2020年3月29日  「自由を奪うものは」

聖書  ルカによる福音書12章1-12節

エルサレムに行くということがどんなことになるのか、自分に何が起こるかをイエスはすでに知っていた、悟っていたと思われます。それでも決意を貫いた彼の思いを想像するのです。恐怖も不安も葛藤もあったと思います。最初から「十字架にかかるため」に計画され遣わされた天的存在としてではなく、彼が人生の最後に信仰者として残した言葉をどう受け取り、私たちの人生の糧としていくことができるのかを思わされるのです。

「ファリサイ派のパン種」は、一つの価値観に無理やり人を押し込むものです。権力者は自ら神となり、その価値観に従う者とそうでない者とを区別し差別することで自分を正当化します。パン種は発酵して全体を膨らませます。私たち自身の中にあるパン種はどういうものでしょうか。

人間が与えられた命そのままで神は人を祝福する。ファリサイ派のパン種とは対極にある恵みです。その恵みをもたらす「聖霊」を冒とくする者は赦されないとイエスは語ります。神が与える解放的な恵みを限定的なものとしてしまうパン種を用いてしまうことが、私たち自身にもあることに気づかされます。

数十円で売られている雀でさえ神は関心を持ち生かしてくれていることをイエスは語ります。私たちはどのような「パン種」を持って、それを自分たちの中にも外でも膨らませていくことができるでしょうか。 


2020年3月22日  「責任があります」

聖書  ルカによる福音書11章37-54節

沖縄戦から75年を迎えます。1945年3月26日、米軍は慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島、翌日は渡嘉敷島に上陸しました。パニックになった住民の多くは強制集団死によって命を落としました。渡嘉敷329人、座間味171人、慶留間53人、4月2日には沖縄島読谷村のチビチリガマで、避難民140人のうち83人が自決に追い込まれました。

人間を人間として認めないのが戦争です。同じ命を与えられ生かされている者同士が命を奪い合う戦争は、この後も世界で続いていくことになります。今もまた、「戦争ができる国作り」を進める私たちの国は、歴史に学ぶということを放棄しているのでしょうか。為政者は、他の人と違った何か特別な命を生きているのでしょうか。

今、現在を生きている私たちの歴史は、未来を生きる人たちから見れば過去のものになります。その「過去」を見た人たちは、私たちが歩んだ「過去」をどう評価するでしょうか。

辺野古で基地反対の意思を示す人たちを排除、弾圧している人たちは、未来を生きる自分たちの子どもに対して、「かつてここで座り込んでいた人たちを排除した、弾圧したんだよ」と胸を張って言えるでしょうか。「青い海に住むあらゆる命を殺す手伝いをしたんだよ」と、自らの生き方に誇りを持って子どもたちに説明できるでしょうか。 


2020年3月15日  「いつもそこに」

聖書  ルカによる福音書11章29-36節

いわゆる「田舎」で生まれ育った私は、「漆黒の闇」というものを何度も経験してきたことでした。そこでは、自分の手も見えない、そして一歩も足を踏み出すこともできないのです。どうしてそんな場所に行ってしまったのか思い出すことができませんが、ただしゃがんで、兄貴か誰かを半べそかきながら呼んだような気がします。

幼い子ども時代の出来事を思い起こしました。自分の力で歩き、順調だと思っていても、いったん足元が見えなくなるような出来事に出会うと、歩みはおぼつかなくなります。その時に自分はどうするか。幼いあの時に誰かにそばに来てほしいと願ったように、自分を見つけ出し、進むべき道に連れて行ってほしいと神に祈るのだと思います。

そう考えると、自分自身もまた、イエスに批判される者だと感じます。ずいぶんと都合のいい願いで、自分の力で歩き、順調の時にはそのままでいて、必要な時にだけ助けを求める生き方だと思わされます。

イエスには、「人が必要と言う前から神はすべてをご存知で、いつも人間のそばにいる」という確信があったのだと思います。知らず知らずのうちに神は足元を照らしてくれていて、私たちの何気ない日常の中にも働いておられることを知らされるのです。 


2020年3月8日  「見えるモノの陰で」

聖書  ルカによる福音書11章14-28節

ある日、突然自分の家から200メートルの距離に軍事用弾薬庫が建設されることになる。自分のこととして考えるならどんな思いが出て、どんな行動を起こすのでしょうか。

沖縄をはじめ「小さくされている存在」に自分なりに関わりを持とうとしてから30年も経ちますが、自分がそういう窮状に陥らないことには人の痛みに気づかないのでしょう。弱い立場に置かれ続けている人の痛みに思いが及ばない、自らの愚鈍さに嘆息します。

イエスの場合は、一緒に怒ったのでしょう。ベエルゼブルという悪霊は、「家の主人」という意味もあることを教えられました。ということは、自分とは関係のない場所にあるのではなくて、ごく身近な、そして自分自身の心の中にもあることを知らされました。

ものを言えなくする霊。それがベエルゼブルです。人間の声を抹殺する力でしょう。人間を生かそうとする神の恵みに抵抗する力です。それがどれほど強いものか、強く人間の心を支配しているのかに気づかされます。

神の恵みに気づかされていったんその力は外に出たとしても、他者の声を聞かず自分自身のみへの関心で生きる時、またその霊は戻ってくるというのです。体制に迎合して生きることは「楽」だからです。霊を追い出すイエスの怒りに、ひたすら連なっていきたいと願うのです。 


2020年3月1日  「イエスの祈り」

聖書  ルカによる福音書11章1-13節

イエスが教えたとされる「主の祈り」の個所です。マタイとルカ福音書にありますが、当然のことながら内容が違います。それは、それぞれが自分の状況に合わせて編集したものだからです。

祈りを自分の状況に合わせて加筆したり修正したりすることは問題ではありません。問題は、その編集した祈りに「主の」という言葉をつけて権威化したり絶対化したりすることにあると思います。イエスが祈った祈りの背後にある思いや社会状況を思い起こしながらこの祈りに向き合っていきたいと思うのです。

一貫して、ローマ皇帝やローマ帝国主義への批判が込められている祈りだと思います。「父よ」と祈り始め、「あなたの統治・王国が来ますように」と続きます。これだけでもローマ帝国への反逆罪に問われかねない言葉です。「父」は「私たちの父」であり、ローマ皇帝の「父なる神」ではないこと。「ローマ皇帝による統治ではなくて、神の統治が来ますように」と祈っていること。イエスの祈りは、植民地支配下において厳しい生活を強いられていた民衆の声を代弁しているかのようです。

イエスの思いは、現代社会にも通じるものです。人間が神になったように振る舞っている為政者や政治を見て、私たちは心から「父よ」と祈り、「あなたの統治が来ますように」と願う信仰を持ち続けたいと思うのです。 


2020年2月16日  「看板と現実」

聖書  ルカによる福音書10章25-42節

「サマリア人のたとえ」の記事はルカ固有のもので、この物語は生前のイエスの生きざまが生き生きと語られているものだと思います。直前の、律法の専門家との論争記事に続いて配置されていることから、実際にこのような場面があったのではないかと思わされます。

専門家は「正しい」答えをしています。イエス自身もそれを認めています。ただ、その「看板」が実際の出来事に対するものとして機能しているのかどうか、実際の出来事に寄り添うものとなっているのかどうかを、イエスは問うたのではないかと思います。

律法に照らし合わせれば、祭司もレビ人も、律法を守ったことになります。倒れている人を死体だと判断したのだとすれば、二人の振る舞いは律法を守った、ということでしょう。

しかしその律法を「守った」ことによって、瀕死の状態にあった人はそのままにされ、しかもサマリア人が通りかからなかった場合はどうなったのでしょう。そのまま命を落としていたかもしれません。

神が与えた律法を守ることによって、人間の命を殺してしまうことになる。これほど皮肉なことはないのではないでしょうか。キリスト教が掲げる「看板」も、このイエスの言葉に問われなければいけないことを思わされます。看板と現実との乖離を思わされるのです。 


