2019年3月31日  「あなたの子  あなたの母」

聖書  ヨハネによる福音書19章16節b-30節

教会の教義(ドグマ)を挿入した「編集者」たちの思惑(23-24節、28節)とはまったく別のところにある著者ヨハネの思いを汲み取りたいと思います。

「イエスが愛していた弟子」という存在が気になります。この「人」は13章からの食事の場面と、20章の墓の場面にも登場しますが、実在の人物なのか架空の存在なのか、いろいろと議論されてきたようです。

ヨハネは、十字架上からイエスが女性たちに語りかけるという書き方をしていますが、ここから想像すると「イエスが愛していた弟子」というのは、女性たちを指すのではないかと思わされました。

ここにいたのはイエスの母マリアと、その姉妹であるクロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアであったと書かれています。イエスの十字架上の言葉「これがあなたの子」「これがあなたの母」は、目の前にいた女性たちに語ったものだという理解に導かれます。

ヨハネの思いとしては、男の弟子たちはみんな逃亡した時に、最後までイエスのもとにいたのは女性たちだったということを強調しているのでしょうか。その後、逃げた男たちが「教会」を作るのです。

教会の礎を作ったのは逃亡した男たちではなく、イエスに最後まで従っていた女性たちの振る舞いにあると、ヨハネは語ったのかもしれません。 



2019年3月24日  「拝啓、王様」

聖書  ヨハネによる福音書19章1-16節a

キリスト教がどんなに神学を展開してイエスの死を美化しようとしても、彼が最も悲惨な、凄惨な十字架刑という方法で虐殺された姿を、誤魔化してはいけないと思います。取り押さえた人間たちからは「ユダヤ人どもの王様、ごきげんうるわしゅう」(岩波訳)と罵られ、鞭打たれ、茨で作った冠をかぶせられ、頬を打たれ、虐待されているのです。

イエスの死を美化して他人事のように見るのではなく、この場面に登場する誰に自分の姿を見出すことができるのかを考えることが大切だと思います。群衆か、兵士たちか、祭司長たちか、ピラトか…。

いざという時には責任を持つことを回避する姿を見ることができるでしょうか。バラバという「力」や「暴力」で物事に対処していく在り方を批判する方向に促されているのでしょうか。今の「ネトウヨ」のように、自分を安全な場所に置いて、邪魔者を攻撃・排除しているようなことも見えるのかもしれません。

すべての人間がそれぞれの背景がありながら、イエスを抹殺するという目的では一致しています。しかし、イエスは何も語りません。神も沈黙しています。私たちは、現代において「沈黙」の中にある神の声、神の正義を抹殺していることを思わされます。自分の考えや振る舞いで、声なき声の中にある神の思いを押しつぶしていることを、思わされるのです。 


2019年3月17日  「何をしたのか」

聖書  ヨハネによる福音書18章28-40節

他の福音書と違って、ヨハネはイエスの逮捕、尋問、裁判、十字架の出来事を、ユダヤ教の過越し祭の前日だったと書いています(過越し祭については、出エジプト記12章、レビ記23章4-8節、申命記16章1-8節参照)。

キリスト教はのちに、聖餐式という儀式をユダヤ教の過越し祭における食事に代わるものという神学を生みました。また、過越しの食事のために屠られる犠牲のための小羊に代わって、イエスを人間の救いのために神に献げられた犠牲の死を遂げた羊である、という神学も生み出します。

ヨハネ以外の福音書は、この神学を土台として(意識しているか、意識していないかは著者たちによって違うと思いますが)イエスの受難物語を記していると考えられます。ところがヨハネは、過越し祭の前日がイエスの受難の日であったと書いているということは、彼は教会の神学に捉われずにイエスの最後の姿を見ていたと思われます。

人間が神のように振る舞う姿。人間が人間を支配する社会。バラバを選ぶこと。これらの宗教・社会を批判しつつ、ヨハネは権力に代わる新しい権力をまた得ようとしているキリスト教会をも批判しているのではないかと思わされるのです。「イエスはいったい何をしたのか」を改めて考えていく視点が、今を生きる私たちには求められていると思います。 


2019年3月10日  「責任」

聖書  ヨハネによる福音書18章12-27節

カトリック初代教皇であり、原始キリスト教会の最高指導者の一人であり、イエスの直弟子であり、その筆頭であったペトロがイエスを否認する記事は、教会にとってまことに都合の悪いものだったと思われます。

その記事を、ヨハネを含む福音書の著者すべてが書き残しています。それぞれの思惑があってのことだと思いますが、特にヨハネとマルコは、人間とはいかなるものかということを示したかったのだと想像します。

イエスは誰か、と問われれば「キリストだ」と答えることにはそれほど困難は伴わないと思います。ただお題目のように答えることも可能だからです。何ゆえキリストなのかを問うことなしには、簡単に答えられます。

一方で、「お前はイエスの弟子か」と問われた時には、「そうだ」とは簡単には答えることができないことを思わされます。その答えを出すには、自分の責任というものが問われることになるからです。

ペトロの振る舞いを責めることは簡単ですが、他人事ではなくて自分のこととして捉えた時にどうなるのか。ヨハネもマルコも、そんな視点で問いを与えてくれたのかなと感じています。

私たちは「お前はイエスの弟子か」と問われて、「いや、違う」としか答えられない振る舞いばかりなのかもしれません。それでもイエスが、後に従うことを許してくださることに、希望があるのでしょう。 


2019年3月3日  「剣」

聖書  ヨハネによる福音書18章1-11節

一人の人間を逮捕するために一隊(600人)ものローマの歩兵隊を派遣し、さらにユダヤ議会の下役たちがいたというのです。ヨハネの書き方からすると、実際にこのような規模の出来事だったのかもしれません。

しかし、逮捕に来た人間たちが被疑者を知らなかったというのも不思議です。ローマの兵士たちがイエスを知らなかったというのは事実かもしれませんが、象徴的に読む必要もあります。

軍隊ですから、武器を携帯していたことでしょう。そういった人間たちは、イエスのことを「知らなかった」のです。「誰を探しているのか」「ナザレのイエスだ」「私だ」。ヨハネはこの問答を2度、繰り返し書いています。武力で人間を制圧する、抑圧する、弾圧する。そこからは、「ナザレのイエス」の本質を理解することはできないということを、強調しているのでしょう。

さらに、ペトロが下役に斬りかかって耳を落とした、とあります。武器には武器。暴力には暴力で抵抗。人間に向き合う時にそのような振る舞いは「さやに納めろ」と言っているのでしょう。そんな生き方を「納めろ」と。

自分の熱心さとか善意と思っていることが結果的に自分本位のものだとしたら、それは「剣」となります。イエスを守っているつもりで自己中心に陥っています。「剣」からはイエスの本質は見えません。 


2019年2月17日  「祈りを生きる」

聖書  ヨハネによる福音書17章1-26節

ヨハネ以外の福音書では、イエスが逮捕前にゲツセマネ、あるいはオリーブ山で祈ったという記事を載せています。ヨハネにその記事がないことで、編集者たちは今日の「イエスの祈り」と中見出しがつけられている記事を書き、挿入したのでしょうか。

編集者たち自身のドグマ(教義)を展開しながら、主語をイエス(わたしは)にしているこの記事の中身を、注意して読む必要があると思います。

気を付けなければいけないことは、編集者たちが展開しているドグマが「イエスの言葉(祈り)」として語られていて、自分たちの主張とイエスの思いを同一視していることの姿勢です。自分たちの考え・自分たちの行動に過ぎないことを、イエス自身の考え・イエスが自分たちを通じて働くのだと、彼と自分たちを同一視していることを思うのです。

イエスの名において語ることで、自分たちの行動や言葉を権威づけていること、絶対化していることを思うのです。イエスの思いと振る舞いをこれからも「私たちは」継承していきます、という告白ではないのです。

祈りは私たち人間が、神に対して告白するものです。私たち自身が神となり、自身の思いを絶対化するようなものが祈りではないと思います。人間はあくまでも神に造られた者で、神に思いを告白することしかできないのです。ゲツセマネやオリーブ山で、あるいはことあるごとに一人で祈っていたイエスの祈りは、神を信頼した心からの叫びだったと思います。 


2019年2月10日  「無条件の愛」

聖書  ヨハネによる福音書16章4節b-33節

イエス亡き後に「弁護者」、つまり聖霊が神のもとから送られて来て、「罪」について語り、「義」や「裁き」について世を糾弾すると言われています。著者ヨハネではなく最終編集者たちの、自分の立場からの「イエスの最後の説教」なのでしょう。ある種、「自慢」のように聞こえます。

