暴れたくなったのも無理はないと思います。なぜならこの神殿が、人間を裁く機構に成り下がっていたからです。
バプテスマのヨハネは、神中心の生き方をしようと告白し、活動しました。それが人からのものだったのか、神からのものだったのか。この質問に彼らは応えることができませんでした。神を中心に、と言いながら、人間中心で人を裁いていたからです。「知らない」。彼らは責任回避の言葉しか発することができなかったのです。
人間を人間とも思わない傲慢と欺瞞の行動。そんなものは「海に沈められてしまえ」と言ったイエス。今もこの言葉は生きています。
2024年10月6日 「声を聴き、ここに立つ」
聖書 エゼキエル書37章1-14節
「この骨は生き返るのか」。神からの問いかけに私たちはどのように応えることができるでしょうか。今、ガザやウクライナ、そして中東のあらゆる場所で人を殺すためのミサイルのボタンを押している人間たちは、新しい骨を次々と作り出しています。そんな世の中、私たちは神に自分の生き方をどのように報告できるでしょうか。
奴隷状態にされ、連行された土地で同胞の悲惨さを目撃し、同胞たちに希望を語り、なんとか励まそうとした預言者エゼキエルは、なぜこのような大量の骨が散らばっているのかを知っていました。励ましの言葉の中には、同胞が起こしてきた暴力を批判し、神の民としての生き方を迫る、そんな思いも含まれていたはずです。このような言葉・思想を生み出したイスラエルという国家は、今、いったい何をしているのでしょう。
骨の一つひとつには人生がありました。声がありました。それを想像することはできないのでしょうか。骨の声は、「あなたたちはいったいどんなふうに生きるのですか」と、問いかけているようです。私たちはその声を感じ取り、神の民としての生き方を貫きたいと思うのです。
教会創立記念日です。私たちの先輩たちはどんな思いでここに教会を立て、守ってきたのでしょう。暴力や区別や排除が当たり前の世の中だとしても、私たちの教会が目指すことは、共生の道だと思います。
2024年9月29日 「共生の場として」
聖書 マルコによる福音書5章2-9節
邪魔な者は自分から見えない所に置く。立場の違う者とは関係を持ちたくない。嫌なものは遠く離れた所に置いておけばいい、それで自分たちの毎日は安泰です。「罪人」と付き合うことが避けられて、「穢れ」も移ることはないから。
人はこのような思いに駆られ、行動するものです。私自身もそれが100%ないと言えば、嘘になります。自分を安全地帯に置きたい。面倒なことには関わりたくない。そう思うのが人間です。ところがイエスは、社会・宗教から隔離されていた人の名前を聞き、この人と積極的に交わろうとします。名前を聞くということは、関係性を持とうとすることです。
相手がどんな人なのか。誰なのか。どんな名前を持っているのか。どこで生まれて、どんな生活をしてきたのだろう。今、世界で起きている紛争や戦争の現場では、こんな感情は生まれないのでしょう。排除や隔離の思いが、人を自分と同じ命を持つ者として認めず、人権や尊厳や命までも奪ってもいい、ということにつながっていくのです。イエスはそれに抵抗したのでしょう。
こんな思いがまかり通るのが「当たり前」だという社会なら、教会は抵抗する場として生き続ける必要があるのではないでしょうか。今日は「秋の感謝祭」。そしてフードドライブの実施日です。私たちの教会が、地域に仕えるものとなりますように。人の命に仕えるものになりますように。
2024年9月22日 「何を想う」
聖書 ヨハネによる福音書10章31-42節
ヨハネ福音書に勝手に手を加えた人間たちの仕事がなければ、このあたりからほとんど、この福音書はクライマックスに入っていきます。ちょうど前半と後半の境目あたりのここでは、著者ヨハネの特に厳しい視点が展開されているような気がします。
イエスの心を想像したいと思います。ほとんどの自分の行ないが理解されない。これは、と感じて回りにいた人間たちにも理解されない。理解どころか、殺す側にまわる者もいる。どんな思いだったのでしょう。
ヨハネは、イエスがかつての師と出会った場所に行ったことを書いています。イエスは結局はバプテスマのヨハネのもとから離脱し、独自の宣教活動を展開するようになりますが、イエスの活動の土台になったものは、やっぱりバプテスマのヨハネの運動だったと思います。
かつて師と仰いだ人との出会いの場所に行って、イエスは何を思っていたのでしょう。自分の行ないや言葉は、あなたが教えてくれたものになっていますか。神の思いにつながるものになっていますか。私には、そうやってイエスが祈っていたような気がするのです。
イエスのようには到底できませんが、彼が常に神の思いを尋ねたように、心を閉ざさず、考え続けていけるようにと、自分の行動を思います。
2024年9月15日 「『王』を見抜く人」
聖書 マルコによる福音書14章1-9節
世の中の「常識」「当たり前」といったものが間違っているなら、抵抗する必要があります。そうやって生きている人たちがいます。命を殺すものになっているのなら、声を上げる必要があります。そうやって生きている人たちがいます。
それは、「常識」「当たり前」というものから見ると、「無意味」といったことになります。それでも命を生かす業を続け、声を上げ続けている人たちの行動、思いを見て、なんとか自分自身もその生き方に連帯していきたいと願うのです。
女性の行動は、弟子たちやその場にいた人たちから憤慨を呼び、「無意味」「無価値」なことだと断罪されています。それでもイエスは、この行動の中にある深い意味を見ています。女性が「まことの王とは何か」に気づいていたことをイエスは知らされたからでしょう。
らい病患者の家での出来事だと書かれています。豪華絢爛な王宮での「即位式」(油注ぎ)ではなく、社会・宗教から排除、隔離されていた人の家での出来事です。「まことの王の即位式」なら、最もふさわしい場所での「油注ぎ」です。世の「常識」からは見えない所で生きている福音に、油を注ぎ続けている人たちがいます。私たちの心をそこに向けたいと思うのです。
2024年9月8日 「お前は誰だ」
聖書 ヨハネによる福音書8章21-30節
イエス殺害を目論む人間たちが「お前はいったい誰だ」と言い、それに対してイエスは「あなた方に今さら何を言っても仕方がない」と答えています。ケンカ腰で来ている人間を見て、彼らは何か新しいものに出会って学ぼうとするような思いがなく、一貫して自分自身の思いを絶対化し、正当化していることへの答えでしょう。
人間中心で物事を動かして、それも自分自身が正義であるかのように振る舞うこと。ヨハネのイエスはそれを「罪」(単数形)だと言っています。生き方の問題だから単数なのです。
そして、自分を絶対化していくためにいくつもの無理難題を市民に押し付け、罪人とそうでない人、穢れた者とそうでない者を作るその振る舞い一つひとつも、ヨハネのイエスは「罪」(複数形)だと言っています。こちらは数えられるものだからです。その「罪」の中に死ぬことになる、と言っています。神に対して、造られた人間としての応答を拒否する時、その生き方は「死んだものになっている」ということでしょうか。
自分自身を正義として生きるその一貫した態度。他方では、神に造られた者として神の思いを懸命に追いかけようとする一貫した態度。私たち自身が選択するべきものは、やはりイエスの生き方に見えるでしょう。
2024年9月1日 「泣く」
聖書 マタイによる福音書16章26節
「人は、たとえ世界ぜんぶを味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか?」(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』)。
カトリック神父・本田哲郎先生は、上記のように訳しています。特に、新共同訳聖書で「命」と訳されている言葉に注目させられました。プシュケーというギリシア語を「命」とせず、「自分自身」「自分らしさ」と理解しているのです。この言葉に出会って、イエスの思いが心に沁み込んでくるようでした。
この言葉(訳)からは、イエスが「人間はどう生きるべきか」との問いかけを与えていると理解できます。そして、人はその人として、また他者とどのようにして互いに相手を大切にし合えるのか、との問いです。
ウクライナやガザで続いている悲惨な毎日を、どのように考えられるでしょうか。自分として、どのように向き合えるのでしょう。相手を人間とも思わず殺害する。安全地帯に身を置いている人間が、その行為を神にでもなったかのように正当化する。彼らにとって「自分自身」「自分らしさ」とはいったい何なのでしょう。どのように考えているのでしょう。
自然災害も人災も起きる毎日。私たちには何ができるのか。イエスの思いを噛みしめたいのです。
2024年8月18日 「人を守らない国と宗教」
聖書 ヨハネによる福音書8章3-11節
「あなたは本当に分かるのだろうか。私たちは、女の子が標的になって米兵の獲物にされる島に住んでいる。米兵に暴行された子どもや女性がいても政府はこの島に住む私たちに伝えず、米軍の思うままだ。この国は私たちを守らない。そしてあなたは今日も沈黙している」(「沖縄タイムス」上間陽子・琉球大学)。
沖縄県議選があり、沖縄慰霊の日があり、この国の責任者が沖縄にやって来る。クリスマスイブの日に起きた性暴力事件が、この二つの出来事の後に明るみに出る。上間教授が言うように、この国は米軍や政府の意向に無条件に従い、女性の人権・尊厳・命を守らないのです。「そしてあなたは今日も沈黙している」とは、私たちへの問いかけでもあります。
一人の女性を罪に定め、死刑にしようとしていた人間たちに重なるようです。彼らの態度にイエスは心から怒り、そして女性の境遇には心を痛めたことでしょう。最後に彼は言い、彼女を送り出します。「私はあなたを断罪するようなことはしません。行きなさい」。
祈りのようなこの言葉と共に彼女を日常に送り出します。この場を無事に離れたとしても、彼女に待っているのは変わらない差別の社会であり、そこに向かわなければいけない人を、イエスは心を込めて送り出したのでしょう。この祈りのような言葉が必要な人たちに、この祈りがなければ倒れそうになっている人たちに、私たちもまた、イエスの振る舞いに従えるような祈りを、届けたいと願うのです。
2024年8月11日 「人としての抵抗」
聖書 マタイによる福音書5章38-42節
人間を人間とも思わないで殴る。侮辱的なやり方で殴る。それなのに、寛容な心をもって許して、もう一方の頬もどうぞ、なんてイエスが発言するはずがありません。「キリスト教的」なものの考え方を一度、問い直してみる必要があるでしょう。
着ているものを奪われたら、命にかかわる上着も与えよ。無理矢理に動員させて強制的に労働させる人間には忠実に従って、さらにその倍ほどの働きをしようよ。許し、耐えて、寛容な心を捨てるな。こんなことをイエスが言うはずがないのです。
侮辱的なやり方で殴ってきたら、そんなやり方をせずに堂々と殴ったらどうですか。さあ、左側をもう一発どうぞ。私のすべてを奪って裸にしたいならどうぞ。上着も持って行きなさいよ。裸にしたあなたを周りはどう見るでしょうね。暴力で労働につかせるなら、どうぞ。何倍も、いくらでもやりますよ。でも、あなたの言う通りにはしませんけれどね。
こうやって抵抗しろと、イエスは言っているのです。同じ人間だからです。相手に、私もあなたと同じ命を持つ人間ですよと、堂々と示せ、抵抗していい、と言っているのです。今もあるこのような現実に、自分は直接関係がないからと、「ありがたいお説教」として読む。それはもうやめましょう。
2024年8月4日 「沖縄の旅 報告」
聖書 エゼキエル書37章1-3節
今年も6月23日に合わせて沖縄を訪ねました。その旅の報告を礼拝時に行ないました。聖書個所はエゼキエルから選んで、報告と共にエゼキエルからのメッセージを共有しました。以下は聖書個所についてのコメントです。
預言者エゼキエルが復活思想を書いた理由は、同胞を励ますためだったと思われます。地は混沌として、目の前には命の存在が感じられない荒廃とした世界が広がっていたのでしょう。原因は戦争です。
目の前にはあちこちに戦争犠牲者の死体や骨があったに違いありません。一つひとつに命が生かされていたのに、同じ人間同士がその命を奪い合っていったのです。残されたのは、ちらばる骨の数々だったのでしょう。