2020年2月9日  「わじわじ~する」

聖書  ルカによる福音書10章1-24節

イエスが誰に、どんな状況の中で語ったのか、振る舞ったのか。私たちはこのことに注意しながら福音書を読むことが大事だと思わされます。福音書を読む時にはつい、イエスの言葉を中心に読みがちですが、周りの状況を想像しながら福音書に向き合うことが大切だと感じています。

どんなに鋭い言葉も、どんな状況で語られたかを抜きにしてしまうと、生きた魂を失ってしまうと思います。彼が向き合った現実を想像し、その現実とはいったい何だったのかを思う時、そこから彼の言葉の真実が見えてくると思われます。

ルカは「弟子たち」をことさらに褒める姿勢を持っているようです。ただし、ルカにとっての「弟子たち」とは、イエスと同時代に生きた「弟子たち」ではなく、ルカの時代の「キリスト者の理想像」だと思われます。今日の個所でも、イエスは民衆ではなくて「弟子たち」だけに、「彼らのほうを振り向いて語った」としていますが、選民思想や優越主義、そして排他主義が見えるようで「わじわじ~」します(沖縄の言葉で「イライラする」)。

人が生きにくくされている現実状況があって、そのことに心と身体を寄せる中でイエスの言葉を聞きたいものです。その時に、彼が語った、現実を鋭くえぐるような、迫力が見えてくるはずです。 


2020年2月2日  「鬼は内」

聖書  ルカによる福音書9章51-62節

『桃太郎は盗人なのか? 桃太郎から考える鬼の正体』の著者、倉持よつばさん(小学校6年生)から、大切な示唆を与えられました。メディアでも取り上げられ、その内容の秀逸さから、たくさんの人が手に取っていることだろうと思います。

本の「まとめ」の中で彼女はこう書いています。「自分なりの鬼は何者なのかの答えを出したいと思います。鬼は一人ひとりの心の中にいて、その鬼がたまに出てくるけど、その鬼がいないと、一人ひとりの心は成長しないと思う。…鬼が自分の心の中に出てくることは悪いことではなく、自分を成長させてくれるあかしなんだと思うようになりました」。

私自身も、「鬼なるもの」が自分の中にあることは確かです。でも今までは「鬼は外」として、自分とは関係のないものだとするような在り方、そこからは抜け出したいと思う。そんな視点だけは持ちたいと願ってきたことにしか自分の思いはなかったことに気づかされました。

ところがよつばさんから示されていることは、「鬼なるもの」は自分の中あって、しかもそれは「自分を成長させるもの」だというのです。私自身は、自分の中にある「鬼なるもの」を憎みます。しかしそれが確かにあることを認めて、自分の振る舞いを見つめ直すものにする。ユダヤ人とサマリア人の対立の記事に、これほど適切なテキストはないと思いました。 


2020年1月26日  「すべての根源」

聖書  ルカによる福音書9章37-50節

ルカはマルコに収められている「祈り」についての議論の部分を削除しています。病気の息子を持つ父親とイエスの会話、そしてイエスと弟子たちの会話がマルコには描かれていました。この記事は「祈り」についての示唆を与えるものだと思いますから、マルコの記事を参照しながら読むことがいいと思われます。

父親は、「できるなら、少しでも何かできるならやってほしい」とイエスに頼みます。息子を助けるための心からの叫びだと思いますが、一方ではイエスを信頼する・しない、の間で揺れ動いている姿も見えます。

私自身も同じなのです。祈りにおいて神を信頼する・しない、という態度で揺れ動く自分を思います。自分の思い通りの結果にならない時は、心が穏やかではありませんし、いくら祈ってもダメだと思ってしまうことも多いのです。ここでの登場人物の誰に自分の姿を見るのかと問われれば、父親の姿に重なるのでしょうか。

一方で、自分の姿は「弟子たち」にあるのかもしれません。信仰とはこうあるべきだと完成している姿です。揺れ動いていても、それを神への信頼だと認めてくれるイエスに触れながら、すでに信仰の形を結論づけて他者に強要してしまう自分をも思います。誰が一番偉いのかと議論してしまうような心を持つ自分もまた、イエスに批判される必要があるのでしょう。 


2020年1月19日  「宗教の倒錯」

聖書  ルカによる福音書9章18-36節

「あなたは私を何者だと思うのか」とイエスに問われたペトロは、「あなたは神のキリストです」と答えた、いわゆる「ペトロのキリスト告白」の記事です。

同じ質問が自分自身に与えられたとしたら、私たちはイエスに対してどのように答えるのでしょうか。当たり前のように「キリストです」と答えるのか、その場合「キリスト」とはどういう意味を持つものなのかを改めて考えることがあるでしょうか。

インマヌエル(神はわれわれと共におられます)という事実を、徹底して信じて生きたのがイエスであり、その意味で彼を「キリスト」だと告白できる。これが、伝道者として立つ使命が与えられたと感じて、具体的な準備と訓練の中に置かれていた時、私自身が徹底して教えられたことです。

インマヌエルという事実には差別や区別がなく、まったくの無条件、無前提のままに神は人間と共におられる。神とはそのような存在であることにイエスは気づき、覚醒したこと。そしてその生き方をまっとうしたこと。それゆえに、イエスをキリストだと告白できる。おぼつかない歩みをしていますが、私自身の「キリスト告白」なのかなと思っています。

人間と人間、神と人間との間に壁を作り、区別・差別を作る社会構造、そして為政者に、「キリスト告白」をもって向き合いたいと思うのです。 


2020年1月12日  「神と人と土と」

聖書  ルカによる福音書9章10-17節

原初史(創世記1-11章)の中の創造物語において、神は人間に「大地に仕え、大地を守る」使命を与えられたことが証言されています(新共同訳聖書は「耕す」と訳す)。人間は、神がお造りになったすべての命に仕え、守ることが使命として与えられ、そして自分自身の命をも同じように神によって守られ生かされているのです。

ところがその人間が互いに争い、自分と価値観の違う人間を排除し、区別差別を生み出し、命を奪い合うという道を歩むことが続けられてきました。この事実から自分は無関係だと言えるような者ではないことを、改めて考えさせられるのです。

5000人との食事の記事を読むたびに、ここにイエスの生き方の本質、そして彼の信仰の本質が表れているのではないかと思わされます。すべての人間が神によって造られ、「インマヌエル」(=神はわれわれと共におられます)の事実に人間は生かされていることを示した振る舞いだったと思います。

「神はわれわれと共におられます」の「われわれ」とは一体誰なのか。すべての人間だと言われているのに、どこかで独善意識や特権意識にとらわれてしまっている自分自身の在り方に気づかされるのです。 


2020年1月5日  「不十分なままで」

聖書  ルカによる福音書9章1-9節

辺野古で新基地建設に反対の意思を示し続けている現場の声を聞くことができて、先週は感謝の時を過ごしました。ヘリ基地反対協議会の相馬由里さんからの報告と問いかけをいただいた私たちは、この出会いを通して現場の人たちの思いを感じ取り、また受け取るきっかけをいただきましたので、引き続き祈りと行動において、連帯していく思いを強めたいと思います。

新しい年を迎えた今日、イエスが12弟子を派遣した記事が与えられています。私たちもまた、新しい年にイエスによって派遣されていきます。目の前には、いくつもの課題が横たわっていると思います。また、時には迷い、苦しみ、進むべき道を見失ってしまうこともあるかもしれません。

しかしイエスは、信仰の友を連れて行けと命令しました。どんな時にも、思いを分かち合って支え合って、祈り合える友がいることはどんなにか励ましになることでしょう。私たちは一人ではありません。

ヘロデはイエスを恐れ、彼を亡き者にしようと画策しました。それは、イエスの本質がこの社会の在り方の異常さを暴き出していたからです。権力者にとってこれほどやっかいなものはないでしょう。