イエスの最後の場面(逮捕前)を、福音書記者たちはどのように描いているのでしょうか。彼らは、多少の違いがありながらも、イエスが祈っていたことを描いています。ゲツセマネ、あるいはオリーブ山となっています。

編集者たちが描いた「裁き」の到来ではなくて、イエスが徹底的に最後まで神と対話し、自分が去った後にも神の支えがあるように、底辺で生きざるを得なくされていた人たちのことを祈ったのだと思います。

「さあ、ここから出て行こう」「立て、さあ、外へ行こう」というのが、イエスの最後の言葉だったと、福音書には書かれています。「外へ行こう」という言葉は、一人で行け、というものではなくて、一緒に行こうというものです。イエスは、「神は決して、みんなのことを一人にはしない」と、ずっと持ち続けてきた信仰を示してくれたのだと思うのです。

著者ヨハネは、今までずっと、イエスを通して神が見えると言ってきました。イエスのこの最後の振る舞いは、神が人間を無条件で愛するということを示しています。別れの時に、これほど人を励まし、力づける言葉はないのではないでしょうか。 


2019年2月3日  「神を解放する」

聖書  ヨハネによる福音書15章18節-16章4節a

人間は人間に帰属しているものではなくて、人間は神に帰属し、命を生かされています。イエスはその生涯において、このことを最も大切なこととして振る舞われたのではないかと感じています。

人間はそのようなものでありながら、自らの都合にあわせて、自由に神を使っていることに気づかせる記事だと思います。最終編集者たちは、ここに教会のドグマ(教義)を置いて、「正統である神」を信じる自らの立場を展開しています。「正統」か「異端」か。「自分の神」と「他者の神」。神に帰属する人間が問うべきものではないと感じるのです。

神を「限定されたもの」として捉えています。自分と親しい者、近しい人、仲間同士…。その関係性の中だけで存在する神が、イエスが信じた神ではないと思います。

彼が信じた神は、人間を愛し、条件も資格も問わずに祝福する存在です。それゆえに、人間を分け隔てるものを否定、克服しようとしたイエスは、神を「限定されたもの」とはしないで、人間にとことん寄り添う「不変の愛を注ぐ存在」こそが、神であると信じたのです。

イエスが信じた神を、人間は「限定されたもの」として捉えていることを思います。この神を、解放しなければいけないと感じています。限定することからは、「正統」や「異端」、区別、差別、争いが起こります(現実に起こっています)。 


2019年1月27日  「命を前にして」

聖書  ヨハネによる福音書15章1-17節

イエスが「ぶどうの木」。キリスト信者がその「枝」。木につながっていれば栄養も十分いただけて養われる。イエスにつながっていよう。

ヨハネ福音書の中でも有名な言葉だと思います。それでも私には、どこか冷たい言葉のように感じます。福音書に教会のドグマを挿入した編集者たちが、この言葉を使って「異端排除」の思想を展開しているからです。

ここでは「枝」である信者が「実を結ぶかどうか」が問われていて、「実を結ばなかった信者は切って捨てられる」という脅しの言葉にも聞こえます。「正統主義」の教会のドグマを信奉しない者は捨てられるという排除の思想を読み取る必要があると思います。

ぶどうの木の剪定の場面を想像しているのでしょうか。しかし剪定は、実がなる前に枝の数を制限して、残っている枝に栄養が十分にまわるようにするのですが、ここでは枝は切られ、切られてから「実を結ばなかったから切ったのだ」と断罪されることになっています。私が「枝」なら、一体どうしたらいいのか分からなくなります。生前のイエスの信仰から、このような解釈が生まれるのでしょうか。

「野の花、空の鳥を見ろ」と言ったイエスの信仰は、神が条件なしで人間を愛されるというものでした。もし「実を結ばない」可能性があるとしても、神はじっと見守ってくれていると信じます。排除、区別を生み出すことが、神がお造りになった人間の生き方ではないはずです。 


2019年1月20日  「『平和』に抵抗する平和」

聖書  ヨハネによる福音書14章15-31節

困難な課題に直面する時もあり、病を得ることもあります。また、いろいろな意味で孤独を経験することもあります。人間は、そんな時に一人ですべて解決できるような強い者ではありません。

悲惨なことは、このような時にどんな助けも与えられないことで、困窮を乗り越えていく時には、何かしらの助けが必要です。ヨハネのイエスは最後に、「助け手」が与えられると語っています。自分の行く末をすでに確信していたと思いますが、残される人間たちの不安に応えた発言だったのでしょうか。

イエスが弟子たちを宣教の旅に送り出す時にも、彼は托鉢の袋も着替えも持っていくなと言いながら、二人で出かけろと言っていました。信仰の友を携えて行け、というのです。

これから味わう困難は、一人で背負うものではない。互いに思い合って、支え合って行けという思いでしょう。また反対に、喜びは分かち合うことで、より強く、深いものになるのでしょう。

ヨハネのイエスが弟子たちに語った最後の言葉は、「さあ、立て、外に出かけよう」(31節)でした。この言葉も、一人で勝手に行け、というのではなくて、「一緒に出掛けよう」というものです。

「外」には困難がたくさんあるでしょう。イエスの「道」を歩むことには、多くの困難があります。しかし「助け手」とイエスが一緒にいます。 


2019年1月13日  「命を見る目を」

聖書  ヨハネによる福音書14章1-14節

ヨハネのイエスの遺言とも言える個所です。人生の最後かもしれないと思う時に、人はどんな言葉を語るのでしょうか。ここぞ、と思った時に発せられた言葉を、自分は聞いているのか。また、自分自身が日常から本物の言葉を使っているのかどうかも、考えさせられます。

イエスは語りました。「私の父の家には住む所がたくさんある」。「モネー」という言葉は、「きちんと整えられた場所」だということを教えられました。粗末な空間ではありません。立派に整えられた場所が、私たちには用意されているというのです。

さらにイエスは、「もしその場所がないなら、私が行って用意すると言ったが、そんな必要はない。私は行かない」とも言っています。特定の人間だけでなく、人には神の住まいの中に整えられた滞在場所が永遠に保証されていると語るのです。安心していていい、と言うのです。

厳しい道があっても、神の住まいに私たちの滞在場所があるのです。イエスの「道」を歩むことは困難が伴いますが、その道にこそ神の働きがあることを見つめたいと思います。

フィリッポスが「神を見せてくれたら十分だ」(8節)と言いますが、イエスの「道」を避けたい思いを象徴していると思います。できれば避けたい。私自身の心も問われていると感じます。滞在場所が用意されていることに励まされて、イエスの「道」を歩きたいと思うのです。 


2019年1月6日  「海が泣いています」

聖書  ヨハネによる福音書13章31-38節

元の沖縄県知事だった仲井眞氏が辺野古の埋め立てを承認してから5年が経ちました。官邸の甘い言葉に乗せられて、「いい正月を迎えられそうだ」と発言してから5年です。彼は今も同じ言葉を繰り返すことができるのでしょうか。

キャンプシュワブのゲート前で座り込んでいる人たちのことを思います。そして、昨年の暮れからは土砂搬入の港にも集まり、抗議の声を上げている人たちのことを思います。海上で、海保の弾圧の中でもカヌーを漕ぎ、船を操縦している人たちのことを思います。

「あなた方は、今は私のところに来ることができない」。8章にもあったこの言葉は、空間的な場所ではありません。イエスの真理、イエス自身のことを言っていると思います。真理を理解できない者は、イエスの所には行けない。自分の心にも迫ってくる言葉です。

真理そのものを体現している沖縄の人たちの姿を、本当に自分のこととして理解できない私にも、鶏が鳴かなければいけないのでしょう。真理の声を黙殺して、口では「信じます」と言いながら自分を安全な場所に置くことが浮き彫りにされるような記事だと思います。

歴史を生きたイエスは、それまでになかった出来事を起こして、「当たり前」のことだったものを否定・克服しようとしました。命を生かす新しい出来事を起こす働きが、少しでも出来ますように。海が泣いています。 


2018年12月30日  「誰の心の中にも」

聖書  ヨハネによる福音書13章21-30節

イスカリオテ人ユダのことが何度も出てきて考えさせられますが、イエスを「裏切った」人として理解することに、どうしても違和感があります。福音書を訳したり、「聖書」を読む人たち、教会に集まる人たちは、ユダと何か違うのでしょうか。

私は自分の位置を思います。ユダを「裏切り者」として捉えて、自分はどこか違う場所に立って物語を眺めているのではないか、と。

「ユダに関する文書のグロテスクさは目をおおうほどである。しかし、イエスを三度否んだペトロと、イエスを敵に『売った』ユダの差は、どれほどもありはしない。一方が後日聖人として扱われ、他方が悪魔と等値されるのは全く不当なことである。思うに、ユダは当初から直弟子たちの、そしてやがてキリスト教一般にとっての、影の存在と化したのである。つまり、キリスト教信徒の隠れた自己の姿である。原始キリスト教は、このユダの姿を自らの姿として鮮明に認知できず、表だっては彼を断罪する方向に傾いていったところに、その悲しい錯誤と限界があったのである。その傾向は、中世を通して現在にまで至っている」(佐藤研)。

