聖書 マルコによる福音書15章21-41節
およそ人間が考え出した拷問・処刑方法の中で最も悲惨な、凄惨な虐殺方法である十字架刑でイエスは命を落とすことになりました。この現実を前にして、戦慄を覚えます。
「わが神、わが神、どうして私を棄てたのか」。イエスが口にした最後の叫びでした。そしてさらに彼は、息を引き取る瞬間に聞き取れない言葉を絶叫して死んでいきました。
教会やキリスト教がどんな理由づけをしようとも、彼の最後の叫びは神への呪いであり、恨みであり、絶望でした。死、特に虐殺において死を迎えるその瞬間、人間は神学的な意味など考えることはできないでしょう。イエスの場合は生涯を総括するようなこともできなかったでしょうし、平穏な死ではなかったのです。
十字架は「救いの根拠」ではありません。十字架は、キリスト者の「生き方の根拠」です。イエスが問い続けた問いを放棄しない生き方が、私たちには求められています。彼の最後の叫び「どうして悪が存在するのか」を考え続ける、問いを担って生きる生き方を続けろというのが、彼の最後のメッセージだったと思います。
悲惨な、凄惨な虐殺場面に、マルコは女性たちが見守り、埋葬をしようとする姿を書きました。人間の誠実さや温かさをこの場面に置いたのでしょう。イエスの生き様を継承したのは女性たちでした。
聖書 マルコによる福音書15章1-20節
イエスの人生最後の1日です。その幕開けは、人々からの嘲弄、愚弄、暴力でした。マルコは淡々と書いているように読めますが、十字架という最も悲惨な、残虐な殺害方法で虐殺された人間の物語は、読む者の心を痛ませ、しんどい思いにさせるものだと思います。
マルコはずっと教会や読者に問いかけを残してきましたが、最後のこの物語を通しても、私たちに人間として、キリスト者としての生き方・在り方への問いを投げかけてくれていると思います。
1つ目は、群衆がイエスではなくバラバを釈放してほしいと願った姿です。バラバもイエスと同じように、ローマの帝国支配に抵抗していた人物です。しかし、イエスとは抵抗のやり方が違います。暴力と非暴力の違いです。力には力。暴力には暴力。そして権力には権力です。それは、私たちが住む世界、社会、教会、自分自身の在り方への問いになっています。果たしてどちらを選んで生きるのが「神の方向性」なのでしょうか。
2つ目は、イエスが沈黙している姿です。マルコでは、ピラトスの質問に「それはあなたが言っていることだ」と答えた後は、十字架で絶叫するまでイエスは何も語っていません。この「沈黙の姿」は、声を声としてあげることができない人々の「沈黙の声」を代弁しているような気がします。イエスは最後まで「沈黙させられている人たちの声」を引き受けていったのです。「沈黙の声」は私たちの周りにも確かに存在しています。
聖書 マルコによる福音書14章53-72節
力とか権力を持つ(持っていると思っている)者たちは、たとえ同じ人間の命がかかっているとしても、自分の思う方向に物事を進めようとするものなのでしょうか。震災から7年が経った今、改めてそう感じています。
イエスは「唾を吐かれ」、「目隠しをされ」、「殴られ」、「『預言してみろ』と言われ(バカにされ)」、嘲弄されています。マルコはこれらの言葉を単なる過去形や現在形で書かず、不定詞を使っています。マルコの思いを読み取る時に、人間の声や心や命の叫びは今も唾を吐かれ、真実が隠蔽され、心も身体も殴られ、バカにされ続けていることを思うのです。
最高法院で裁判を受けるという記事ですが、のちのキリスト教や教会がどんなに神学的な意味づけをしようとしても、これはただの「集団リンチ」でしかないと思います。権力者たちが必死になって邪魔者を排除、弾圧、抹殺しようとしている場面です。
辺野古で不当弾圧され続け、不当逮捕までされ、人権を侵害され続けている人たちが、さらに裁判で不当な扱いを受け続けています。その心は傷つけられ続けていることを思うのです。震災の現場も同じです。
ペトロはイエスを拒否し続けましたが、神は何度も機会を与えて彼の心を引き戻そうとしていることも思うのです。正義に背を向け続けていることの中に私自身も入っているのですが、神が何度も声をかけ続けてくださっていることを覚えて、正義を壊す力に向き合っていきたいと思うのです。
聖書 マルコによる福音書14章43-52節
ついに弟子たちは全員イエスのもとから離れて行きました。自分の身が危ないと思ったからでしょうか。期待していたメシア像とは違うことで、離れて行ったのでしょうか。
大祭司から遣わされた人間に斬りかかり、耳を落としたと書かれています。イエスのそばにいた人間が、武装していたのでしょうか。非暴力を貫くイエスのもとにいた人間に武装していた人がいたとは、不思議な気もしますが、マルコの「弟子の無理解」の思いが表れているのかもしれません。
力があり、権力を持つ者に迎合し、暴力には暴力で抵抗する。武器には武器。人間の歴史を見ると、聖書は常に新しい言葉を伝え続けているのだと感じます。
並行個所のヨハネ福音書を見ると、イエスを捕らえに来た兵士たちが、「後ずさりして地に倒れた」とあります。十字架上で彼が死ぬ時には、ローマの兵士が「この人間こそ神の子だった」と語ったと記されています。そして最後までイエスに従ったのは女性たちでした。
彼ら彼女らは、一体何を見て感じて、イエスを「メシア」であり「キリスト」「神の子」だと思ったのでしょうか。最後まで神の正義を貫くことを決断し、人間の心に立ちつくした姿を見て、その姿こそが「神の子」だということに圧倒されたからではないでしょうか。
聖書 マルコによる福音書14章32-42節
「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる個所ですが、ここでのイエスの祈りは切迫しています。喜びの報告でも感謝の報告でもなかったと思います。33節からの個所には「彼は肝をつぶし、困惑しはじめ」、そして「私の魂は死ぬほどに悲しい」と語ったと記されています。
さらに「アッバ、お父さん」という呼びかけは、幼い子どもが父親に、危機的なことや不安から守ってほしいと願っている姿と重なります。自分の心にある不安や、どうしたらいいのか迷う思いすべてを神に告白して祈ったイエスの姿がここにあります。
懸命に祈りを献げているイエスの近くにいた弟子たちは「眠っていた」(3回も)とあります。人生においての重要な時に、問題に気付かず、また課題に関心を持たず、自分は距離を置いてながめているだけという心が問われているということでしょうか。
38節でイエスは「目を覚ましていろ、そして祈れ」と言っています。魂が引き裂かれるほどに苦しい現状に置かれ、解放の祈りを献げている存在に、私たちは「目を覚まして」、一緒に「祈る」ことができるでしょうか。
40節「そして彼らは彼に何と答えていいのか分からなかった」。魂が死ぬほどの思いで祈りを献げている存在に、私たちは何と答えていけばいいのでしょうか。
聖書 マルコによる福音書14章27-31節
「しかし、私は起こされた後、あなたたちを率いてガリラヤに行くだろう」(28節)。この言葉は、マルコの最後の場面にもありました。「彼はあなたたちより先にガリラヤに行く。そこで彼に会える。彼があなたたちに言った通りに」(16章7節)。
ガリラヤはイエスの宣教の現場です。そして、イエスの本質が見える場所です。さらにそこには、「神の風景」があります。
「神の風景」は、喜びやうれしさだけがある場所ではありません。むしろ、苦しみや悲しみ、しんどさ、怒りも多くある場所です。だからこそ、イエスはそこにいて、「私たちを先立ち導く」のだと思います。
ペトロはイエスを「決して拒否しない」と語りました。しかし彼をはじめ、弟子たちはすべてイエスの最後の場面から離れていきました。
イエスは人間には弱さや限界があることを知っていたのでしょう。一人で殺害されることも感じていたかもしれません。それでも彼は、弟子たちに繰り返し「神の風景」を見ようと促すのです。
ガリラヤという「人間が住んでいる場所」に導き、そこで神が働かれていることを一緒に見よう、味わおう、実感しようと、何度も誘うのです。弟子たち(私たち)が何度拒否しても、「神の風景」を見せてくれようとするのです。
私たちにとっての「現代のガリラヤ」は一体どこにあるのでしょうか。
聖書 マルコによる福音書14章22-26節