沖縄の声が、日本という国や政府、為政者の在り方の異常さを暴き出しています。私たちもまた、この働きに連帯していく1年のスタートです。 


2019年12月22日  「女たちへーアリランの風景」

聖書  ルカによる福音書8章40-56節

会堂長ヤイロスの家に向かっていたイエスは、群衆の中で自分の衣に触れた人を探します。ヤイロスの娘が重篤な状態にあって、すぐにでも助けが必要だという時です。「12年間出血が止まらない病」を持つ女性の叫びを、彼は聞き逃さなかった、という姿でしょうか。

自分の目的のために、どれだけの声を聞き逃しているのか。自らの振る舞いを考えると、比較にならないほどのイエスの「一人の人間へ集中する姿」がここにあると思います。

12年という長い日々、病の中で暮らさざるを得ない女性の境遇は、尋常を超えています。病から来る苦しみだけではなくて、彼女自身も、彼女が触れる者も、彼女を触れる者も穢れる、そのような中での人生なのです。

社会から見れば「邪魔者」であり、「取るに足らない」人間なのでしょう。でも、確かに彼女の中に命が生きていて、それは何物にも代えがたいものです。人間によって区別・差別されるものではないということを、イエスは振る舞いによって示しているのでしょう。

かつての戦争の時に、宮古島で性奴隷にされていた女性たちを思います。一人ひとりに人生があって、命がありました。「道具」として扱われ、人として生きる人生をはく奪された女性たちの声を、私たちは聞き逃し続けています。イエスのように立ち止まることができるでしょうか。 


2019年12月15日  「隔離と回復」

聖書  ルカによる福音書8章26-39節

男の人に憑りついている悪霊を、「レギオン」というローマの軍団を指す言葉を使って表現していることに、この物語を残した信仰者たちの思いが表れているようです。人間の命を奪う軍事力に対する嫌悪感でしょうか。軍隊に対する反感や批判の目があるようです。

人間に命を与え生かす神の働きに抵抗する力がいかに強かったか。信仰者たちは、それを軍隊用語「レギオン」で表したのでした。私たちが生きる現代は、ますます「レギオン」の力は増し、その力を崇拝するかのような世界の在り方です。

イエスはこの男の人を解放したのでした。数の力や力の強さ、大きさにこそ価値があるような社会で、結果的にそのことが人間を苦しめていることに気づかせ、人としての在り様を突き付けた出来事だったと思います。

それは、イエスが男の人の名前を聞いたことに表れています。数や大きさで物事が図られる中、そこに存在する人間一人ひとりの人格や人権は顧みられることは少ないのです。イエスは何よりも、そこにいる人間一人ひとりが大事な存在だと見ていたと思うのです。

隔離されていた人は自分にも大事な名前、人格、人権があることに気づかされ、現場に帰ります。数字の悪魔的な力からの解放です。 


2019年12月8日  「向こう側に行こう」

聖書  ルカによる福音書8章19-25節

人間誰しも、心がいつも平穏であることはないと思います。なかにはそうだと言う方がおられるかもしれませんが、人生を生きる中でいろいろな課題に出会った時に、心が乱れてしまうこともあるのではないでしょうか。

心の中に風が吹き、やがて嵐になり、その影響で波が立って自分の足元がぐらついてしまうことは、多くの人が当たり前のように経験することだと思います。ルカの並行個所のマルコでも訴えられていますが、著者自身の教会や、その場所に集っている人たちの心が揺れていた状態が描かれている記事だと思います。

イエスを主として出発した教会が揺れ動いている。いろいろな課題を前にして、教会という船は沈みそうになっている。教会も、そこに集う人たちの心の中にも風が吹き、嵐になり、波が立って船が沈みそうになっている。それでもイエスよ、あなたは平気なのですか。教会の叫びです。

でも、イエスは寝ています。「あなたたちの信仰はどこにあるのか」「今、この時にも神はここで働いていることが分からないのか」。イエスは揺れ動く人間に、このような励ましをくれているのだと思います。

順風満帆の時にだけ神は一緒にいてくださるのではなく、人間が課題の中で揺れ動く時にも、支えてくれている(寝ている)のです。 


2019年12月1日  「どんな土地でも神は蒔く」

聖書  ルカによる福音書8章4-18節

並行個所のマルコの記事と比べてみると、ルカの場合は「信仰生活に必要な忍耐」や「忠誠心」の説教にしているような気がしました。マルコが語ったイエスの話とはずいぶんと離れているという印象を受けます。

もともとの話は、イエスが誰もが想像できるようなたとえで話した伝承だったと思います。農夫が種を蒔いて収穫の時を待って、やがて収穫できる時の喜びの姿を、「神の国の風景」として語ったのではないでしょうか。農夫の日常の生活を示しながら、そこに神の働きがあるのだということを話したのではないかと思います。

「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。「良い地」とはキリスト者でしょうか、教会のことを指すのでしょうか。

人間ですから、良い地になろう、良い地になろうとしても、どうしようもないこともあるはずです。時には「茨」というものに心を支配されてしまうことだってあるはずです。思うように事が運ばずに、落ち着かずイライラしてしまうこともあります。人間の心(地)は、たえず揺れ動いてしまうものです。

それでも神は種を蒔くことをやめない。土地がどんな状態でも私たちの中で働いてくれる。このような赦しの中で私たちは生かされているのです。 


2019年11月24日  「『力』の陰で」

聖書  ルカによる福音書7章36節-8章3節

並行個所とまでは言えないかもしれませんが、一人の女性がイエスに香油を注ぐ物語は、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書にもあります。そこではイエスの埋葬の準備をしたというのです。また、「高価」な香油を売って貧しい人たちに施せと弟子たちが女性を責め、イエスがそれを止めたというものです。

ルカはこの話と、他のあちこちにある言葉を一緒にして今日の物語を作っているのでしょう。最も大きな特徴は、この女性が「罪(複数)を持つ人間」だったという前提で物語を作っていることだと思います。

「罪の赦し」「罪からの解放」「悔い改め」を中心にするルカ福音書ですから、彼がこのような話に持っていったのも分かるような気がします。でも、イエスに対して女性が行なったことが「罪からの解放」「罪の赦し」の条件として読ませていることには、批判する必要があると思います。

この段落には、借金の帳消しの言葉もあります。私たち人間は、とてもではないが払い切れないような負債を神に対して負っているのに、神は何も問わずにそれを帳消しにしてくれるというのです。この女性に対するイエスの言葉の「赦される」は完了形ですから、過去から現在までずっと神は女性を「赦し続けている」という理解に導かれます。

赦されて生かされている人間が、裁き合う。教会も問われていることです。 


2019年11月17日  「酒宴、もとい、主宴」

聖書  ルカによる福音書7章18-35節

「大酒飲みの大食漢」。イエスを揶揄する言葉でしょうけれども、人間イエスの姿がうかがえるようで、私などは彼がより身近に感じられてうれしく思います。のちにキリストであり救い主、あるいはキリスト教の教祖として位置付けられ信仰されるイエスに対して、その姿を褒め称える言葉よりは、「悪口」で言い表されることのほうが信憑性が高いというものです。彼はこうやって揶揄されるほどに、日常的に飲み食いしていたことを思います。誰がいてもいい、解放的で楽しい「宴会」だったことでしょう。

ユダヤ教支配者層にとってはただの「バカ騒ぎ」で「律法違反」に映ったかもしれませんが、そこに招かれていた人たちにとってはただの「宴会」ではなかったと思います。イエスとそこにいた人たちにとっては神の国の先取りであり、神の支配の風景そのものだったと思います。

神の風景の実践を「律法違反」だと断罪して、「聖」と「俗」を分離(ファリサイ)する人間の姿は、私たちが生きる現在にも存在することです。まるで自分自身が神になったような思いから、他者を断罪、区別・差別する在り方です。

創世記3章には、神は歩く方でありその足音で存在を知らせるとあります。神の足音が聞こえず、足音が消されているような時代を生きているとしても、神の支配の風景を探し求め、実践していきたいと思います。 