人間には限界があるのに、それを隠して自己を正当化していくことを思います。区別や差別を生み出して「敵」や「罪人」を作ってレッテルを貼り、自分を他と違うものとして安心する。人間とは何者なのでしょう。(参照・『人間の暗闇』『アイヒマン調書』『戦争と罪責』いずれも岩波書店) 


2018年12月23日  「片隅」

聖書  エレミヤ書7章1-6節、9章22-23節

自戒を含めて、祈り、礼拝し、行動するという本来の教会の務めが行なわれているのかどうか、考えさせられる今年のクリスマスになりました。

特にこの時期に読まれる「クリスマス物語」が、私たちの世界・社会にある課題から目を背けさせるような読み方、あるいは関心を呼び起こさない捉え方がなされていることを強く感じます。

教会という場所は、社会とは別の所にあるのでしょうか。集まる一人ひとりは、社会を構成している人間であり、社会に責任を持つ存在であるはずなのに、そこにある課題には関わることを避ける、関わりを持とうとしないことが、「教会のあるべき姿・クリスチャンの姿」とされていることが多いのではないかと思わされています。

イエス誕生物語に込められた思いは、困難な環境に置かれている人間の、その環境を作り出しているものに対しての批判精神から生まれたものだと思います。さらに、困難な環境に置かれた人に、必ず神の憐れみと慈しみがあることの希望を与えるものだったと思います。

今、私たちの社会の中で、マリアが経験したような困難を生きている人の姿を、私たちはどう見るのでしょうか。「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言いながら、弱者を生み、差別・抑圧の働きを見過ごし、または助長してしまう教会の在り方を、改めて捉え直す必要があるのではないかと思わされています。 


2018年12月16日  「『地の底』への視点」

聖書  ヨハネによる福音書13章1-20節

1952年4月28日の出来事に対して、沖縄はこの日を「屈辱の日」としています。そして今年12月14日は、新しい「屈辱の日」になりました。辺野古の現場で声を上げている人たちがいるのに、何もできない自分がもどかしいのです。せめて、この「屈辱」を心に刻みたいと思います。

「もし私が、あなたを洗わないのなら、あなたは私と関係がないことになる」(8節)。イエスがペトロの足を洗おうとすると、ペトロは拒否したと書かれています。

「関係がないことになる」。つまり、イエスのごとき生き方を拒否することになるというのです。ペトロと自分自身の姿を重ね合わせることができるでしょうか。イエスの生き方に連なる生き方をしていくことには困難が伴います。それでも、連なっていきたいのです。

「関係がなくなる」とはもう一つ、イエスという存在を抜きにしてもかまわない、神という存在がなくても自分の命を生きているという、人間の傲慢の姿を浮き彫りにする言葉だと思います。

常識的に考えると、イエスが足を洗ってもらう立場です。しかし、彼が洗ったのです。神は私たちが何かをする前からすでに働き、恵みを与え、生かしているのです。

生かされている者として、人間はすべての命を尊重して守る責任があります。 


2018年12月9日  「新しい芽を」

聖書  ヨハネによる福音書12章20-50節

「父よ、あなたの名を栄光化してください」(28節)。これは、私たちが祈っている「主の祈り」の最初の言葉につながります。「父よ、御名が聖とされますように」(父よ、御名があがめられますように)。

「御名が聖とされますように」とは、「あなたの名前があがめられるように」という願いで、「神の名が神の名としてあがめられるような世の中にならなければならない」というものだと思います。

この言葉を語りながらイエスはさらに言います。「私はこのために来たのだ」。つまり、「神の名が聖なる名としてあがめられるような社会にならなければならない。それを伝えることが自分の使命であり、現在化することが自分の生き方であり、自分の生涯なのだ」と言っています。

イエスのこの発言の後、天から声がしたと言います。「私はすでに栄光化した。これからも栄光化するだろう」。

これからやるよ、ではなくて、神はすでに「栄光化した」というのです。すでに神は神としての働きをしていて、それをずっと続けていくだろうというのです。

絶望的にも見える社会の姿や、自分も含めた人間の振る舞いを前にして、永遠というスパンで考えると一瞬のような人間の生涯なのに神は生かし、生かし続けてくださることを思います。その人間ができることは、栄光化し続ける神の働きを、神の名のもとに残し続けていくことです。 


2018年12月2日  「日常性の主」

聖書  ヨハネによる福音書12章12-19節

馬には何の罪もありませんが、古代における戦争では戦車としての役目に使われました。馬に乗り戦争に出かけ、凱旋する王を歓呼して迎えた民衆にとって、その姿は誇らしいものだったでしょう。馬は戦いの象徴であり、戦いに勝つことで「平和」の象徴でもあったでしょう。

力や権力、暴力を伴う戦争で使われた馬ではなく、小さく、弱く、人間の日常と共にいた動物、ロバに乗ってイエスはエルサレムという権力の中枢に入って行ったのでした。彼の一貫した思いが表れているようです。

イエスのこの姿を思いながら、自分自身の振る舞いを問わざるを得ません。自分はロバに乗っているつもりで実は馬に乗っているような日々を送っているのではないかと。

戦争とは、自分と他者を区別し、排除し、抹殺します。そして、相手が培ってきた生活の基層とも言うべきものを破壊し尽します。ようするに、自分を正当化、絶対化する所から生まれるものです。

そう考えると、具体的な戦闘行為としての戦争には加担していないとしても、他者を排除し抹殺するところで自分を正当化、絶対化する自分の日常の振る舞いは、「戦争」行為の中にあることを思わされるのです。

絶望的なこの自分の振る舞いをどうやって克服していけるのか。問いから逃げなかったイエスのように、問いを問い続けていくことからしか、戦争・「戦争」を生まない思想は作れないと思うのです。 


2018年11月25日  「反響」

聖書  ヨハネによる福音書11章45節-12章11節

収穫感謝のこの日に、かつてイエスが語った「空の鳥を見よ、野の花を見よ」との言葉が思い起こされます。私たちが生きる今は「コンピューターの画像を見よ」でしょうか。

私の仕事部屋からは、鳥の姿や声が聞こえ、木々のうつろいが感じられます。満員電車に揺られ会社の激務の中にいる方々には申し訳なく、みんなの一日が無事でありますようにと祈る日々です。

イエスが言ったように、自然に生きる命一つひとつが神の支配の中にあることを思います。日々の生活の中で意識しないでいることの中にも、確かに神の働きがあることを思うのです。日常の、目の前に、いくつもの命が生かされ、生きています。

自分の価値基準に照らし合わせ、抹殺しなければならない命というものは何のことでしょうか。イエスと共に、ラザロまでもなき者のしようと「決議された」とあります。神の道は、人間にとって抹殺しなければならないようなものなのでしょうか。

いつも人間の側からの視点で物事を見ている自分は、アイヌの自然観に批判されます。アイヌの視点はアイヌ(人間)からではなく自然(神・神々・命)からのものです。見過ごしがちな神・神々の働きに、心して耳を傾ける。これは、「物質万能」「能力主義」「おごりの思想」にある人間への警鐘だと、解説者の言葉がありました。 


2018年11月18日  「イエス(キリスト教)との対決   軍配はマルタ」

聖書  ヨハネによる福音書11章17-44節

キリスト教VSマルタ・マリアム連合、といった図式です。キリスト教のドグマ(教義)として描かれている「イエス」は、連合軍に惨敗します。一人の人間(弟)の死を前にした魂をかけた言葉に対して、イエス(ドグマ)は圧倒されているのです。

人間の魂をかけた言葉や願いに対して、教会という場所はどんな応答ができるのでしょうか。死を目前にしている人に対して、届く言葉と振る舞いを持っているでしょうか。死を迎えた人と残された人に対して、「あなたの弟は復活する」との言葉は、何か意味があるのでしょうか。

人間としての最低限の願いさえも踏みにじられて来た人に対して、「求めよ、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」との聖書の言葉は、どんな働きがなされるのでしょうか。

人間としての自分の位置をどこに置くか。ヨハネは一連の議論の後に描いてくれています。興奮して憤ったイエスの姿。また、涙を流すイエスの姿。さらに、ラザロの墓に行って「石を取り除けろ」と言ったイエスの姿です。

人間を人間として扱わない「力」に憤るイエスの姿。人間の命が終わった時に、自然の感情として涙を流すイエスの姿。死と生との境にしている区別や差別の象徴としての「石」を、「取り除けろ」と言ったイエスの姿。