ファリサイ派律法主義者たちの人間を分け隔てる「分離」の食卓に対して、イエスの食卓は「命の分かち合い」でした。やがて教会はイエスの振る舞いを儀式化し、キリスト教の教義として「制定」していきましたが、歴史を生きた彼の心と神への思いを忘れてはいけないと思います。
共に食卓にあずかるという実践は、同じ命を与えられていることを互いに覚えて感謝することです。イエスにとってはそれが神を中心とした人間の在り方を象徴する大事な日々の営みだったのだと思います。
今日の物語と共に、5000人や4000人の人たちと一緒に食事をした場面を思い起こします。弟子たちは群衆を解散させるように求めますが、イエスは弟子たちに「パンは幾つあるか」と聞いています。弟子たちはそれぞれが用意する解決方法を取りますが、イエスはそうではなく、彼が提案する解決方法・分配作業に弟子たちを参加させようとします。
社会の周縁部に置かれている人たちと「命を分かち合う」ことに、弟子たちにも責任があることを自覚させようとしたのではないでしょうか。イエスの食卓は、私たちにも今ある課題に対する姿勢を教えてくれます。
「取れ、これは私の身体だ。取れ。これは私が流す血だ」。これを受け取っている私たちは、イエスの生き方に参加するように求められています。彼の実践した食事は、私たちの生き方をたえず新しく切り拓いていくものだと思います。
聖書 マルコによる福音書14章10-21節
段落の中見出しに「ユダ、裏切りを企てる」と付けられていますが、原文ギリシア語は「渡す」「手渡す」という意味の言葉です。ユダは果たしてイエスを「裏切った」のでしょうか。
後の教会が込めた思いを批判しながら読む必要があると思います。「裏切った」という文脈で読み理解するなら、「12人」みんながイエスを「裏切った」のです。なぜなら、十字架の最後の場面では、弟子たちはすべて逃げたのですから。
マルコは、伝承と思われる部分で1度だけ「ユダ」の名前を書いていますが、次の段落では固有名詞を書かず「12人の中の一人」という表現を4回も使って書いています。誰の心にも「ユダ的なもの」が潜んでいるということをマルコは言いたかったのかもしれません。
キリスト教の「贖罪信仰」から見ればイエスの死は必然で、神の御心ということになります。それなら、ユダの行為は「神の御心に沿うもの」であったということになります。なぜ「裏切り」なのでしょうか。
マルコが「ユダ」の名前を書かずに「12人の中の一人」と書いたことは、私たちもまたその「12人」に含まれていることを自覚するように促したのではないでしょうか。イエスを真の意味で理解できない「弟子たち」に、自分の姿を見る必要もあると思います。それでもイエスは、そんな私たちを「食卓」に招く、その恵みを思うのです。
聖書 マルコによる福音書14章1-9節
イエス最後の1週間の水曜日の出来事です。この記事はマタイ、ヨハネ福音書に並行個所があります。ルカは「受難物語」から外していますが、似た内容の話を7章に置いています。マタイはほとんどマルコを写していますが、ルカは女性を「罪深い女」と書いています。マルコは「一人の女性」としか書いていませんが、ルカは「悔い改め」の話にしたかったのだと思います。
マルコにはそんな思いはなくて、この女性の振る舞いを「真の王とは誰かを見抜いていた人」として描いていると思うのです。油を注ぐのは王が即位した時です。女性にとってイエスは「真の王」でした。
何が王なのか。誰が王なのか…。力が支配する社会です。皮肉なことに、力によって排除されていた女性が、「真の王」とは何か、誰かを見抜いていたのです。
女性の行動を周りの人間たちは叱りつけ、憤慨しています。この世の価値観からすれば怒りを買う、間違っていることと断罪される。でも、イエスは「そのままにしておけ」と言い、「彼女はできることをした」「良いことをしてくれた」と語っています。
「この世の価値観」を、私たちは厳しく見る必要があることに気づかされます。物事を見る時には権力者の側からではなく、支配される側から見る時に、真実が浮かび上がってくると思います。
聖書 マルコによる福音書13章28-37節
ユダヤ戦争(66年~70年)のさなかに生き、目撃・経験したマルコの共同体は、厳しい状況下で生きる中で今日の物語を書き記したと思います。戦争の際、ユダヤ側に立てばローマを敵にまわし、ローマ側につくとユダヤからの迫害がますます厳しくなるからです。
彼ら彼女らが選択した道は、非暴力主義でした。イエスの思いを継承していた共同体は、ユダヤ戦争に加勢することも、暴力に加担することも拒否しました。暴力という手段を用いて「正義」や「平和」を追求することを拒否したのです(13章14~16節の言葉参照)。
どこかの国のリーダー同士が、醜い言葉と振る舞いにおいて罵り合いの応酬をしています。一方の「属国」である私たちの国の責任者は、何の批判もしません。それどころか、借金まみれの中、人間を殺す武器を買い漁ってしまう始末です。
マルコが書く「偽預言者」「偽キリスト」に「気をつけ」、「目を覚まして」いたいと思います。この不安定な社会、世界においても、私たちはイエスの名のゆえに、自分たちのできることを責任をもってやっていきたいと思うのです。
「あなたがたに言ったことは、すべての人間に言ったことだ」(37節)。私たちにもイエスは語ります。力や暴力で「正義」「平和」は造れません。イエスの「言ったこと」を携えて、新しい1年に向かいたいと思います。
聖書 マルコによる福音書13章1-27節
イエスとほぼ同時代を生きた歴史家・ヨセフスによると、エルサレム神殿の最大規模の石材は、長さ21メートル、高さ3メートル、幅2メートル50センチに達したと言われています。誇大表現だったとの批判がありますが、考古学調査で発掘された最大の石材は長さ12メートル、高さ3メートル50センチ、幅4メートルで、総量は500トンと推測されています。これだけの石が積み上げられた城壁を見れば難攻不落と感じ、弟子たちが「なんという石、なんという建物でしょう」と発言したのも無理はなかったかもしれません。
しかしイエスはこの神殿が崩壊することを予告しています。それは神殿が人間の命の側に立たない「強盗の巣窟」になっていることを批判したのだと思います。
力あるもの、巨大なもの、強いものに権威を覚えて、そちらの側についていれば安心といった思いは、誰の心にもあることだと思います。しかしそこに危険がはらんでいることも思わされます。
様々な課題があった1年でした。不穏な動きも見られました。不安もたくさんありました。そして新しい年も、これらがすべてなくなるとは思えませんが、イエスの「狼狽するな」との声を聞き、「イエスの名」を携えて新しい1年に向かいたいと思います。私たちが課題に向けて持って行く武器は、「イエスの名」であり、「イエスが語る福音」です。
聖書 ヨハネによる福音書4章1-42節
以前学んだルツ記と同じように、ヨハネ福音書を生み出した共同体もまた、異なる者同士がどのようにして一緒に生きていけるのかを問い続けていったのだと思います。
今日の物語で、イエスはサマリアの女性と出会っています。女性自身が言っているように、「ユダヤ人はサマリア人とは付き合わない」中での振る舞いでした。「あなたはユダヤ人であり、私はサマリアの女であるのに、どうしてその私から飲ませるように願うのですか」(9節)。
しかもイエスは、「水を飲ませてほしいと言ったのが誰だか知っているなら、あなたのほうからその人に頼んで、その人はあなたに生きた水を与えるだろう」と言うのです。女性の反応は訝しがるようなニュアンスで、「飲ませてくれと言いながら、私のほうから頼むことになるとは、なんという失礼な人だ」といった雰囲気です。
女性の立場は正確には分かりませんが、自分の町の井戸が使えなくて、わざわざこの場所に水を汲みにきていた可能性があります。つまり、なんらかの事情で厳しい生活状況の中に置かれていた人だったと思われます(17-18節)。
イエスの言う「生きた水」は、彼女の「人と人との交わり」「人として生きられること」の渇きを癒す「水」でしょう。自分のすべてを「受け止めてくれた」と感じた女性は、イエスを「救い主」だと信じたのでした。
聖書 ルカによる福音書2章26-38節