2019年11月10日  「起き上がる力の源」

聖書  ルカによる福音書7章11-17節

この記事の直前に置かれている百人隊長の部下をイエスが癒す物語では、癒してほしいという声を聞いてイエスが応えた形になっています。一方で今日の物語では、誰にお願いされるでもなく、イエスは自ら動いています。

ここで思わされるのは、人間の苦悩や厳しい現実に対して、人間が願う前から神自らが寄り添うという存在であることが言われていると感じます。

神に助けてほしい、支えてほしいと私たちも祈りますが、イエスが示した神という存在は、私たちの事情をすべてご存知で、神のほうから人間に寄り添うということなのです。

しかもそこに、何か条件や資格が問われることはないのです。救いを得るために条件や資格が問われて、それをクリアして初めて神は人間に恵みを与える、ということではありません。人間は、ただそこに存在するということで価値あるものとして神には認められているのです。

その神を信頼する者として生きる時に、私たちは神の恵みにどのように応えることができるのでしょうか。今も本質はほとんど変わっていないと思いますが、ここで登場する「女性」という存在に、イエスがどう関わったのかが私たちに問いを与えます。無視してもいい、それが当然の世界でありながら、イエス自らが関わろうとしたことです。神が無条件・無資格のまま人間を愛すなら、私たちの生き方の方向性もそこに源があります。 


2019年11月3日  「その日、その時」

聖書  ヨハネⅢ 2-4節

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」。

この言葉を、自分の愛する家族に残して生涯を終えた人がいました。地上で生きる時間がわずかだということを悟った時に、この聖書の言葉が心に染み入ってきたのでしょうか。家族を最後まで温かい眼差しで見つめていた心を想像することができるような気がします。

信仰の先達から私たちに渡された、一つの問いとして捉えることができるかもしれません。「真理に歩む」。感性を豊かにしてこの言葉を受け取りたいと願います。

「アレーセイア」(真理)は、物事の表面だけでなく、その蔭に潜んでいることに注目するように促す言葉だと言っていいと思います。注意していないとなかなか気がつかない真実を見ることが「真理を生きる」ことになるでしょうか。

大事なものが隠れている、隠されているなら、それを掘り起して自分の生き方の中に据える。難しいですが、人として大切にしたいことです。 


2019年10月27日  「ひたむきに」

聖書  ルカによる福音書7章1-10節

ユダヤ人が異邦人(外国人)と交わりを持たないことを百人隊長は知っていたのでしょうか。そうだとすれば、イエスへの配慮でしょう。友人や部下をイエスのもとに送って自分の思いを伝えたことになっています。

また、自分が権力を持つ者として、世の権力者たちがどのような振る舞いをするかについても、イエスに警告のような言葉を伝えています。つまり、ユダヤ人であるイエスが、異邦人であるローマ人の自分(の部下)と接することで、どんな結果が待っているのかを権力者である自分は知っているのだと言うのです。「感心した」と訳される言葉は、イエスが「驚いた」ことを示しています。彼はローマの百人隊長が、二つの間にある壁や枠を取り外し、乗り越えようとしている姿に「驚いた」のだと思います。

イエスの十字架の場面にも、ローマの百人隊長が登場します。同一人物だったかどうかは分かりませんが、ずっと一緒にいた弟子たちがみんな逃げて行ってしまっているのに、ローマの人間がそこにいて、「本当に、この人は神の子だった」と告白していることは驚きです。共にいた人間がイエスの本質を理解することができず、ユダヤを植民地化している人間が理解したことは、皮肉のようにも思えます。

いかなる意味でイエスが「神の子」なのか。私たちはイエスの何を見て、彼が神の子でありキリストであるのかを告白できるのでしょうか。 


2019年10月20日  「気前のいい神」

聖書  ルカによる福音書6章37-49節

雨や風に対して、今の家屋はずいぶんと強くなりました。台風が接近しても、その進路の予想の精度も上がって、地震と違い、ある程度の予想と備えはできるようになりました。

それでもこれだけの被害が出たことは、自然の力が人間の思いや知識をはるかに超えて行く力を持っていることが浮き彫りになったのでしょうか。

備えをせよといっても、いろんな事情があって十分にすることのできない人たちもいたでしょう。避難するにしても、食糧を確保するにしても、環境が十分でなかったり、高齢のために身体が動かなかったり、幼い子どもを抱えていたり…。それぞれの事情が被害から自分や家族を守ることを困難にさせていたこともあったのでしょう。

土台が崩れ、家屋を失ってしまった人たちに、神の支えがあるようにと祈るだけしかできない自分を思います。ただ、キリスト者は魂の祈りをもって人を思い、人に仕え、具体的な行動を起こす心をイエスから絶えず示され与えられていることも思います。

揺さぶられた心に、ぽっかりと空いてしまった心に、神が励ましと慰めを注いでくださいますように。すき間をさらに作って、そのすき間にさらに穏やかな心と安心につながる恵みを注いでくださいますように。

魂の祈りを、被災者・被災地に届けたいと思います。 


2019年10月13日  「同じ人間です」

聖書  ルカによる福音書6章27-36節

「敵を愛せ」と言われても…。「一方の頬を殴られたら、もう一方も」「上着を取られたら下着も」「何もあてにせずに貸せ」「憐れみ深い者になれ」。そう言われても…。

理想はそうかもしれませんが、現実となるとどうなるのでしょうか。私たちはこの言葉の通りに実践できるのか。私自身を考えると、とてもではありませんが実践などできず、不可能だと断言できます。

キリスト者のあるべき姿だと言われると、まっさきに不信仰者、落第者の烙印を押されることになるでしょう。こんなことはできませんと、神に赦しを乞うことしかできない自分を思います。

果たしてイエスの真意がどこにあったのかつかむことが難しいのですが、例えば自分が「敵」をいうものを作っていることを想像する必要が言われているのでしょうか。自分とその「敵」とを分ける。壁や枠を作って人や物事を見ている。自己批判の必要性を問われていることも思います。

キリスト教の教えや博愛といった精神をイエスが強要しているのではないと思います。ただ、観客席に座って物事を見ている自分自身が問われていて、社会の中にある問題性に対して「お前はどこに立っているのか」という問いだと受け取ることができるでしょうか。今この時も「殴られ」「取られ」、「貸してくれ」と叫ぶ声が確かにあることに気づけるでしょうか。 


2019年10月6日  「何を残せるか」

聖書  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ  5章12-22節

「効率優先」「経済優先」のこの時代、人にとって大事なものがどんどん失われ、人としての心もすさんでいるような現実があるのに、それが当たり前になっていることを思わされます。教会自身の姿勢、歩みも、このような社会を批判できない状況にあることを思うのです。

パウロはテサロニケ人の教会にとって何が最も大事なことなのかを、手紙を書き終えるにあたって指摘していると思われます。迫害の中にあって厳しい現実を歩んでいる教会に向けて、互いに助け合って、励まし合って生きることの大切さを訴えています。

世の中がどんな流れになっているとしても、教会が教会として大切にしなければいけないことを教えてくれているのでしょう。現代の私たちの教会にも、問いとして与えられていることだと思います。

教会にはそれぞれ与えられた課題があり、建てられた場所も違います。その土地の文化の中で生きて、地域の課題を担い、地域に仕えるものとして教会は建てられています。

それぞれの場所で、厳しい現実にありながら苦闘している教師や信徒や、教会に集う人たちの姿を思うのです。都会の大教会の論理で片付けることのできない事情も抱えています。テサロニケ人の教会を励ましたパウロの言葉を、私たちの時代の教会も聞き続けなければいけないでしょう。 


2019年9月29日  「今に連なり、未来につなぐ」

聖書  ルカによる福音書6章20-26節

マタイとルカにしかないイエスの有名な言葉です。教会に属する人もそうでない人も、一度はどこかで聞いたことのある言葉でしょうか。

今日の言葉がイエスが語ったとされる語録集の中のものだったとすると、イエスがどんな状況で誰に話したかが明らかではありません。だから著者は状況設定をして物語にするのですが、ルカの場合は今日の言葉をイエスが弟子たちに話したことにしています。