問われるべきは、教会自身の姿勢です。 


2018年11月11日  「『死』から『生』へ」

聖書  ヨハネによる福音書11章1-16節

「体は殺しても、魂(生命)を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10章28節)。ヨハネはマタイの言葉を知っていたのでしょうか。

著者ヨハネは、ラザロの病気は「死に至るものではない」と書いています。逆に言えば、ヨハネは「死に至る病」とはどういうものだと考えていたのでしょうか。マタイの言葉を知っていたのだとすると、本当に人間を死に至らせるのは「神の方向を向いていない状態」、また「真に恐れるべき存在とは何か」を言いたかったのではないかと思います。

この言葉を自分自身にあてはめてみると、「死に至る病」から自由というわけでは決してないでしょう。「死に至る健康状態」にあると言ってもいいと思います。

単なる「言葉」ではなく、生きた言葉としてイエスの言葉が迫ってくるようです。彼はかつて「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人だ」と言いました。自分自身、今日の言葉と合わせて「お前は本当に健康なのか」と問われているような気がします。

神の目から見れば、自分自身の在り方は「重篤な状態」なのかもしれません。そのことを自覚しつつ、イエスにたえず「起こされている」ことを思うのです。ラザロのように、私たちも「起こされます」。起こされた私たちは、神の方向を向いた働きのために派遣されていきます。 


2018年11月4日  「声を聞く」

聖書  ヨハネによる福音書10章22-42節

論争記事もそろそろ終わりつつあります。事態は緊迫しています。ユダヤ人たちはなんとかしてイエスを殺そうとして、石を取り上げ、撃とうとしたと書かれています。現実に自分の命が狙われるという事態は、どのようなものなのでしょうか。

彼がかつての師であるバプテスマのヨハネとの出会いの場所に行った、という記事が心に残りました。故郷のナザレを出てイエスが行った所はヨハネが洗礼運動をしていた場所であり、彼はヨハネから洗礼を受けています。そして一時期、ヨハネの弟子になりました。

厳しい日々の中、イエスは師との出会いの場所に行って、自らの振る舞いを振り返り、また、これから為すべきことを考えていたのでしょうか。死者と向き合い、師の声を聞き、自分の意志の原点のようなものを確認したのでしょうか。

人間イエスの苦悩の姿が見えるようです。彼も私たちと同じように悩み、苦しみ、行き詰ることもあったと思います。ヨハネとの会話は、彼に新しい力を与えたのかもしれません。

ファリサイ派たちは、「お前はキリストなのか」と何度も聞きます。しかしイエスは明確に答えることはしません。なにゆえ「キリスト」なのかの理解が違っていたのでしょう。「キリスト」という存在があるとすれば、悩み、苦しみ、行き詰る場所に「ある」ものなのでしょう。 


2018年10月28日  「囲いの内と外」

聖書  ヨハネによる福音書10章1-21節

ヨハネは、羊飼いや農家の日々の営みを見ながら、また想像しながら今日の物語を書き記していったのでしょうか。家畜小屋があり、農家の人たちの住居があり、納屋があって作業用の小屋もある。そんな建物に囲まれるように中庭があります。そこに夜の間は家畜を入れて、朝になると牧草地に導くのです。牧歌的な風景が頭に浮かんでくるようです。

羊飼いと羊の信頼関係を歌っているのでしょうか。羊は羊飼いの声を知っている。羊飼いもまた、一匹一匹の特徴を知り、名前までつけて呼ぶと書かれています。神がそのようにして私たち人間一人ひとりのことを知っておられ、私たちもまたその恵みに応えて神を信頼して歩もうというヨハネからの励ましのような気もします。

記号や符号や数ではなく、神は私たち一人ひとりのことを知っておられて、大事な賜物を与えて、牧草地に導いてくださる。そんな神との信頼関係の中に置かれていることを覚えたいと思うのです。

「雇人」が出てきます。ヨハネが置かれていた厳しい現実に対する批判だと思うのですが、私たちは神の代理人・「雇人」として、どんな働きができるでしょうか。それぞれは弱く小さい人間ですが、神は「雇人」として私たちに責任を与えられています。

神が人間を本来どんなものとしてお造りになったのかを思いつつ、私たちに出来ることをなしていきたいと思うのです。 


2018年10月21日  「事実の迫力」

聖書  ヨハネによる福音書9章13-41節

イエスを陥れるために盲人であった人に何度も「何があったのか」と尋問し、納得のいかないファリサイ派たちは彼の両親まで召喚して尋問しています。目の前で起こった事実というものを「見ない」「見えない」姿をヨハネが示していると思われます。

律法の文字とか形式ばかりに捉われて、固執している中では、目の前で実際にどういう出来事が起こっているのかを見る精神が失われていくのではないでしょうか。生活者の姿や心を見失っているというヨハネからのメッセージは、私たち自身も受け取る必要があるでしょう。

盲人だった人は、イエスとの出会いで何があったかを何度も話していきます。だんだんと、尋問する側に抵抗していっているようです。27節の後半では「まさか、あなた方も彼のお弟子さんになろうというわけではないでしょうに」と、なんだか嫌味たっぷりに答えているようです。

尋問側にとっては許しがたい言葉だったでしょう。彼を外に追い出したとありますが、しかし、これは敗北の姿のような気がします。事実の前では、どんなに悪知恵を働かせても通用しないのです。

人間としてどんな行動が取れるのか。それをイエスは示しています。その人間を、「あなたは信じますか」と最後に尋ねています。彼は「信じます」と答えます。人間が本来あるべき姿を受け取って生きて行くか、との問いに、彼は応じたのです。彼にははっきりと「見えて」いるのです。 


2018年10月14日  「心の目を失っている者は」

聖書  ヨハネによる福音書9章1-12節

「そして彼の弟子たちが彼に尋ねて言った。『ラビ、この者が盲人になったのは、誰が罪を犯したせいですか。この者ですか、また、その両親ですか』」(2節)。

人間が病を得るのは、その人間が罪を犯した報いであり、またその両親か、さらにさかのぼって祖先に至るまで、その中の誰かが罪を犯したからだ。聖書の舞台であるユダヤ社会に限らず、広く、古今東西どこにでも見られる、病気や災害被災者への悪質な社会的偏見です。

弟子たちはどんな思いでイエスに尋ねたのでしょうか。単なる好奇心からか、同情やあわれみの気持ちからか、それとも優越感か。想像すると、この人の厳しい現実や苦しみを共に担おうとする態度ではなく、いわば、第三者的な目で見る、好奇心からの問いであったのではないかと思います。

「盲」は目を亡くす、と書きますが、心の目は決して失ってはいません。心の目のことを言うのなら、失っているのは私自身であることを思わされます。物事の本質や、大事な視点を見失っているのは自分自身です。

地面に唾を吐いて粘土を作って目に塗るという医療行為をしたイエスは、シロアムの池で洗えと言っています。ヨハネは、「遣わされた者」(シロアム)、つまり「イエスで洗え」と言っているのでしょうか。

大切な視点を見失っている自分自身にも、ヨハネは「イエスで洗え」と言うのです。洗ったこの人は、新しい道を歩むことになりました。

 

2018年10月7日 「教会の心」

聖書  ヨハネによる福音書8章31-59節

「イエスを信じるに至ったユダヤ人たち」に話した、という場面です。観客席にいて話を読んでいるだけなら痛くもかゆくもないのですが、当事者として読めば、自分の心にも当てはまる物語です。

イエスの言葉に「留まる」なら、彼の真の弟子になるだろうというヨハネの言葉を思います。「留まる」とは立ち止まっていることではなくて、イエスのごとき生き方を自分のものとして受け取り、彼の言葉を自分の生き方として生かすことです。留まらないなら、自分の心の中でイエスの言葉が深化しない、深く心に刻まれ花を咲かせるような働きはできないというヨハネの言葉は、辛辣であり厳しい問いとして迫ってきます。

私たちの教会は、今日で30年の歩みに到達しました。ここに建てられた教会は、この場所にある課題に向き合い、寄り添っていく働きをしていくことを託されています。この場所に建てられた意味を改めて覚えつつ、新しい歩みに踏み出したいと思います。

私たちの教会の心は、世の中の「常識」からすると、もしかしたら外れた道を歩むことを選択しているのかもしれません。しかしそれを、私たちは私たちの教会の心として持ち続けたいと思うのです。

なぜならその心は神が与えてくださったものであり、神を信じたイエスが示したくれた道につながるものだと信じるからです。30年、お疲れさまでした。そしてまた、それぞれ覚え合いながら歩みましょう。 