マリアのもとに現れた天使は彼女に、子どもを産むことになることと、生まれて来た子どもに「イエス」という名前を付けるようにと伝えます。イエスとは「神が共にいてくださいますように」「神が救ってくださいますように」との意味が込められています。
やがて生まれて来て成長したイエスが、名前の通りに生きたことを証ししているのだと思います。神にすがるしかない、神に信頼して依り頼んで生きるしかないという立場に置かれていた人たちと「共に生き」、「救いがあると宣言した」男として生きたという証しです。
そしてこの個所で注目すべきは、マリアが男という存在を介さないで子どもを産んだということです(「処女降誕」が言われているのではない)。
当時の男性中心タテ社会の中で、男の介入なしに生まれてきたという信仰者の証言は、やがて生まれてくるイエスという男は、「男」に象徴される権力や力、支配などを壊す働きをするのだというものです。
言葉を変えれば、人間と人間とを分断する壁、大事な命とそうでない命があるかのようにしている壁、神の祝福と裁きをコントロールしている権力を壊す男だった、そんな男が生まれてくるんだという証言を残したのだと思います。
イエス誕生と名前に込められた証言を聞く時、今、私たちが考える壁は何か、どこにあるのかを想像する、アドベントの季節を過ごしたいのです。
聖書 マルコによる福音書12章41-44節
献金の努力、目標の話ではありません。賽銭箱に女性が何を入れたのかを見る、イエスの目線・視点を学びたいと思います。
「乞食」をしなければならなかった寡婦である女性は、「存在してもしなくてもいいもの」としての立場に置かれています。彼女は日雇い労働者の1日分の給料と言われる1デナリオンの70分の1とされる銅貨銭を2つ、賽銭箱に入れたのでした。
彼女のこの行動を見て、近くにいた「たくさん入れていた金持ちたち」はどう思うのでしょうか。彼女の入れた金額を見てバカにするのでしょうか、または、彼女自身をさらに蔑むのでしょうか。
今を生きる私たちの社会で、「存在してもしなくてもいい」とされている人たちはどんな立場にあるのでしょうか。そんな命など、神はお造りにならなかったはずです。それなのに、大事な命とそうでない命があるかのような出来事があちこちで起こっています。原発の被害に苦しむ人たちはどうでしょうか。沖縄の声はどうなのでしょうか。
イエスは女性が「生活すべて」を賽銭箱に入れたことを見ていました。彼女がすべてを神に告白した姿を見ていたのです。すべてを委ね、信頼するその姿より大きなものはないと、語ったのではないでしょうか。
次回はエルサレム神殿が崩壊する預言の記事が置かれています。この女性の心や存在を無視する権力は本物ではなく、滅びることになるでしょう。
聖書 マルコによる福音書12章35-40節
マルコの順番に従えば、イエスが群衆に語る場面は12章で終わりです。彼が群衆に最後に語った「遺言」はどんなものだったのでしょうか。
「メシアはどうしてダビデの子なのか」(35節)。詩篇110篇の言葉を引用する形でイエスが語ったことになっています。詩篇の解釈は様々だと思いますが、イエスはここで民衆が待ち望んでいた形でのメシアはメシアではないこと、また、そんなメシアになるようにとの自分への期待を、きっぱり拒否したのだと思います。
政治・軍事など、人間が人間を支配するような形での解放をもたらすメシア、キリスト。それが民衆が待ち望んでいたメシア・キリスト像でしたが、イエスはそれを拒否します。それは、彼が考えていた「キリストとは誰か」「メシアとは何か」の思いが表れています。
この課題は同時に、私たちへの問いかけでもあります。私たちはイエスをどのような意味において「キリスト」「メシア」だと信頼し、信仰するのか。私たち自身の振る舞いが問われているということでしょう。
マルコは、受難物語の前に今日の記事を置いています。最後の場面で、イエスは自分が拒否した「メシア像」に殺害されるという皮肉な結果がもたらされます。私たちの生きる今、イエスを殺害する「メシア像」とは何でしょうか。(参照:遠藤周作「善魔」。グレアム・グリーン『おとなしいアメリカ人』、サマセット・モーム『雨』)
聖書 マルコによる福音書12章28-34節
小説家の原田マハさんが著書の中で「おにぎりの形は祈りの形」だと書いています(『生きるぼくら』)。この言葉から、生活保護を打ち切られて「おにぎりが食べたかった」とメモを残して死んでいった北九州の親父さんの出来事が思い起こされました。
たった一つのおにぎりが食べられない状況を、想像する力も、そして「祈る」心も持っていない自分自身の振る舞いを思います。親父さんは、飢えと同時に、人と人が思い合うという「祈り」にも見放された中で生涯を閉じたということでしょうか。
イエスが語った「隣人を愛するだろう」と、「あなたはあなたのすべての心、命、思い、力を持って、あなたの神を愛するだろう」との言葉を、私たちはどのように聞くことができるでしょうか。
「シェマーの祈り」の「愛せ」との命令形の言葉を、イエスは未来形の「~だろう」で語っています。神の本質や他者の課題を想像することがなかなかできない私たちへの促し、問いかけとして与えてくれたのでしょうか。
人間には限界があります。「シェマーの祈り」を完全に守ることはできないでしょう。それは、イエスも自覚していたと思います。だから、命令形ではなく、未来形で語ったのでしょうか。
限界があるからこそ、互いが思い合って、祈り合って、支え合って生きること、それが私たちが出来る神への応答だと思います。
聖書 マルコによる福音書12章18-27節
聖書の専門家であるサドカイ派に対して「あなたがたは聖書の力と神の力を知らないゆえに、間違っている」と発言できたイエスの振る舞いには驚かされます。
聖書という書物は、人間を慰め生かすものと同時に、使いようによっては人を攻撃し、差別・区別する格好の材料になります。また、同じ目的で神を自由に用いることも可能です。私たちはどのように「聖書の力・神の力」を知ろうとし、受け取っているのでしょうか。
創世記の創造物語で、人間の創造の場面で神は、人間に対等で平等で、互いに支え合う存在として人を造ったことが描かれています。信仰者たちは、人間が人間を支配することから起こった歴史を振り返りながら、この物語を生み出していったのだと思います。
それでも人間は(信仰者と言われる人たちも)、命に優劣をつけたり、区別したりする同じ振る舞いを続けていきます。聖書のメッセージに、たえず私たちは挑戦を受けていることを自覚する必要があるのではないでしょうか。
エルサレムで次々と論争の場面に立たされるイエスは、神を信頼することを揺るぎない信念として持ち続けていたと思います。命を生かすことがイエスの信じた神の本質であり、性格でした。彼の言う「聖書の力・神の力」は今、どんな形で存在しているのでしょうか。
聖書 マルコによる福音書12章13-17節
「神聖なるアウグストゥスの子で、みずからアウグストゥスたるティベリウス・カエサル」。イエス当時のローマ貨幣には、皇帝の肖像と共にこのような文字が刻印されていました。
皇帝に税金(人頭税)を払うべきか、払うべきではないのか、との質問にイエスは現物を持って来させて逆に質問したのです。「これは、誰の像と銘か」。議会のメンバーたちは「カエサルのです」と答えるしかありませんでした。
「納税問答」のようでありながら、イエスは質問者たちの振る舞いを見ていたのだと思います。ユダヤ社会と宗教の責任者の立場にいる彼らが、一体何を信頼して生きているのかを問う出来事だったと思います。
「カエサルのものはカエサルに返せばいいだろう。それが『神様』なら、その『神様』に返せばいいだろう」。これが、イエスの答えだったと思います。答えと同時に、問いかけになっています。
人間は、一体何に帰属して生きているものなのか、生かされているのか。イエスのこの質問に心して聞かねばならないのは私たち自身で、そして教会だと思います。
「政教分離」の話ではありません。イエスをキリストと告白する教会が信頼するものは何か、その信頼からどんな生き方ができるのか。神に造られた者としての根本を問うイエスの言葉だと感じています。
聖書 マルコによる福音書12章1-12節
ぶどう園の主人と農夫たちの物語です。イエスはこのたとえを先週に引き続き、議会のメンバーたちに語ったとされています。