直前の物語ではイエスに必死に触れようとか、話しを聞こうとして「群衆」が集まって来ていたとなっていましたが、ルカが描くイエスは「群衆」ではなく弟子たちに話したことになっています。

果たしてイエスは、今日の言葉を誰に話したのか。「大事な説教だから弟子たちだけに」というわけではなかったでしょう。イエスは当事者に話したと考えるのが筋だと思います。

乞食をするしかなかった人たち。笑うことなどできなかった人たち。貧しさの中で明日のパンもなかった人たちにイエスは話したのでしょう。貧しい人たちが不幸で、富む人たちが幸いだという社会であってはならないと、発言したのでしょう。

私たちの視点がどこに置かれているのかが問われます。神の働きが今、どこにあるのか。心と身体を寄せたいと思うのです。 


2019年9月22日  「無理です」

聖書  ルカによる福音書6章12-19節

弟子を召命したイエスは、彼らの出自や職業、今の情況などまったく問わずに、無条件のまま招きます。イエスの招きの本質が表れている個所だと思います。

一方で、招かれる側から見る視点で読むと、この記事はどんなことを私たちに問いかけるのでしょうか。招く側は無条件・無資格のまま声をかけているのに、招かれる側は何か計算や打算も働くのでしょうか。「資格」がないとして、招きを拒否してしまうのか。もし自分がその立場だとしたら、イエスの招きを拒否してしまうのかもしれません。

数が多かったわけではない。何か特別に能力があるわけでもない。人を惹きつける力があるかと問われれば、それもどうか。私自身の事柄だとすると、神の恵みを人間の目で判断することで拒絶するのかもしれません。

イエスは弟子たちの何人かに渾名をつけていることがうかがえます。この集まりは、それぞれが渾名で呼び合ったりできる雰囲気を作っていたのでしょうか。「12使徒」とのちに呼ばれる集団が、人間同士の温かい交わりの中で生活していたのではないかということから、神の前に何もできないと招きを拒否してしまう自分には、慰めが与えられるような気もします。

イエスの集団は、人間一人ひとりの心に自らの心を寄せていくような働きを目指したと思います。この働きに、自分も参与できるでしょうか。 


2019年9月15日  「周縁」

聖書  ルカによる福音書6章1-11節

律法(規則)を守っているのかどうか監視し、「違反」していると判断すれば弾圧する。この国の戦前の姿にも重なりますし、「日の丸・君が代」での良心的な心を持つ教員への弾圧と同じ構図のような気もします。

人間の必要や心を見ない。イエスが問題にしたのはそのような人間の姿、在り方だと思います。空腹で厳しい環境に置かれたり、病を与えられて苦しんだりしている人間を見ず、イエスを貶めるため、あるいは自分の権力を維持するために律法を利用する。激しい憤りをもってイエスはそのような態度に対峙したのでした。

「手の萎えた人」と出てくる人の病は、慢性的な疾患だったと思いますから、何も安息日に癒すことはなかったのです。別の日でもよかったはずです。しかし、イエスはあえてその日を選んだということでしょう。

人間が目を向けていないことを浮き彫りにするのです。関心を持たずに無視していることをあえて安息日に示し、また、被差別者を「真ん中に立たせて」、見る者の心を喚起させるのです。

「立て。真ん中に立て」。イエスのこの言葉は、私たちが生きる時代の教会、また私たち自身の生き方に問いを与えます。私たちの教会は、礼拝は、何を真ん中に据えているのか。私たちの生き方の中心に置くべきものは何でしょうか。 


2019年9月8日  「形骸」

聖書  ルカによる福音書5章33-39節

「断食問答」と呼ばれる個所ですが、イエスが問題にしているのは断食の規定であれ、律法全体が形骸化していることだったのではないでしょうか。律法自体の精神が人間を生かすものではなく「殺す」ものになっている、「殺す」道具として使われていたことを批判したのです。

婚礼の宴のことを話しています。花婿は神でしょう。そして、花嫁は人間を指していると思います。聖書の伝統でも、花婿は神で花嫁がユダヤ人、あるいはエルサレムを指すというものがあります。イエスの場合は、神が人間を花嫁のように迎えてくれて、共に生きるパートナーとして生かしてくださっているということを言ったのでしょう。

神が人間をそのような大事な存在として迎えてくれているのに、人間同士の関係性においてはどうなのか。イエスの問いはここにあると思います。さらに彼は、ぶどう酒のことも話しています。ぶどう酒は発酵します。成長の「途上」にあるということでしょう。

人間も、誰一人として完璧な者はいません。たえず耕され、人生に新しい意味を与えられながら成長させられています。人間は、「途上」を生きているのです。自分をそのような存在として自覚する必要が言われているのでしょうか。途上にある人間が人間を裁くことへの批判です。

私たちの中にも、イエスによって突き破られるものがあるのでしょう。 


2019年9月1日  「食卓の本質」

聖書  ルカによる福音書5章27-32節

徴税請負人のレビを招く場面です。イエスが考えていた「神の国」「神の支配」の象徴的な場としての「食卓」が行なわれました。他にも「罪人たち」が多くその場にいたという報告ですから、にぎやかな食卓だったのでしょう。

社会から分離され排除されている中で、日常の食事はどんなものだったのでしょうか。食事は命をつなぐもので、心も豊かになり、生きる力を与えられるものです。実際はどうだったのでしょうか。

イエスを囲む、誰もがその場にいていい豊かな食卓だったことでしょう。その人の背景や出自、現在の職業など、何も問われることのない招きの中で行なわれた食事でした。レビの心にはどんな変化があったでしょうか。

ルカは「悔い改めさせるために」イエスが招いたのだという結論にしていますが、果たしてそうでしょうか。「悔い改め」が条件となり、食卓にあずかるための資格だとしたら、いったい誰がそれを判断するのでしょうか。イエスでしょうか。律法主義者でしょうか。キリスト者でしょうか。

すべての人は、それぞれに神に賜物をいただき、個性を与えられて過ごしています。そして圧倒的な赦しの中に置かれていることを思うのです。神が人間とそのような関係でいてくれるとしたら、私たちは人間関係の中でどんな生き方をしていけるのでしょうか。 


2019年8月18日  「問いを担ぐ」

聖書  ルカによる福音書5章12-26節

救いを得るために何か条件が必要で、それをクリアしなければ神の祝福にはあずかれないという理解だったら、イエスの振る舞いはファリサイ派律法主義者たちと同じことになってしまうでしょう。

罪(複数)を清めるために条件・資格が問われ、社会から排除されてしまう存在を生むシステムにイエスは抗ったのでした。神からは、まず「赦し」があることを宣言し、そして病を癒すという彼の振る舞いは、病が罪の結果だという観念を覆していきます。病を癒してから赦す、というのではないのです。

23節のイエスの言葉が印象的です。「人よ、あなたのもろもろの罪は赦されている」。「赦されている」が、過去と現在とを結ぶ現在完了形で書かれていることに注目したいと思いました。

単なる過去の出来事として捉えるのではなくて、過去の事柄を今のこととして、また、自分への課題として結びつけて読むように、促されていると思います。神がもともと「赦している」ものを人間が条件・資格をつけて裁いているようなことがあるとすれば、私たちはその原因を見つめていくように、促されているのです。

イエスからの問いを問いとして受け取り、彼の振る舞いから自分自身の生き方を見つめ直す。物語からそんなきっかけを与えられるでしょうか。 


2019年8月11日  「常識はずれ」

聖書  ルカによる福音書5章1-11節

もし、イエスに従うために何かの条件や資格が問われ、それをクリアしなければいけないのだとしたら、私などはまっさきに不適格の烙印を押されてしまうのでしょう。

気づかないところでも、意識した中でも、他者に迷惑をかけ、しかしそのつど相手に赦され、支えられていることを思います。弟子獲得の記事を読むたびに自分の振る舞いを思い起こし、また他者の心に助けられ、神からの赦しの中に生かされていることを思わされるのです。