2018年9月30日  「停電です」

聖書  ヨハネによる福音書8章12-30節

現代の便利な世の中に慣れ、その恩恵を受けて何気なく生活している自分自身の姿が問われる個所だと感じています。しかし、その「当たり前」さが何等かの原因で滞ってしまった時には、私たちはただオロオロするばかりの弱さ、もろさを持っています。

イエスが世の光だと言ったヨハネの思いは、闇の中でただオロオロしてしゃがみ込むしかない時には人間が作った光で安心してしまう私たちですが、心の中の闇を照らす命の光としてのイエスを見ているのかどうかを語ったのでしょうか。

光は闇を照らします。自分にとっての闇とは何かを考えると、普段見ない、見ようとしない、避けたいと思う事柄のことが言われているのでしょうか。あぶり出された事柄に、自分はどのように向き合えるのでしょうか。

「ガリラヤから何かいいものが出るだろうか」という支配者たちの言葉に対して、ヨハネは「イエスは光」、「彼に従う者は生命の光を持つに至る」と書いています。

ガリラヤという辺境は、「闇」だと位置付けられます。しかしそこにこそ、光があるのだとヨハネは言っているのかもしれません。現代の「辺境」、そして「闇」とされている場所からは、かえって人間の「闇」が見えます。沖縄からは、日本という国の姿がはっきりと見えます。支配者が考えている「光」というものを捉え直す必要があることにも気づかされました。 


2018年9月23日  「好きになって何が悪い」

聖書  ヨハネによる福音書7章53節-8章11節

新共同訳聖書には「姦通の女」という中見出しが付けられています。私は、この言葉を付けた聖書翻訳に関わった人(たち)の感覚を疑います。それから、11節の最後の言葉「もう罪を犯してはならない」というものをイエスの言葉だとして、物語をこの観点で読ませようとする、または説教をする教師の感覚も分かりません。

この物語の眼目は、一人の女性をよってたかって「お前は罪人だ」と断罪する律法学者とファリサイ派たちの振る舞いを糾弾する点にあります。上記の立場に立つならば、説教をする人間も中見出しを付けた人も、女性を断罪した登場人物たちと、質は同じです。

イエスは、この女性を「悔い改めが必要な罪人」だとは見ていません。彼女のことを、ユダヤ社会構造における被差別者だと見ていることは明らかです。それなのに、私たちは彼女のことを「悔い改めが必要な罪人」だとして、「悔い改めたらイエス様は赦してくださるのですよ」というメッセージが出せるのでしょうか。自分自身はどの位置に立って、どの立場を自分のこととして捉えることができるのでしょうか。問われているのはそのことだと思います。

人間を貶めるために、また一人の人間を人間とも思わないで「道具」のように使う。問われるべきは、私たちもまたそんな限界を持つことを自覚することです。 


2018年9月16日  「踏み出す」

聖書  ヨハネによる福音書7章25-52節

前回の個所での登場人物は、おもにイエスの「兄弟たち」でしたが、今日の個所では群衆、支配者(ユダヤ議会構成メンバー)、そしてニコデーモスです(彼は3章に登場しています。また、イエスの十字架の場面でも重要な役割を果たすことになります)。

私たちは観客席に座って物語を眺めるのではなく、この登場人物たちの誰に自分を重ね合わせることができるでしょうか。聖書の物語に接する時の大事な読み方が、ここでも提示されていると思います。

ヨハネは7章全体を通して、イエスの真の姿を理解できない人間たちを描いていますが、果たして自分自身がどこにいるのかと問われれば、同じようにヨハネからの問いに立たされることになるでしょう。

群衆が揺れ動いている姿にも注目させられます。イエスが誰であるかという問いは、ヨハネの教会自身の声でもあったと感じます。キリストなのか。ガリラヤから出るのか。ベツレヘムではないのか。ヨハネの教会自身が揺れ動いている姿が背後にあるのかもしれません。

自分自身のことを考えてみる時に、決して他人事ではなく、いつも揺れ動く姿を思うのです。ニコデーモスのように、支配者の1人でありながらイエスに出会おうとし、彼の最後まで見続けようとした姿も思うのです。

ヨハネは一貫して動かない、神を信頼するイエスの姿を提示します。揺れ動く自分をも、ヨハネは励ましてくれている気がします。 


2018年9月9日  「時」

聖書  ヨハネによる福音書7章1-24節

マルコ福音書にも、イエスの家族が彼の気が変になったのかもしれないとのことで、連れ戻そうとした記事がありました。ヨハネはこの記事を知っていたのでしょうか。今日の個所で、イエスの兄弟のことを記しています。

ただ、ヨハネが向いていたのはイエスの実弟のヤコブのことだと思います。彼はペトロの後にエルサレム教会の最高指導者になります。それは自分の振る舞いから得た権威ではなくて、イエスの弟であったこと、そしてイエスという名前を用いて権力に握ったというものです。

ですからヨハネは、ヤコブのことを意識しながら権力批判を展開し、イエスの弟といえども彼のことを本当に理解したことにはならなかった、と語っているものと思われます。

弟たちは、イエスにガリラヤなどの辺境の地にいるのではなくて、エルサレムという大都市、しかも仮庵の祭りで人が大勢いる時に行って、一旗あげて来いというのです。生前のイエスの心とは違っていることをヨハネは示しています(ヨハネはイエスに「私は行かない」と言わせています)。

「当たり前」とか、「知っている」と思う中で、誤解が生まれていくこともあります。イエスを幼い頃から「知っている」弟たちは、彼の本質を理解できなかったのでしょうか。

自分が持っている尺度や、当たり前だと思っていることを絶対視して、他者を裁くことになっていないかどうか、問われている記事だと思います。 


2018年9月2日 「正義からの逃避」

聖書  ヨハネによる福音書6章60-71節

「思考の停止状態」―。今年の夏の課題として、このことを考えたいと思っていくつかの書籍に出会いました。中でも特に印象深く読んだものは、『ゲッベルスと私』(紀伊國屋書店)でした。ナチス政権下の国民啓蒙宣伝省の大臣・ゲッベルスのタイピスト兼秘書を務めた、ブルンヒルデ・ポムゼル氏の回想記です。

本の帯にある「何も知らなかった。私に罪はない」との言葉は、ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に加担した人間たちだけでなく、かつての戦争における裁判などで見聞きしてきた言葉ですが、私たちはこの言葉をどう受け止めることができるでしょうか。

ポムゼル氏の回想を読んでいると、自分の頭で考え、思索し、反省する営みを停止させている「思考の停止状態」があったことを思います。しかしそれが、「かつてのこと」で済ませることができない状態に今、なってきていることを思うのです。

世の中や権力の動きに無頓着で、無批判で、無関心であれば、為政者は恣意的な政治を行ない続けていくと思います。民主主義というものは機能せずに失われていくのでしょう。「かつて」や、今のヨーロッパやアメリカだけのことではなく、現在の日本で起こっていることです。

「ユダ」とは一体誰か。「ユダ的なもの」があることを自覚せず、思考停止しているのは誰か。自分自身を見つめ直すことが示されています。

 

2018年8月19日 「生き方としてのキリスト教」

聖書  ヨハネによる福音書6章22-59節

7万人が集まった沖縄・県民大会の様子を見ていて、真実というものを見ようとしている人、見てきた人が、どれほど多くいたのかを思わされました。絶対的な権力で沖縄県民を弾圧してきた日本政府を、厳しい眼差しで見続けてきた人たちがいます。そして今も、その眼差しの光は失われていません。

キリスト教信仰を与えられている自分の姿を思いました。果たして自分は、真実をいうものを見ているのかどうか。本当に見るべきものを見ているのかどうか。そこにある真実に目と心を向けて、自分の中に留めようとしているのかどうか。絶えず、沖縄から私は学ばされ続けています。

「この男はヨセフの息子のイエスではないか」。イエスの真実を見ないで表面だけを見て判断しようとする人間の姿があります。自分とは違うモノ、自分の意向に沿わないモノは排除する。ヨハネが向き合った状況も、現在の私たちが住む日本という国の為政者たちの姿も同じだと思います。

ヨハネ福音書に教会のドグマを挿入していった編集者たちの「仕事」は、今日の記事でも目立ちます。彼らは特に、聖餐式のことを記しています(51~58節)。表面だけの形式的な儀式に批判的だった著者ヨハネを許せなかったのでしょうか。

表面だけの「信仰」。表面だけの「儀式」。キリスト者としての自分自身を問い直す必要があると思わされた記事でした。 


2018年8月12日 「人間が望む前に」

聖書  ヨハネによる福音書6章16-21節

著者ヨハネは、マルコによる福音書を読んでいたのでしょう。5千人との供食の記事の後に、今日の物語(いわゆる「海上歩行」)を置いています。マルコと同じ配列です。

ただし、ヨハネ独自の思いがうかがえる所があって、それは、イエスを置いて弟子たちが舟に乗って出発したということです。マルコ福音書では、イエスが強いて弟子たちを先に行かせ、一人で祈るために山に向かったことになっていました。