神はエゼキエルに「この骨は生き返るのか」と問い、彼は「それはあなたのみがご存知です」と答えています。ここに私は、預言者としてのエゼキエルの姿勢と神への信頼の姿、また「人間としての心」を見ます。
沖縄でガマに眠る遺骨を掘り続けている人がいます。掘ってみないとそこに遺骨があるかどうか分からないけれども、彼は掘り続けます。そして見つかった時には、骨が自分を呼んでいてくれていたのかなと言います。
一方で、南部の激戦地から遺骨が含まれている可能性のある土を辺野古新基地建設に使おうとしている人間たちは、「ここには遺骨はない」「あっても取り除くから大丈夫だ」と言うのです。
決定的な違いがあります。限界がある人間が、「ここには遺骨はない」「取り除くから大丈夫」などと言ってはいけないのです。エゼキエルに従えば、それは「神だけが知っている」のですから。その思いをもって死者の魂に向かい、慰霊する必要があるのです。工事を進める人間たちのあまりの傲慢な態度に、私は心から辟易します。
2024年7月28日 「想像と遮断」
聖書 マルコによる福音書9章38-50節
「私たちに従わないので、やめさせようとした」。弟子たち(初代教会)とは違うグループがイエスのことを伝えようとしていたのを「やめさせようとした」とのことです(ルカでは「あなたに」従わないので、となっています)。
さらに42節からは、足を取れとか手を取れとか、目をえぐり出せ、となっています。こんな言葉をイエスが語ったのでしょうか。私にはすべて、初代教会のセリフの気がします。自分たちが出来もしないことを相手に要求しているとしか思えません。どうしてそんなことをするのか。自分たちこそが正統で、他は異端。だから、「本物」ならやってみろ、というわけでしょう。
マルコは布石を打っています。この個所の直前に、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論をしていた、という出来事です。イエスはそれを見て「そんな議論をするな」と言っているようです。マルコは、この記事(人間の在り方)を見て、次の出来事を見てほしいと促しているようです。
目の前にいる同じ命を持つ人が、どんな事情を持って生きているのか。どんな課題があって、それに必死に向き合っているのか。弟子たち(初代教会)にはこれらを想像していこうという視点が欠けています。私自身も含めて、この難しい課題に自分の生き方をどう重ねていけるのかが問われているのです。
2024年7月21日 「他人事」
聖書 マタイによる福音書9章9-13節
何度読んでも、イエスが神の無条件の招きを実践した記事だと思わされています。それが今のところの私の結論なのですが、もう一つ、新しい視点が与えられた気がしています。それは、イエス自身が自分の立ち位置を確認し、自分の生き方を見つめ直そうとした思いが込められている物語なのではないかと思ったことです。
福音書には、「通りがかりに」徴税請負人マタイ(マルコではレビ)に会ったと書かれていますが、実際にはそうだったのかもしれないのですが、イエスはマタイのような立場に置かれている人たちに出会おうとした、彼ら彼女らの現実を見ようとした、彼ら彼女らから学ぼうとしたのではないかと思うのです。なぜなら、彼ら彼女らの現実から社会や宗教の姿を見ないと、気づかないことがあるからです。
この社会がもたらしているもの、社会の在り方、その社会から罪人というレッテルをはられて排除されている存在…。それらがいったい何なのかを、マタイやレビの立場に身を置かないと見えないからです。イエスはそこに身を投じていったのでしょう。
イエスは気づいたと思うのです。自分自身の今までの生き方もまた、マタイやレビのような存在を作り、そのままにし、区別や差別をする側に身を置き、加担していたことを。イエスもまた、闘っていたのです。
2024年7月14日 「もし、できるなら…」
聖書 マルコによる福音書9章14-29節
病気を持つ子どもをなんとか助けたいという一心で、父親はイエスと向き合います。物語の雰囲気では、「信仰の足りなさ」といったものをイエスが指摘して、父親に厳しく接しているようにも読めますが、それは私の思い込みだったようです。
イエスは父親の姿に、神を信頼する心を見て「信じる者には一切が可能だ」と父親を励ましているようです。「もし、できるなら、どんなことでもいいから、少しのことでもいいから実現してください」。神に助けを求め祈るこの父親の姿は、自分の思いや勝手な都合で「信仰」なるものを確立していると思い上がっている自分自身に迫ってくるようです。
人間ができる祈りというものは、父親の祈りのような、この祈りしかできないと思わされています。私たち人間ができる精一杯の祈りが、この父親の祈りだと思うのです。
私たちは日常生活の中で、様々な課題に出会います。その時に神に祈れることと言えば、「自分というものを見失わないように、なんとかこの課題に向き合っていけるように、助けてほしい」というものだと思うのです。もし、できるなら、としか祈れない私たちに、イエスは「それでいい」と言ってくれるでしょう。「それが神への信頼だ」と。
2024年7月7日 「教会が『聖』というのなら」
聖書 ルカによる福音書7章36-50節(参照:使徒言行録11章1-10節)
悔い改めが好きなルカにまんまとはめられそうですが、女性が何かをしたからイエスが罪の赦しを宣言したというのではありません。イエスは48節で明確に言っています。「あなたのもろもろの罪は、すでに神に赦されている」、「赦されてしまっている」と言い切っているのです。
「罪」が複数形ですから、女性の日常の行動を律法に照らしてそれが反していると断罪され、「罪人」というレッテルをはられていたのでしょう。その女性の日常の事情を何も問わずに、「この町に一人の罪深い女がいた」(37節)と前置きしてからルカは話を始めています。一人の人がどういう状況に置かれていたかを問わずに、「イエスによって罪が赦された女の物語」にしているこの態度は、私はとても悲しい気持ちがします。この物語を読んでいる方々はどんな感想を持つでしょうか。
さらにイエスは借金の話もしています。庶民の感覚からすれば途方もない金額の借金の話です。人間は神にそれほど多くの負い目を持っていて、とても払い切れるものではない。でも神は、それをチャラにしてくれるというのです。人間は神に赦されているのに、他者のことは「罪人」だと断罪する。そういう生き方はどうなのかとイエスに問われているのです。教会が「聖なる場所」というのなら、「聖」とそうでないものとを分けるような生き方を見つめ直す必要があると思わされます。
2024年6月30日 「何が見えますか」
聖書 マルコによる福音書8章14-30節
今年も6月という大切な日に沖縄への旅を許してくださって、みなさんに感謝いたします。たくさんの課題というお土産と宿題をいただいてきました。考えること、悩むこと、疑問を持つことをやめるな、と神に言われて帰って来たような思いです。きっと、神はそうお考えなのでしょう。
イエスの声が聞こえてきます。「聞いていない。見ていない。悟らない。理解しない。心が固まってしまっている」。物語の中の声ではなくて、私自身に問われているものだと感じています。イエスというパンを与えられている者として、彼が見たものを見て、聞いて、理解できるように、神からの宿題にどう応えられるか、悩もうと思います。
「どうして、しるしを欲しがるのか」とのイエスの言葉も響いてきました。辺野古の海を生き埋めにして作っているものが、たとえ巨大で力あるものに見えても、人を黙らせるようなものだとしても、そのようなものは神に属さないというイエスの叫びを聞きたいと思いました。
イエスは何度も目に触れてくれるでしょう。なかなか気づかないのが人間ですが、彼は何度も触れてくれて、「何が見えますか」と聞いてくれるでしょう。ぼんやりとでもいいから、イエスが見たものを見て、イエスの真実を生きる生き方を探していこうと思います。
2024年6月16日 「それがどうしたというのです?」
聖書 ヨハネによる福音書4章4-26節
著者ヨハネの覚悟のようなものを感じさせる記事だと思います。自らユダヤ人でありながら、優越意識や偏狭な民族主義を徹底批判して、神の前で人としてどうあるべきかを訴えているようです。
ヨハネの批判の先にはイエス自身も含まれていて、彼が「異邦」とされていたサマリア人の女性との出会いを通して自らの生き方を変えられていった出来事を記しています。
ゲリジム山でもエルサレムでもない場所でまことの礼拝をする時が来る、それは今だ、とイエスの口を通してヨハネは告白しています。ある人間には都合のいい場所に神を固定する。それ以外は何か訳の分からないものだ。そんな生き方をするな、それはまことの礼拝ではないというのでしょう。
サマリアの女性が置かれていた境遇に気が付いたイエスは、「霊なのです、神は」と言っています。神は人間の都合のいい場所に固定されるものではなく、特定の人間にとって唯一絶対で他の民族を区別差別するようなことを欲するお方でもない。イエスは女性からこのことを学んだのです。
彼は自分が女性を潤すどころか、渇きを与えてしまっていたことに気づき、人間の命を渇かせるものと対決する道へと導かれたのでしょう。この渇きは、人と社会が生き方を変えないと、ずっと続いていくものです。
「ゲリジム山? エルサレム神殿?」。どちらが正統でどちらが異端? 「それがどうしたというのかね」と、ヨハネが叫んでいるようです。
2024年6月9日 「豚さんがかわいそうですが…」
聖書 マルコによる福音書5章1-20節
何度読んでも迷う記事だと思ってしまいました。自分にとって邪魔なものや、やっかいなものを排除、隔離して、安心を得ようとしている在り方にイエスが警鐘をならしたのか。あるいは、レギオンや豚が力や権力、暴力的な方法で支配するローマ的な生き方を表しているとして、それを心底憎んで、こんな社会はおかしいと、イエスが抵抗していたことを表すものなのか。それとも他のものがあるのか。
イラクに駐留していた米軍に対して、現地の人たちがどんな感情を持っていたかを想像すると、暴力的に振る舞い、いつまでも居座っている軍人に「あいつらはレギオンだ。消えてなくなってほしい」という感情を持つことも、頷ける気がします。沖縄でも、いつまでたってもなくならない基地に対して地元の人たちが持つ感情は、同じようなものだと思います。その意味では、イエスの抵抗の意志を読み取ることも可能だと思います。
ただ、改めて思わされたことは、自分自身の中にも差別的な意志が潜んでいるのではないかということです。違う人、邪魔に思うことを自分から遠ざけたい、関わりたくないと思う心がないと言えばウソになります。そんな自分の生き方にも問いを与えてくれている記事だと感じました。そんな自分を思う時、イエスがこの人の名前を聞いて、関係性を持とうとしたことが最も気になりました。
2024年6月2日 「忘れものです」
聖書 ルカによる福音書14章15-24節(ヨハネ3章1-10節)
「忘れものです」というふざけたタイトルにしましたが、「忘」という漢字は心をなくす、と書きます。人への思いや神への感謝の思いを失っている自分の心と振る舞いとを見つめ直せと、「大宴会の記事」から問われている気がしました。
神の招きがあるのに拒否するということは、神の働きにつながることを拒否することにもなると、そんな読み方もできるのではないかと思いました。自分の思いを最優先にして、それが神の思いとは違うようなものでも正当化して、固定観念のようにして、それが崩されるのを拒否する。参考個所に登場する律法学者ニコデーモスの行動に示唆を受けます。
神の「大宴会」に招かれた人は様々です。一つの同じ立場の、ということではなくて、それぞれがそれぞれの事情を持った人たちです。神はあらゆる違う立場の人を招いています。同じ思想、同じ意見、同じ立場で、という人だけに限定するようなことはせず、違う立場、違う賜物を持った人たちを招いています。
私たちも招いてくださるでしょう。そこで、神が招いている人たちが人間社会ではどうなっているのか、どんなことが起きているのかに気づきたいものです。神の招きの先にあるものは何か、問い続けたいのです。
2024年5月26日 「あなたの無事を祈ります」
聖書 マタイによる福音書11章20-30節
自分のみが正しく、自分自身を正当化して他者を排除する。ここからはどんなことが起こってくるのでしょうか。今、ウクライナやガザで行なわれている虐殺が、正当化されることが許されるのでしょうか。