相手の背景や仕事や出自などを一切問うことなく、イエスは招きます。「義人」ではなく「不義なる者」というのが「当たり前」の社会の中で、イエスは漁師たちを招くのです。人間が考える「常識」をことごとく覆し、神の目からはどう見えるのかを振る舞いの礎に置いているのでしょう。

この日の漁は失敗です。でも、イエスは「夜の漁」という「常識」を覆し、網を打てと命令します。「大丈夫だから、もう一度やってみろ」という声が、私たちにも聞こえてくるでしょうか。

この世の「常識」に捉われて、その価値観に基づいて、つい他者にレッテルを貼ってしまうような自分自身の在り方も問われています。失敗があっても、限界があっても、それが人間。互いに支え合い、新しい方向性を見つけ合って、助け合っていく歩みに導かれる物語だと思わされました。 


2019年8月4日  「元に戻す」

聖書  イザヤ書2章4節

「剣を鋤とし、槍を鎌とする…」。「平和預言」と言われているこの言葉は、ミカ書4章にも書かれています。ほぼ同時代を生きて活動した2人の預言者によって語られた言葉は、社会の在り方を洞察する人たちに共有されていた思想を表すものだったのでしょうか。

小規模の農民の集合体・連合体だったイスラエル民族は、やがて「約束の地」に定着します。そこで農耕文化が本格的に発展したのでしょう。農耕の発展は、土地や水をさらに必要とし、拡大を図ります。拡大に伴い、先住民族との衝突が起こったのでしょう。

すでに王制だった周辺国家に対して、農民の武器と言えば「鋤」や「鎌」でした。抵抗するため鋤を剣に、鎌を槍に替え王制を取り入れたイスラエル民族は、やがて北と南に分裂し、それぞれ紀元前8世紀と6世紀にアッシリア、バビロニアに滅ぼされます。国家は滅亡したのでした。

預言者はこの事実を目撃して、「平和預言」を語ったのでしょう。人間が人間として生きる礎を忘れた中に厳しい言葉を残したのです。

やがて生まれてきたイエスは、預言者の伝統を引き継いでいたものと思われます。彼は、「人間回復運動」を展開しました。神がお造りになった元の状態に戻すこと。「極めてよかった」状態に戻すことを自分の使命として活動しました。私たちにも出来る「回復運動」はあるはずです。 


2019年7月28日  「人間の自己中心性」

聖書  ルカによる福音書4章38ー44節

ITやAI、車の自動運転…。凡人の私などついていけない世の中になってきましたが、いつの間にかその「便利」さにどっぷり浸かって恩恵にあずかって暮らしている自分は、ふと立ち止まると、その中で何か大事なものを忘れている、忘れてしまったと思わされることが多いのです。

目の前にあるものはみんな魅力的で、今は特に必要ではないことにも思わず手が出てしまう。成長は大切ですが、人間が人間として生きる大事な礎のようなものが揺らいだり、無視したりしている中では、何か虚しい歩みに陥っているような気にもさせられます。

イエスが起こした「奇跡的なもの」には群がるけれども、彼の言葉と振る舞いが引き起こした十字架という場面からは逃げてしまう。「奇跡」や「しるし」には魅力を感じて受け入れるけれども、人間が起こす最も悲惨な行ないからは逃避、無視する。自分自身の在り方に問いを与える物語だと思わされました。

人と人との交わりから排除されていた女性を前にして、「手当て」をした彼の姿を思うのです。人間の温かみのようなものを感じられないことから来る悲しみに、彼は自分を重ね合わせ「手を置いた」のでした。

私たちにとっての「シモンの姑」とは何か。人との関係性においても、自らの生き方においても、何かを忘れている日常を思わされます。 


2019年7月21日  「悪魔の配下の小悪魔」

聖書  ルカによる福音書4章31-37節

ガリラヤ湖畔、北西に位置するカファルナウムという町が、イエスが宣教をスタートした場所であり、宣教活動の拠点でした。ここには、ガリラヤ地方を支配していたヘロデ・アンティパスの軍隊が駐屯していたと言われています。そしてエルサレムという大都市から見れば「辺境」の地。イエスがなぜこの場所を宣教活動の中心にしたのか。この背景から、彼の思いが見えてくるような気がします。

今の時代でも、「中央」とか「中心」と言われる場所はどこなのか。一方で、「辺境」と呼ばれる場所はどこなのか。また、その「辺境」という場所に「中央」から送り込まれてきているモノは何か。「中央」からは現場の声は聞こえず、課題も見えない、あるいは無視ということの現実があることは確かです。

イエスは「人間」が住む場所で宣教をスタートさせ、拠点にしたのでしょう。そこには「人間の声」があり、「人間の真実」があるからです。厳しい困難な課題に自分の身を置き、人としての在り方を出会う人たちと一緒に考え続けたのだと思います。

汚れた悪霊という親分の配下にある小悪魔たちが、会堂にいたとあります。人間を、神との交わりから引き離す勢力でしょう。そのような「小悪魔」は、私たちの時代も、また私たち自身の中にも存在しています。 


2019年7月14日  「おらが村のヨセフのがき」

聖書  ルカによる福音書4章14-30節

新共同訳聖書の翻訳では、この場面の雰囲気が正確に伝わらないような気がします。イエスの故郷ナザレの人たちが、会堂で聖書朗読をする彼の振る舞いを見て「褒め」たり、「口から出る恵み深い言葉」を聞いたり、となっています。故郷の人たちは、彼を「訝しがった」のではないかと想像します。

イエスの一連の行動を見た人たちは、驚き、怒り、そして彼を殺そうと崖まで連れて行ったと書かれています。「近しい人」がいつの間にか「敵」になり、自分たちの「枠」から出るようなことを目撃した時には排除、抹殺、となってしまうのでしょうか。

イザヤ書の「報復預言」の部分を読まず巻物をたたみ、ユダヤ民族主義や選民意識を批判、否定するような聖書の解釈をしたイエスを、故郷の人たちは抹殺しようとしたのです。

イエスは自分自身で「いかなる預言者も、自分の郷里では歓迎されない」と言っています。このような結果になることは分かっていたのでしょうか。覚悟の上での行動だったのでしょうか。

神の、ある「枠」にとどまらない働きがなされていることを語ったのでしょうか。人間が自由に、自分の思いで神を操作する在り方。イエスは神を、そんな思いから解放しようとしたのかもしれません。 


2019年7月7日  「権力と権威」

聖書  ルカによる福音書4章1-13節

「権力と権威の乖離」という文章を新聞で読みました(内山節氏。哲学者・立教大学)。権力は自分の力で獲得しようと思えばできるのですが、権威は、その人となりや生き方や、すぐれた人間性を見て感じて、他者がその人には「権威がある」と判断するものです。

今の政治を見ていると、権力はあるけれども権威はない、と感じることが多いのです。政治の世界だけに限りませんが、「権力と権威の乖離」はいろんな場所で見えることです。

イエスと論争した相手は、聖書に精通していることがうかがえますから、当時の社会の支配者層だったと思われます。「ディアボロス」という言葉が「悪魔」と訳されていますが、「中傷する人」「悪口を言う人」などの意味から、イエスの論敵だったと想像できるでしょうか。

聖書をもとにして「権力」を誇示する者に、イエスも聖書で武装し、抵抗しました。珍しく彼は「相手の土俵」に乗って議論していると思います。ここに、イエスの聖書への向き合い方、神をどう考えていたかが示されていると思わされました。

神を自分の都合に合わせた道具として用いない。聖書の言葉を自分の主義主張の正当性を立証するために自由に用いることをしない。自分というものが常に問われ、また生かされている存在だという態度でしょう。 


2019年6月30日  「誰?」

聖書  ルカによる福音書3章21-38節

歴史を生きたイエスが洗礼を受けた、という事実は、とても大切なことだと思います。私たちと同じように、一人の人間としてまた、一人の信仰者として神の前でどうあるべきかを考え、決断した瞬間だったからです。