ヨハネの思いを想像すると、弟子たちがイエスを置いて出発したということは、イエスという存在を忘れて教会が歩んでいることへの警鐘でしょうか。自分の思いや自信、過信の中で教会が歩み、しかし、いったん自然が荒れ狂うと、教会という舟はコントロールが利かなくなるのです。

湖の中央くらいまで進んできた舟にイエスが近づいてきて、「恐れるな、私だ」と語っています。弟子たちは何を恐れていたのか。「逃げ」を伴う恐れなら、イエスが向き合った課題から目を逸らし、無関心あるいは無視している教会に対しての批判でしょうか。あるいは「畏れ」なら、自分たちだけで、という過信に対して「イエスを忘れるな」「神を畏れよ」とのヨハネからのメッセージでしょうか。

「私だ(エゴー エイミー)」。私たちの人生すべてにイエスがかかっていることから「逃げず」、「畏れ」を持って歩みたいのです。 


2018年8月5日 「パンとワインと魚(オリーブ油で焼いて)」

聖書  ヨハネによる福音書6章1-15節

歴史を生きたイエスが、どんな立場の人とも一緒に食事をし、みんなで食べ物を感謝し、分かち合っていた光景が浮かびます。そこには、男だけでなく、女性も子どもたちもいたことでしょう。

パンとおかずとワイン。一つひとつの食材を分け、神に感謝し、配っていたイエスの姿は、彼がどんな光景を「神の支配(国)」だと考えていたかが想像できるような気がします。

ワインを作り出すぶどうは、地下深くに根を張るようです。それが何十年も何百年もかけて染み込んだ地下水に出会い、良いワインを作るぶどうに成長するというのです。

パンは、ヨハネによると「大麦」で作られたものだったとあります。富裕層が食べる小麦ではなく、庶民の食事の代表的なものだったのでしょう。おかずは、魚です。大事なオリーブから取れた油で焼いたものだったのでしょうか。

一つひとつの食材が神によって育てられていることを実感できるような食事だったと思います。「長い時間」、「深い地中」。人間の短い一生では量れないような、神の恵みが確かにあることを思わされるのです。

イエスを中心とした食卓の交わりは、神の無条件の祝福を抜きにしては成立しないと思います。私たちは、どれだけの深さや長さをもって命のことを考えているのでしょうか。 


2018年7月29日 「見つめる先に」

聖書  ヨハネによる福音書5章31-47節

「栄光」や「名誉」といった言葉は、たいへん魅力的で、人間なら誰しもが自分も持ってみたい、そのような称号を得たいと思うのかもしれません。自分も例外ではないことを思わされる個所だと感じました。

ヘブライ語で「栄光」は、多くは「カーボード」と表記されます。ギリシア語では「ドクサ」です。両方とも、神と結びつきます。「栄光」や「名誉」は本来神のものである、神に属するものである、という信仰から来ていると思います。

ヨハネは、それが人間に属するものになっていることを批判していると思います。神ではなく人が「栄光」「名誉」を持つ時、そこには差別や区別の論理が生まれることになるからです。神のカーボードもドクサも、本来は被造物全体を良しとする概念でありながら、人間が持つとどうなるのでしょうか。

ヨハネのイエスは、自分を証しする方は他にいると言い(32節)、洗礼者ヨハネを神に照らされたともし火であるとし(35節)、人間からは栄光を受けないと語り(41節)、父の名においてではなく、人間からの栄光を持っている者を人は受け入れるのだ(43節)と語っています。

自分や人間に栄光を帰して他者を差別・区別していく姿、同じ人間の命を顧みることを無視する中での振る舞いが「栄光」だとしている姿は、私たちの社会の中にも様々な形で存在しています。 


2018年7月22日 「命は神の中に」

聖書  ヨハネによる福音書5章19-30節

西日本で甚大な被害が出る可能性がある時に永田町では宴会。殺人的な暑さの中を泥かきや不明者を探す人たちがいる時に、ギャンブル依存症を生み出す可能性のあるカジノ法案を可決。自分たちの落選議員を救済するための選挙制度「改革」。そして過労死を生む法案作り。この国の為政者たちは一体どうなっているのでしょうか。

24節と25節に出てくる「死」という言葉は、私たちの国の政治の姿にそのまま当てはまるようです。人間を生かすのではなくて、「死」に追いやる。今の政治が「死の状態」にあることを思わされるのです。

24節「アメーン、アメーン、私はあなた方に言う。私の言葉を聞いて、私を派遣した方を信じる人は、永遠の生命を持ち、裁きに入ることがない。すでに、死から生命へと移ってしまっている」。

私たちはイエスをキリストと告白し、彼の言葉に養われ、彼が信じた神を信頼する者として、「死から生命へと移ってしまっている」と言われています。私たちは、「死んだ状態」のものを見据えて、「永遠の生命」に至る働きに参与する視点が「与えられてしまっている」と読みたいのです。

人間の命を顧みない「死んだ状態」を生み出すモノに目を向けて、心と身体を向けて、「永遠の生命」に至る人間社会の実現を求めて、祈り続けていきたいと思うのです。 


2018年7月15日 「人間を縛る床を担げ」

聖書  ヨハネによる福音書5章1-18節

エルサレム神殿の北東の「羊の門」の近くに「ベートザタ」(「慈しみの池」という意味との説)と呼ばれる池があって、そこでイエスが病を持つ人と出会う記事です。言い伝えでは、池の水が動く時に真っ先に入った者はいかなる病でも癒された、というのです。

社会や宗教から見放され、神からも棄てられた存在だとされていた人たちにとって、それは一縷の望みだったかもしれません。この構図を、聖書の中にあるただの「癒しの物語」ではなく、私たちは現代の社会の病理の姿として捉えることができるでしょうか。

この光景を想像してやりきれなさを思うのは、ここにいた人たちが病からの解放にほとんど望みがないということだけではなくて、人間と人間との関係性においても深く病んでいた状態だったということです。

いざ池の水が動くとなったら、自分がまず飛び込むということで、他者を押しのけ、蹴落としてでも自分たけが助かろうとする。人と人とが思い合い、助け合うという心を失っていることを物語るこの記事は、私たちが住む社会の姿を映し出しているようです。

イエスは「起きろ、担え、歩け」と、3つ命令しています。起きろとは「目を覚ませ」。課題を見つめろということでしょう。歩けとは「踏み出せ」。そして課題を「担え」と言うのです。38年間この人を縛り付けていた課題は、私たちの中にもあります。起きて、担って、踏み出したいのです。 


2018年7月8日 「人間を生かす言葉」

聖書  ヨハネによる福音書4章43-54節節

王の役人が登場していますが、おそらく彼は、ヘロデ・アンティパスの宮廷に仕える役人だったと思われます。その彼がイエスのもとに来て、自分の息子の病を癒してほしいと願う場面です。

彼は二度、イエスに訴えています。「下って来て、癒してください」。二度目は、「主よ、私の子どもが死ぬ前に、下って来てください」。

彼は王の役人でありながらイエスに懇願するのです。彼が寄り頼むべきは王のはずなのに、二度目は「主よ」と呼び、イエスに向き合っています。

ヨハネが考えていることは、王ではなくてイエスに頼んでいるということから、「命は神の中にあること」を言いたかったのではないでしょうか。人間の命を左右できると考えている世の権力者ではなくて、命は神の中にあることを読者に伝えようとしたのだと感じます。

イエスはこの訴えに対して「行きなさい。あなたの息子さんは生きている」と答えたとあります。出会ってもない人間の状況を、どうしてこんなふうに断言できるのでしょうか。

役人は、イエスにはっきりと断言してもらって安心したと思いますが、実際に息子に会うまで、確かめるまではどこか不安だったとも思います。でも、彼の不安の頂点だった帰り道に、息子が癒されたことを知るのです。

神は人間が知らない所でも働かれていて、人間が最も必要としている時に、慰めの声を与えてくださることが証言されている記事だと思います。 


2018年7月1日 「イエスの名のゆえの座り込み」

聖書 マタイによる福音書18章19-20節(詩篇42、43篇)

辺野古新基地建設の護岸工事が強行される中で、8月17日に土砂投入が計画されています。現場で声を上げている人たちを思う時、「二人、または三人がいるところには、私もまたいるのである」というイエスの言葉が身に迫ってきます。

また、「あなたがたが願うことが何であれ、わたしの父が実現させてくださるだろう」との言葉も、これほど身に迫り、現場の人たちに届いてほしいと願うことはなかったと思います。