呪うという言葉がありますが、とてもきつい言葉です。「不幸があればいいのに」というレベルではなく、抹殺、せん滅を願うものです。この世から、社会からなくなればいい。人間の営みや命を、どのように考えるのでしょうか。自分自身の振る舞いをかえりみることはないのでしょうか。
教会は、イエスの宣教の拠点だったカファルナウムでの伝道に失敗したのでしょう。さらに、カファルナウムの教会は、エルサレムの伝道方針に同意しなかった、協力しなかったという事情があったと思われます。
自らの方針に同意しないものを呪い、せん滅を願う。聖書の舞台だけではなく、こういう出来事は私たちの身近でも起こり続けています。私自身の思いや振る舞いにも問いかけられていることとして受け取る勇気を、与えられたいと思わされる記事です。
イエスを解放する必要があります。半分持ってやるよ。ひどい世の中だ。少しでも穏やかになるように、半分担ぐよ。これは誰に向けられたものでしょう。彼はどんなことに怒り、共に嘆いていたのでしょう。
2024年5月19日 「命が聞こえますか」
聖書 マルコによる福音書4章21-32節
神の国と聞くと、何かとても広い大きいようなイメージでとらえてしまうのですが、イエスはその思いとはまったく反対に、大地の作物や小さな芥子の種粒のことを引き合いに出して、聞く者に考えさせます。
人間が寝て起きている間に、大地が食べ物を生んでくれる。そこには確かに神の働きがあること。芥子の種粒は1ミリほどのものなのに、やがて成長すると2~3メートルほどのものになって、そこに鳥が巣をはり、命を育てるまでになる。ここにも神が働かれていることを聞く者に気づかせようとするのです。
人はつい大きなものや強いものに目も心も奪われがちになります。生きるために何か条件をつけて、より多い、より大きいものを得たい、そのように考えがちになります。そんな時、いつの間にか神の働きに生かされていることを忘れてしまうのです。
神の国。誰が入れて誰が締め出される、入るための条件は何か。そんな思いの中で人間同士が分断していくことに、そんな水準でものを考えるな、とイエスは言っているのでしょう。そんなに神の国、神の支配、とか言うなら、大地の命を見てみろ、小さな種粒の成長を見てみろ、と言うのです。
自分の勝手な思いで神の国を判断し、神の国を測り、神の国をもたらそうとする。そんな人間のうぬぼれを粉砕するイエスの態度です。
2024年5月12日 「イエスが見える風景」
聖書 ヨハネによる福音書7章32-39節
ヨハネ福音書のオリジナルに加筆された部分(38、39節)に、「霊」についての説明があります。「霊」とはいったい何なのでしょうか。
著者の霊についてのイメージは、風のようなものだったと思われます。見えないところから流れて来る空気の動きのようなもので、それは人間が勝手に方向を変えたり、そもそも説明したりできないものだということです。それを、オリジナルに加筆したグループは自分たちの思いをここで説明しているのですから、著者が知ったらどう思ったでしょう。
神の霊は人間が正確に捉えたり、自分だけのものにしたりはできないもの、人間の水準を超えたもの、人間が気体の動きや風の流れ、空気の動きを勝手に変えたりはできないように、神の霊の働きは人間が操作できるようなものではないと言われています。
ですから、人間ができることはと言えば、神の霊が与えられるように必死に祈ること、それだけだと思います。自分にも、自分の周りにいる人にも、一日を守ってほしい、この人を支え助けてほしい、霊を与えて無事に過ごせるようにしてほしいと祈ること。それが人間ができることだと思います。神の霊を勝手に解釈して使って、他者を分けたり断罪したりは、人間には許されていないのです。
分断をよしとする生き方からは、イエスは見えないでしょう。「あなた方は、私を見つけることがない」とあります。「見つけることができない」ではなく、「見つけることがない」。私たちもイエスの風景を見つけることがない、という問いを与えられているのです(律法学者ニコデーモスの記事を参照)。
2024年5月5日 「生活の中心」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節
ガラテヤの諸教会にあてられた文書も今日で読み終えます。自己矛盾も平気なパウロの言葉をどのように受け止めることができたでしょうか。お伝えする私自身が彼の本質を理解するにはほど遠いという有様です。学びを深めなければいけないと、改めて思わされる半年という時間でした。
それにしても、パウロの手紙を読むたびに思わされてきたことは、生前のイエスの生き方が見えないことです。パウロはエルサレムに行ってペトロとイエスの弟のヤコブに会っていますが、それはイエスのことを聞くためだったと思われます。そこでどのようなことを聞いたのかは分かりませんが、すでに「宣教されたイエス」だったのではないかと思います。
イエスがなにゆえ「キリスト」なのか。どうして私たちは彼を「キリスト」だと告白できるのでしょうか。すでに「宣教されたイエス」を信じるか信じないか、というところから始まる信仰という形が多いのですが、彼が実際にどのように生きたのか、というところまでさかのぼることが少ないのではないかと思わされています。
教会組織、綱領、道徳、倫理…。これも大切でしょう。ただここに、信仰者としての人間イエスが不在となると、教会という集まりはどんな性格のものになるでしょうか。彼が対決したものに教会は無関心になるのではないでしょうか。
2024年4月28日 「誇り」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
ガラテヤの諸教会の人たちを「物分かりの悪い間抜け」と呼ぶ時もあれば、終盤になって「あなた方は霊の人たち」と言うパウロという人は、こういう自己矛盾にも平気だったのでしょうか。私など理解不足の人間にとっては、彼の手紙を読むたびに複雑な気持ちにもなり、彼の主張を納得のいく形で受け取ることがなかなか難しいのです。
最後の部分になって彼の物言いは懇願するようなものになっている気がします。気持ちがそうさせたのでしょうか。柔和な心を持て、誘惑されないように、重荷を負い合え、自分の行ないを吟味せよ、聖職者の生活を助けよ、善を行なえ…。まことにその通りだと思うのですが、このように書く必要があった、ということでしょうか。
ひょっとしたら、ガラテヤの教会内で不和が生じていたり、互いが競い合ったり、他者のことを思わず自己主張に陥っていたり、といった事情があったのかもしれません。洗礼を受けて何か特別な人間にでもなったと思っていたのでしょうか。信仰心を誇っていたのでしょうか。
誰でも陥ることだと思いますし、私自身も例外ではありません。ただ、ここで言われている「誇り」が、他者を貶めたり自分を優位に立たせたりというものなら、私は抵抗します。「弱さ、小ささ」こそが、私にとっての「誇り」ですから。
2024年4月21日 「限界があります」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13-26節
19節から書かれているのが「肉の業」。22節からは「霊の結ぶ実」。パウロもずいぶんと並べてくれたものです。よほどこのような「悪徳表」がお好きなのか、他の手紙でも多数出てきます。
読んでいていつも思わされることは、「悪徳表」の中に書かれている「悪」の項目で、自分自身が当てはまらないものを見つけるのが難しいことです。気持ちとしては「徳」の中にいたい、「徳」の項目を実現できる自分でいたいと思うのですが、ダメ人間はダメのままのようです。
ルカ10章に書かれている「サマリア人のたとえ」の記事を思い出すのですが、瀕死の状態だった人に関わらずに通り過ぎた祭司とレビ人の中にどうしても自分自身の姿を見てしまいます。彼らは律法を守ったのであり、律法を守るという観点からは、何も責められることはありません。
ただ、神が与えたという律法を守ることで人間の命が脅かされるとしたら、律法とは何だろうと思わされます。命の前では、ユダヤ人も外国人も、その他の壁があるということを問うこと自体が無意味な気がします。
私自身は、パウロの言う「悪徳表」の中の「悪」に自分がいても構わないと思っています。そうじゃないと、自分も命の前を通り過ぎることを選択してしまうかもしれないからです。
2024年4月14日 「慢心、傲岸です」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章1-12節
今日の個所の新共同訳の翻訳が気になったことで、イエスの弟子の筆頭だったペトロがイエスを「知らない」と言った個所が思い起こされました。なぜなら、今日の個所の翻訳からは「すでに救われている自分」と、「そうでない他者」とを分け隔てている態度が見えるからです。
ペトロは十字架の現場近くまで行きながらイエスのもとにはいなくて、周りにいた人間から「あんたも一味ね」と言われた時に「知らない」と答えたのでした。この出来事を非難することは簡単ですが、自分自身ならどうするだろうと考えた時に、やはり同じことになるだろうと思います。
彼はこの出来事ののちに、後悔や失敗をまったくしない「完璧な人間」になったかというと、そうではなかったと思います。私たちと同じように、相変わらず失敗もし、後悔をしてしまう行動もした、そんな人生だったと思います。ただ、イエスと一緒に生きたことで、今まで見ていた風景がまったく違ったものとして映る、そんな経験はあったのではないかと思うのです。
失敗をし続けるペトロ(私たちを含む人間)に、イエスは「お前のために祈った」(ルカ22・32)と言ってくれます。ダメでいい、弱くても小さくてもいい、祈っている。私たちの希望はここにあると思います。
2024年4月7日 「新しくされて、出発」
聖書 マルコによる福音書7章24-30節
イエスにとっては重大な出来事だったのでしょう。マルコの順番が正しいと仮定するなら、この出来事のあと彼は積極的に「外国人」との接点を持とうとしているように読めます。ユダヤ人から見れば外国人を差別思想を含んだ「異邦人」(犬ども)と呼び、交わることも決してしなかったユダヤ人であるイエスがそういう行動に出るとは、いかにこの経験が彼自身の思いを変えていくことになったのか、想像することができます。
世界を見ても私たちの社会を見ても、「分断」をよしとする流れの中にあります。世の中が「分断」の道をよしとするなら、私たちは「共生」の道を選択したいと思うのです。言葉では簡単に言えますがとても困難な道で、でもイエスも自分の生き方を変えられたように私たちもまた、自分たちが信じる道を歩みたいと思います。
光があることは心強いです。でも、いくら明るくてもそこに「闇」は存在します。「イエスは光だ」だとよく言われますから、イエスに招かれている私たちはつい「光」ばかりに注目してしまいますが、そこに確かにある「闇」に気づいて、そこにある課題は何なのか、自分自身はどういう行動ができるのかを考え続けていきたいと思うのです。戦争を遂行する責任者は「光」ではありませんし、「闇」とされている場所に生きる人たちがいます。
2024年3月31日 「食卓による再生」
聖書 ヨハネによる福音書6章33-35節a
イースターの日に、ヨハネ福音書の短い言葉を読みました。ヨハネはここで、「イエスこそが、神が与えた命を生かすパンだ」と言っています。そしてそれは「世に命を与え続けている」というのです。人の枯れている心に温かいものが染み渡るように、イエスの生き方が人を立ち上がらせ続けている、というのでしょう。
税金を徴収する下っ端役人のレビが、イエスのたったひと言の声で「立ち上がった」というマルコの物語が思い起こされます。ユダヤ人から見れば外国人のローマに仕える彼に、同胞から向けられていた憎悪は激しいものだったと思われます。彼は仕事場で「座っていた」のでした。それが「立ち上がった」とは、彼の心の状態を表していると思われます。
彼を立ち上がらせたのは「レビ、ついて来い。一緒にメシを食おう」というひと言で、それはまったくの条件も資格も問わないイエスの招き、神の祝福の声でした。それが立ち上がれなかった人間を生き返らせるのです。
教会という場所は、イエスのパンをいただき、命のパンをいただいて生きている共同体です。互いに生かし、生かされる関係性を持つことに導かれている場所です。教会での働きでも、それぞれの日常の生活の中でも、イエスのパンが導く生き方につらなる者でありたいと思うのです。