洗礼というものを受けて、何か特別なことができるというものではないと思います。自分というものが特別な存在となって、他者と比べて優位性のようなものを持つ者になったというわけでもありません。むしろ、厳しい現実に目を向け、心を向けるように促される、そして無力も感じる。そんな経験が多くなるような気がします。

イエスもまた、私たちのように悩み、しんどさを抱え、神に自分の生き方を報告し、そして弱くても、神の方向を向いた生き方を貫く決心を、ヨハネのもとに行って告白したのでしょう。厳しい現実に置かれた人たちと一緒に怒り、泣き、喜び、笑い合うような生き方・在り方をしていく決意が、彼の受洗の出来事だったと思います。

イエスが洗礼を受けた時に天から声が聞こえたとあります。特に後半の言葉は、「わたしはお前を喜んだ」というものです。結局は虐殺されてしまうような、この世から見れば弱いイエスを、神は「喜んだ」というのです。信仰者たちが残したこの言葉は、私たちをも力づけるのです。特別な何かができない弱い私たちも、神には「喜ばれている」のです。 


2019年6月16日  「真実を掘り起こす」

聖書  ルカによる福音書3章1-20節

ルカでは、バプテスマのヨハネが登場した際、「まむしの子らよ…」に始まる厳しい言葉を語った相手は、「民衆」となっています。マルコにはありませんが、他の福音書では「ファリサイ派」の律法学者や「サドカイ派」になっています。ルカはそれほど「民衆」が気に食わないのでしょうか。「悔い改め」を強調するルカの思いが表れているようです。マルコやヨハネ福音書の著者たちとの視点の違いを感じます。

「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)の「実」が、複数形で語られていることも気になります。「罪」というものが複数あり、自分が今、どれほど「罪深い」のか分からないことから来る不安の中で生きざるを得なくされていた「民衆」に、その複数の罪を清めるための複数の「実」を結ばなければいけないという思想は、どの立ち位置からのものでしょうか。

バプテスマのヨハネにとっても、その弟子になったイエスにとっても、神に対する「罪」は、一つ(単数)だったと思います。そして彼らがもし「悔い改め」というものを語ったとするなら、神への自分の生き方の方向転換を促すものだったと思います。

神に造られた者として、生かされている者としての自分を自覚する。神の調和の中ですべての被造物が生かされるためにできることを考える。そこから、自分自身で出来る具体的業が見えてくると思います。 


2019年6月9日  「『闇』が輝く」

聖書  ルカによる福音書2章22-52節

「光は神から来る。それは、諸民族もイスラエルも共に照らす。光を受けて、それらは鮮明となる。明らかになる」。(32節)。

「そしてあなた自身も、あなたの精神を剣が刺し貫くことになる。それは多くの者の心の想いが明らかとなるためなのです」(35節)。

シメオンなる人物が語ったとされる言葉です。読み違えてしまうと、イスラエル民族優位意識を肯定したり、自分は問いを受けている者とは別ものであるという、どこか偏狭な差別意識を助長したり、聖書からの問いに気づかないことになってしまう恐れがあると思わされました。

イエスという存在が、今まで隠されていたものを明らかにする。「今まで隠されていたもの」とは何でしょうか。それが、光輝くものとなるというのです。さらに、今までの自分の想念が剣で刺し貫かれるようになるというのです。「多くの者」と言われている中に、マリアも含まれる、例外ではないとの言葉です。つまり、「多くの者」の中には、私たち自分自身も入っている、例外ではないというのです。

イエスという存在を通して浮き彫りにされる、自分の心に隠されていることは何でしょうか。自分の中で「異邦人」と位置付けている存在は何か。自分の中で「闇」としているものがイエスに明らかにされる。その時にどうするのか。剣で刺し貫かれるべきは自分自身。厳しい問いです。 


2019年6月2日  「『地の底』から見える平和」

聖書  ルカによる福音書2章1-21節

ヘロデ大王が死ぬ直前にイエスが誕生したということは、歴史的にほぼ確実だと言われています。紀元前4年のことだったということです。この時、ローマの暴君ではなく、神が選んだ指導者を擁立させようとした武装蜂起がパレスティナの地に起こったと言われています。

何度かの暴動が起こされたのでしょうけれども、歴史家のヨセフスによると、ある時の暴動に対してローマは1万8000のエリート軍団と、2000の騎兵隊、さらに1500の補助歩兵隊という軍事力を展開したようです。

イエスの故郷のナザレからほんの数キロの位置にあったセッフォリスというユダヤ人の軍事拠点になっていた町は壊滅状態になったのでしょうか。さらに、戦禍はナザレにも及んだことでしょう。

イエスが誕生した時に母親のマリアは「これらのことをすべて保って、心の中で思い巡らしていた」(19節)とあります。目の前で経験した出来事を、自分の大切な記憶としてしっかりと記憶に保っていた、というのです。

マリアの目の前で起こった出来事とは、故郷の人間たちが戦火に巻き込まれ、命を落としていった風景だと思います。それを彼女はずっと「心の中に保っていた」というのです。クリスマスの出来事を語るこの個所を読む時、「地に平和」を実現するために私たちは何が出来るのか、心に保ちたいと思うのです。 


2019年5月26日  「夜明けの薄明り」

聖書  ルカによる福音書1章57-80節

バプテスマのヨハネが誕生する場面です。高齢のエリザベトとザカリアの二人に子どもが与えられ、有名な「ザカリアの言葉」(ベネディクト)が置かれている個所です。

高齢ゆえに子どもが与えられることに対して、世の常識からすれば当然の答えをしたザカリアは、「口が利けなくなった」とありました。天使の言葉を素直に信じることができないのは当然だったと思います。

教育や宗教の指導的立場にあった祭司のザカリアの口が利けなくなるという物語は、私たち「信仰者」と言われる者はどのように聞くことができるのでしょうか。

人間が持つ価値観というものと、神の価値観をどう捉えるのか。神の価値観に気づき、自分が生かされ恵みを与え続けられている者として自覚した時、ザカリアのように「言葉を語れる」ようになるということでしょうか。

「曙光」。夜明け前の東の空の薄明りは、太陽の到来を予告するものです。バプテスマのヨハネは、「神(太陽)の先駆者」でした。神(太陽)自身の到来を予告する者だという告白です。

曙光は、毎日上がってきます。絶えることなく日々、人間に到来を予告します。神の「常識」は、人間の考えるそれを逆転させます。気づかないことに気づかせます。ヨハネの生き方の神髄がここにあります。 


2019年5月19日  「身体で聴く」

聖書  ルカによる福音書1章39-56節

「マグニフィカート」と呼ばれる個所です。「崇める」「賛美する」などの意味のギリシア語がラテン語訳に移行する時に、「マグニフィカート」と呼ばれるようになりました。

「美しい」言葉が並んでいますが、先週と同じように物語の背後にある、マリアの苦悩や憤りといった心を読み取る作業をしなければいけないと感じます。

特に新共同訳で訳されている「身分の低い」という言葉ですが、「タペイノーシス」というギリシア語が使われています。この言葉は、「性的辱めの意味で使われる言葉」だというのです(山口里子氏)。そうすると、ここでマリアが歌っているのは、「神は、私が受けた辱めを顧みてくださいました」となります。ルカは意図的にか、マリアの信頼のイメージを前面に出すことで、マリア自身の心にある辛さや闘いという厳しい現実から、読者の注意をそらす効果を狙ったのだと、そんなふうに思うのです。

51節から53節には、民族解放の歌が残されています。バプテスマのヨハネの教団が残したものだと思われますが、この歌をマリアの境遇に合わせて読むことが、大切だと思わされました。今あることが「異常」なこと、それは逆転されなければいけない。バプテスマのヨハネも、弟子になったイエスも、そのことを具体化していったのです。 


2019年5月12日  「再び、男は不要」

聖書  ルカによる福音書1章26-38節

クリスマスの時期に読まれる記事の一つで、「美しい」言葉に彩られた、読む者誰もが「信仰深い」マリアの姿を思い起こすものかもしれません。ただ、「美しさ」で装飾しなければいけなかった背後にある事実に、目と心を向けることが必要ではないかと思わされてきました。