この物語の中の誰に自分の姿を重ね合わせることができるかを考えると、私自身は「農夫」だと思っています。主人が遣わす何人もの人たちを殴り、侮辱し、殺してしまうその姿の中に、自分を見出したいと思うのです。
自戒を含めてですが、教会は(人間は)、「主人」に自分の姿を置いてしまうように思うのです。教会は次々に恵みを説いているのにそれを受け入れず、反故にし、「神の恵み」を抹殺してしまう「教会以外の人間」を農夫に当てはめて読んできた、振る舞ってきたことを思います。
いったいどの立場でイエスの譬えを理解しようとしてきたのでしょうか。主人が神で、神から次々に送られてくる人を神の恵みや意志だと読むのだとしたら、その恵みや意志を次々に殴り、侮辱し、殺してしまうのは自分自身だということに気付く必要があるのではないでしょうか。
神は恵みと意思を人間に送り続けるのです。何度も何度も私たちがそれを反故にしても、無視しても、人生(ぶどう園)から追い出してしまうことをしてしまっても、それでも何度も恵みを与え続けるのです。
人間は神に造られた被造物との自覚を持ちたいと思います。計り知れない神の恵みの中に生かされていることを覚えたいと思うのです。神の恵みの不思議さを思う時、命を与えられた者としての生き方が見えるのです。
聖書 マルコによる福音書11章27-33節
エルサレムで、イエスが議会のメンバーたち(祭司長、律法学者、長老)と論争する記事の最初のものです。メンバーたちの「何の権威でこんなことをしているのか、誰がそうする権威を与えたのか」との質問に、イエスはまともに答えませんでした。逆に彼は質問をして、相手に考えさせるという方法を取ります。イエスの振る舞いの特徴だと思います。
議会のメンバーたちは、「ヨハネの浸礼は神からのものか、人間からのものか」とのイエスの質問に答えることができませんでした。いろいろな思惑を考えてのことだったと証言されています。
イエスの質問は、権威というものをすでに持っていると自負しているメンバーたちに、その権威を守るために神を自由に使っていることに気づかせたのでしょう。彼らは答えられなかったのです。
「あなたがたが神の側に立っていて、神中心の生き方をしていると言うのなら、ヨハネのようにその道を極めてみろ」というのが、イエスの答えだったと思います。
神中心の生活だと言いながら人間中心で物事を考えてしまう。権威や権力などない私たちですが、人間中心で物事を考えることを引き出す、別の形の何かが、私たちの中にもあるのではないかと思わされます。
イエスの問いに、私たち自身ならどう答えることができるでしょうか。
聖書 詩篇139篇
「創造詩篇」に含まれる作品です。著者が歌う言葉に、励まされ、慰められ、力付けられてきた信仰者がどれだけ多くいることでしょう。私自身も、何度も読み返してきました。
美しい調べに満ちたこの作品は、神がすべてを創造し、人間に寄り添い、支え続けてくださっていることを歌います。その神の業は人間には計り知ることができず、恵みを前にして人間は圧倒されるのだと言います。
ただ一つ、この詩篇にそぐわないような言葉が置かれていることを思うのです。19節から22節までの「敵を殲滅することを願う祈り」です。人間の率直な感情としては、美しい調べのまま全体が終わることを期待してしまいますが、著者や編纂者はなぜこのような言葉を置いたのでしょうか。
著者は、この世界には神の恵みが溢れ、神の心が充満していると語ります。しかし問題は、正義の神が創造した世界になぜ「悪」「悪人」の存在があるのか、ということです。古代の神学者や哲学者をはじめ、預言者も聖書の著者たちも格闘したテーマだと思います。
著者や編纂者たちの思いを想像すると、答えの出ないこの問いを、私たち読者、今を生きる信仰者たちにも問い続ける者になれ、との願いを伝えているのではないかと思います。今も人間の命をおびやかす、あらゆる暴力や力が存在します。その課題を担う者になれ、問いを問い続ける者になれ、とのメッセージが、139篇には込められていると思います。
聖書 マルコによる福音書11章12-25節
マルコのサンドイッチ型の編集の特徴が表れています。同じ内容の記事で違うものを囲む手法です。囲む記事の視点で中の物語を読んでほしいとの願いが込められています。
「いちじくの木を呪う」物語が外側、神殿で大暴れする物語が内側に置かれています。マルコの意図はどんなものなのでしょうか。エルサレム神殿の現在が、根元から腐っているとのメッセージでしょうか。神殿宗教は命を生かす実がなっていない。そんな思いが見えます。
イエスのここでの振る舞いに、彼の人間的な姿が見える気がします。彼とて人間ですから、エルサレムに行ったことで気持ちが高ぶったり、落ち着かなかったり、興奮したりという気持ちだったかもしれません。よく言われる「宮浄め」ではなく、神殿を「冒涜」「破壊」する行為に出たのでした。
22~23節で、イエスは「こんな神殿なんか海に投げ込まれてしまえ」と発言しています。彼はとうとう、見たのだと思います。ガリラヤをはじめとする民衆の生活を苦しめている原因を、はっきりと見た瞬間だったと思います。
怒りも感じたでしょう。「神の民」「神の家」「祈りの家」がどういう状態なのかを見た彼は、「こんな神殿なんか」と言い、「冒涜」「破壊」したのです。「力」「権力」ではない場所に神の姿を見ていたのです。
聖書 マルコによる福音書11章1-11節
いよいよイエスはエルサレムに入りました。ゼカリヤの預言(9章9-10節)を知っていたのでしょうか、彼は軍馬ではなく子ろばに乗って入城したと書かれています(ゼカリヤの「柔和なメシアの預言」)。
11章以降、祭司長、律法学者、長老(ユダヤ議会を構成するメンバー)たちと論争する記事が続きます。命を落としかねない旅にイエスは出かけて行くのでした。
軍馬ではなく子ろばに乗るという彼の振る舞いから、イエスは「日常性の主」としてエルサレムに入って行ったことを思わされます。ガリラヤでの活動の中でいろんな経験をした彼は、生活者の日常を携えてエルサレムに行ったのだと思うのです。
声なき声を声として受け取り、人間の日常の声を抹殺する権力の中枢に入るのです。私たちの手の届かない、遠く離れた存在としてではなく、私たちの日常を携えて行く彼の姿は、神が私たちの日常と共に在ることを思わされます。
私たちがイエスを信頼するということは、日常を棄てることではないと思います。人間の日常を見ない所での、彼への信仰はあり得ないのです。
イエスが見たもの、感じたこと、生活者の声など、同じものが私たちの生活の中にもあります。イエスの視点で私たちは出来事を見ることができるでしょうか。
聖書 使徒言行録20章7-12節
パウロの長い説教に耐え切れず、つい眠ってしまった青年が窓から落ちてしまったという物語です。疲れた身体に長い話はつらいものです。牧師は心して聞かねばなりません。
つい眠ってしまったというユーモラスな話が一転、悲劇に変わります。順調と見える事柄の中に、悲劇的なことが起こるということを示される記事でしょうか。目には見えなくても、私たちの仲間や隣人の中に、しんどさを抱えている人がいることに気付かない私たちの心を教えられる記事でしょうか。悲劇的なことが起こった時にどういう振る舞いができるのかを示される記事でしょうか。
神の預言者エリヤは、一人の女性の息子が死んだ時、三度身を重ねて神に祈ったとあります(列王記上17章17-24節)。また預言者エリシャは、死んだ子どもに自分の口、目、手、身体を重ねて抱きかかえ、神に祈りました(列王記下4章32-37節)。
信仰者たちは、悲劇が起こった時に何をしたかが書かれています。神に祈り、自分の身を他者の身に重ねて、困難を我が事として抱きかかえ、引き取ろうとしています。
自分の身と心を他者のそれに重ねて、自分のこととして受け取り支えることは困難なことだと思いますが、神を信じる信仰者が最も大切にすることはこのことであり、その思いを発信していける場所が教会です。
聖書 マルコによる福音書10章46-52節
前回の個所で弟子たちが「あなたの右、左に」と願った時、イエスは「何をしてほしいのか」と問い、「あなたがたは何を願っているのか分かっていない」と答えています。今回も、バルティマイがそばに来た時に「何をしてほしいのか」と問い、しかし今度は「あなたの信頼があなたを救った」と答えています。弟子とバルティマイの何が違うのでしょうか。