2024年3月24日 「そんな無茶な」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節
私には、今日の個所におけるパウロの説明には無理があるとしか言いようがありません。自分の主義主張を正当化するために、ヘブライ語聖書創世記の物語をねじ曲げていると思われるからです。ガラテヤの諸教会のメンバーたちのことが心にあったとしても、これでは新たな「分断」を引き起こすことにならないかと思います。彼がいつも言う「イエスの信」や「イエスの福音」との整合性はあるのでしょうか。
創世記の物語は、立場を分断してこちらとあちら、ということを主張しているのではなく、むしろ、違っている者同士がどうやったら互いを理解し共に歩めるのかの、問いをくれている個所だと思います。
この道こそが正しい、とか、これ以外はダメ、というものではなくて、もう一つの道を選択した(選択せざるを得ない)人をも神は守り、支えてくれるというメッセージです。その神を神とすることで、人間は人間同士、与えられた異なる個性を生かし合える方向に導かれる、との信仰者たちからの問いかけです。
パウロの態度を批判しなければいけませんが、これは教会の生き方や自分自身の在り方にも問いを与えてくれているものだということに気づかされた、そのことで少し救いがあった、と思わされた個所でした。
2024年3月10日 「イエスを心の中に形作る」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節
「神への信仰のために」とか、「神への熱心のために」と言いながら、その内実は自己主張のため、党派拡大のため、という態度を見ての発言がここにあるのでしょうか。なぜなら、パウロもかつては「神への熱心のため」と言いながら、実際には強烈な自己主張をしているに過ぎなかった、そのことに気づかされた、ということでしょうか。
ガラテヤの諸教会に来ていたパウロの「敵」たちもまた、「神への熱心」と言いつつ、ガラテヤの人たちが神ではなく自分たちのことを熱心に求めるようにしていた、その欲望を満たそうとしてここに来ているに過ぎないと言っているのでしょうか。
このことから、現代に生きる私たちが気づかされることは多いと思います。神への信仰とか神の国の実現のために、と言いながら、そんな美名のもとで人間の醜い欲望のために、ということはいたる所で見られることです。そしてそれは、私たち自身の心にも潜んでいることかもしれません。
そんな中で、「イエスの心が形作られるように」との言葉を心に留めておきたいと思わされます。私たちの心にイエスを、イエスが信じた神を形作る。その心を携えて、それぞれの場所に出かけて行って、イエスとイエスの神の視点から見た社会の実現のための働きをしていきたいものです。
2024年3月3日 「何も出来なくても」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙4章8-11節
古代の時代のことを想像し理解することはなかなか難しいことだと思います。例えば今日の個所に出て来る「神でない神々」とか「無力で頼りにならない諸霊」とは何を指しているのでしょうか。ずいぶんときつい言い方だと感じますが、パウロの何を思っての発言でしょうか。
例えば、天に浮かぶものを見る時、ある程度の知識を持っている私たちにとっては、それが何かを理解する、理解していることはありますが、古代の人たちにとって太陽や月や星といったものは不気味に映ったかもしれません。そしてそれらは、人間によくない影響を与えるものだという理解が多かった、という指摘もありました。
パウロがここで言っていることを想像すると、天に浮かぶそれらのものがとても不気味で得体の知れないものだからといって、それは神が造った被造物に過ぎないのだから、何も恐れる必要はない、ということだったのでしょうか。そして、それらを教会の神と結び付けて、悪い影響が自分たちの身に及ばないようにするために、提示された条件をクリアしようと、そのように教会員たちを説得しようとしていた「論敵」たちへの言葉だったのでしょうか。
先週の個所で「アッバ、父よ」というイエスの言葉を引用していたのですが、今日の議論をひもとくカギも、この言葉にありそうです。
2024年2月25日 「お父ちゃん-差別を克服する叫び」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章23-4章7節
ウクライナにロシアが侵攻して2年が経ちました。昨日のニュース番組でアメリカに亡命したロシア人ジャーナリストに密着した映像がありました。彼女は今、ジャーナリストとしての仕事はしていないようですが、他の場所で、アメリカに逃げて来たウクライナ人の家族と出会います。
英語が話せないウクライナ家族のために、仕事や生活で必要な援助をしたり、時には一緒に食事をしたりといった日々を送っているようです。戦争の話になると共に泣き、慰め合い、励まし合っています。対立する国の市民はそうやって思いを共有できるのに、戦場では殺し合っている。パウロがここで「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由な者も、男も女もない」と言っている言葉が実現することはないのでしょうか。
神を「アッバ」と呼んでイエスが信じた神は、父親が子どもを無条件で愛するように、いつでも応えてくれる存在でした。必要なものを用意し与えて、幼い子どもが「抱っこしてほしい」とせがめばそうしてくれる。イエスは神をそんなイメージで捉えていたのでしょう。
神においては何の区別も差別もない。優劣もない。聖と俗を分ける在り方もない。命が生かされる人と殺される人があっていいはずもない。イエスの「アッバ」は、すべての人にとってのものです。
2024年2月11日 「遍在する神」
聖書 マルコによる福音書12章13-17節
「お前たちがローマの皇帝を神だと思っているならそうしたらいいだろう。お前たちがユダヤの神を神として信仰しているならそうしたらいいだろう」。
巧妙な質問をしてきた貴族階級に、イエスはこのように返したのでした。相手の土俵にはのらず、自分たちの生き方はどうなのかと、突きつける問いを残したのです。私たち自身は、このイエスの問いにどのように応えられるでしょうか。
私たちが信頼する神とはどういう存在なのか。どんな性質の神なのか。イエスに問われている気がします。人間の分際で神にでもなったかのように振る舞っている「人間」がいます。その振る舞いでどれほどの人たちが苦しんでいることか、暴力でどれほどの人たちに苦しみをもたらしていることか。
私たちは、命を創造し、命を育まれる存在としての神を神として、ではその神を信頼する者としてどのような生き方ができるのかが問われているのです。私たちは生かされ、この瞬間があることも感謝をもって味わい、隣人と一緒に過ごさなければいけないと思うのです。目に見える富や力は暴力支配などは、すぐに消え失せるものです。
2024年2月4日 「神がくれた魂は」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章15-22節
あまり人に堂々と言えることではありませんが、私にも神は個性を与えてくれています。それを賜物として生かしてくれているのでしょう。もし、自分が一つのことで括られ判断され、評価されるとしたら、とても息苦しくなると思います。
イエスが見ていた「律法」の問題点は、律法が人間を一つのものに括り、それに当てはまらなければ罪となり、その人はなんらかの応答をしなければ解放されないという点にあったと思うのです。
ここでのパウロを批判しなければいけないと思わされたのは、彼が以前は律法だ、律法だと生きていたことから、今は信仰だ、信仰だという立場になって、それを信徒たちに押し付けていることがあるのではないかと思うからです。
これでは彼が思う「信仰」を持たないことには人間は神に「義」とされず、それは「信仰」という名を借りた新しい「裁きの律法」になります。多様な個性を与えられて生かされている人間の生命を、尊重することにはならない気がします。もし人間を一つのことに括ることが許されるとすれば、互いの命を尊重し生かし合う心を持つこと、その1点においてです。
2024年1月28日 「『物分かりの悪い間抜け』で何が悪い」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章1-14節
新共同訳で「物分かりの悪い」という日本語があてられていますが、これは「アホ」とか「バカ」とか「間抜け」ということのようで、ガラテヤの諸教会に集う人たちに対して、パウロはずいぶんと失礼な態度をとっているようです。ののしっている、ということです。
私自身は、「間抜け」と言われてもかまいません。実際、間抜け野郎だからです。私は、神と自分自身との間にイエスがいてくれないと困るからです。間の抜けたその場所にイエスがいないと、私自身はどのように神のことを考えられるか、神に対してどのように生きることができるのか、気づくこともなかなかできないからです。
でも、そんな間抜けでも神は人間を生かし、支え続けてくれています。自分に都合のいい神を作ったり、仕立てたりすることがあることを自覚しなければいけませんので、間抜けでいいのです。
「十字架につけられたままのイエス」(1節)とあります。今も、イエスが殺された原因が存在し続けていることを表しています。人間が生きにくくされ、命を殺されていく出来事が起こり続けています。間抜けな自分は、イエスに間に入ってもらって、なんとかその原因を探し出し、心と身体を寄せて行けるようにする行動へ、押し出されたいと願い続けます。
2024年1月21日 「人間イエスの信仰」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節
人間イエスの信(信)とはどんなものだったのでしょう。これは、彼がどんな神を信頼したかにつながります。すべての命を創造し、その命すべてが対等に平等に、相互性をもった関係を生きるように人間を導くのが神であると、彼は信じたのだと私は理解しています。
ところがその使命と責任を与えられた人間は、この生き方から離れ、驕り高ぶりの中を生き、互いを区別し差別することで自分を生かすという生き方を選んできました。イエスはこの崩れたバランスを、神の思いに寄り添えるような方向に立て直そうと、人を導いたのでした。
「イエスの信仰を生きる」とは、彼の生き方をまた自分たちの生き方としていくことです。その生き方に必死に向かおうとする人間を、神は「義」としてくれるのでしょう。「イエス・キリストへの信仰」を持つことが救われるための条件ではなくて、「イエス・キリストの信仰」に思いと身体を寄せて生きていくことが、神の思いに近づくための私たちに出来ることだと思います。条件にすれば、また新たな区別・差別を生みます。
正義と公正と公平。この3つがイコールで結ばれるバランスが保たれた時に、初めて「平和」とつながります。イエスの時代も、今も、このバランスが保たれているとは思えない世界です。私たちに出来ることを求めていきたいものです。
2024年1月14日 「恵みへの扉の開け閉め」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節
パウロの伝道拠点アンティオキア教会は、異邦人出身のキリスト者とユダヤ人キリスト者(迫害から逃れてきた人たちを含む)が混在していたものと思われます。出自や文化などを異にする人たちが共に礼拝を献げ、食事をしていたのでしょう。ペトロはしばらくこの場所で礼拝と食事の交わりに参加していたと思われますが、エルサレムから来た(派遣された?)人たちが現れた時に、彼はこの交わりから離れた、という記事です。
ペトロがなぜこのような行動を取ったのかはある程度想像できますが、課題に直面した時に人はどういう振る舞いができるのか、私自身のことを含めて考えさせられる記事だと思いました。
生前のイエスと一緒に生活し、彼の言葉と振る舞いを目の前で目撃しながら、イエスの生き方とは真逆のような行動を取ることを批判するのは簡単ですが、では自分なら、と思わずにはいられません。自分が意識しているにせよ、無意識にせよ、壁を作って何かと何かを区別して物事を考えてしまっていることに気づかされるようです。