今日はあわせて詩篇42と43篇も読みました。作品を生み出した著者の背景にコラハ一族とアロン系の祭司間の抗争があって、敗れたコラハ一族がエルサレムから追放されたという歴史がかかわっているかもしれません。

詩人は「神に見放された」「忘れられた」「涙ばかりが日々の糧」と言いながら、それでもなお神を慕い続けて、この詩を歌ったのかもしれません。

絶望することがあっても、それでも自分の魂を生かす力の源は神以外にないことを、詩人のように、沖縄の厳しい現実を見ながら私たちは強く告白することができるでしょうか。

「お前の神はどこにいる」と思わされるような海とゲート前の闘いの中で、「なぜ、うなだれるのか、わが魂よ、なぜ呻くのか」という声と向き合い続けている人たちに、「わたしもいるから」「神が思いを聞き届けてくださるから」とのイエスの言葉が届きますように。



2018年6月17日 「同じいのち」

聖書 ヨハネによる福音書4章27-42節

ローマが地中海世界を支配するようになった時、食物の輸出が盛んに行なわれました。パレスティナからは、おもに小麦、ぶどう酒、オリーブ油が三大輸出産業として扱われていたといいます。

ここで出来たのが「大土地所有制度」で、土地の所有者は農地には住まずに大都市にいて、畑を耕し種を蒔き、収穫する季節だけ季節労働者・日雇い労働者を雇って労働に従事させます。本来の農業の在り方とは違うものだと思います。

者ヨハネの言う、「蒔く者と刈り取る者は別人だ、という言葉は真実なのだ」との言葉が当てはまります。蒔く者と刈り取る者が同様に喜ぶことが、本来の農業の在り方なのに、いびつなシステムになっていることをここで書いているのだと思います。

ヨハネは農業の在り方を例に出しながら、実は教会の在り方を批判しているものと思われます(使徒言行録8章参照)。「あなたがたは、自分たちはイエス・キリストの名において派遣されてきたのだと主張しているけれども、実際には自分たちが労苦したわけではないものを刈り入れている。労苦したのは他の人たちなのに、あなたがたはその人たちの労苦の成果だけを手に入れようと思って、そこに勝手に入り込んできたのだ」(38節)。

「正統」とし、権力を持つエルサレム教会を批判するこのヨハネの言葉は、現代の私たちの教会や個人や社会にも、同じ問いを与えるでしょう。



2018年6月10日 「それがどうした」

聖書 ヨハネによる福音書4章1-26節

イエスとサマリア出身の女性との会話の場面です。「すると、サマリアの女が彼に言う。『あなたはユダヤ人であるのに、サマリアの女である私に、どうして飲ませてくれなどと頼むのですか。ユダヤ人はサマリア人とは付き合わないんでしょ』」(9節)。

するとイエスは、本当はサマリア人のあなたのほうが、ユダヤ人の私に頼まなければいけないことだ、という、ユダヤ人の持つ差別意識丸出しの言葉で答えています。

イエスとてユダヤ人であり古代人で、一人の限界性を持つ人間だったことがうかがえます。そして、この物語全体を読み進めるうちに、彼が彼女から大事な視点を教えられていることが浮かんでくるのです。

彼女は自分の共同体が使う井戸ではなく、わざわざこの場所に水を汲みに来ていたということは、自分の共同体の井戸が使えない事情を持っていたと思われます。原因はおそらく18節の「あなたには5人の夫がいたが、今一緒にいる人は夫ではない」との言葉の背景にあると思われます。

サマリア地方を差別の対象にして、なおかつ、彼女はその中でも被差別者であったことを知ったイエスは、21節の言葉「あなた方がこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来る」と、ガラッと態度を変えています。彼の独特の感性で、自分の在り方を見つめ直した瞬間だったのでしょうか。



2018年6月3日 「自分は何者か」

聖書 ヨハネによる福音書3章22-36節

「ラビ、ヨルダンの向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しをなさった人、ご覧ください。あの人が洗礼を授けていて、みんながあの人のところに来ています」(26節)。

バプテスマのヨハネの弟子集団と、イエスの弟子集団との間で、清め(洗礼)についての議論、論争があったことがうかがえます。両方の集団ともに、洗礼という儀式を重要な宗教儀礼として位置付け、行なっていた時、どちらが本物か、本家か、といった「競争」「論争」があったものと思われます。

互いの師を思う気持ちはまことにいいことだと思いますが、その熱心さというものが、冷静にことの事態の真相を見極めようとする心からではなかったら、問題があると思います。それは神への熱心ではなくて、自分たちの利益と面子を保つための振る舞いだと思うからです。

著者ヨハネは、この「論争」の内容には無関心のような気がします。中身を書いていないからです。そんな儀式よりももっと考えなくてはならない真実があるだろうと、そんな態度だと想像できます。

バプテスマのヨハネの弟子集団。イエスの弟子集団。そして31節からの言葉をここに挿入した後の編集者の集団。それぞれの思惑が入り込んでいますが、「神に対して一体自分は何者なのか」という視点は、ここにはないのではないかと思わされます。



2018年5月27日 「窓」

聖書 ヨハネによる福音書3章11-21節

3章1節から続くイエスとニコデーモスとの会話が、11節から突然「わたしたちは」となって、ここからは著者ヨハネの地の文に相当な手が加えられていると考えなければなりません。

ニコデーモスはユダヤ議会のメンバーであり、しかしイエスに「夜に」会いに来たと書かれていました。昼間だと人目につき、議会の中心人物たちのことを恐れ、また警戒していたのかもしれません。この記述から、彼がイエスとの出会いを求め、自分の何かを変えたかったのではないかと想像するのです。

彼は天国への窓を、自由に開け閉めできる立場にいたのです。しかし、イエスとの出会いを求めて来たのでした。この物語に続く11節からの記事は、ニコデーモスが乗り越えようとしていた壁に変わる、新しい壁を教会が作り出していることが読み取れると思います。

16節には教会で読み継がれてきた有名な言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(新共同訳)。

「独り子を信じなければ」という、神の国に入るための新しい条件を作っているのです。新しい壁を作り、天国に入るための窓を、今度は教会が勝手に開け閉めできるとしている。私には、この有名な16節は慰めや温かさを運ぶ言葉ではなく、裁きの言葉に聞こえます。



2018年5月20日 「誕生」

聖書 ヨハネによる福音書2章23節ー3章10節

ニコデーモスというユダヤ議会を構成していたメンバーが登場しています。彼はヨハネ福音書しか出て来ない人物で、7章と19章の物語にも登場します。

7章では、同僚の指導者たちがイエスを告発しようとしていた場面です。また19章ではイエスの埋葬を手伝った姿が書かれています。今日の物語も含めた彼の一連の態度を見ていると、イエスを支持する、もしくはイエスを理解したいという思いを持っていたような気がします。そして彼を含めて、ユダヤ議会の中にも、少数ながらイエスを支持、理解しようとしていた人たちがいたことがうかがえます。

危険を冒してまでイエスに会いに来ようとしたニコデーモスの思いを考えてみるのです(夜に彼は会いに来た)。彼はひょっとしたら自分の振る舞いや過去を見て、自分を変えたかった、歩みを振り返りたかったのではないかと、そんな思いも感じるのです。

イエスの言葉は彼の心に響いたでしょうか。神の恵みを自由に判断して、自由に使える立場に彼はいたのです。しかしイエスの言葉は「霊は風となって、息となって、あなたの心に入って来て、あなたはいつも支えられているではないか」というものでした。

自分が生かされている者としての自覚を、彼は気づかされたのかもしれません。ニコデーモスの新しい誕生の出来事だったと思います。



2018年5月13日 「ウロウロする神」

聖書 ヨハネによる福音書2章13-22節

著者ヨハネは早くもイエスがエルサレム神殿で大暴れした記事を置いています。他の福音書では受難の出来事の際に置いていますが、2章でヨハネは書いています。人間の欲や権力維持のために私物化されていた律法と神殿を批判したイエスの生涯を、福音書の前半ですでに展開したということかもしれません。

罪が一つ、二つ、と数えられる世界にあっては、人間の心は不安になります。そしてそれは「信仰」が「篤い・薄い」、「多い・少ない」という考え方に結びつきます。「信仰」の競争化が顕れる可能性もあります。

詩篇40篇、50篇、51篇、69篇などでは、供犠・供物にとらわれない礼拝の在り方を洞察した信仰者たちがいたことがうかがえます。それは、新約聖書に登場する人間たちにも引き継がれていきました。

宗教的な敬虔さ、というのはまことによいものだと思いますが、それが極端な形に行ったり、権力と結びついたり、人間を区別・差別するものとなる時には、注意しなければいけないと思います。

