旅行をしてみて、旧東海道について感じたことがありましたので、その雑感を書き散らかします。
まだまだ書きたいことがたくさん。
道幅
東京近辺(銀座)や町が残っている場所では、当時の道幅がそのままになっているように見受けられる。ただし、車道/歩道の割合については、場所、土地による。車道優先に広げている場所がほとんどだが、歩道を広げている場所もあった。また、歩道の幅も左右が同じでなく、江戸→京方向にみて左側の歩道が広い場所などもあったりする。
道の曲がり方
また、道は舗装されていても、現代のような直線ではなく、微妙に曲がっている。当時の場所にそのまま民家が建っているためか、舗装されている部分も民家をよけるようにして走っている。たぶん、街道沿いの木々の根が残っていて、そのまま舗装され、そして塀などが作られたと思われる。舗装部分を土に、民家の壁を松の木に置き換えて想像すると、当時の風景を思い描くことができる。
今は別の流れとなってしまっている川の近くに、道が変な曲がり方をしていることがある。おそらく、当時は川沿いに道が走っていたものがそのまま残っているのだと思われる。
宿場内は、昔からそうだったのか、最近になって区画整理されているのか、直線的になっているところが多い。
上り下りをする道
宿場間の道は、平地を通っていると思ったら、突然坂を上り、また曲がったりと、気まぐれな進み方をする。おそらく、現代では整地されているところに、当時は沼や池、湿地などがあったと想像される。沼地をさけて丘を登ったり、曲がったりしているのだろう。現代に作られたバイパスが並行して走っていることが多いが、バイパスは山を削り、トンネルを掘り、橋を架けてひたすら直進しているのと対照的だ。(バイパスのわき道に入り、山を登り、坂を下ったらまたバイパスに合流する、という場所もあったりする。)
また、峠など、つらい場所は新しい道が次々と登場しており、より楽に通行できるようになっている。宇津谷峠は特徴的で、平安・江戸・明治・大正・昭和に作られた新しいルートが存在している。
新旧の道
昔の道の痕跡も、地図を見ると残っているが、新しい道が分断してしまって、そのまままっすぐ進むことができないことがある。旧国道1号線があったあたりにバイパスが建設されると、それまでの道は遺物として放置され、半ば駐車場のようになっていたりする。
現代の沿道でも、昔風の家が多く、綺麗に整備されている。また、庭の木々が手入れされていたり、鯉のぼりが上がっていたり、はたまた西洋風庭があったり、人の目が多いことをうかがわせる。
ただ、商売が成り立つほどの人が歩いているわけではないようで、旅人相手の商店はあまりない。富士山の見える沼津~吉原あたりにはぽつぽつと休憩するための喫茶店があった。
栄枯盛衰
今も宿場の面影を残すところ、現代の町に変わってしまっているところ、見る影もないところなどいろいろあった。
東海道線の駅がないところは、寂れる一方である。特に、四日市~鈴鹿~石部あたりは、JRから見放され、宿場があまり発展していない。鈴鹿峠の直前の坂下宿は、無残。商業的に発展しているとはいえない町は、宿場の名前をアピールしていることが多い。関宿は、町の保存に熱心で、駐車場が整備され、観光客も多くきているようだ。
逆に、現代で発展している宿場は名前を変えていて、どこからが宿場だったのかも不明なことが多い。特に西日本。例えば清水(江尻)、静岡(府中)、岡崎(吉田)、名古屋(宮)など。
商業的に発展していなくても、当時宿場だったことに全く興味のない町も、中にはあるようだ。
札の辻、新町、本町、一里山、見附、など昔の宿場の名残と思われる地名が多く残っていた。地名や信号などで良く目にする。
現存する一里塚はあまりない。道の拡張などでなくなるパターンが多いようだ。一里塚跡として碑がある程度で、時々小さくなって復元されていたりする。樹の種類はいろいろで、檜、松などが多い。現存する一里塚を見ると、その大きさに感嘆する。
秋葉常夜灯は、沿道に数多く残っていて、新しく作られている常夜灯もあるようだ。