「あなたが良い状態でありますように」「あなたの健康が良い状態でありますように祈っています」「神があなたと一緒にいてくださいます」「あなたは、神のもとで恵まれた存在になっているのですよ」。天使がマリアに語りかけた言葉です。

この言葉は、マリアの「今」に必要な言葉だったのではないかと思います。天使の言葉にマリアは「狼狽した」と書かれていますが、突然の挨拶に驚いたと共に、まさか自分が神から恵みをいただき、恵まれた存在とされているとは思ってもみなかった、思えなかった、という態度を浮き彫りにしているような気がします。

物語の背後に、力や暴力、権力に蹂躙されていた人たちの生活の姿があるような気がします。ルカは平穏無事に事を済ませようと努力しているようですが、物語の中に潜む「人間の声」と、力や暴力で支配しようとする「人間の姿」を無視して、「美しい」物語に酔う読み方から解放されたいのです。マリアへの天使の言葉を必要としている人は、今も多く存在します 


2019年5月5日  「諦めと不安と疑いの中に」

聖書  ルカによる福音書1章5-25節

神が、いかに人間の生に圧倒的に、徹底的に関わっておられることが示されている記事だと思います。人間には諦めや疑い、絶望の心が支配する出来事が起こります。どうしようもない「力」に、抗うこともできなくされることも多いのです。この記事は、そんな私たち人間に希望を与えるものなのでしょうか。

バプテスマのヨハネの誕生にまつわるこの記事は、ヨハネの共同体が残した伝承だったかもしれません。彼の活動は、いわゆる「民衆」にとっては魅力的なものだったでしょう。「罪」というものがカウントされる社会で、自分はいったいどのくらい「罪深い」のか分からず不安になる中、ヨルダン川での「浸礼」によって清められるというのです。人々がヨハネのもとに殺到した姿も想像できます。

ヨハネにも限界があったでしょう。しかし、彼は人間の生き方を、神の方向に向けさせる運動を展開したと思います。ですから、彼が実践した「メタノイア」は、「悔い改め」ではなく「回心」だったと思います。神を中心にした生き方に「方向転換」するのが、彼の「浸礼」です。

「浸礼」が救いのための「条件」なら、また被差別者を生み出すことになるでしょう。諦め、疑い、絶望の中にも、神は無条件に、徹底して人間の生に関わっておられる。希望はそこにあると思うのです。 


2019年4月28日  「キリスト教は危険か」

聖書  ルカによる福音書1章1-4節

「福音書」という文学ジャンルの作品を書くにあたって、ルカは手元にマルコ福音書と自分で集めたイエスに関する資料、さらにマタイと共通する資料を持っていたと言われています。相当な高い教育(ヘレニズム文化)を受けていたとされるルカは、これらの資料をもとにしてイエスの生涯を書き記していったのでした。また、続く下巻として、「使徒言行録」という作品も残しました。

冒頭の「献呈の言葉」からして、マルコ福音書への批判がうかがえるようです。今までのこの仕事はあまり評価できるものではないから、自分が書く、と言っているようです。「今までの仕事」は、マルコを指すのでしょう。そして、「テオフィロス閣下」という人物はすでにキリスト者になっていると読み込めますが、自分の福音書を読んでキリスト教が「ローマにとっては危険なものではない」ことを知ってほしいと言うのです。マルコの「鋭さ」は、後退させられている気がします。

対外的にはローマに対して。対内的には教会に対して思いを込めて書いたのでしょう。批判的作業をしながら読んでいくことになりますが、ルカにだけしかない(またはマタイと共通したもの)物語もあって、大事な資料が残されていると思います。来週の「バプテスマのヨハネの誕生物語」もその一つです。ルカが残した思想を、来週から共に味わいたいと思います。 


2019年4月21日  「どっこいしょ」

聖書  ヨハネによる福音書14章27、31節

昨年9月に亡くなった女優の樹木希林さんの著書のほとんどが、ベストセラーになっているようです。あくせくと生活している(せざるを得ない)この社会の人の心の中に、何か問いかけるものがあるのでしょう。気づかない何か、忘れてしまっている何か、自分というものを肯定していいというメッセージ…。人の心を撃つから、多くの人に読まれているのではないかと感じます。私も1冊だけですが、一気に読了しました。

イエスにも限界があり、その限界と向き合って闘ったこと。彼に最後まで従っていった女性の中の一人、マグダラのマリアも墓で泣くしかなかった姿。ヨハネの最後の描写は、そんな人間をも底なしの赦しと恵みで包む込む神の存在を示しているようです。

底なしの赦しと恵みを与えるエネルギーを神と認識し、一貫して信頼して生きたイエス。そのイエスの姿を見て、おそらく原始教会の礎を作っていく重要な働きをした女性たち。女性たちにとって、イエスの信仰と、彼が生きた姿に新しく出会ったことが、イースターだったのではないでしょうか。弱い自分というものが肯定され、生かされていることを思い、その恵みに応えることに促される出会いや経験が、イースターなのです。

小さい群れでも、弱くて十分な力が出なくても、イエスやマリアがそうであったように赦され生かされていることを思い起こしたいと思いました。 


2019年4月14日  「私は見ました」

聖書  ヨハネによる福音書20章1-18節

没落させられてしまっている故郷のガリラヤの民衆を見る中で、イエスはどのような思いを持っていたのでしょうか。自分は大工として石工として生活を成り立たせることができるのでしょうけれども、感性鋭い彼は、民衆に対して「負い目」を感じていたのではないでしょうか。

また、家族に対しても「罪悪感」を持っていたのではないかと思わされます。いくら自分に与えられた使命だと感じたとしても、今まで自分を養い育ててくれた家族を捨てて宣教活動に出たのです。

しかしある時から彼は、そんな自分の「負い目」や「罪意識」をすべて包み込んでしまうようなエネルギーを感じ、それを「神」と認識したのではないかと思わされるのです。自分という限界ある人間を、圧倒的なエネルギーで赦し、包み込む。彼はそれを「父よ」と認識し、生かされている者として徹底的に信頼したのでした。

このイエスの「闘い」を考えない所で教会という集まりが動いているのだとしたら、同じように心に傷を抱えたり、課題の中で不安を抱えたりしている者とどのように共に生き、寄り添うことができるのか。ヨハネ福音書を読み終えるにあたって、改めて思わされたことでした。

ヨハネは徹底して権力批判を展開したと思います。批判の対象に、現代の教会も、私たちの生き方も含まれていることを自覚したいと思いました。 


2019年4月7日  「名誉ある埋葬」

聖書  ヨハネによる福音書19章31-42節

沖縄戦で命を落とした人たちの遺骨を収集するボランティア団体「ガマフヤー」の代表・具志堅隆松さんの著書『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』(合同出版)の購読をおすすめします。

「艦砲ぬ喰えーぬくさー」(艦砲射撃の生き残り)の心が生み出す、沖縄の人たちの慰霊・追悼の姿の一つが、このような形で続けられていることに出会えるものです。また、本人や遺族への追悼と同時に、こういう事実があったことを世に知らしめ、戦争というものがいかに愚かな、蛮行であることをも訴えるものです。

ヨハネが描く、イエスを埋葬する場面を読んで、具志堅さんたちの心と活動を思い起こしました。「ガマフヤー」の働きは、「沈黙している」「沈黙させられている」声を、掘り起こしています。「沈黙」の中に、私たちが受け取らなければいけない大事な声が潜んでいるのです。

イエスは十字架に向かう時、何も語りませんでした。まるで、ガリラヤの民衆の「沈黙の声」を体現しているように思えます。「沈黙」の中にこそ、人間の尊厳があることを最後まで訴えていく、一貫した彼の姿勢がうかがえるように思えます。

私たちの今の時代、「沈黙の中にある人間の尊厳」はどこにあるか、掘り起こすべき「沈黙の声」はたくさんあることに気づかされます。