想像したいのです。目の前に生きる人たちの今がどんな今なのか。どんな今を生きているのか。必要なものは何なのか。それを目撃した自分はどういう行動ができるのか。アンティオキア教会にはユダヤから迫害を逃れて来た人たちがいたと言いますが、今、ウクライナやガザから逃げている人たちの今はどんな今なのか、それに対してどういう行動を取り、思いを寄せることができるでしょうか。能登の震災の現場にいる人たちには、私たちはどのような思いを届けられるでしょうか。
2024年1月7日 「約束を胸に」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙2章1-10節
違う者同士がその違いを認め合って生きるということがいかに難しいか、そのことが示されているのかもしれないと思わされます。「一緒に生きていこう」と、口では簡単に言えるのですが、自分自身の思いや振る舞いもまた、この問いの前に立たされます。
ただ私たちは、歴史を生きたイエスを見て、彼自身もまたこの課題と向き合った人だったことを知っています。彼の生き方を通して、神が今、何を人間に語ろうとしているのか、何を求めているのかを考える時に、同じ命を与えられた人間同士がいかに生きるべきかの道筋を与えられていることも確かで、そこに注視していきたいものです。
教会会議においてペトロたちは「割礼へと」、パウロたちは「異邦人へと」それぞれの現場に出かけることになりました。平穏な雰囲気では決してなかった集まりだったと思いますが、神がそれぞれの賜物を生かして歩むことができる道へと導いたと、そのように考えることができるでしょうか。
今の私たちが属する組織も、それぞれの現場に派遣され、それぞれの現場での課題の中に生きて働く者同士のことを、互いに思い合えるものになってほしいと思います。それが実現しないと、教会は社会の出来事や地域の課題に向き合うことをせず、また、社会に生きる人たちから何かを学ぼうとか、仕えようとか、そのようなことから遠い場所としてあり続けることになります。
2023年12月31日 「神こそが王」
聖書 マルコによる福音書13章1-27節
物語の背景には66年から70年頃にかけて起こったローマへの反乱戦争があると思いますが(事後預言)、私たちが生きる今の世界情勢を見ていると、同じようなことが起こっていると思わされます。そしてそれは今だけではなくて、かつての大きな戦争を含めた、歴史において起きて来た戦争の姿を思います。人間はなんと愚かな生き物なのでしょう。
自分が神にでもなったつもりで自然や人間を支配できるとでも思っているのでしょうか。戦争は必ず弱い立場の人たちを苦しめます。何度もそうやって間違いを犯してきたのに、人間はなんと愚かなのでしょう。
2024年という新しい年を迎えようとしています。この年も、大きな課題や苦しみや困難がまったくないという1年になるなんてことはあり得ないことなのですが、せめて人間が知恵を振り絞ってすべての命を尊ぶような振る舞いが増えるようにと、祈らざるを得ません。
新しい年に出かける時に私たちが携えていく「武器」は、イエスの名であり、イエスが語る福音であり、命を生かす神こそが王であると信じて生きた、彼の生き方です。
「これは苦痛の始まりだ」と聖書には書かれていますが、苦痛を取り除き、苦痛を終わらせる努力ができるのもまた、人間です。
2023年12月24日 「おい、赤ちゃんが生まれたらしいぞ」
聖書 ゼカリヤ書7章9-10節、9章9-10節
このような権力批判の言葉、思想を残したイスラエルは、今、ガザでいったい何をしているのでしょうか。自分たちが「聖なる民」として、他者は異なる者で排除、抹殺しなければいけない存在だと位置づけるその思いとは、いったいどんなものなのでしょうか。今日も小さな子どもたちを含む民が、命の危険にさらされています。
イエス誕生の物語をたどっていくと、この出産はとても危険なものだったと思わされます。福音書の記述に従えば、ヨセフとマリアは150キロほどの距離を歩いて旅をしたことになります。身重の女性が1日に歩ける距離はどれほどでしょうか。5キロか、10キロか、体調のこともあったでしょうから、厳しい旅だったことが想像されます。
1週間から10日ほどの旅の途中、二人はどこに泊まったのか、何を食べていたのか。おそらく、旅を助けた人たちがいたのでしょう。なんとか到着したベツレヘムでも、出産を手伝った人、産着を用意した人、新しい命の誕生を喜び合った人たちがいたのです。イエスはそうやって、命を助けようとした人たちに守られ誕生したのです。
このことを、イエスはマリアから聞いたに違いありません。お前を生む時、その出産は大変だった、でも、それを助けてくれた人たちがたくさんいて、そうやってお前は生まれてくることができたんだよ、と。のちにイエスは、神の平和はこのような場所にこそあるのだと語り、振る舞ったのでしょう。
2023年12月17日 「解放に導く神の声」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節
生まれも文化も違う中で生活している人たちが、分断ではなくて一緒に生きるためにはどうしたらいいのか、共生していくためにはどんなことが必要なのか、自分自身にも問われていることだと思います。
パウロは律法がもはや無効となり、「キリストの信」によって人間は義とされると語り始めました。「回心」の出来事がどのようなものであったかは分かりませんが、彼の生き方が変えられることにつながったのは事実だったでしょう。
ただ、彼は律法に代わる「救いの条件」を新たに作ったことを思わされます。「キリストへの信仰を持つこと」が、律法を忠実に守ることに代わる条件になりました。そこではやはり、救われる者と滅びる者、神の支配に入れる者と陰府の世界に行く者とが分けられることになります。
それも、パウロが提示した「悪徳表」なるものに従って、提示されたものを守る必要が生じます。人一倍自信を持っていた彼なら、彼から見た倫理的条項は守れるでしょうが、一般の民にとってはどうでしょうか。
パウロはケファ(ペトロ)に会いに(調べに)行った、と言いますが、イエスの何を調べたのでしょうか。彼が出会ったのは、生前のイエスの生き方というよりは、「宣教されたイエス」だったのではないかと、気になります。
2023年12月10日 「呪いの端緒」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節
「私は驚愕し、あきれている。キリストという恵みのもとへとあなた方を招いてくださった神から、あなた方がこんなにも早く異なった福音へと移っていくとは」(6節)。
パウロはいきなり強い口調でこのように語っています。「驚愕し、あきれている」「異なった福音へと」。実はパウロの反対者たちが主張していたことは、以前のパウロ自身の姿そのままであり、そのこともあって彼はよけいにイライラしていたのでしょうか。
この段落に「呪われよ」という発言があることが気になります。二度も出てきます(8、9節)。「呪われよ」とは、相手なりその現象なりの撲滅、抹殺を意味します。その存在があることは許されない、抹殺しなければならないということです。
もともとは神と人間との関係において考えられていた概念だったと言われています。例えば、神との約束・契約の時、その約束を破ってしまった時にはどんな罰でも受けます、との意志の表明の場合がこれにあたります。神からどんな「呪い」があってもかまいません、という表明なのです。それが、人間と人間との関係になった時には、相手の撲滅、抹殺という形を取ることが恐ろしいと思うのです。新約聖書というものに呪いの概念を持ち込んだのは、パウロでした。その影響は?
2023年12月3日 「人は神ではない」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節
手紙を書く時に自分だったら挨拶くらいから始めると思うのですが、この手紙の冒頭は、いきなり本題から入っているようです。それほどパウロの気持ちは高ぶっていて、一刻も早く思いを伝えなければいけないということだったのでしょうか。
「人々からでもなく、人を介してでもなく、むしろイエス・キリストと、彼を死者の中から起こされた父である神とによって使徒とされたパウロ、そして私と共にいるすべての兄弟が、ガラテヤの諸教会にこの手紙を送る」(1節)。ここにすでに彼が言いたかったことの中心があるようです。ガラテヤの諸教会に来たパウロの反対者たちは、パウロに対して「あいつは神ではなく、人間の保証で使徒だと言っているだけだ」と言っていたのでしょう。これにパウロは反論しているのですが、反対者とてわが身を振り返ればエルサレム教会の重鎮たちに権威を感じていたわけです。
誰が正統で誰が異端か。区別、差別の姿勢。イエスが対決したことがこともあろうに初期の教会にすでに現れています。「使徒」とは「遣わされた者」。その意味ではイエスの姿を追い求めようと生きる者はすべて使徒であり、私たちもその一人ひとりです。追い求めるべきは区別や差別ではなく、共生への道を懸命に探ることです。
2023年11月19日 「罰か、祝福か」
聖書 創世記11章1-9節(参照:使徒言行録2章1-4節)
一つになる、みんな一緒でなければいけない、一緒になろう。一見、聞こえはいいのですが、そこにはとても危険なものをはらんでいると思います。バベルの塔の物語は、人間の驕り高ぶりに対する神の罰が描かれていると読んできたのですが、ここには多様性の祝福というメッセージがあると思いました。
物語は、人間の願いと神の意志が対照的に描かれていて、まったく逆の方向に展開していきます。一緒の言葉、というのは混乱し、一緒になる、というのはバラバラになります。同じでなければいけないという思いの中には、時に強制や束縛といったものが潜んでいて、人間のそんな生き方を多様性の方向に神が導いているのではないかと思わされました。
ペンテコステの記事でも、神は教会が出発する時に「霊を与えた」と言われています。神の霊は、自由をもたらす風です。その風は、多様であることの豊かさを運んできます。教会は、多様な人が集められ、多様な思いでそれぞれが助け合い、補い合い、仕え合って生きる場所だということが言われていると思います。
ウクライナやガザで起きている悲惨な出来事は、多様性を潰す人間の所業です(桐野夏生『日没』岩波書店、を参照しました)。
2023年11月12日 「今、ここに神はいない」
聖書 マルコによる福音書6章45-56節(参照:列王記上19章1-18節)
マルコが見ていた教会は、どこを向いて歩んでいたのでしょうか。何を最も大事なこととして考えていたのでしょうか。イエスが「通り過ぎようとされた」とありますが、何を中心に据えて宣教活動をしていたのでしょうか。湖の上で揺れ動く様子にたとえられている教会は、揺れ動いていたのでしょうか。不安があり、大きな力によって厳しい状態にあった、ということかもしれません。
イエスが「強いて」舟に乗せ出発させた、という記事が気になります。人間が生活する場所には常に不安があり、課題があり、そこで揺れ動きながら生きている人たちがいます。イエスは教会に、「そこに漕ぎ出せ」とのメッセージを与えてくれているんだというマルコの理解でしょうか。
人間の生活や日常抱えている課題とは離れた所にあるのが教会ではない、イエスが「強いて」舟を出させたように、人間の営みの中に教会は漕ぎ出して共に生きようと、マルコは教会を励ましているとも読める気がします。列王記の中で神の声がどこで聞こえたかを心にとめたいと思います。小さな、ささやくような声の中に神の声はあったのです。私たちが生きる今、それはどこで聞こえるでしょうか(幻冬舎『ハマスの息子』を参照しました)。
2023年11月5日 「沈黙の声を聞く」
聖書 創世記4章1-16節
ウクライナやガザで破壊されてがれきとなった地で逃げ惑っている人たちの姿は、現実に起こっていることとは思えない、思いたくないという気持ちにさせられますが、しかしこれが現実で、これほどの悲惨さを生み出す人間の最も醜い姿が出現しています。これはいったい何だろう、人間とは何かを、最も強い非難の思いをもって考えざるを得ません。