バルティマイの声は、声なき声です。声として生かされることのない声です。一方で弟子たちの願いは、その「声」を抹殺してしまう立場で「右、左」にいたいというものです。イエスがエルサレムに入る直前にこの記事を置いたマルコの思いが見えるようです。声を声として生かすために、声を抹殺する権力の中枢にイエスが向かった姿を思うのです。
バルティマイは必死にイエスを求めました。イエスが来た機会を逃さないで、声を何度も上げます。そして妨害に屈しませんでした。さらに、自分の思いを素直に率直に話したのでした。
私たちの生きる社会で、イエスの姿を見逃していることがあるのではないでしょうか。彼がどこにいるのか、どこで会えるのか。私たちははっきり見えているでしょうか。また、妨害に屈しなかったバルティマイの姿を思うのです。命の叫びや声を抹殺するものに、私たちも目を向け、黙らず、思いと行動を示し続けたいと思います。足りないことばかりですが、「それが信頼だ」とイエスは認めてくださるでしょう。
聖書 マルコによる福音書10章32-45節
マルコは、イエスがエルサレムに行くことが「驚くべきこと」だったと書いていますが、弟子たちは何を思っていたのでしょうか。
権力の中枢であるエルサレムでイエスが権力を支配して、体制を覆すようなことを期待してついて行ったのでしょうか。「あなたの右、左に」と願う弟子たちの心の中には何があったのでしょうか。「イエスの栄光において右、左に」と願う心を見る時に、イエスにとっての「栄光」と弟子(私たち)にとっての「栄光」との違いを考えさせられます。
「神の栄光」とは、人間の上に立ったり、人間が人間を支配したり、従わせるようなことで得られるものではないと思います。むしろ、人間の欲望や権力とはまったく関係のないような所に「神の栄光」は見えるのではないでしょうか。
人がお互いを思い合ったり、助け合ったり、祈り合ったり…。そんな場所に「神の栄光」が確かに存在して、人は実感できるのだと思います。決して、人間を暴力的に支配したりする中での出来事ではありません。
人間がそれぞれを思い合うその時に、「あなたの右、左にいさせてほしい」と祈ることが、私たちに出来ることだと思います。日々、課題やしんどさが私たちを包みます。そんな時にイエスは「自分もそこにいるから、私の右、左にいなさい」と励ましてくれるのではないでしょうか。
聖書 マルコによる福音書10章17-31節
自分が日々、生かされていることの不思議さを思います。ここで言われていることが救いの条件なら、私などは真っ先に神の祝福から除外・排除されることになるでしょう。
イエスは財産を持つ人に、「一つだけ欠けていることがある」と言いながら、彼を「愛した」のです。彼のその後は分かりませんが、かつて聞いた言葉とイエスの振る舞いは、人生の中で何かを選択する時に思い出されたのかもしれません。
自分の歩みを振り返る時、欠けているものは一つどころか、欠けだらけなのです。祈りにおいてそのことを告白せざるを得ません。「これしかできませんでした。こんなことしかできませんでした。どうか赦してください」と祈るしかない自分を思う時、それでも神はこうして生かしてくださっていることの不思議さを思います。
陰鬱になってしまうような言葉を聞いた彼は、イエスのもとを去りました。自分もそうやって、イエスのもとを離れてしまうことも続けてきたように感じます。
それでも、イエスは招きをやめることがありません。この人に「さあ、こっちへ来い。一緒に行こう」と呼びかけるのです。自分もたえず招きにあずかっている者として、自分の「欠け」を見る旅に、日々出かけていきたいと願っています。
聖書 マルコによる福音書10章13-16節
古代イスラエルの文化や、ローマの支配下にある影響から来る子ども観を考えると、今日のイエスの言葉と振る舞いは常軌を逸しています。私たちが考える今の感覚とはまったく違った文化の中での振る舞いだからです。
聖書に登場する「子どもたち」が、今を生きる私たちにとって何を象徴しているのかを考えさせられます。自分が無視できるもの、無関心でいられること、また、自分の生活にはまったく関係のないもの。そうやって済ませられるもの、済ませてきたものを考えたいと思うのです。
自分には直接関係ない、価値あるものとは思えないものも、神なら抱きしめられるだろうと、イエスがその振る舞いで表したのだと受け取りたいと思いました。
彼は子どもたちを「真ん中に立たせ」、価値あるものとして認め、そして抱き上げました。親が子どもを「高い、高い」するような、子どもと一体となるような仕草です。
自分の生活に追われて、いろんな出来事にアンテナを張って感性豊かにして向き合うことの困難さを思います。ただ、そこにも同じ命が存在していて、必死にその命を生きていることを覚える者でありたいのです。
一日を終えて眠りにつく時の祈りなどで、神が思われる命についての心と対話できるような時を持ったり、朝の新しい命のスタートの時に、生かされている感謝と共に、「子どもたち」の存在を考えたいなと願うのです。
聖書 マルコによる福音書10章1-12節
聖書に「精通している」ファリサイ派律法学者たちが、「イエスを試すために」論争を仕かけています。聖書には聖書で答えたのでしょうか、イエスは「モーセはあなた方に何を命令しているのか」と言っています。
今日の個所でのイエスの姿勢は、ただ単に離縁とか姦淫といったものの禁令を言っているのではなくて、こういう質問をしてくる人間の態度を見ています。聖書に書かれてあるから男はいつでも女を離縁できるのだ、という傲慢を正当化する態度に対してです。
男が女を離縁することについては、確かに申命記に記されています。律法学者たちが答えた通りです。しかしイエスは、「男が女を…」の順番に、逆の立場も付け加えて答えています。「女が男を…」(12節)。人間と人間との関係性において、人間同士の「対等性」「平等性」を見ています。
さらに彼は、創世記の創造物語における人間の創造の意味を示しています。神は人間を、互いに支え合って、助け合っていくパートナーとして生きるように創造されたことを示すのです。律法を「絶対的なもの」として他者を断罪する態度をイエスが拒否したことを思うのです。
人間が造った律法に「絶対」はありません。「絶対」という言葉を、特に権力者が使う時には注意が必要で、疑ってみる必要があると思います。ヤマトでは、8月15日を境にして「絶対的価値観」がひっくり返りました。あらゆる命の尊厳の前では、人間の「絶対的なもの」は通用しないのです。
聖書 詩篇100篇
今年の平和聖日は8月6日です。72年前の午前8時15分、広島に原爆が投下されました。今年も暑い朝、多くの人たちがそれぞれの思いをもって慰霊の行事に参加されたことをニュースは伝えています。
72年前、原爆投下の指令を出した空軍少佐クロード・イーザリーは、著書の中でその日の出来事を回想しています(『ヒロシマ-わが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』ちくま文庫)。世界初となる原爆という爆弾の威力がどのようなものなのか、彼は原爆投下の指令を出し、その後の広島の惨状から事実を知ることになります。彼の苦悩の始まりです。
アメリカ社会は彼を「英雄」として迎え、しかし彼は広島の惨状を知った後、自分が「英雄」ではなく取り返しのつかない犯罪を犯した人間として、その責任を取ろうと、もがき続けるのです。
過去の出来事を見つめ、自分の責任において受け取り、今の自分を生き、未来へ思いをつなげていこうとする彼の振る舞いから、今の日本社会を作る一人として、私たちは大きな問いをもらっていると思います。
詩篇100篇の著者ないし編纂者たちは、イスラエル社会の閉鎖性や特権主義を見据えて、人間は神に依存し、神の慈愛なしには生きられない存在なのだということを自覚しろと、問いを残しています。
人間が王(神)となり、神を忘れ、軍事力で支配しようとするものがもたらした結末(過去)を見据えていたのです。
聖書 マルコによる福音書9章38-50節
自分の意に沿わない人間を「こんな人たち」と呼ぶ日本の責任者の姿は、人間と人間を分断させ、心が通わない社会の姿を象徴しているようです。その社会をリードしているのがその人物なのですから当たり前なのかもしれませんが、自分以外のあらゆる多様な価値観に出会うことを拒否する中では、健全な社会と人間関係を作っていくことはできないと思います。