ヨハネ福音書のイエスは、「こんな神殿はぶっ壊してみろ。3日でそれを起こしてみせよう」と言っています。人間を区別・差別し、権力の維持のために私物化しているような場所に神は住まない、という発言だったと思います。神は被造物全体の調和を人間に求め、一人ひとりの心の中におられるのです。



2018年5月6日 「新しい香り」

聖書 ヨハネによる福音書2章1-12節

披露宴の宴会の席で、イエスが水をぶどう酒に変えるという記事です。入口に置かれていた水がめは、2~3メトレーテースの容量があったと書かれています。1メトレーテースが約39リットルという説明によれば、それが6つで700リットル以上ということになります。

著者ヨハネの思想に従えば、この水がめの大きさは、ユダヤ教律法というものの力、大きさを表していると思います。人を生かす律法が、人間が人間を支配したり、区別・差別したりするために使われていること、その力の強さを、皮肉を込めて批判していると思います。

婚礼は人生の喜びの時です。その席にふさわしいのは、互いを縛り付けたり、裁き合ったりすることではなくて、人に喜びと温かさと豊かさを与えることではないか。それが「ぶどう酒」として現されているのでしょう。

イエスは8節で言っています。「彼は彼らに言う。『今、汲んで、宴会の長の所に持って行け』」。人と人とを区別したり差別したりするのではなくて、人間関係の中に、温かい心の通じ合いを持って行け、と。私たちの生活の中に、神の恵みをいっぱい持って行け、神の恵みでその場を満たせ、というのでしょう。

私たちはそれぞれが、今週も1週間の旅に出発します。「神の恵みを今、いっぱい汲んで持って行け」というイエスの言葉を携えて、出かけたいと思います。



2018年4月29日 「『イエス』を生きる」

聖書 ヨハネによる福音書1章35-51節

多くの場合、今日の個所は「弟子召命」や「弟子獲得」の記事だと言われるのですが、著者ヨハネには違う意図があったようです。彼が皮肉たっぷりに権力批判をしている個所だと思います。

ヨハネ福音書には、イエスの弟子であったヤコブとヨハネが登場しません。この2人はペトロとあわせて初期教会の「三本柱」と言われる、最重要の人物です。著者ヨハネはあえてこの弟子たちを無視し(ペトロは登場しますが、中心にはなっていません)、他の重要な役割を果たした人間たちを登場させています。この書き方にも、批判精神が見えます。

突然、ナタナエルという人物が登場します。「メシアを見つけたぞ」と言われた彼は、「ナザレから善いものが出るだろうか」と語ります。そして、イエスと会話した後で「あなたは神の子、イスラエルの王」だと答えています。ナタナエルの背景は分かりませんが、偏狭なユダヤ民族主義の姿を象徴しているのかもしれません(「見よ、生粋のイスラエル人だ」)。

フィリッポスがナタナエルに「それなら、自分で来て、自分で見たらいいだろう」と語る姿が印象的です。「出会い」は、自分の今までの考えや在り方や、生きる姿勢を変えることもあります。拒否すれば、何も変わることはありません。

ナタナエルに象徴される「他者を排除していく思想」が、イエスを通して壊されることになります。



2018年4月22日 「信仰者」

聖書 ヨハネによる福音書1章19-34節

自分のわずかな経験の中ですが、かつての炭鉱の町・筑豊を旅した時のことを思い出しました。日本人を慰霊するものと、強制連行されてきた韓国・朝鮮の人たちの慰霊碑に出会った時のことです。

日本人の慰霊碑は大きく、立派で、舗装された道が整えられてすぐに見つけることができました。一方で韓国・朝鮮の方々の慰霊碑は、草に阻まれ、道という道もない場所に、小さな石コロが積み重ねられただけの「慰霊碑」でした。

同じ場所で、同じ時に同じ労働をした人たちの姿が、こんな形で残されていることに衝撃を受けました。「平和」というものを考えるなら、立派な慰霊碑に通じる舗装された道路を通って見ているだけではなくて、草に阻まれた、道とは思えない道を通った所にある真実を見ないとダメだと感じました。

著者ヨハネは、異なる者を排除する人間の在り方を見ていたと思います。イエスが否定・克服しようとしたことを思わず、新しい壁を作り出していた社会、そして教会の在り方を見ていたと思います。

「あなたがたの真ん中に、あなたがたの知らない方が立っている」(26節)。異なる者を排除する。一つの価値観でなくてはならない…。日本の社会も教会も、「あなたがたの真ん中に、あなたがたの知らない方が立っている」状態なのでしょう。私たちの生き方が問われています。



2018年4月15日 「対話」

聖書 ヨハネによる福音書1章1-18節

日本でも「ことだま」と言われたように、「言葉」はとても不可思議で、また大切に使われてきたものだと思います。でも、とても便利になったこの世の中、「言葉」に対する思いや、「言葉」に込められた畏敬の念のような感覚は、失われてしまったような気がします。

ヨハネは、伝えられていた「ロゴス賛歌」の「言葉」を、イエスに当てはめました。ヨハネはおそらく生前のイエスが生きた場所に行き、彼の息吹や迫力といったものを感じたと思います。その結果、「ロゴス賛歌」の「言葉」がイエスの生き様そのものであると感じたのだと思います。

イエスの言葉は人を生かすものだった。イエスの言葉は、人と人を結びつけるものだった。孤独な人を立ち上がらせる言葉だった。その「言葉」は彼の振る舞いでもあった。病人に触れて癒した。頭に手を置いた。彼の生き方そのものが「言葉」「ロゴス」であったと、ヨハネは書いています。

その「言葉」は、「わたしたちの中に宿られた」とあります。「宿られた」とは「住む」と「天幕を張る」との意味があります。イエスは私たちの中に今も生き、そして天幕のように移動する。移動とは、どんな場所にも、どんな人間の内にもいる、ということでしょう。

人間の命を生かす「言葉」を携えて、私たちも出かけていきたいと思います。日常のほんのささいなことの中に、ロゴスとしてのイエスを表していきたいと思います。



2018年4月8日 「見ないで信じる」

聖書 ヨハネによる福音書20章28-29節

ヨハネによる福音書を読み始めます。よく言われることですが、この福音書が独特の言葉で始まっていることから、著者が言いたかったことは福音書の冒頭にある、というものです。でも、全体を読むと明らかになると思うのですが、著者が言いたかったことは福音書の最後、29節に書かれていると思います。

29節「イエスが彼に言う。『あなたは私を見て、信じた。見たことがないのに信じる人々は幸いだ』」。

ヨハネは言います。「見ずして信じる人たちが幸いなのだ」と。これは教会への批判と同時に、自分の共同体への励ましです。

9章22節にある「ユダヤ教ヤムニア会議」の記述で、イエスを「キリスト」だと公に告白する者は、会堂から追放されることになっていた、と書かれています。ここから想像すると、ヨハネの共同体は迫害や圧力で厳しい立場に置かれていたことだと思います。

そこで著者は福音書全体を通して、「イエスは必ず自分たちと一緒に、今もいてくださること」を伝えようとしたのだと思います。イエスが一緒にいることが感じられないような不安定な状況だったと思われます。著者は共同体を励まし、また、新しい権力や権威を持つことを目指す教会を批判していったのでしょう。

彼もまた、生前のイエスの姿を追い求めた信仰者だったと思います。



2018年4月1日 「人間の住む場所へ」

聖書 マルコによる福音書15章42-47節

約1年半の年月をかけてマルコによる福音書を読み終えました。福音書は16章の8節で終わっています。

改めて、マルコという人物がどんな思いでイエスの言葉と振る舞いを記したのか、考えさせられました。ひょっとすると、ローマの百人隊長がイエスが死ぬ場面を見た時に「この人間こそ、神の子だった」と発言した言葉は、マルコ自身の心の声だったかもしれません。

マルコはユダヤ議会のメンバーだったアリマタヤ出身のヨセフという人物がイエスの埋葬を買って出たことを記します。そして百人隊長の言葉を書いています。さらに、女性たちが油を塗るために墓を訪れたことで執筆を終えています。

イエスを裁き、彼の命を奪った側の人間たちと、最後までイエスに従おうとした人間たちの姿を書いて福音書執筆を終えているのです。イエスがどんな生涯を送ったのかを最後のまとめとして描いたのかもしれません。「自分たちだけが真理」という立場で異なるものを排除する人間の姿。「自分たちだけの真理」から排除されていた女性たちの姿。マルコの最後に記されている事柄も、私たち教会への問いでしょう。

教会は、「自分たちだけの真理」で「邪魔者」を排除する道をたどるのでしょうか。「イエスという問い」の前に教会は常に立たされていることを自覚したいのです。