弟を殺した兄は、神に問われた時に「知らない」と言い、さらに「自分は弟の番人ですか」と答えます。ここには人間と人間同士の信頼関係は崩れ、さらに神と人間との関係性も壊れています。人間は人間との関係性において、神との関係性において「死んでいる」のです。
創世記において神が人間を造った時、人間は互いの命を尊重し合うパートナーとして生きることを使命とされました。また、自然の命を管理し、それに仕えることが人間の責任であると言っています。自分の都合に合わせて、命を勝手に操作してはいけないのです。
神が与えた使命と責任を思う時、人間が行なう最も善き業は、自分の命を十分に生き切り、同時に他者の命を尊重して思い合いつつ生きることです。今、人間が与えられている最も善き業を、人間自らが自分の手で殺しているのです。血を流し、泣いている子どもたちがいます。
2023年10月15日 「涙の革袋」
聖書 詩篇126篇
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(5-6節)。
どんな場面を想定するにしろ、本当にそうなってほしいと思います。厳しい現実と向き合いつつも、そこに喜びをもたらす収穫や、喜びの歌が満ち溢れるようなことが起きてほしいと、特に今の世界情勢を見ているとそう願わずにはいられません。
戦争によって奴隷とされた人たちが「帰って来るように」「帰って来てほしい」、喜びの歌をうたいながら、涙ではなく喜びの中を帰って来る、帰って来てほしい。バビロニアでの歴史が歌の背景にあるのでしょう。
まるで、今の情勢をそのまま見ているようです。ミサイル攻撃にさらされ、安全な場所を探し求める姿。瓦礫と化した混乱の町で必死に生存者を見つけ、助けようとしている人たち。ガザでもウクライナでも、人間同士が命を奪い合う戦いが続いています。詩篇の言葉が実現することはないのでしょうか。求めることは無理なのでしょうか。
帰って来た人たちは、どこに帰ったのでしょうか。再び軍事力に寄り頼む道に帰ったのか。「神の正義に帰る」ことは不可能なのでしょうか。
2023年10月8日 「リセット」
聖書 マルコによる福音書10章17-22節
人間には限界がありますから、自分中心で物事を捉え考えてしまうものです。私自身も例外ではありません。日々の生活で、自分と他者と分けてどちらが正しいとかそうでないとか、そんな捉え方で過ごしていることが多いことに、イエスから厳しい指摘をもらっているのではないかと思わされた記事です。
イエスに質問してきた人は「多くの財産を持っていた」というのですが、何も富を持つことがどうかと言われているのではないと思います。また、「慈善行為」のおススメ、といったものでもないと思います。
イエスは彼に言ったのでしょう。「一度、お前の生き方を考え直してみたらどうだ」と。「お前は何に依存し、何にしがみついて生きているのか。一度、それを考え直してみないと、お前にとっての親しい人や愛する人、家族や近しい人たちの顔は見えるけれども、厳しい生活を強いられている人や区別・差別の対象にされている人たちの顔は見えないよ」と。
自分自身の生き方も問われていることだと思わされました。マルコはイエスの口を使って読者に伝えたのでしょう。「あなたたちに足りないことが一つある。それは、イエスに従うことだ」。
イエスの生き方を見て自分の振る舞いを捉え直す。なかなかできない難しい課題ですが、意識の中において日々を送りたいと思うのです。戦場になっている場所と為政者たちにも、どうかこの言葉と心が届きますように。
2023年10月1日 「伊江島の花」
聖書 詩篇8篇
8篇に印象深く語られている「人間とは何ものなのでしょう」という言葉を、今こそ意識しなければならないと思わされています。人間と人間が命を奪い合う戦争が続いている今です。
人間は自然の命を奪い、人間の命も奪い、そこに暮らす人の大地まで奪ってきました。天災というものがこのような仕打ちをした、ということなら、納得することはなかなか難しいかもしれませんが、どこかであきらめもつく時が来るのかもしれません。
でも、戦争や自然破壊は人間の業であり、そこで生み出される苦しみや悲しみ、そして死というものは人災です。人間が起こしたことですから、あきらめがつくということはないと思います。
このような出来事に対して向き合うことは難しく、また無力を感じることでもありますが、でも、歴史的に見ても必ずそこで動く人間たちがいたことも確かです。今も日々、自分の出来ることを最大限に用いて動いている人たちがいます。
教会は、このような命を生かす働きに連なる場所でありたいと思います。命を奪うことではなく生かす働きに、連帯したいのです。小さくても、無力を感じても、神は教会を使ってくれるでしょう。
2023年9月24日 「むなしい企て」
聖書 詩篇2篇
「神のもとに身を避ける人はさいわいだ」(12節)とありますが、この歌を編集した人たちが最も言いたかったことがこれだったのでは、と思いました。
人間が神になるという王制を批判した人たちがこの詩篇をまとめたのだと思います。暴力否定、権力批判の精神を持つ人たちが、戦いの時代にも確かに存在し、社会を見つめ、人間を見つめ、神の思いを最も大事なこととして言葉を残し、振る舞ったのでしょう。
預言者たちもそうでしたが、詩篇の編纂者たちの中にもそのような精神を持った人たちがいたのです。もともと王制を讃えるこの「王の詩篇」に、人間のさいわいとは何かを問う言葉を書き加えて、社会と宗教の在り方を厳しく批判したのです。
国家にとって決定的な出来事があって、歴史を踏まえて新しい在り方を模索したのだと思います。過去の出来事に学ばず、今の在り方を自己批判もせず、ただ今だけ、金だけ、自分だということで社会を支配する動きが私たちの時代を覆ってきているようです。
この詩篇を読んで、私たちが生きる今、現に起こっていることは何かを問うことが必要でしょう。肝に銘じろ、と言われているようです。
2023年9月17日 「さいわいな人」
聖書 詩篇1篇
詩篇全体の表題になるものとして、編集者たちはこの作品を冒頭に置いたようです。「さいわい」とは何か、それがキーワードでしょうか。
信頼するテキストによると、1篇の詩人は「人生において理不尽な経験をした人」だということ。そうすると、大きな困難に置かれたり、道理に反することで厳しい立場に置かれたりしてきた人の声だということでしょうか。その人が、「さいわい」とは何かを考え残してくれた作品だということができるでしょうか。
詩人は3節と4節で、正しい人と邪悪な者の人生を比較するように書いています。水辺の樹木は正しい人、風に吹き飛ばされるもみ殻が邪悪な者。本来はそうなのかもしれませんが、でも、実際はどうなのでしょうか。詩人の時代も今も、むしろ私たちの目の前には義人が苦しむ姿があり、悪が繁栄を享受していることが多く見出されることです。
でも、それが社会の当たり前になっていようとも、詩人はその生き方には自分は与しないこと、そういう生き方からは決別することをここで宣言しているように感じます。詩篇を編纂した編集者たちは、この宣言の中に「さいわい」の姿を見て冒頭に持ってきたのかもしれません。神の前で「さいわい」なる人の生き方とは何か、との問いです。
2023年9月10日 「神が必ず一緒に」
聖書 詩篇113篇
いわゆる「最後の晩餐」と言われる物語(マルコ14章22節以下)において、食事の時に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という記述があります。ユダヤ教の重要な祭り「過越祭」の際にうたわれる「ハレルヤ歌集」「ハレル歌集」を、イエス一行もうたったのでしょうか。113篇を含む歌集をイエスは祈りと共にリードしていたのでしょう。晩餐の場所から出て行った先に何が待っているのかを、彼は理解し、そして覚悟していたでしょう。極限の状態にありながら神を賛美するその心を想像しています。そしてその賛美する神はどういう神なのか、と。
この歌集が過越祭に歌われた背景を考えると、弱く小さい存在に目を留めてくださる神を賛美しようという思想があると思います。超大国と言われたエジプトから、吹けば吹っ飛ぶような弱小の民イスラエルを解放した出来事に、詩人たちは神の特質を見たのです。
7節から9節において告白されている神を神として信頼した詩人の思いをイエスは継承し、言葉を尽くし、行動において示した人生でした。この祈りとも言える告白を、今、誰が祈っているのか、どこでその声が上げられているのか、想像する者でありたいと思いました。大きさや強さ、また自分の必要なことばかりが注目される今ですから。(参考図書:『杉原千畝とコルベ神父』早乙女勝元、新日本出版社)
2023年9月3日 「私の救いはどこから」
聖書 詩篇121篇
121篇は「巡礼の歌」ということですから、エルサレム神殿に詣でる信仰者たちが長く険しい旅に出かける際にうたわれたものなのでしょう。旅が安全であるように、無事に目的地に着くように。今のように旅先の情報が手に入ることもないのです。見送る人たちは神に祈ったのでしょう。
さらに、神殿に無事に着くことができて、これから故郷に帰る時に祭司が祈ってくれた歌だと言うこともできると思います。これも人の安全や無事を神に祈ったという風景があります。
世の中が便利になるのはいいことだと思います。私自身もあらゆる場面でその恩恵を受けて生活しています。ただ、その便利さの中で、人のことを想い、神に支えを祈るような感覚を失いつつあることも思います。自分自身のことを振り返ってみれば、他者を見つめる心が希薄になっているのではないかと、詩篇を読むとはっとさせられました。
信仰者たちは、巡礼の旅の途中でいろいろな風景を見たことでしょう。そびえる山々、豊かな自然、そこに生きる動物、植物…。そこに神の働きを見たでしょうし、小さな人間が小さいまま生かされていることも感じたでしょう。私などが失っている感覚を古代の人たちは持っています。生かされている人間同士、互いを思い合う心を取り戻したいと思うのです。
2023年8月20日 「バル=混乱」
聖書 詩篇144篇(参照:創世記4章17-26節)
「人間とは何ものなのか」。8篇にも似た言葉があります。そして、創世記の創造物語(原初史1-11章)の思想とも通じる言葉です。私たち人間は、神に対してどのような応答ができるでしょうか。
エノーシュという言葉を使い(弱く、小さく、はかない存在としての「人間」を表す)、人間としてのもう一つの生き方を提示した信仰者たちの目には、私たちが生きる今と同じように、人間が神になったかのように振る舞っている姿があったのでしょう。力や大きさ、身に合わない豊かさや強さを追い求め、人間や自然の命さえも支配できると考えている為政者たち。宗教家たち。今も何も変わっていないことだと思います。
144篇は「王の詩篇」というジャンルに入るとテキストにありましたが、王をほめたたえているのではなく、むしろ王といっても神に造られた人間だから、人間としてどのように神に託された責任を果たすのかが言われている気がします。それは、特に「王」として立てられた者だけではなく、私たち一人ひとりにも問われていることだと感じます。
大事な8月を迎えています。混乱=バル(創世記4章20節以下に出てくる3人の名前)が続いています。混乱をもたらしている人間の生き方を見直さなければ、大事な命を守っていくことは不可能だと思います。
2023年8月13日 「今だけ、金だけ、自分だけ」
聖書 詩篇100篇
マルコ10章18節。「なぜ、私を善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」。ヨハネ4章20-21節。「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。イエスは言われた。婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。
人間ではなく神こそが「善い」のであり、イエスは自分が神のように捉えられるのを拒否しているようです(100篇5節「神は善いお方であり…」)。ヨハネのほうでは、サマリアの女性との会話の中で、サマリアかエルサレムか、どちらが正しいのかという捉え方を超えようとしています。
100篇の中に「イスラエル」「エルサレム」といった言葉が出てこないことが気になりました。言葉の裏には意識されているかもしれませんが、詩人が意図的に書かなかったのではないかと思わされています。