38節「ヨハネが彼に言った。先生、私たちはある者があなたの名前で悪霊たちを追い出しているのを見ましたが、私たちに従わなかったのでやめさせようとしました」。
この言葉は、「私たち教会、教団に従わないので排除します」との意味です。ヨハネを中心とした共同体の権威主義、特権主義、排他性、そして閉鎖性が表れています。「自分たちの意に沿わないものは排除する」との、日本の責任者と同じ態度で、マルコはこれに批判を加えます。
続く43節~47節の難解な言葉をどう理解するでしょうか。手も足も目も棄ててしまえとは、理解しがたい言葉です。この言葉を文字通りには誰も実行することはできないと思います。
文字通りここに書かれてあることを実行せよというのではなくて、人間はいつの間にかここに書かれてあるようなことを他者に要求・強要してしまうことへの警告だと思います。自分も他者も神に生かされていること。自らの在り方を見つめ直せというイエスの言葉だと思います。
聖書 マルコによる福音書9章30-37節
歴史を生きた信仰者としてのイエスの生涯を考える時、彼は神の「正義」を実現させたいと願っていたと、いつも思わされています。日本語の辞書では、正義とは「正しい道理、人間行為の正しさ」とありますが、聖書で言われることは、「神との関係を修復すること」です。神がもともと与えた状態に戻すことが、「正義」だというのです。
彼の目には、神と人間との関係、人間と人間との関係が崩れていて、神が与えた状態ではないと映っていたと思うのです。私たちの時代もまた、イエスが見た状態、生きていた状態と何も変わっていないと思わされます。
イエスに従う弟子たちは、「第一の者」は誰かと議論していました。「第一の者」とは、ローマ皇帝の力や権力を表す時に用いられた言葉です。弟子たち(弟子たちに象徴される、今の私たちや教会も含めて)は、いったい何を求めているのでしょうか。
イエスは子どもを両腕に抱きかかえて、祝福したとあります。無資格者の代表であった子どもたちを受け入れることが、私を受け入れると言っています。「子どもを受け入れること」が救いを得る条件ではなくて、私たち一人ひとりも、神の前では「無資格者」ということを自覚せよという言葉だと思います。「無資格者」であっても、神は祝福されるのです。
その視点と自覚に立つ時、人との区別や「第一の者」を目指すのではなく、神の「正義」を実現する働きに参与できるのではないでしょうか。
聖書 マルコによる福音書9章14-29節
「てんかん」の症状と思われる病を持つ子どもの父親が、イエスのもとを訪れています。福音書に記されている数ある物語の中でも、イエスの思いが心の中に迫ってくるものだと思います。
ここでは、「信仰」が救いの条件とされているのではありません。歴史的・伝統的に教会はそのように読んできたと思いますが、イエスの振る舞いはまったく逆説的です。
父親は「もし、何かできるならやってくれ」とイエスに頼みます。それを聞いた彼は「もし、できるなら、だと?」と返答しています。怒ったような、驚いたような言葉ですが、イエスはこの答えこそが人間の精一杯の「信頼」の形であり、精一杯の祈りだと捉えてくれたのではないでしょうか。
父親は最初に弟子たちに癒しを頼むのですが、「弟子たちは出来ませんでした」。象徴として考えると、マルコの一連の権力批判の思いから、力や権威を第一と考えることからは、「人間の命の叫び」が聞こえないということでしょうか。すでに「信仰」「信頼」の思いが完成されていると振る舞う人間にとっては、父親の願いと祈りは「正しい信仰」ではないと映るのでしょうか。
父親は信と不信、信頼と疑いの中を揺れ動いています。それが人間としての本当の姿なのではないでしょうか。「信じます、私の不信を助けてください」。イエスはその声を「信頼」だと認めてくれるのです。
聖書 マルコによる福音書9章2-13節
イタリアの労働運動のリーダーであったダニーロ・ドルチさんと、元沖縄県知事の大田昌秀さんが対談したやりとりを思い起こします(『世界』1971年5月号、または『沖縄の怒-日米への抵抗』ガバン・マコーマック、乗松聡子著、法律文化社。この中の大田昌秀さんの発言「歴史を動かす人々」の項)。
大田さん:「あなたが沖縄のリーダーだったら、沖縄が抱えている解決困難な課題にどのように対処しますか」。ドルチさん:「どの国でも政府権力の壁は厚くて、簡単に突き破れるほどヤワなものではない。したがって、それを正面から突き崩そうとしても無理です。だから、壁はそのままにしておいて、壁の向こう側に友人や理解者をたくさん作るほうが効果的です。それができたら、壁は存在しないに等しくなる」。
さて私たちは、人間を分断させる権力にどのように向き合えるでしょうか。壁を作り、自分の「敵」を「こんな人たち」と呼ぶこの国の責任者の振る舞いをどう考えるでしょうか。イエスもまた、人間を分断する分厚い壁を乗り越えようとして殺害されました。
一部の弟子たちが「ここにいるのはすばらしいこと」と発言したのは、マルコの教会批判です。イエスが壊そうとした壁を新しく作り続けてきた教会は、マルコに批判され続けるでしょう。
聖書 マルコによる福音書8章31-9章1節
イエスが自分の死を予告した時に、弟子の筆頭であったペトロはイエスを人のいない所に連れ出して、叱りつけました。イエスはその態度に「サタン」と言い、「お前は神に関わることではなく、人間に関わることを考えている」と、今度はイエスがペトロを叱りつけました。
イエスとペトロとの衝突は、後の時代のマルコの教会の事情が反映していると思われますが、教会の最高指導者になるペトロをイエスが「サタン」と呼んだことは注目に値します。
「エルサレム」に象徴される力や権力、命をないがしろにするものと関係を持たない態度が「サタン」と呼ばれ、「人間に関わること」だと言われています。逆に言えば、人間の命をおびやかす権力や力に向き合って行くことが「神に関わること」だというのです。
私たちのこの時代も、権力が人間の命をおびやかしています。そのことに、イエスを「キリスト」だと告白する私たちはどう向き合っていけるのでしょうか。
弱くて小さい働きでは、「大きいこと」はできないかもしれませんが、日常の中の小ささの中にこそ、神が働いておられることを信じたいと思います。イエスが言うように、神の支配はすでに「あなたがたのただ中にある」ことに思いを馳せて、小さく弱い中に確かにある神の支配を、受け継いでいく働きをしていきたいと思うのです。
聖書 エゼキエル書34章1-16節
沖縄では23日に、72年目の「沖縄・慰霊の日」を迎えました。この日はたくさんの方々が南部のかつての激戦地に集まり、命を奪われた方々を慰霊する行事が持たれます。今年も、慰霊の場所にふさわしくない人間が政府代表として参列していました。翁長知事は目の前ではっきりと、辺野古に新基地は造らせないと発言しました。沖縄県民を代表するその声も、政府関係者には届かないのだと思います。予想通り、そしていつもの通り、沖縄の基地負担軽減などと言いながら、辺野古の基地建設は進めると発言しています。この人間たちに、死者を慰霊する資格はありません。
「平和の礎」に刻まれた、24万を超す人たちの人生はどんなものだったのでしょうか。中でも、普通に暮らしていた沖縄の県民の人生はどうだったのでしょうか。今の故郷の姿を見て、どんな思いがするのでしょうか。
沖縄に住む人間の命は、ヤマトの、しかも為政者にとっての命とは別のものだというのでしょうか。沖縄で生きる人間と自然の命を、自分の命と同じ価値ある尊いものだと考えることができるなら、あの場所に命を破壊する新しい基地を造ろうなどという発想は出ないはずです。沖縄は、「守らなくていい命」だということでしょう。
エゼキエルの言葉は、神自身が「牧者」となることが預言されています。日本とアメリカの嘘にまみれた「正義」ではなく、神による正義が沖縄で実現されるように、思いを馳せたいと思います。
聖書 マルコによる福音書8章22-30節
引き続きイエスは怒っています。何に対してでしょうか。弟子たちに尋ねます。「人は私のことを誰だと言っているか」。弟子は答えます。「浸礼者ヨハネ、他の人はエリヤ、また預言者の一人だと言っています」。イエスはさらに尋ねます。「お前たちは私を誰だと言うのか」。ペトロが代表して答えます。「あなたこそ、キリストです」。