イスラエル中心主義、ユダヤ教絶対化。一方では「全地よ」と呼び掛けて神の支配を普遍的に展望する。二つの思想を併存させて、詩人は読者に問いかけています。こちらが正義、その他は敵。そうやって分断の社会や世界が作られ、今もずっと続いています。最たるものが戦争という形になります。神のみが「善い者」。戦争指導者たちが、一日も早く「人間」に戻りますように。
2023年8月6日 「『人間』を探して」
聖書 詩篇122篇
辺野古の海に出て、海上保安庁の職員や作業員に出会った時になんとか思いを伝えたいと願って発する言葉に対して、反応の言葉も振る舞いもいつも同じものでした。無視するか、あるいはマニュアルでもあったのでしょうか。時々は人間的な反応もありましたが、でも、ここには「人間」はいないな、と感じることが多かったのです。
そもそも政府の人間たちが辺野古について語る言葉もいつも同じで、いくら問い詰めたとしてもそこには「人間」は出てこないと思わされてきました。これからもずっと、同じことの繰り返しなのでしょうか。
122篇の詩人は、礼拝に行けたことの喜びを冒頭に記しています。どんな立場の人たちもそこに招かれていて、友人と共に感謝の礼拝を献げることの喜びを分かち合っていた風景が見えるようです。
詩人は何も、神殿の壮麗さや大きさ、立派さなどをほめたたえているわけではないのです。さらに、神殿機構や宗教システムに平和があるようにと願っているわけでもありません。そこに集う一人ひとりの毎日が平安であり安寧であるようにと祈っているのです。詩人は「人間」を見て、その一人ひとりの「人間」を生かす神に感謝しているのです。今の世にも、「人間」を探す旅が必要のようです(参考図書:緒方正人『チッソは私であった』河出書房文庫)。
2023年7月30日 「慈愛と真実(まこと)を忘れた時」
聖書 詩篇117篇
大事な出来事を思い起こす8月を、また私たちは迎えることになります。6日、9日、15日、22日。私が知るこれら以外にも、大切な日として心にとどめている方はおられると思います。
関連個所として取り上げた122篇の詩人は、友人たちが神への礼拝に誘ってくれたことがうれしかった、と歌っています。作品の冒頭に書かれたこの言葉は、深く印象に残ります。礼拝に行ける喜び、一日の労働を無事に終えることが出来た感謝の思い。それらをどんな立場の者も招かれている豊かな空間で共に祈り、飲み食いができること。みんなが生かされている喜びを分かち合う。そんなステキな風景が見えるようです。
117篇の詩人は歌います。神は常に人間に慈愛と真実(まこと)を注ぐ。それは一時的なものではなく、気まぐれなものでもなく、偶然的でもない。常に注がれる神からの恵みだというのです。
そうやって生かされている人間が、このことを忘れた時にどんな行ないをするのか、過去にしてきたのかを問われる思いがします。他者に対して、自然に対して、そして神に対して。
大事な8月です。詩人の思いが私たちの心の中に、隣人との関係性の中に広がりますように。殺し合いが続くあの場所にも。
2023年7月23日 「造られた者としての自覚」
聖書 詩篇117篇
コロナで外出を控えている時、さらにロシアがウクライナに軍事侵攻して悲惨な映像を目の当たりにした時、命とは何だろう、人間とは何だろう、ということを考えざるを得なくされたことでした。そして、神とは何だろう、自分はどんな神を神として信仰しているのか、ということにも意識が向くことが多くなりました。
ヘブライ語聖書の中に多く出てくる「慈愛」と「真実(まこと)」。神から人間に常に注がれている恵みで、それは一時的なものではなく、気まぐれのものでもない、ずっと続けられていることだというのです。
詩篇の詩人も預言者たちも、この2つを書き残している人が多いのですが、そこにはそんな恵みを与え続けられている人間がどう生きるのかという切実な声、問いがあると思います。どのように応えられるでしょう。同じ人間に対して。さらに、自然の命に対して。そして、神に対する応答として。
『沖縄の生活史』(みすず書房)に登場する多くの人たちが、ウクライナの現状に心を痛めている、と答えています。凄惨な沖縄戦を経験しているからです。かつて目撃したことと同じことが今、ウクライナの地で起こっているのです。慈愛と真実をずっと与え続けられている人間が、その慈愛と真実をもって他者と生きることは、不可能なのでしょうか。
2023年7月16日 「見ちゃった」
聖書 マタイによる福音書28章16-20節
イエスを伝える、イエスの思いにそった生き方を目指す。神からの声として自分の責任であることを自覚したとしても、生きる中で目の前に現れ経験することに、どうしたらいいのかと、足がすくんでしまうことが、私の場合はとても多いのです。自らの限界や弱さ、小ささを思います。
目の前で、海にコンクリートブロックが投下されて、海に生きる命が殺される場面を目撃しました。土砂が入れられ、同じように自然の命が生き埋めにされ、長く続いてきた命の循環が破壊される瞬間も目撃しました。自分を含めた人間の愚かさと、愚かな行動を「見ちゃった」のです。
比較することなど失礼千万ですが、水俣に深く入り込んで病の追求と解明、患者の掘り起しと共生の道を探し続けた医師・原田正純さんの言葉を思い出します。石牟礼道子さんとの対談で彼は、「大学で神経学を勉強していて、そして自分は見ちゃった。あの状態を見て、何も感じないほうがおかしい。ふつうの人は何かを感じる。もう逃れられない。見てしまった責任ですね」と、言っています。
現場で見たものに圧倒され、自分がどのように行動していいのか分からない。でも、一人の人間としてこの課題を背負い続けるという意思と決断。イエスが見たものを今の自分は背負っていけるのか、背負おうとしているのか、問われ続けています。
2023年7月9日 「イエスを起こした神への畏れ」
聖書 マタイによる福音書28章1-15節
マルコ福音書が出来てまだそれほど長い時間も経っていないのに、イエスの最後の姿は大きく変わってきていることが分かります。宣伝が宣伝を生み、イエスの最後はどんどんと「美化」されていることを感じます。
辺野古の海に初めて船で出た時に、私は「畏れ」を感じました。恐怖ではなく、「畏怖」の「畏」です。長い年月をずっとあの場所で生き続けてきた命の営みに、ほんのわずかな時間しか関わりを持たない自分のような者が、つながって生かされていることに気づかされ、「畏れ」を感じたのです。
それは、人間が作ったものではなくて、自分の力や思いなどはとうてい及ばない中で続けられてきた命の営みです。そんな力に生かされている人間が、命のつらなりを勝手に遮断してはいけない、断ち切ってはいけない、人間はそんなことを決してしてはいけないと、思わされたのです。
イエスの最後の場面までついて来ていた女性たちは、彼の生き方を思い起こしながら、神への「畏れ」を感じたのではないかと思います。なぜなら、イエスは「起こされた」からです。つまり、神がイエスの生き方を肯定していたことに気づかされ、自分たちは「人間として生きていっていい」ことを示されたからです。不思議さと感謝と畏怖を、彼女たちは感じたと思います。この思いを持って、私たちも「ガリラヤ」に出かけましょう。
2023年7月2日 「『イエスという問い』は、今も」
聖書 マタイによる福音書27章57-66節
6月23日の沖縄慰霊の日、3年振りに現地で過ごすことができました。南部の激戦地で逃げ惑った人たちになんとか思いを馳せ、また、たるんだ自分の心を戒めないといけない、今回もそんなことを思いました。
帰って来てから与えられた聖書個所を読む中で、イエスの埋葬の現場までついて行った女性たちの心を想像しました。あの場所で、彼女たちは何を思っていたのでしょうか。生前のイエスの言葉と行動を思い起こしていたのでしょうか。そして、自分たちに出来ることは何かを思い巡らし、イエスの思いを人に伝えていく決意もしたのではないかと想像しています。
彼女たちがそうしたように、沖縄戦を生きた人たちは、厳しくつらい経験を語り続けています。その姿を見て、私自身は、語られたものを聞き、自分に与えられた問いを問い続けていかなければいけないと、改めて思わされています。
沖縄戦体験者の方の中には、雨を見ると当時を思い出してつらい、と語る人がいます。沖縄の6月は梅雨ですから、戦争当時も雨が降った日が多かったと思います。一方で、雨は大地を潤して新しい命を芽生えさせます。そうやって、沖縄の大地には命が生まれ続けてきたのです。
大地に眠る人たちから私たちへの、命を守り、生かし続けるようにとのメッセージを、雨が運んでくれているような気がします。
2023年6月18日 「あんたたちが持って来たんだよ」
聖書 申命記7章6-7節
「こんな醜いもの、あんたたちヤマトが持って来たんだよ」。米軍海兵隊基地シュワブのゲート前で座り込む、おばあからいただいた言葉です。この「あんたたち」の中に自分が入っていることを、肝に銘じておかなければいけないと思わされています。「あの時はアメリカーが攻めて来た。今度はヤマトが来たよ」。これもいただいた言葉です。海を埋め尽くすように現れたアメリカの艦船の記憶が、今の辺野古の海の状態と重なるのでしょう。まぎれもなく、この醜い姿は私たちヤマトが持って来たものです。
強く、大きく、多くがいい、という価値観の中で過ごしてきました。でも、辺野古の海に造られようとしているものは、強く、大きいものかもしれませんが、自然の命に感謝しながら日々の営みを続ける人たちの生き方こそが、最も価値のある大切なことだと教えられてきました。
教科書に載るような「偉大な人」とか有名な人だけが、歴史を動かしてきたわけではありません。むしろ、名もない、小さな人たちの営みが社会や世界を動かしてきたのです。沖縄で今、命のつながりと営みが破壊され続けています。こんな大事な命のつらなる世界を壊してはいけない、大事に守っていかなければならないと、あらゆる人たちへの問いかけが、座り込みの現場から聞こえてきます。
2023年6月11日 「荊冠が表す真の人」
聖書 マタイによる福音書27章32-56節
イエスは十字架上で絶叫し、そして最後に言葉にならない叫び声をあげて死んでいきました。その叫びを想像しなくてはいけません。なぜなら、同じことがずっと続いて来ているからです。
「どうしてこんな死があるのか。人間が死を作ってはいけない。こんな死をなくしてほしい。そんな社会が実現するように、人間を導いてほしい」。イエスの神への最後の叫びを、私自身はこのように受け取りたいと思っています。そして最後の絶叫は、「このような現実がどうしてあるのか、問い続ける生き方をしてほしい」という、私たちへの問いかけを残したのではないかと思います。
十字架の横木を担がされて歩いているイエスのまわりには、いろんな立場の人間がいました。反応も様々です。無関心か、眺めているだけか、バカにするのか、逃げるのか。では、自分自身はどこにいて、何をしているのかを考えなくてはいけないと思います。
今も、重いものを背負わされ、時にはつまずき、倒れながら歩いている人、場所があります。私たちの目の前を通っている時、自分はそれを見ながらどこにいて、何をしているのでしょうか。無関心か、眺めるだけか、バカにするのか、逃げるのか。
2023年6月4日 「生涯最後の一日」
聖書 マタイによる福音書27章1-31節
イエスの人生最後の一日は、バカにされ、殴られ、最も忌まわしい、残虐な処刑方法で殺される、というものでした。このような死を、決して美化してはいけないと思います。
彼はユダヤ当局の尋問でも、ローマの裁判でも、何も語ることはありませんでした。ただ一言だけ、「それはあなた(がた)が言っていることだ」と答えた、とあります。
「お前はキリストなのか」「お前がユダヤ人の王なのか」と問われ、「それはあなた(がた)が言っていることだ」と言い、これは反対に問いを投げ返しているような言葉です。「あなた(がた)はキリストというものをどう考えているのか。王とは何か」と。
権力を使って邪魔者を排除し、排除するためには暴力をも使う。自分は責任を持つことを拒否、回避する。どうやらこのような人間の生き方は、2,000年経とうが変わらず、これからも続いていくのでしょうか。バラバを選んだ、ということも、人間がどんな方向を向いているのかを示唆しているようです。力には力、暴力には暴力、ということでしょうか。
6月を迎えて、78年前の沖縄で何があったのかを想像したいと思います。このような人間の在り方が何を残したのか。それは、今も続いていることです。