この質問の仕方自体が、怒っています。「人々がこう言っています」と言いながら、弟子たち自身がイエスを「ヨハネ、エリヤ、預言者」だと吹聴していたのだと思います。つまり、弟子たちは「ヨハネ、エリヤの再来、預言者の一人」だと言われているイエスの側近であることを誇らしく思い、人々に吹聴していたのだと思います。ようするに、権力志向なのです。
マルコでは11章からイエスがエルサレムに行くことになりますが、それまでに彼は3回も、自分は死ぬことになると発言しています。それに対して弟子の筆頭であるペトロは、「エルサレムに行くのはやめろ」と言うのです。イエスが向き合う「エルサレム」とは何かを理解しないのです。
そればかりか、11章までの中で、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのか、また、来るべき日に世界のナンバー2と3にしてほしいと、イエスに頼む始末です。イエスはこのような権力志向の態度に怒ったのだと思うのです。イエスが目指した「エルサレム」に無関心にならず、私たちは思いを尽くして、「現代のエルサレム」とは何かを考える必要があります。
聖書 マルコによる福音書8章11-21節
今日のイエスは怒っています。とても厳しい言葉を用いて発言していることがうかがえます。
ファリサイ派律法学者たちが「天からのしるしを見せろ」と言っています。天ですから、神からのしるしを見せろということでしょう。彼らの思惑は明らかです。イエスを試そうとしているのです。
イエスの目には、彼らが神を試みている、自由に扱っていると映ったのだと思います。彼ははっきりと拒否します。「あなたたちにしるしは与えられない」。神が働いているかどうかを、結局は自分たちの尺度で判定する彼らに、イエスは「人を断罪するために与えられるしるしなどはない、そんなものは神に属さない」と拒否するのです。
同時に彼は、弟子たちにも厳しく問います。弟子たちも同じような思いでいたからだと想像できます。5千人と4千人との食事で何があったのかを思い起こさせるように発言しています。それでも弟子たちは、「パンの数」のことで議論しています。イエスが食事の場面で「パンそのもの」を祝福したのに、彼らは理解することができないのです。
「舟の中にパン(複数)を忘れてきたが、一つのパンはあった」とあります。「一つのパン」は「イエス」を表します。私たちには大事な「パン」(イエス)が与えられているのです。それで十分です。「複数のパン」は忘れても、「一つの大事なパン」を忘れないようにしたいのです。
聖書 詩篇104篇
「創造詩篇」に分類される詩です。著者(あるいはグループ)は、創世記の天地創造物語を知っていたと思います。本詩に創造物語との類似性があることは明らかです。
著者はバビロニア捕囚の前後に生きて、この作品を残したと言われています。この時代も、外国との戦争や内紛に明け暮れていた時です。そして、北王国イスラエルに続き、南ユダも滅ぼされ、イスラエル国家は消滅しました。自分たちの国がなくなるとは、どういう思いを残したのでしょうか。
その中で、自分たちの民族の歴史や振る舞いを振り返った人たちがいました。なぜ滅んでしまったのか、その原因を真摯に見つめる作業をした人たちです。
このような思いを持った人たちが、天地創造物語をはじめ、いくつかの聖書伝承を残していったのだと思います。廃墟となり奴隷となった自分たちの目の前にある現実は、まさに「混沌」であり、心から神の「光」を求めたに違いありません。歩みを振り返ると同時に、神がすべてのものをお造りになって、今も自分たちと共にいてくださって、なお働かれているという希望を残したのです。
詩篇の著者も、「人間中心」から「神中心」の生活への転換を促します。美しい調べに包まれた本詩は、命を祝福される神への信頼に生きる在り方へ、読む者を導きます。
聖書 マルコによる福音書8章1-10節
「4千人に食べ物を与える」と中見出しがつけられている個所です。数字の違いがありますが、ほとんど同じ内容の物語が6章にあります。こちらは5千人でした。もし、このような出来事が複数回あったとすれば、弟子たちの言葉は不可解です。まるで初めて経験するような言葉だからです。弟子たちの無理解の姿が描かれているのでしょうか。
言葉のニュアンスを考えると、「またこんなことをやるのですか」という言葉です。「いったい誰が、どこで手に入れて、この人たちを満腹させるのですか」との言葉は、初めて経験する思いではありません。目の前の困難な中に置かれている人への無関心の姿を表しているのかもしれません。
パンが7つ、小魚が少し。「4千」という数に対してはとても小さなものしかありません。でも、それが用いられて「満腹」につながります。私たちには、数は少ないけれども「パン」が与えられています。そして、「魚」ではなく「小魚」も与えられています。
大きなものに対して、これがどれほどの力になるのかと思いがちですが、イエスはそれを祝福しています。私たちは今もイエスに「パンはいくつあるか」と尋ねられます。「少ししかありません」と言わざるを得ないのですが、彼は「それでいい」と言ってくださるでしょう。「魚」ではなく「小魚」であっても、それを用いろと言ってくださるでしょう。神の思いを少しでも「満腹」に近づけられるような働きをしていきたいと思うのです。
聖書 マルコによる福音書7章31-37節
5月15日、沖縄は「復帰」45年を迎えました。27年間のアメリカ統治の後、憲法下での平和で安心して生きられる沖縄県を望みました。しかしそれとはまったく反対に米軍基地は強化され、国土面積0,6%の沖縄県に在日米軍施設の約75パーセントが集中する異常な日々が始まることになったのです。現在も約70パーセントの基地・施設があります。
沖縄も、アイヌも、在日も、被差別部落も、被災地も、そこで「声」を上げ続けてきた人たちがいます。その「声」は、「人間の心からの声」とはされず、今も「声」として真剣に受け止められているのでしょうか。
デカポリス地方にいたイエスは、耳が聞こえず言葉を語ることのできない人と出会います。彼がこの人を癒したという記事は、この人の「声なき声」を「声」としたことを物語っていると感じています。
イエスは彼に手を置きながら、「天を仰いで呻いた」とあります。イエスが彼の「呻き」を一緒に「呻いた」のだと思います。この人が持っていた心と声を一緒に感じることです。私自身、今まで経験し出会ってきた事柄やそこに生きる人たちの「声」を、自分の課題として「呻いて」いるのか考えさせられるのです。
癒された彼が「正常に話し出した」という言葉と、「宣教し続けた」との言葉は、未完了過去です。今も継続して語られ続けていることを表します。「声なき声が声とされること」が、ずっと神の御心だというのです。
聖書 マルコによる福音書7章24-30節
イエスはテュロスの地方に行ったと書かれています。地中海沿岸に位置する都市テュロスは、紀元前2000年頃からすでに知られていた有名都市で、金属加工や貨幣製造、貿易で栄えたと言われています。
おそらくイエスが滞在したのはテュロスという都市ではなくて、都市の周辺、周縁部だったと思われます。そこで、穢れた霊にとりつかれている娘を持つ女性と出会います。
女性は必死の思いでイエスに願ったのでしょう。娘を治したい一心で、この機会を逃すわけにはいかないと、彼の足もとにひれ伏したとあります。
しかしイエスは、彼女の願いをきっぱりと断ります。「第一に、子どもたちを満腹させよ。子どもたちのパンを奪って小犬に与えるのはよくない」。
イエスの頭には、ガリラヤの農民たち(子どもたち)の姿があると思います。それを小犬(大都市テュロスに住む人間たち)に与えるのはよくない。つまり、「ガリラヤの農民たちの食を奪って、大都市にいる人間に与えるのはよくない」と言うのです。それは、ガリラヤの農民の声の代弁であり、大都市が地方を搾取する構造への批判が込められていると思います。
しかし、女性は引き下がりません。なぜなら、この女性も大富豪でも特権階級の人間でもなく、ガリラヤの農民と同じような境遇で生きていたからです。彼女は、苦しい立場は人種や民族や宗教によって違いはないはずだとイエスに問いただすのです。それが彼女の答えです。彼の完敗です。
聖書 マルコによる福音書7章14-23節
前回の個所は弟子たちが食事の際に手を洗わないことについての論争でした。今日は、直接には書かれていませんが、「食事の内容」「食材の内容」、そして「誰と食べるか」についての議論だったと思われます。
イエスは言います。「外から人間の中に入って来て人間を穢すことのできるものは何もない。むしろ、人間から出て来るもろもろのものが人間を穢す」(15節)。
食べ物は食べたら栄養になって便所に出ていく。食材自体が人間を穢すことはない。むしろ、人間を穢すもの・人間に対して悪さをなすものは人間自身の行為であって、人間以外の自然界に存在するものがそれ自体として人間を穢すことなどあり得ない。これがイエスの主張だと思います。
食べ物のことについてだけではありません。自分と「外」のものを徹底的に分離して他者を排除して自分の「清さ」を保つ。この在り方に対してイエスは、人間の中に、同席して(一緒にいて)「穢れ」が伝染するような「穢れた者」などいないという意味も含んでいると思います。
前回の個所で彼は言います。「お前たちは自分たちの言い伝えを大事にして、神の掟を無効にしている」。神の掟とは命を生かすことでしょう。「エルサレム」から来た権力者は自らが神になって人間を断罪しています。人間として生かされていることを自覚するように、イエスは訴えたのだと思います。「エルサレム的なもの」は、誰の心にもあるのかもしれません。
聖書 マルコによる福音書7章1-13節
イエスとファリサイ派律法主義者たちとの論争記事です。わりと穏やかな言葉が使われているのですが、雰囲気としては厳しいものです。まさに、売られたケンカを買う、といった状況です。ここでは食事の前に手を洗わない、といったことが議論になっていますが、別に衛生上の問題ではなくて「自分たちの言い伝え」を押し付けているだけです。
その「自分たちの言い伝え」と「昔の人の言い伝え」は、法を勝手に自由に解釈する振る舞いによって押し付けられています。為政者がよく使う手ですが、今の日本政府の在り方がそのまま当てはまります。
法を勝手に都合のいいように解釈して、あたかもそれが「正しい」という振る舞いは、いわゆる「地方」と言われる場所や沖縄に押し付けられています。「自分たちの言い伝え」によって「わが国は法治国家だ」と発言する人間に「正義」はありません。
神に献納する(コルバーン)つもりもないのに、他者に使わせないために「これはコルバーンですから駄目です」といった悪しき風習を、イエスは見ていたのでしょう。律法を、他者をおとしめるために用いるその心、振る舞い、自分を顧みない態度を厳しく批判しました。イザヤの言葉を引用したのも同じ思いからだったと思います。
人間を大切にしない態度とはまったく逆に、命を守るために懸命に「昔の教えを守っている」人たちがいることもまた、覚えたいと思います。
聖書 マルコによる福音書6章45-56節
マルコの4章に記されている記事と似ています。4章では、弟子たちが乗っている舟が激しい風に襲われて、舟に水が入って来るほどになったことが語られています。弟子たちの何人かは漁師で、「海のプロ」でありながら右往左往している姿が描かれます。
そして今日の個所でも同じような風が吹いたのでしょうか、「逆風が吹いて、弟子たちは漕ぎ悩んでいる」と書かれています。海のプロも、どうしようもできないのでしょうか。
ここには、4章と同じようにマルコの教会の事情が背景にあるのだと思いますが、違っている点は、4章ではイエスは舟の中にいて「艫のほうで眠っていた」とありますが、今日の個所ではイエスは「陸にいた」ことになっています。
マルコの教会の事情が、ますます厳しい状態にあったことが言われているのかもしれません。今はイエスが一緒に舟(教会や個人の生活)にいるとは思えない、神の恵みがあるとは思えない状態にあったことが言われているのかもしれません。
マルコはそれでも、苦難の中にあってもイエスは共にいることを記します。イエスが湖の上を歩いて舟に来てくれることを語るのです。「奇跡物語」としてではなく、困難の中に神の働きがあることを覚えたいと思います。墓の中が空だったことも、神の働きがあることを知らされるのです。
聖書 アモス書5章21-27節
アモスは紀元前8世紀に北王国イスラエルで活動した預言者です。彼の時代は他にもまして繁栄した頃だと言われています。しかし、その繁栄の陰で生み出されていた社会的弱者の存在を彼は常に見据えていました。同時に為政者の権力による不正、腐敗、退廃を厳しく糾弾し、このままでは神の民は確実に滅亡してしまうことを真剣に憂いて、預言活動をしました。
メッセージタイトルを「正義と公平と平和」としましたが、もう一つ「公正」が付け加えられます。つまり、「正義」と「公平」と「公正」がイコールで結ばれないと、決して「平和」は訪れないのです。これは、アモスの視点だったと思います。
彼の時代もその後の歴史も、そして私たちが生きる時代も、正義と公平と公正はイコールで結ばれ、バランスよく保たれているのでしょうか。そうではありません。今も決して、「平和」ではありません。
預言者は民を叱咤激励し、権力者を厳しく批判すると同時に、救いの預言も残しました。今や絶望に感じる社会・世界であっても、神が必ず導いてくださること、一緒にいてくださることを審判預言と共に語りました。
神が世界の創造者であり歴史の導き手であることを信じる者は、否応なく神の創造の世界、歴史の世界に目を開かれていきます。困難でも、絶望と感じる私たちの時代にも、神の導きを信じて、神の創造の世界が実現されるために、出来ることをしていきたいと思います。
聖書 マルコによる福音書6章30-44節
イエスの食卓の本質を表す記事です。イエスを囲む食卓から排除される人は誰もいなかったことが証言されています。この記事をいろいろこねくりまわして「解釈」して、クローズドの聖餐式の「根拠」とする意見もあるようですが、本質を捉えようとする態度とは思えません。
「そこで彼らは、100人ずつ、あるいは50人ずつ組になって、席に横たわった」とあります(40節)。ここで「組」と訳されている言葉は、苗床とか花壇、畝を意味します。そして、「野菜畑」との意味があります。
みんながそれぞれの組になって座った様子が、「野菜畑」のようだったというのです。情景を思い浮かべてみると、そこにはいろんな人がまるでピクニックに来ているような雰囲気で座っていた様子がうかがえます。
野菜畑には、種類が違ういろんな野菜が育っています。味も見た目も、形も様々です。でも同じ命を持ち、神からの恵みによって育てられています。それぞれが成長を主張し合うこともありませんし、色の鮮やかさとかも競い合うこともありません。
それぞれがそれぞれの命を生きているから、美しいのです。イエスの主の食卓の実践は、命を生き生きと生きられないようにされている人たちを解放する出来事だったのではないかと思います。
自分たちも神に愛されている人間だと、それぞれが思い合える食卓だったと思います。閉鎖的な教会の今の姿を、イエスはどう見るでしょうか。
聖書 マルコによる福音書6章14-29節
浸礼者ヨハネが殺害される場面です。聖書の物語とは違って、同時代に生きた歴史家ヨセフスの記述(『ユダヤ古代誌』)によると、ヨハネの人気が大変なものになっていて、その人気がヘロデ自身に対する暴動に発展する恐れがあるということで殺害されたとのことです。
聖書の記述通りにヨハネがヘロデの私生活上の振る舞いについて糾弾したという事実があったのかもしれませんが、どちらにしても、ヘロデがヨハネのことを、自分の権力を脅かす人物だと見ていたことは確かだと思います。
イエスはヨハネから洗礼を受けました。一時は彼の弟子となって活動を共にしますが、やがて独自の道に進みます。理由はいつくか考えられますが、二人はそれぞれの思いを持って神の姿を伝えていったのだと思います。
イエスはヨハネ殺害を聞いて、マタイの並行記事では「一人、静かな場所に行った」と書かれています。どんな思いが湧きあがってきたのでしょうか。思いの違いから別々の道を歩むことになったとは言え、イエスはかつての師であったヨハネの思いを継承していったのだと思います。
真実を語る者を監禁し、自らの保身のために弾圧していく姿は、沖縄の今に重なります。イエスがこの出来事の後にますます神の思いを伝えるために尽くしたように、私たちも今の現実を注視していきたいと思います。