2023年5月28日 「暴力支配への挑戦」
聖書 マタイによる福音書26章57-75節
これはもう、ただの集団リンチです。愚弄し、侮辱し、唾を吐き、目隠しをして殴る。凄惨な場面が浮かんできます。いつも思うことですが、人間とはいったい何でしょうか。
生まれて来た時にはオギャーと泣き、ケツは青くてやわらかい肌。誰かがやさしく受け止めないと、傷ついてしまいます。栄養を与えることも必要です。誰もがそうして、誰かに助けられて命のスタートを切ったはずです。不幸なことに命が守られなかった場面もありますが、今を生かされている人たちの多くは、誰かに見守られて生まれて来たのです。
そうやって助けられ生かされてきた人間に、どうして浄/不浄があり、聖/俗と分けられ、区別・差別がなされるのでしょうか。イエスはユダヤ当局の裁判に立たされる中でも、こういった理不尽がなぜ起こるのかを考えていたのではないかと思います。
不定形で書かれている「唾を吐く」「覆う」「殴る」は、今もそのような状態があることを思わせます。それは、いったいどこなのでしょうか。イエスを「知らない」とは、彼がもっていた視点と自分は「関係がない」「注視しない」ことです。愚弄され、殴られ、目隠しをされて事実が隠蔽され、唾を吐かれている場所を、私たちは見ているでしょうか。
2023年5月21日 「捕縛される正義」
聖書 マタイによる福音書26章47-56節
ゲツセマネでの祈りの後、「眠っていた」弟子たちを促して、「起きろ、立て、見よ、行こう」と言ったイエスは、どこに導こうとしているのでしょうか。彼が促す先には何があるのでしょうか。
できれば見たくない、関わりを持つことを避けたい、そのようなものがあるのでしょう。自分を「安全地帯」に置いていて、声高に「正義」を叫んでいる人もいますが、自分自身の生き方も見つめ直す必要がありそうです。イエスの招きにどう応えられるでしょうか。
ヨハネ福音書の並行個所では、イエスを捕縛する時にローマの軍隊が来ていたとなっています。1軍団、600人です。戦闘のプロがこれほど必要だったのか、象徴として読めば、神の正義を妨害する力がこれほど強いということでしょう。剣や棒という武器を持って来ていたというのは福音書に共通していますが、これも、神の正義・働きをつぶす力がこれほど強かったということでしょうか。
イエスが「誰を探しているのか」と問い、「ナザレのイエスを」と答え、さらに彼は「私だ」と言っています。それが何度も続きます(並行個所)。力や暴力で支配しようとする場所や振る舞いからは、「ナザレのイエスの本質」がなかなか見えないということでしょう。私たちは「ナザレのイエス」が見えているでしょうか。
2023年5月14日 「『眠っている』聞く力」
聖書 マタイによる福音書26章36-46節
イエスはこれから自分におとずれる過酷な現実を、すでに受け入れる覚悟を持っていたと思いますが、しかしそれでもその現実はあまりに残酷、非道なものです。そういった極限にありながら、人はどのようなことを神に祈ることができるのでしょうか。
彼は人生の中で悲惨な死を多く見てきたと思います。神が与えた人生を十分に生き切って、感謝の思いの中で人生を閉じることができた人を目撃できたのは、むしろ少なかったのではないかと思います。多くは、人間が作った死によって人生の最後を迎えた人との出会いだったと想像します。
そんな彼は、ゲツセマネの祈りにおいて、人生で経験してきた悲惨な死を思い起こしつつ、「人間が死を作ってはいけない。こんなことをなくしてほしい」と、神に祈ったのではないかと思わされています。
このイエスの祈りを、今を生きる私たちの時代にも、あらゆる場所で祈り続けている人たちがいます。どこで、誰が祈っているのかを、私たちは「目を覚まして」出会い、聞く者でありたいと思うのです。
弟子たちは、イエスが何度祈っても、眠っていました。私たちも、イエスの祈りを聞くことができず、「眠っている」のかもしれません。何度眠っても、何度も「起きろ」と言ってくれるイエスの声を聞きたいものです。
2023年5月7日 「一番の失敗は、失敗をしないこと」
聖書 マタイによる福音書26章31-35節
この記事を読んでいると、じゃあ自分だったらどうするだろうかと考えてしまいます。「お前はどう生きるか」という問いの前に立たされた時に、自分はどういう選択をするのか、自分は何を一番大事にしながら生きる決断をするのかなと、そんなことを思わされる物語です。
人間はそんなに強くはありませんから、「あなたを裏切るようなことはしない」とか、「あなたと一緒に死を迎えるようなことになっても、ずっと一緒にいます」という決意の言葉も、実際に事が起こった時には反対のことをしてしまうという、それが人間というものなのかもしれません。
世の中の流れに乗っかっていくことが楽だということもありますし、自分を傷つけないようにするとか、関係を持つことを避けるとか、重い決断をする時にはそんな思いもよぎります。
失敗を何度もしてきた自分の人生も思い起こすのですが、一世一代とも言える決断に「失敗」したペトロたちに、イエスは「ガリラヤに連れて行く」と言います。ガリラヤにこそ「人間」が住み、人の生き方の基本姿勢が見えるのだからと。失敗の先に見えることがあり、失敗しないと見えないことがあります。私たちが何度も失敗しても、イエスは声をかけてくれるでしょう。「ガリラヤを見よう」と。
2023年4月30日 「『人間の出発』の晩餐」
聖書 マタイによる福音書26章26-30節
「最後の晩餐」「聖餐式の起源」と位置づけられる物語ですが、教会の神学が入り込む前には、イエスが分け隔てなく誰とでも食事を共にした風景がここにあったのではないかと思わされています。
ローマ支配下、地下墓地(カタコンベ)で礼拝を献げ、信仰を守っていた人たちがいました。そこの壁には、ギリシア語で「イクトゥ―ス」と書かれた絵が刻まれていたと言います。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」の言葉の頭文字をとって「イクトゥース」=「魚」となります。
信仰者たちは、生前のイエスの最も印象深い行為である食事の場面を思い浮かべながら、礼拝を献げ続けていたのでしょう。親しかった人や別れてしまった人を思い起こす時に、私たちもその人の最も印象深かった行動などを心に浮かべるのではないかと思います。
そしてイエスは、食卓を囲みながらみんなを祝福したのでしょう。それは「最後の」ではなくて、「出発の」晩餐だったと思います。暴力的に支配する社会から、人が人として当たり前に生きていける社会を目指す出発の晩餐。奴隷状態のようにされていることからの解放を目指す出発の晩餐。人間の命が生かされない「死」の状態から、命が生き生きと生かされる社会を目指す出発の晩餐です。「人間の出発」への旅に、私たちも出かけましょう。
2023年4月23日 「無理するなよ」
聖書 マタイによる福音書26章14-25節
まことにお気の毒なことに、ユダはイエスの「裏切り者」という烙印を押され、さらに横領の罪まで着せられるという立場に置かれています。果たして事実はどうだったのでしょうか。
さらにヨハネ福音書では、イエスの頭に香油を注いだ女性を批難したのはユダだったとあります。それは、預かっていた金をごまかそうとしたからだと。物語を正確に書き残そうとしたヨハネ福音書の著者がこう書いていることには、注意しなければいけないと思うのですが…。
私自身は、もしかしたらイエスの一番の理解者は、ユダだったのではないかと思っています。理解できなかった弟子たちは、理解していた人間を駆逐する必要があったと思われるからです。ユダはいつもイエスに、「無理するなよ」と、語りかけていた光景が浮かんでくるようです。
それにしても弟子たちはみんな、イエスの殺害現場から逃げているのです。のちに彼らが「聖人」となり、教会の最高指導者という権力を持つためには、彼らの振る舞いを越える「極悪人」が必要だったとも思われます。そういう存在を作る必要があったと同時に、彼らにとってのイエスの死の意味が必要になります。イエスの死が、ここから急速に美化されていくことに注目せざるを得ません。「贖罪信仰」のスタートでしょうけれども、確かに弟子たちにとってイエスの死は「私たちのため」であったのです。そしてそれがやがて、「全人類の罪を贖うための死」となります。
人間の死を美化し、何かを得るために犠牲を作る。かつての戦争の時代もそうでした。キリスト教は、そういった暴力を批判できるでしょうか。
2023年4月16日 「妨害があっても」
聖書 マタイによる福音書26章1-13節
「神殿」や「弟子」という言葉が意味する「力」や「権力」などが、社会でどういう働きをしているのか、イエスの頭に油を注いだ女性の行動から示唆されているようです。
女性は、イエスこそが「王」だと見抜き、心から信じていたのではないでしょうか。神が即位させる「王」は、暴力や権力をもって人を支配するようなものではなく、命に目と心を注ぎ守り切る行動を起こす者こそがそれだと、女性は気づいていたのでしょう。
弟子はこの行為を批難しますが、たとえ妨害があっても自分が信じることを貫く女性の姿に、私たちは学びたいと思うのです。この世や社会がどんな状態になろうとしても、イエスの生き方を中心にした自分たちの思いを貫いていくこと。たとえ妨害があっても、神の思いを自分たちの生きる道として守り続けていきたいと思うのです。
ヤコブ書の最後に、この社会にいつか神の正義が実現するんだと信じている人たち、待ち望んでいる人たちがいて、その人たちにこそ神の祝福があるように祈ろう、連帯しようと、ありました。私たちもそうありたいと思うのです。ヤコブ書の著者の視点と、今日の女性の行動から、私たちは具体的に何を大事にして日常を送ることができるのか、問われています。
2023年4月9日 「内と外」
聖書 マタイによる福音書25章31-46節
「互いに助け合いましょう」と言えばとても聞こえはいいのですが、「互い」というのが誰を指すのかによって、事情は変わってくるでしょう。イエスがここで「これらの人たちにしたことは、私にしたのだ」と言って、弱く小さくされている人たちと自分とを重ね合わせるようにして発言したものだとしたら、私たちに問われていることは、「イエスのごとく生きよう、彼の生き方に合わせた生き方を私たちもしていこう」となると思います。それなら、私も納得できることです。
一方で、「これらの人たち」が教会や、キリスト者や、キリスト教という限定されたものだとする読まれ方もなされてきたことを思います。「互いに」は、この範囲内で行なわれるのです。飢えた時に食べさせ、渇いた時に飲ませ、よそ者扱いされていたら温かく迎え、着る者を与え、病を得たら看病し、牢獄に入れられたら訪ねよう、と。これを実践することは、イエスにすることになるんだから…。
「マルチン、私は明日、お前に会いに行く」。靴修理屋のマルチンにイエスの声が聞こえます。しかし、イエスは来ませんでした。その日、マルチンが出会ったのはどんな人たちだったのでしょうか(レフ・トルストイ『愛あるところ神あり』)。
2023年4月2日 「『自分』という賜物を生かす」
聖書 マタイによる福音書25章14-30節
それぞれが神からいただいた賜物を生かして努力していきましょう、という内容として受け取って済むような話なら、すぐに納得できるものですが、「タラント」という庶民の感覚からかけ離れている金額を出したイエスの意図を考えると、そうは簡単にはいかない気がします。
気になるのは、3人目の人の行動です。この人は、「主人」から預かった1タラントを地面に埋めて隠していた、とあります。それで「主人」からは叱られることになっていますが、私自身は、この人が自分の個性・賜物を「大事に抱え、守っていた」と理解できるのではないかと思いました。
莫大な金を動かして富も権力も得ている人間がいる一方で、懸命に働いても貧困から抜け出せない労働者たちがいて、その人たち自身がつぶされている日々がある。イエスは、「ひどい世の中になったものだ」という意味で、今日の話をしたのではないかと思わされています。
個性がつぶされ、全体に従うことがよしとされる。そういった社会で、どれだけの人たちが厳しい日常を強いられてきたか、想像する力を持ちたいと思わされます。それぞれが与えられた課題に、その人がその人として、個性をつぶされずに、自分というものを見失わないで向き合うことができるようにと、祈り求める者でありたいと思います。